お亀の方と八幡 126号


於亀の方と八幡
- 相応院様御文を読んで -

 奥山 邦彦 (会員)


はじめに

 於亀の方 は八幡で歴史上もっとも有名な人物の中の一人であるが、私はその実際をあまり知らない。そこで於亀の方の伝系、義直補佐の諸臣について諸本を調べ紹介し、又於亀の方の消息を読みその実際に迫ってみたい。


一、於亀の方(相応院殿)の伝系(資料)
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1、於亀の方と義直

於亀の方の父は石清水八幡宮神職の志水宗清。義直(五郎太丸)由緒にて三千石賜り、且従五位下に叙し加賀守に任ぜられる。その子孫相続いて直義の臣下となる。慶長三年(1598)三月三日卒。

母は石清水八幡宮社家東竹甲清嫡女(龍雲院加月妙慶)。

於亀の方は文禄二年(1593)徳川家康公に奉仕し、同四年家康の第八子仙千代を出産した。家康は家臣平岩親(ちか)吉(よし)に子供がなかったので(文禄四年(1595))仙千代を養子としたが六歳(慶長五年(1600))で没した。

つぎに家康の第九子義直(五郎太丸、義利)を慶長五年十一月二十八日大坂にて出産。慶長八年(1603)義直(五郎太丸)四歳の時、甲斐国二十五万石に封ぜられるに及び、平岩親吉は伝として附属せしめられ国政を沙汰した。同十二年(1607)清須城主松平忠吉(ただよし)(家康第四子)が死去し、嗣子なきため、義直(義利)は甲州府中城主より尾張清須城主五十三万九千五百石に移らしめられ、忠吉の家臣は悉く義直に付属した。又その伝平岩親吉も尾張犬山城主十二万三千石移らしめられた。

昔二十九歳のとき、岡崎において、幼君次郎三郎信康(家康嫡男)の伝となって忠勤にぬきんでた親吉は、六十六歳にして、清須において幼君右衛門督義直(義利)の伝となって忠勤に励む。同十四年(1609)家康、義直と共に清須に入り政務を行う。同十五年(1610)西国諸侯に名古屋築城を命ず。親吉は新建設のどさくさの中、慶長十六年(1611)築城中の名古屋城二の丸において没した。七十歳。家来はすべて名古屋城主義直に属した。同十九年(1614)十月大坂冬の役、時に義直十五歳、兵一万五千を率い、尾張を発して大坂に入る。十二月和議成り、義直名古屋へ帰る。元和元年(1615)四月浅野幸長の娘春を迎へ室とする。元和元年五月大坂夏の役、豊臣家滅ぶ。

 元和二年(1616)家康薨ず。是より先平岩親吉卒するの後、家康駿府の老職成瀬正成をして義直の伝とし、竹腰正信と共に執政たらしめ、志水忠宗を加判とし、又石川光忠をして在国して政治によらしめ、又特に渡辺守綱に命じて義直の左右に侍して軍旅の事を輔導せしめしが、是に至りて義直生母と共に上国して、名古屋を常住の地と定む。

 元和三年(1617)七月、権中納言に任じられ、寛永三年(1626)八月、従二位に叙され、権大納言に任ぜらる。九月六日、天皇二条城行幸、家光先ず入って鳳輦を奉迎す。義直盛装騎馬してこれに従う。

元和五年(1619)五月幕府、義直に美濃の地五万石を加賜、是に至って総高六十一万九千五百石となる。


2、 義直補佐の諸臣

①、志水忠宗、小八郎、甲斐守、

父は加賀守宗清、天正二年(1574)八幡に生まれる。

於亀の方が忠宗の妹なるをもって、駿府に参勤す。慶長五年会津征伐・関ケ原合戦に供奉し、台命を被り、八幡山上山下の郷士等、志水氏の庶流等と石田三成に党すものたちを、悉く追捕し其余類絶つ。これにより上山城の地において食邑五百石を賜り、且山城・大和・河内の公領五万石の地を管理し貢納の事を務める。義直の封を尾張に移すや、於亀の方の縁をもって、忠宗を義直に属させ、采地五千石を賜う。同十五年名古屋築城の後深井丸榎多門内に住す(本丸に住す等他説あり)。同十六年加判に補され、元和二年(1616)城代、五千石加賜せられ総じて1万石。寛永三年深井丸で卒す。

②、竹腰正信、万吉、小伝次、山城守、

 天正十九年(1591)八幡の志水宗清宅で生まれる。祖父に八幡で養育される。文禄二年(1593)母家康に仕える。同三年家康に謁す。慶長十二年(1607)(1607)駿府城御次の間より出火のとき、家康を救出、その同年義直の家老職として尾張知多郡の内にて一万石に転封せらる。同十四年(1609)、家康の命により、大久保忠隣(ちか)の養女(松平右衛門大夫康寛の女)を娶る。

同十六年三月家康上洛に従い、従五位下山城守に叙任されるや、駿府の執政に列す。正信は御内証迄も御免にて、政治に習熟せしめられる。是れ予め尾張の国政をとらしめんがためなりき。四月家康、藩祖義直、駿河頼宜をして大坂に往き、相見せしむるや、成瀬正成と共にこれに従い、秀頼より其指料松浦信国の刀を給わる。同十七年(1612)成瀬正成と共に平岩親吉の後を継ぎて尾張の国政及び名護屋城土木の事を掌る。此年家康より一万石加増を受ける。同十九年十月、大阪の役に尾張の士の武将となりてこれを指揮する。元和元年(1615)五月、大阪の役再び起こるや、義直に従軍。同五年十二月義直より美濃今尾にて一万石を加増せられ、すべて三万石を領せり。正保二年(1645)四月晦日名古屋に卒す。五十五歳。

③、石川光忠、太郎八、市正、

 母は於亀の方、播・淡・摂三州の中五万三千石を領する大名石川光元の側室として石川光忠を生む。後離縁。父光元は関ケ原で西軍に属し、慶長六年(1601)に死去。時に光忠は八歳にして伏見に在り。

同十三年(1608)母の縁で召出され駿府に至り家康に奉仕す。同十五年(1610)濃・摂二州の中、一万三百石賜わる。十七年台命により尾州家に属し、後城代たり。寛永五年(1628)九月卒。三十五歳。

④、 山下氏勝、半三郎、信濃守、大和守、

 永禄十二年(1569)生まれ、於亀の方の妹(隆正院松誉貞春)を娶る。その縁により慶長七年(1602)義直の擁護役となる。慶長十二年(1607)家康、義直を尾州に封じ、清須城を以て本営と為す。氏勝、清須は水攻めを受け易い地勢、此地の不利を屡於亀の方を通じて家康に進言す、家康これを可とし要害の地名古屋に城を移すべく命ず。氏勝軍事に練達し、頗る才幹あり。築城の際其力に頼ること多しとする。

 慶長十八年(1613)浅野幸長卒して嗣子なし。弟長晟密に使を駿府に送り、氏勝に後継の斡旋を託す。氏勝また家康に説き、於亀の方の助けに依って遂に其目的を達する。大坂冬の役、大阪夏の役に義直を補佐し、其節制を家康大いに賞し、凱旋の後、氏勝に采地五百石を加増し、通じて二千石とす。元和元年四月義直、浅野幸長の娘を娶る。家康尾州に来りて婚儀を行う。初め於亀の方、義直の為に室を求めんとしこれを氏勝に諮る。氏勝、長政、幸長と善し。乃ち幸長の女を推挙す。是に於て終に決し、慶長十八年、婚約既に成れりと云う。承応二年(1653)十一月二十日、寿を以て家に終わる。八十六歳。

⑤、成瀬正成

成瀬正一の嫡子、永禄十一年(1568)(十年説あり)三州に生る 幼より家康に奉仕し小姓となる。長久手の戦い、小田原の役で功あり。慶長五年(1600)関ケ原役、家康麾下に在りて軍忠に励む。同年冬、泉州堺の政所の吏と成。慶長八年二月、家康将軍宣下につきて参内、正成布衣にて車の左側に供奉す、是より先家康、本多正純、安藤直次、成瀬正成等をして政務を掌らしむこと数年。是において、甲州の数郡二万石を賜う。後年三川足助庄を加えられ三万四千石にいたる。

 慶長十五年(1610)家康、正成を義直に、直次を頼宜に附属せられる。慶長十六年(1611)十二月平岩親吉卒せしを以て、翌十七年、正成、竹腰正信と共に尾州の国政を執る。大阪の役に従軍し常に家康の側に侍して軍議に参す。元和三年(1617)、駿州久能山より家康の棺を日光に移すや、正成其員に加はる。同年義直尾州に入るの時、正成これに従う。秀忠これに犬山城を賜い、且つ平岩従属の同心を家人と為さしむ。知行三万石余。その後元和六年、義直一万石加増。寛永二年(1625)一月十七日卒す。五十八歳。

⑥、渡辺守綱 

 十六歳のとき家康(元信)に仕え数々の軍功あり。槍の半蔵という異名で知られた。三川一向一揆では、一揆側に加わり家康に叛したが、罪を許され百三十貫文の地を与えられ、以後、家康旗本の武将として活躍した。元和六年(1620)四月九日卒。

 以上、於亀の方と義直、補佐する家臣たちについてみてきた。於亀の方は元和二年家康歿後薙髪、相応院と号した。寛永十九年九月十六日逝去、行年六十七歳。



二、相応院様御文

〚大日本古文書 家わけ第四 石清水文書之三(田中家文書)』には〔相応院様御文〕として「相応院徳川義直生母消息」が慶長四年(1599)から慶長十八年(1613)にわたって採録されている。(資料2)

その内容は、社務廻職に関するもの、検地免除と安居神事に関するもの、闕所に関するもの、田中敬清跡目に関するものである。以後、『大日本古文書 家わけ四ノ三』東京大学出版会.明44.6.30から文書名を【文書番号】で表し、それぞれ順に紹介していこう。

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1.社務廻職

慶長三年(1598)八月十八日豊臣秀吉薨御の知らせは直ちに公表されなかった。朝鮮出兵していた兵を引き上げるための時間が必要であったのであろう。翌年になって秀吉の死は公に知るところとなった。石清水八幡宮社務職は旧来将軍代始に将軍家御沙汰により改補されてきたところであるが、改補を廻り田中家、檀家、善法寺家、新善法寺家の間で相論となり、京都所司代前田玄以の調整するところとなった。

【951】慶長四年(1599)二月十三日「田中秀清申状案」
端裏書○おかめへあけしかき物あん」、
田中秀清は相応院に家康ヘの執成を頼む。

【1261】慶長五年(1600)五月十五日付「徳川家康八幡社務職判物」、
「田中秀清を当社社務となす」との内府徳川家康の裁可により決着した。

【1262】同五月廿五日付「徳川家康社務廻職判物」は社務廻職の定、社務領兼官領は当社務に付す」と定めた。

【1263】同五月廿五日付「徳川家康朱印状写」、
「田中知行分目録」が発給された。

 この間の於亀の方の消息。

【1279】慶長四年(1599)十九(月日不詳)付「田中殿への御返事、御うもし様宛ふしみよりかめ消息」、

「広橋(武家伝奏)殿へ御心へ候まゝ、御朱印のこと徳善院へ申し候て」と社務職改補につき前田玄以に斡旋を依頼せしめ、

【1280】同(月日不詳)付「田中秀清宛かめ消息」、

「わざと一筆申しまいらせ候。今日、本家衆公事、勝右衛門様(前田玄以執事松田勝右衛門尉政行)内府様(徳川家康)の御前にてお済まし候由候、そのついてに社務の事御申候て給わり候へと、我が身申候由御申候て、先の勝右衛門殿へ御やり候へく候、今日の公事のついでに必ず渡し候ように勝右衛門へよくよく御申候へく候」と、田中秀清に松田勝右衛門尉へ一筆託して持たせた。

【1281】慶長四年(1599)(月不詳)六日付「御師の田中様(秀清)宛かめ消息」、

「徳善院をよくよく御せがみ候へく候、こなた上様(徳川家康)は御がってんにて候、徳善院のまへばかりにて候」といまだ決定していないことに不満を伝へる。

【1282】同年十二月十日付「田中秀清様御めうけい様宛かめ消息」では大阪より、「たより御うれしく一筆申まいらせそうろう、いまだ社務之事定まり候はず候や、そもじ様も御大くつ候やとすもし申候、さたまり候ハすハ御やう申候て、小少将殿へ文やり候ままもたせ御やり候へく候、文のもようよく候や、よくよく御だんじ候へく候、御めうけいへ申し候、ちとちと御いで候へくそうろう、まちまいらせ候、きのうもふみにて申候つるか、とゝき候や、かならずかならず御いで候へく候、めでたくかしく」と便りを出し、

【1283】同年十二月十日付、

「徳善院様にて小少将様宛かめ消息」、

社務職改補遅延に付更に前田玄以の斡旋を依頼、「直目安にてなりとも申させ候はんや」と督促し、また徳善院の病気に気づかいしている。

【1284】【1285】【1286】と其の後年月日不詳、かめ消息が続く。いずれも「○この文書恐らくは慶長五年(1600)五月のものならん」と記されているが、慶長五年五月十五日付「徳川家康社務職判物」以後の消息であり、家康の裁可により社務職が田中秀清に決定したことを慶賀する消息である。


2.検地免除と安居神事

 天正十七(1589)年の太閤検地により、八幡神領では地下人の生活は変化し、境内経済の基盤が崩れてしまった。又それに応じて安居神事は中断していた。八幡惣中は豊臣奉行人に対して、安居神事頭役を勤仕することをもって検地免除を申請していたが、天正十七年までの知行地を記した「八幡山上山下知行高帳」を内府徳川家康に指出したことで、慶長五年(1600)五月廿五日付徳川家康朱印状が社家はじめ山上衆・神人衆・寺・地下人衆にあてて個別に発給され、検地免除が保証され、安居神事は復活した。

このことは内府家康が不法な縁故により独断にて朱印状を発給したものとして、豊臣家三奉行(増田長盛・長束正家・前田玄以)は同(1600)七月十七日付「内府ちかいの条々」で家康を弾劾し、内戦勃発寸前の状況になった。 

同年九月十五日 関ケ原の戦い。

【1264】同年九月九月十九日付「徳川家康禁制」、

関ケ原決戦に勝利した家康は、戦後の濫妨を防止する為、直ちに八幡八郷に禁制を布いた。

慶長八年(1603)、徳川家康には征夷大将軍となり、江戸幕府を開く。

【1265】慶長十五年(1610)廿五日付、

徳川家康朱印條目、

「放生川の疏水」「破棄」「地下人跡職」「殺生禁断」「八幡八郷検地免許」「守護不入」を定め、第二條で「先年検地免許之神領内、為地下人之役安居之神事相勤の間、田畠等他所之者幷坊寺江売候者、相改可棄破之事」と、領知朱印状と天下安全武運長久を祈願する安居神事勤仕とは一対のものと確認された。

【1288】慶長十六年(1611)八月十二日付、「田中秀清、善法寺舜清カ、新善法寺重清カ宛かめ消息」、

「御うれしく思ひまいらせ候、そこほと山城国中検地御入候へ共、そこほとは去年朱印にのり候て、御打候はぬよし、かすかすめでたく思いひまいらせ候、山上山下より上様へ菖蒲革拾枚御進上候、よくよく披露申入候、ことにわが身かたへも白金三枚給候、よくよくご心得て給候へく候」と、山城で予定されていた検地も八幡ではこれもなく、検地免許を共に慶ぶと共に、進物の御礼を伝へた

【1266】 慶長十八年(1613)七月廿三日付、「徳川秀忠黒印條目」、

先の大御所「徳川家康朱印條目」と同じ内様の征夷大将軍「徳川秀忠黒印條目。

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3.闕所について

【1289】 年未詳八月二日付「田中殿宛かめ消息」、

「放生川なとも御さらへさせ候よし、よき御事にて候、橋も闕所の物成にて、御懸けさせ候よし、よき御事にて候」、「闕所の山よししま少御入候よし、上様へ申し候へは、社務領の心に御替り持に下され候はんとの仰事にて候、そもし様の今社務を御持とて、そなたへ御とり候て、又社務替り候はゝ、これも添えて御渡し候へく候」

【1290】(年未詳)八月二日付「すわう殿御かうしつ様宛かめ消息」、

「上様へ申上げ候へは社務領の心に社務もつ人に、回り持ちに下され候はんとの事候まゝ」と、闕所の山社務領とすべきを告げる。

【1291】(慶長十八年カ)十一月十日付「田中殿(秀清)善法寺殿(舜清カ)新善法寺殿(重清カ)宛するかゟかめ消息)、「まつまつ豊蔵坊へ御つけ被成候道二忠右衛門分、御朱印のおもてはかり御わたし候へく候、その外によししま山いやしきなとは、二度まて上様へ御意を得申候へは、まつ社務領へつけておき候へと仰せられ候まゝ、社務領へ御渡候てよく候、もしかわる御事候はん共、それまではその分に被成候へく候」、とある。於亀の方は闕所となった領知について家康の指示を八幡に伝えへ、

「返々、はうさう坊へつけさせられ候時も、よししま山なとの事御意をうけ候へは、それはまつはしめことくにしておき候へとの御ゐにて候まゝ、その御心へ候へく候、はうさう坊も御しゅいんの外に、御取候はん事、なかなかむりにて候まゝ、まつまつ御ゐしたいに候て候へく候、めでたくかしく」と結ぶ。

闕所となった片岡道二は慶長度関東御朱印四十三石余拝領仕山城国雄徳山八幡宮本願地年預役であった(宇治歴史資料館片岡道二家文書)。おそらく忠右衛門も同様の役人であったろう。

 慶長五年(1600)の領知朱印状給付から慶長十五年(1610)の徳川家康朱印条目へと家康の石清水に関する施策は完結し、石清水は霊地として守護され、八幡惣中は安居神事を荘厳に催し天下安全・武運長久を懇祈することとなった。

4.田中敬清跡目相続について

 これ以降の「相応院様御文」は田中家における相続に関することである。敬清の跡目として善法寺家から召清を迎えて敬清の女のおきよと祝言することになっていたが、敬清に実子要清が生まれ、諸問題を於亀の方が調整するはこびとなった。

【1304】寛永十八年(1641)九月ミノ十八日付、

善法寺(幸清)新善法寺(常清)法恩寺宛相応院黒印、

相応院様徳川義直生母覚書○コノ文書紙継目裏ニ相応院ノ黒印アリ、

「相応院様((包紙ウワ書))御書物御黒印」

 おほへ

・田中敬清跡目の仕置き、
・召清と敬清の女との祝言
・敬清後室正受院隠居料、
・隠居屋、
・正受院一期の後は合力米等を田中へ返付せむ、
・敬清実子の養育、・敬清生母の扶持、
・田中家の道具、召清の貢献、

【1305】寛永十八年(1641)九月廿日付

法園寺宛相応院消息、

・田中跡目につき法恩寺の肝煎を頼む。

【1310】慶安二年(1649)丑正月十三日付、

善法律寺宛、志水忠政外二名連署事書

「田中家((包紙ウハ書))之御仕置之判物志水甲斐守山下市正玄皓(外書物書状等ニハ岡本――トアリ、之也)右三名宛所善法寺」

・田中召清と敬清後室との公事曖
・受領家屋敷等は一円田中の支配・敬清の実子を召清の養子とする。
・「一、田中御家之儀、相応院殿由緒も有之事ニ候、其上少之寺領方々へ御わけ候ハヽ、御勝手も成ましく候間、御後室之儀は、大納言殿御合力可被遣事候」、「一、田中殿へ久目松(要清)代継養子ニ被遣上ハ、正受院久目松へ少もかいほう有間敷事」と相応院殿の没後においても善法寺に対して志水甲斐守忠政(忠宗の長男)・山下市正氏政(氏勝の長男・名古屋城代)・玄皓(岡本某カ)が連署事書し、相応院の覚書を通達している。この慶安二年十二月廿二日は田中要清が得度した年であり、その前年には召清が本家を要清に譲り自分は東竹を再興、慶安年中石清水記録を整理した。

以上、「相応院様御文」と徳川家康の施策の関連をみてきた。相応院は家康の意を得ながら社務廻職、領知朱印状・検地免許と安居神事と八幡惣中のために奔走した。また田中家の分裂を防ぎ衰微しないように仕置し、また大納言(義直)の合力もあり田中家の安寧に寄与した。      (了)


*参考文献

1.「石清水祠官家系図」一、田中系図p29~p31。五、東竹系図p46。
  『石清水八幡宮史 首巻』続群書類従完成会)1939

2.正法寺所蔵「志水家系」
  科学研究費補助金研究報告書『中世神社史料の総合的研究』<研究代表者鍛代敏雄><研究課題番号19520590>2010.3

3.「○尾張大納言義直卿御母堂相応院殿伝系」
  国会図書館編『柳営婦女伝叢』)国書刊行会、1917、6
  国立国会図書館デジタルコレクション

4. 丹波紀美子「お亀の方について」
  八幡の歴史を探究する会 会報88号   2018.11

5.『名古屋市史』 [第六巻](人物編第一)
 ・「名門一二、初世徳川義直」p33・「執政一二、平岩親吉」p91
 ・「執政四、初世成瀬正成」p107・「執政六、初世志水忠宗」p113
 ・「執政七、初世竹腰正信」p114・「執政九、初世石川光忠」p121
 ・「執政一〇、二世志水忠宗p123・「僚吏二、山下氏勝」p235
                愛知県郷土資料刊行会。1980.3.
                国立国会図書館デジタルコレクション

6.鍛代敏雄「中近世移行期の石清水八幡宮寺と幕府・将軍   ― 安居神事をめぐる政治交渉―」戦国史研究。  2011.2

7. 「渡辺守綱」、 
  山本大 小和田哲男編『戦国大名事典東国編』新人物往来社1981.

8、『大日本古文書 家わけ四』石清水文書(田中家文書)
  東京大学出版会、1911.6





 
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by y-rekitan | 2025-03-28 22:00 | 講演会・発表会
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