谷村 勉 (会員) ![]() 磐之媛命(いわのひめのみこと)と平城(なら)坂上陵(さかのえのみささぎ) つぎねふ山背河(やましろがわ)を 宮(みや)のぼり我(わ)がのぼれば 青丹(あおに)よし那羅(なら)を過(す)ぎ 小楯(をだて)倭(やまと)を過ぎ 我(わ)が見(み)が欲し国は 葛城(かづらぎ)高宮(たかみや)我家(わぎへ)のあたり 磐之媛命『日本書紀』 (山また山のそそり立つ山背河を、葛城の高宮さして私がさかのぼって行けば、いつしかに、青土のうるわしい奈良も過ぎた。楯のように山々をめぐらした大和も過ぎた。 こうして旅のはてに、私が見たいと思っている国、それは葛城の高宮、私の生まれた家のあるあたりなのです。) (『日本書紀』福永武彦訳) 「磐之媛皇后が、仁徳天皇と仲たがいして、淀川から木津川を上って山城筒木の宮(現京田辺市)にひきこもってしまった時、「那良の山口」で詠まれた望郷 の歌である。皇后の御陵は歌姫越えの旧道(奈良)を登った所、水上(みずかみ)池(いけ)をへだてて、平城京を見おろす高台にある。筒木の宮からも遠くはないから、皇后はしばしばここに立って、故郷の空を偲ばれたのであろう…‥。」 (『かくれ里・葛城のあたり』白洲正子より抜粋) 近鉄京都線平城駅で下車し、成務天皇陵から垂仁天皇皇后日葉酢媛陵を経て平城天皇陵の北を通り、磐之媛陵に達する。また、成務陵の北を東に歩き、歌姫街道を横切って、磐之媛陵の北西に達すると、内濠の堤に入ることもできる。 ![]() 奈良時代には、聖武天皇が恭仁京から難波宮へ遷都をした際の物資輸送は木津川から淀川を下る舟運によって行われた。 時代は下り、豊臣秀吉によって城下町となった伏見と大阪とを結ぶ大量輸送手段として舟運は発展していき、伏見港周辺は舟運の拠点として栄えていく。江戸時代には、大阪と伏見との間に三十石船と呼ばれる船が往来し、人の移動の手段として使われるようになった。枚方付近では、三十石船の乗客に向けて小舟から飲食物を販売する「くらわんか舟」が有名であった。明治時代になると蒸気を動力とした外輪船が淀川で運航されるようになった。オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケの協力のもと、蒸気船が航行できる水深を確保するため、水の流れを集める水制工が設置される。 ![]() また、新淀川が開削された際、水位差が生じた大阪市内河川との間を船が行き来できるようにするため、船のエレベーターの役割を果たす毛馬閘門が設置されている。しかし、昭和初期以降に鉄道や道路などの陸上交通網が整備されていくにつれ、舟運は徐々に人々の暮らしから遠ざかっていった。 (「淀川河川事務所」より一部抜粋) 橋本に架かる山崎橋 奈良時代、神亀2年(725)に、行基によって山崎橋(大山崎~橋本)が架橋される。行基が活躍した奈良時代は平城京が都であった。古代山陽道は、奈良の都から現京田辺市の関屋橋で古代山陰道と分離し、八幡丘陵・楠葉の裾を北上し、橋本からこの山崎橋を渡って、北に山陰道(丹波街道)、西に山陽道(西国街道)とに分かれていた。当時、平城京に大きな物資を運ぶには淀川から木津川に入り、木津川の港から陸路をとって平城京へ運ばれた。物資運搬の中継地点として山崎の津があり、長岡京の造営に際しては、物資運搬の重要な港として機能した。 「続日本紀」に延暦3年(784)7月4日 阿波・讃岐・伊予の三国に命じて、山崎橋(山背国乙訓郡山崎郷)を造る材料を進上させた。山崎橋を復興する命が出されたことが記されている。 弘仁元年(810)9月薬子(くすこ)の変に対しては、「又、宇治・山崎両橋と与渡の市と津に頓兵を置く」(『日本後紀』)とある。 ![]() 宇治橋 R6.6.17撮影 『続日本後紀』から皇太子の廃位を伴う重大な事件「承和の変」を追うと。 承和9年(842)7月15日、嵯峨上皇、嵯峨院にて崩ず、(以下略)勅使を伊勢、近江、美濃三国に遣わし、関門を固く守らしむ。 17日、春宮坊帯刀舎人「伴健岑(とものこわみね)」・但馬権守従五位下「橘逸勢(たちばなのはやなり)」らの謀反が発覚。 嵯峨上皇が亡くなる5日前、伴健岑が阿保親王(平城天皇の子)の許に参り、「間もなく国家に内乱が起こるので、自分は皇太子を擁して東国に入らんと思う」と語る。「阿保親王、直ちに一部始終を書簡として嵯峨太皇太后(橘嘉智子)に上呈。太后は中納言「藤原良房」に密かに密書を渡し、天皇に奉上。同日、固関を解く一方で、伴健岑、橘逸勢を逮捕し、18日、19日の両日に両人を糾問。左右京職に京内街区の警固に当たらせ、山城国の五道を閉鎖し、宇治橋、山崎橋、淀橋を警固」とある。 『栄花物語』松のしづえの巻・天王寺御幸(延久5年(1073)2月)より 延久5年(1073年)2月20日、後三条院は天王寺(四天王寺)に参詣した。陽明門院と聡子内親王も同行したが、上達部や殿上人は多くは参加せず、親しい人々と楽人たちが随行した。八幡宮参拝後、内裏からの使者が到着し、聡子内親王は本社に参拝する。「橋本の津」で船を御覧になると、各地からの船や御船が集まっており、豪華な装飾が施されていた。この御幸では、あらゆる面で贅を尽くした様子が描かれている。 山崎橋はいつ頃まで存在したのか 永承三年(1048)、藤原頼通(藤原道長の長男)が橋下を通過した。記録に残る橋の最後の記述になる。 山崎橋の下を過ぎ御する間、桑糸二百疋納殿。‥‥臨昏、淀に着かしめ給うふ。(『宇治関白高野山御参詣記』永承三年(1048)10月20日) また、これより先の長元 8 年(1035) 5 月 16 日には関白藤原頼通の賀陽院で歌合が行われ、左方殿上人は 21 日に石清水に参詣し、22 日 には山崎橋下から乗船して酉刻に「熊河岸」へ到着し、馬で住吉社に向かい、23 日の帰路は「大渡」 で船に乗り、「大江御厨司等五六艘」が先導した記録が残る。(「長元8年5月16日関白左大臣頼通歌合」) 秀吉の「橋本之橋」架橋 11世紀中頃以降に山崎橋の記録は絶えたが、秀吉によって文禄元年(1592)「山州八幡橋本之橋銘」の橋が架けられた記録が残る。その架橋は8月9日に始まり、12月4日に完成している。(『惺窩先生文集巻之八(享保2年(1717))』) ![]() 石清水八幡宮全図橋本部分(中井家文書) 朝鮮出兵による街道整備の一環として架橋されたようだ。興味を引くのは、この橋は山崎橋ではなく、「橋本之橋」と命名され、近衛信尹(のぶただ)(近衛前久(さきひさ)次男・寛永の三筆)の『三藐院記(さんみゃくいんき)』に、文禄元年(1592)12月14日都をでて、山崎側から橋を渡り「橋本の橋をわたりこし乗船、沈酔故也、同船友枕(伊勢貞知)也」の文章を残している。橋本側の橋の位置は現在の橋本奥ノ町辺りで「石清水八幡宮全図(中井家文書)」の奧ノ町を見ると不自然に弓状に曲がった街道筋が見える。京街道(文禄堤)の工事開始は橋本の橋の架橋後となり、街道は既に完成された橋の親柱・袖柱を避けて造らざるを得ず、弓状に曲がったものと推定される。街道の弓状に曲がった形状は現在もそのまま残っており、橋本奧之町の現場に行けば成程と分る。同じ所には橋本等安(石清水八幡宮社士・連歌師)によって造られた橋本寺も旧蹟として全図に記されている。 鳥羽の魚市場遺跡碑と淀川過書船について 秀吉伏見築城以前の宇治川は宇治の下流より巨椋池に入り、淀の南にて木津川、桂川と合流する。巨椋池は北に延び、伏見山西より鳥羽付近まで浸(ひた)し、京都より水路難波に行こうとするときは、下鳥羽より船を泛(うか)べて発するのを常とし、下鳥羽は草津と称せられて、洛南の重要な港だった。 ![]() 秀吉の伏見城の築城によって水路も大いに変更されて鳥羽及び伏見が発着所として淀川水運上重要な地位を占めるに至った。桂川の羽束師橋の東側サイクリングロード脇に魚市場遺跡碑が建つ、次の説明文がある。「伏見区横大路は平安京の昔より草津の港として栄え、明治10年京都、神戸間に鉄道が開通するまで1000年の長きに亘り、水上交通の要衝として東西行客の来往盛んとなり、京への生鮮魚介類の輸送もここを集散の場として賑わいをみせていた。 しかし鉄道の開通はこの魚市場を廃墟と化し、その伝統は現在の中央卸売市場に受け継がれている」。江戸時代、横大路から洛中への魚運搬の様子は『拾遺都名所図会』にも見える。 ![]() 徳川家康が政権を執るに及んで、慶長8年(1603)10月河村与三右衛門、木村宗右衛門(いずれも紀伊郡納所の人)の二人を淀川過書船の奉行に命じ過書座と命名した。過書座は伏見京橋、納所、枚方、吹田、大坂、尼崎、神崎等に番所を設け、京都に会所を置いた。元和元年(1615)に至り幕府は河村与三右衛門を罷め、京都の角倉与市を過書奉行とし、木村宗右衛門とともに永く両名に過書船奉行として支配させた。 高瀬川の開鑿(かいさく) 京都に高瀬川が彫られるきっかけは、大仏殿の再興であった。徳川家康の腹臣・本多佐渡守正信は、かねてから大坂城中に数多ある金銀財宝を費消させて、豊臣家の勢力をそぐことの必要性を家康に進言した。家康は豊臣家の忠臣・片桐市正の機略を、大仏再興の奉行として京都にとどめ、大坂方の離反を図ろうと着々準備し、反片桐の將・大野修理亮治長を駿府に召して、大仏殿再建のことを勧めた。慶長13年(1608)9月のことである。 『角倉与一玄匡(げんきょう)の系譜』に曰く 「慶長十三年戊(つちのえ)申(さる)年京都大仏殿御造営御入用之大材木伏見より 牛馬に而運送難相成候に付右運送被仰付川筋を見立京都賀茂川の 水を堰分け新川を付右御材木運送御用相勤申候」 陸路大材の運搬に、五人の壮丁が力を合わせ掛け声かけても難しく、牛馬の力をもっても、とても運びきれなかった巨木を鴨川の水路を整備し、水に浮かべて運び、難所は轆轤(ろくろ)で曳くなどして、難なく六丈(18メートル)の段差と二里(8キロ)余の道程を克服し得たのである。上記はまだ高瀬川が掘られる前に、了以(与一の父)によって、「鴨川運河」が掘られて、材木輸送にあたったことを記している。慶長16年(1611)了以はさらに幕府に申請して、運河の開削を願い出た。その結果でき上ったのが「高瀬川」である。 ![]() 大仏より上流、二条まで舟を遡行させた。鴨川運河の延長である。さらに底の平らな舼(こう)船(せん)を使うことにより浅瀬も航行できるようにした。これにより高瀬川は、伏見と京都を直結した為、大坂への水運の道として、はなはだ重要な位置を占める、大坂を含めた上方の商業流通圏を確保したことは、京都再生策の決定打となった。了以は淀川の経済的魅力を充分知悉していた。『駿府記』によると御所造営のための材木も又、引き続いてこの川を利用して運んだ。この年の3月に後水尾天皇即位の儀式があり、禁中造営の工事がなされた。 (なお、鴨川の西に造られた高瀬川は、東九条の西南「東九条南松ノ木町付近」で鴨川に一旦合流させ、さらにそこから鴨川を横断する形の水道を造り、運河をもって竹田村を通過して伏見につないでいる) 三十石船と淀二十石船 徳川時代の初期、淀川で結ばれていた伏見・大阪間の交通機関として旅客専用の船「三十石船」が登場する。米を三十石積めることから三十石船と呼ばれ、別名を過書船とも云われた。全長五十六尺(約17㍍)幅八尺三寸(約2.5メートル)乗客定員28人、船頭は当初4人と決められていた。上がり船は船頭の棹(さお)と男たちが綱を引いて淀川を遡(さかのぼ)った。三十石船の様子は、『東海道中膝栗毛』や上方落語『三十石』でも描かれている。大坂への下りは6時間、京への上りは12時間の長旅であり、乗客にとっては便利な交通手段であると同時に船上での交流や景色を楽しむ機会でもあった。幕末には“早舟三十石船”が現れ、上り下り共時間が短縮された。明治になると蒸気外輪船の導入や鉄道の開通により姿を消した。 ![]() ところで、伏見から天満橋八軒屋船着場までの船旅には6時間を要したが、これを歩いて行くと、凡そ40㎞を10時間かけて歩く計算になる。一般に、 江戸時代の旅人は夜明け前に出発し、夕方に着く。1日8~10時間歩くが、距離にすると30~40㎞も歩いていて、驚くほど健脚であった。 「淀二十石船」は「淀上荷船」あるいは「淀船」とも称し、過書船に属するが、過書船以外の特権を持っていた。「淀船」の歴史は古く、古来石清水八幡宮神領地下の人々が、舟子となって同神社社務の支配に属し、一時は淀川の運輸を一手に掌握し、他船の往来を許さざる勢力を張った時代があり、淀船に対しては「運上」、「地子」を免じ、且二十石船は淀船以外に造る事を許されず、また一般過書船は船側に「過」の極印を押捺されたが淀船には捺(お)されなかった。 さらに一般過書船は船株売買自由であったが、淀船は売買厳禁の特権を有していた。秀吉の朝鮮出兵に際し、多数の船夫を淀より徴集し、これら妻子に向けて扶助を講じるなど相当の特典を与えたが、其後徳川時代に至っても、淀川運輸に関して功があった。慶長19年大坂の役に際しては、京都所司代板倉勝重の命により、木村宗右衛門軍用運送の事(兵糧米、鉄砲、楯、竹(たけ)把(たば)、御陣具等輸送)を勤め、大坂のお蔵米を伏見に運搬し、次の元和1年夏の陣にも大いに活躍し、夏冬両陣に用いた船数3,560余艘、船夫7,260余人に達す。 故に徳川幕府も淀船に対しては特典を付与した為、益々勢力を得て其船体の軽小を利用し、淀川本流は勿論、伏見、木津、桂川に渡って盛んに往来し、過書座所定の運賃以下を以て運送に従事した為、後に淀船と過書座との紛争を招くことになった。紛争は寛永3年(1626)の淀船改め以降も徐々に激しくなり、中々解決できなかったが、享保7年(1722)に至り幕府は過書奉行木村、角倉両氏並びにそれぞれの年寄りを召出し、二十石船は過書中に加えることを申渡し、同九年改めの過書運賃制札中に、新たに二十石船を加え、紛争は一段落した。 (過書座二十石船由緒書『稲葉氏旧家老田辺家文書』、大阪市史) 松尾芭蕉の骸を航送する二十石舟 芭蕉最後の旅は元禄7年(1694)9月8日、郷里の伊賀上野を出発し、奈良から大坂に入った。芭蕉が大坂へ行ったのは、酒堂(しゃどう)と之道(しどう)の喧嘩を仲裁する為であった。体調を崩していた芭蕉にとって、弟子を和解させるのは骨の折れる事であった。支考の『笈日記』によると、8日は奈良の猿沢池のほとりに宿泊した。その夜は月が明るく輝き、夜中に鹿の鳴き声が聞こえてきた為、宿を出て猿沢池の周りを吟行し、「びいと啼く尻声悲し夜の鹿」と詠んだ。月明かりに聞こえてきた鹿の尻声が、自らの運命を予感する声のように聞いたものか。 ![]() 猿沢池 R4.3.23撮影 明くる9日は重陽の節句で芭蕉はこの節句を奈良で迎えようとしていた。 「菊の香やならには古き仏達」の句をなし、暗(くらがり)峠を駕籠で越し、「菊の香に暗がりのぼる節句かな」の句をなした。 明日越ゆるくらがり峠おもふとき芭蕉の足も重かりにけむ 吉井勇 その日の夜に一行は大坂の酒堂亭に到着した。体調を崩しながらも、芭蕉は大坂の門人たちとの句会に臨んでいる。やはり無理があったのか、9月29日、芭蕉は重篤な泄痢(下痢)をおこしてしまった。容態は悪化し、10月5日には南御堂前の花屋仁右衛門方の貸座敷に移る。10月8日、死を覚悟した芭蕉は、弟子の呑舟に最後の病中吟を書かせた。 「旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」 病中、旅路の終焉を悟るも、まだまだ旅の詩人でありたいという思いも込めたものであろうか、これが生前最後の句となった。 ![]() 芭蕉は門人に、遺骸は膳所の義仲寺の木曽塚のところに葬って欲しいと遺言 していた。元禄7年(1694)10月12日御堂前南久太郎町「花屋」にて、芭蕉は午後4時頃静かに息を引き取る、御年51歳だった。弟子達はすぐさま芭蕉の遺言を実行する。夜の帳が降りる中、芭蕉の遺体は「花屋」近くから高瀬舟に乗せられ、天満橋「八軒家浜」まで運び、そこで二十石船の過書船に乗り換えた。『芭蕉翁終焉記』に、「夜ひそかに遺体を長櫃に入れ、商人の荷物のようにして運んだ」と其角が書き残している。 二十石舟で門人十人と共に淀川をのぼる。『花屋日記』には「八幡を過る頃、夜も白々と明けはなれけるに‥」と記されている。芭蕉に八幡宮を訪れた足跡はなかったが、芭蕉の遺骸を乗せた船は、夜明けとともに八幡橋本を通過したのである。義仲寺(大津市)に所蔵される「芭蕉翁絵詞伝下巻」には、淀城近くを航行する川舟の中に芭蕉の遺骸を納めた長櫃が描かれている。この絵は淀小橋を通過した直後の様子を描いたものである。 伏見船と今井船 元禄11年(1698)八月若年寄米倉丹波守昌尹(まさただ)(旗本、武蔵金沢藩主のち下野皆川藩主)京畿水路巡察として西上し、大坂、堺、奈良、東山東海両道を巡る。伏見に至れば、伏見の困窮が公役にも堪えられない状況を見て、同年十二月伏見公船の許可を与える事になる。 ここに十五石船二百艘を造り、伏見新船は伏見、六地蔵港の出荷物引き受け、宇治、淀、鳥羽、横大路、木津川筋に運送し、更に過書船の営業区域である大坂、伝法、尼崎、伏見上下の荷物、旅客運送に従事する許可を得、小船を利用して敏速に活動を行った。 その結果またも過書船は少なからず脅威を受けた。当時過書船は船数六百余艘に達し、積載荷物がこれに伴わず、常に休船するもの四五十艘を数えて、飽和状態にあった。結局、紛争状態は紆余曲折を経て幕末まで続くことになる。 以上諸船の他に今井船があった。「今井船、本名手操舟(たぐりぶね)なり、是亦浪花より伏見に往来す、禁裏へたてまつる生魚を積む、これ故に早働の船なり、今井道伴と云ふもの取立はじめし故、今井船といふ」(和漢船用集)とあり、禁裏御用の生魚輸送の特別任務を持ち、一般旅客をも載せたる事が『伏見鑑』にある。 巨椋池 巨椋池は京都盆地の中で最も低い場所に位置する。現在の伏見区や宇治市周辺に広がる大きな池で、宇治川や桂川、木津川などが流れ込む遊水池として機能していた。この地域は古くから水上交通の要衝であり、木材運搬の中継地点としても重要な役割を果たしていた。巨椋池は縄文時代前期に形成されたといわれ、平安時代には景勝地として知られ貴族の別荘が立ち並んだ。 ![]() 豊臣秀吉伏見城築城以前の巨椋池 豊公伏見城構築以前は巨椋池の面積が大きい上、山城三川が巨椋池やその出口付近に流入していた関係上、巨椋池を中心とした河川の交通は極めて盛んで大船巨舶が瀬戸内海より直接出入りしていた。これら河川交通の中心地は初期においては山崎の津であり、平安以降は淀の津に移り、さらに伏見築城以来伏見ノ津がその中心地になるなど西から東へ三遷している。豊公伏見築城によって巨椋池が宇治川本流(淀川)より離れた為、巨椋池の交通は一変し、僅かに沿岸往来の物資運搬船、小型船の通運が残るばかりであった。 ![]() 木津川・宇治川の付け替え工事 明治元年12月22日、木津川付け替え工事の無事を願い八幡宮での祈祷を終え、土砂持運・提築立てにかかったが、24日、25日が雨で、27日は雨による内水がひどく、年内の工事は中止となり、明けて翌2年1月5日から、工事は再開された。当初完成まで3年はかかると予測されていたが、新堤防が11月中に一応の完成を見、12月新川に水を流し、下奈良堤で水神祭を執行した。引き続き旧木津川筋を堰止める築堤工事を行い、明治2年も終わろうとする12月28日には一応完成報告を京都府に提出した。翌3年1月22日、全ての工事が完成し、ここに木津川付け替え工事の大事業は終了した。(『八幡市誌 第三巻』) 淀川全体の治水工事の中で最大の宇治川付け替え工事は、明治33年11月に起工された。伏見観月橋下流より八幡荘地内の木津川合流点に至る新堤延長は約10㎞、川幅約272mの両岸に築堤し、同36年におおよその竣工を見た。この他、一口(いもあらい)・横大路・向島などにおいて旧堤を拡張したもの5,7㎞、また桂川吐け口の狭窄部を取り広げ、さらにその合流部を下流約4㎞の山崎地内に引き下げ、桂川の洪水防止にも大きな効果があった。 河川改修とワンド群の形成 淀川の近代河川改修は 明治8年(1875)からオランダ人技師ファン・ドールン、デ・レーケ等の指導のもとに淀川修繕工事に始まる.この工事は淀川の舟運のための航路確保を目的とした低水工事であり,両岸から水制工を張り出して流路を狭めることにより,掃流力を確保し,水深を維持しようとし,下流の天満橋から伏見に至るまで隈なく,両岸に水制工(ワンド)が建設された。 ![]() 淀川に残る水制工(楠葉) R3.1.31撮影 「この水制は岸から川の中央に向かって垂直に突き出した形をしており、木の小枝や下草をあんだものを何重にも積み重ね、その上に大きな石を乗せ、川の底に沈めて作りました。この水制を使えば、水の流れは、木の小枝の間を通ることができ、穏やかに川の流れを曲げることができました」(国土交通省) 以上 【主な参考文献】 『御大礼記念京都府伏見町誌』伏見町役場 『巨椋池干拓誌』巨椋池土地改良区 『日本書紀』福永武彦訳 河出新書 『続日本紀』宇治谷孟 講談社学術文庫 〖史料纂集 三藐院記〗八木書店 『三藐院 近衛信尹』前田多美子 思文閣出版 『京都高瀬川』石田孝喜 思文閣出版 〖京都鴨川探訪〗鈴木康久他 人文書院 『松尾芭蕉集』日本古典文学全集41 小学館 『芭蕉紀行』嵐山光三郎 新潮文庫 『八幡市誌第三巻』八幡市
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| 2025-03-28 21:00
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