谷村 勉 (会員) 国家を揺るがしたいわゆる道鏡の偽託事件の後、文徳(もんとく)天皇の斉衡二年(855)、大仏の頭が突然落下した。この時、大仏建立に助力した八幡神に神助を乞い、修理の後、貞観三年(861)に開眼法要を修した。そのような中、文徳天皇が崩御(天安二年・858)、皇太子惟仁(これひと)親王(清和天皇)が即位する。帝はわずか九歳、前代未聞の幼帝であった。父文徳天皇には惟仁親王の上に三人の皇子があり、特に長子の惟喬(これたか)親王を即位させたいという思いがあったというが、惟仁親王の外戚である藤原良房(よしふさ)を憚り、わずか九カ月の赤子を立太子させていた。当時これを非難する風刺歌が歌われた。 良房にとっては、これら非難・不満を封じ込め、幼帝と体制を守る必要があった。そこで思い出されたのが東大寺大仏の建立に助力し、道鏡事件では皇位を守った八幡神である。即位したとはいえ、幼少の天皇を護り、藤原北家の繁栄と安泰のために、遠く離れた宇佐の八幡神宮の分霊を京都近辺に勧請することこそ最良の手段であった。貞観元年に行教が宇佐に下ったのは、このような良房の意を受けてのことだった。(歴探「会報」122号「山崎橋と石清水八幡宮遷座の周辺」)より。 ![]() 三超(さんちょう)の童謡(わざうた) 惟仁の強引な立太子(即位)に対し『三代実録』はその時次のような童謡が歌われたと記している。 「大枝(おおえ)を超えて、走り超えて、騰(あ)がり踊り超えて、我が護る田にや、捜(さぐり)あさり食(は)む志岐(しぎ)や、雄々(をを)い志岐や」 意訳(大枝を遥かに飛び踊り越えて、私が大切にしている田に飛び込んだ鴫は、 探し求めた餌を思う存分ついばんでいる) 童謡にいう大枝とは惟仁の三人の兄たち、第一皇子の惟喬親王・第二皇子の惟条親王(以上、母は紀静子)・第三皇子の惟彦親王(母は滋野奥子)をさす。三人の兄を超えて強引に惟仁を皇太子とした良房に対する風刺で、「三超の童謡」と称されたという。(『藤原良房・基経』瀧浪貞子) 失意の惟喬親王は、交野(現大阪府枚方市)で鷹狩りをし、渚の院でよく宴を開いた。その親王をなぐさめようと在原業平は紀有常らとともにしばしば渚院の別荘をたずねている。『伊勢物語八十二段』にはその様子が詳しく記されている。 また、承平5年(935)紀貫之が、土佐の任を果たして渚院の跡を舟ですぎた時、庭園に梅が咲き背後の丘に松の緑が濃く、感無量であったことを『土佐日記』に記している。「君恋ひて世をふる宿のうめの花むかしの香にぞなほにほいける」 現在も渚という地名が残っている。昔は淀川の流れが入江となって、渚院の跡あたりまで舟が行き来したのだろう。現在の淀川の流れははるか遠くにある。 惟喬親王は貞観十四年(872)七月、病気のために出家、比叡山の西麓、小野の地に隠棲している。 行教の宇佐参向 去る貞観元年(859)、筑紫豊前の国宇佐宮に参拝、四月十五日彼の宮に参着する。一夏の間宝前にて大乗経を転読云々、九旬すでに終り都に帰ろうとする間、 七月十五日の夜半「吾深く汝が修善に感応し、敢えて忍忘すべからず、都近くに移坐し国家を鎮護すべし」との託宣を受けた。同月廿日を以て都に上がり八月 二十三日山崎離宮の辺りに到来する。寄宿の間更に伏して示現を蒙らんと祈願すると、同月二十五日再び「移坐すべき所は石清水男山の峯也、吾まさに其処に現れん」との託宣を受ける。(『石清水八幡宮護国寺略記』、『石清水尋源鈔』) 六宇の建立 行教は先の二つの託宣を得たことについて奏聞すると、直ちに宣旨が下り、 木工寮権允(ごんのじょう)橘良基を遣わして宇佐と同様六宇の宝殿を造立せしめた(貞観二年(860))。八幡大菩薩の山城進出は、藤原北家の政略的色彩を背景に国家鎮護の仏神として実現した。これを機に宇佐八幡宮に対する呼称が変わる。都近くに石清水八幡宮が成立すると、宇佐の方を「八幡宮宇佐」または略して「宇佐宮」と称することになる。(一般に用いられる「宇佐八幡宮」という称は正式にないが、 明治六年(1873)六月に「宇佐神宮」という呼称に定められた)。 石清水八幡宮の宝殿が造立すると、宇佐宮司大神仲田麻呂に五位が授けられ、また行教の奏聞が終わるやただちに社殿造営の宣旨が下ったという事は、行教・宇佐大神氏・良房の間に事前の打ち合わせがあったことは想像に難くない。 『石清水八幡宮護国寺略記』 紀氏出身の行教という僧侶が長年修行し、常に八幡大菩薩を拝み奉ろうと念じていた。貞観元年四月十五日より宇佐宮に参籠し、一夏の間、経文を誦(じゅ)して廻向に努め、九旬もすでに終り、都に帰ろうとしていた七月十五日の夜半、大菩薩の「都近くに移って国家を鎮護せむ」の託宣を受けた。行教は八月十三日に山崎 に到着したが、再度示現があって「吾近都に移座するは王城を鎮護せんがためなり」と託宣した。そこで行教が宝体を安置すべき所を伺ったところ「移坐すべきところは、石清水男山の峯なり」と告げ、このとき男山の山頂に月星の光のごときものが照り輝いた。 ![]() 石清水八幡宮護国寺略記 (国立公文書館デジタルアーカイブ) 翌早朝、行教は男山に登り、ところを点じ三ヶ日祈誓し殿舎を建て、ことの由を参内上奏した。そこで九月十五日に勅使を下向させ、実検定せしめ、木工寮権允橘良基をもって六宇の御殿を造営せしめ八幡三所の神体を安置した。一方、行教が上奏する以前に天皇・皇后も男山の峯より紫雲が立ちのぼり、王城を覆い天下に満ちた夢を見た。翌二年行教に宣旨がくだり、行教は再度宇佐宮に参向し、三年正月三日より二十四日間『般若経』を奉読してその法楽を資し奉った。 また同時に宇佐宮司大神田仲麻呂に五位が授けられ、石清水八幡宮には度者十五人を賜って祈願僧とした。以上が概略である。 これによれば、石清水への遷座は行教の託宣によるものであり、行教一人の 功績であるかのように読める。確かに行教は紀氏の出身でその祖先は神功、応神に仕えて大功をたてた武内宿祢であり、紀氏は依麻呂以来大宰府の官人に任ぜられているものが多い。宇佐八幡宮とも深いかかわりのある人物であるが、実は、この勧請は清和天皇の即位を正当化する為に八幡神の神威を利用しようとした藤原良房の画策のもとに行われた勧請であったのである。また、遷座の話は、『今昔物語』巻十二第十、『続古事談』第四にもある。 (『八幡神社・八幡信仰と縁起』竹石たか枝 勉誠出版) 石清水勧請経路に出現した八幡宮 石清水への勧請経路に当たる所に、十二の八幡宮が成立する。 行教がたどった経路は宇佐より陸路を北上し門司の辺りから瀬戸内海を海路で東進、現兵庫県加古川市辺りから陸路で、あるいは淀川の水路で石清水に至ったことが想定される。これだけの長い経路から、あちこち立ち寄り休憩・宿泊をしながら進んだと考えられる。この間立ち寄った所には八幡大菩薩の伝承が生じ、八幡宮の誕生を見たのである。その数は十二ヶ所。 八幡神社(現大分県中津市高瀬)、正八幡神社(現福岡県行橋市大橋)、正八幡神社(現同市延永)、亀山八幡宮(現山口県下関市中之町)、琴﨑八幡宮(現山口県宇部市上宇部)、八幡宮(現山口県熊毛郡田布施町大波野)、石清水八幡神社(現愛媛県今治市玉川町八幡)、玉生八幡神社(現今治市波方町波方)、八幡神社(現広島県尾道市久保町)、八幡神社(現香川県高松市屋島中町)、駒宇佐八幡神社(現兵庫県三田市上本庄)、離宮八幡宮(現京都府乙訓郡大山崎町)である。 この十二社、いずれも貞観元年(859)、宇佐から勧請と伝えている。行教の勧請行程が同年の七月から八月であることから、このように伝えられているようだ。 (図録『八幡大菩薩の世界』大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館(現大分県立歴史博物館)) 源氏の守護神 石清水八幡宮が朝廷・貴族をはじめ、各層の信仰を集めて、急速に躍進して行く。とりわけ源氏の崇敬を得たことは、石清水八幡宮にとっても大きな転機となる。摂津国多田荘(現兵庫県川西市多田)は清和源氏発祥の地であるが、満仲の子である源頼信が、永承元年(1046)、石清水の神前に捧げた「告文(こうもん)」に、八幡大菩薩の加護を願い、大菩薩をして源氏の氏神として崇めている。 『尊卑(そんぴ)分脈(ぶんみゃく)』によると源頼義(頼信の子)が石清水八幡宮に参籠した時、社殿で三寸の霊剣を賜った夢を見た後、目覚めてみると枕元に小剣があったので、感涙をぬぐって持ち帰り家宝とした。同じ月に妻が懐妊し、やがて生まれたのが義家であった。そこで寛徳二年(1045)義家七歳の春、石清水の神前で元服させ、八幡太郎と号したという。世に名高い八幡太郎義家のいわれである。 頼義はやがて前九年の役で東北に赴く際、もちろん石清水八幡宮に祈願して出発した。 吹く風を 勿来(なこそ)の関と 思へども 路(みち)も狭(せ)に散る 山桜かな 義家 (ここは来る勿(な)かれの関、風も吹かないでくれ、道を塞(ふさ)ぐほど花も散っている) ![]() 王城鎮守として石清水八幡宮を創建した清和天皇の皇統である軍事貴族の頼義・義家の代から、石清水への崇敬が篤くなったという事は間違いない。 前九年合戦の平定後の康平六年(1063)八月、密かに石清水の八幡大菩薩を鎌倉由比郷に勧請、社殿を建立した。その後、永保元年(1081)二月、義家が修理したという。 ![]() 東国への八幡宮の勧請 源頼義は永久元年(1113)石清水八幡宮に報賽の為に大般若経の供養をしている。それだけでなく伝説ではあるが、八幡社を次々に勧請することになる。この時の勧請は山城国に始まり、近江、東海・東山両道から関東、さらに出羽、陸奥の諸国に伝播することになった。ことに頼義・義家父子が戦った戦場の地に散在することになったという。(宮地直一『神祇史の研究』136~139頁) 壷井八幡宮 金剛山脈の麓、なだらかな丘陵の続く南河内の壷井八幡宮は、大阪府羽曳野市壷井に鎮座する神社で、河内源氏の氏神として知られている。寛仁四年(1020)に源頼信が河内守に任ぜられ、この地に本拠を構えたことが河内源氏の始まりである。頼信の子の頼義は前九年合戦(1051~1062)に出陣する際、石清水八幡宮で戦勝を祈願し、康平七年(1064)の凱旋後、石清水八幡宮から八幡神を本拠地に勧請した。これが壷井八幡宮の創建とされている。 ![]() 境内西側には、天仁二年(1109)に源義時(義家の五男)が創建した壷井権現社があり、頼信、頼義、義家の三将軍を祀っている。現在の壷井八幡宮及び権現社は、元禄十四年(1701)に徳川綱吉の命により柳沢吉保が再建したもので、平成七年に復元修理が行われた。 境内には樹齢千年と伝わる天然記念物の楠木がそびえている。また、社殿正面石段を下りて約400m南方には河内源氏菩提寺の通法寺跡(明治の神仏判然令で廃寺に)があり、今は鐘楼のみが残こされて、ここには源頼義の墓があり、さらに東へ100mほど進むと、源頼信と源義家の墓の入口があり、階段を登ると台地の上に両者の墳墓が鎮座している。 頼義、義家を輩出した河内源氏がこれ以後、源氏の主流となって行くが、多くの東国武士や頼朝なども本来の出自は大阪の河内源氏であったことを今や知る人は少ない。 ![]() 源義家墳墓 (R6.5.26撮影) 賜姓皇族 嵯峨天皇には、五十人にも及ぶ皇子女が生まれたために、弘仁五年(814)五月、卑姓の母に生まれた三十二人に源姓を与えて、臣籍に下している。これが賜姓源氏の始まりである。もっとも賜姓皇族そのものは奈良時代にもあり、美努(みぬ)王と橘三千代の間に生まれた葛城王(橘諸兄)と佐為王に橘姓が与えられたことはよく知られている。 平安初期では阿保親王(平城天皇の子)と伊登内親王の間に生まれた業平およびその兄弟たち(異腹)に在原姓が与えられている。賜姓皇族の内、もっとも格式の高かったのが、この嵯峨に始まる一世の皇親に対する「源」氏 賜姓で、これは皇胤に源流する氏族との意がこめられており、嵯峨ののちも清和、陽成,宇多、醍醐、村上など、再生産されたのも賜姓源氏の特徴である。 源頼朝と石清水八幡宮 治承四年(1180)十月十二日、源頼朝は小林郷の北の山麓に油比の八幡宮を移した。頼朝はこれを「鶴岡八幡宮新宮若宮」と呼んだという。しかし、建久二年(1191)三月の大火で諸社殿は灰燼に帰してしまう。この復興に当たり、頼朝は大臣山中腹に本宮を造営、改めて石清水八幡宮より大菩薩を勧請して、上宮・下宮からなるあらたな鶴岡八幡宮が誕生した。 建久以後頼朝は毎年参詣し、事ある毎に祈願、社頭に大礼を行い、神馬を奉り、祭礼を怠らなかった。また鶴岡八幡宮の制度は、石清水に準じて、宮寺とし、別当・神官を置き、八幡宮の正祭である放生会と臨時祭を行った。 頼朝の石清水の崇敬 頼朝は鶴岡を氏神としたが、石清水に対しても元歴元年(1184)には西国に散在する石清水の荘園を安堵している。ついで文治元年(1185)にも社領を寄せ、建久二年(1190)上洛すると石清水と左女牛(さめがい)八幡に詣で、石清水には神馬を奉り、宝前に通夜している(『吾妻鑑』)。別当家に対しては故あって仁和寺に閑居していた善法寺家を興し、八幡宮社家の再興に尽くした。その他頼朝は、祖父為義の宅地、六条左女牛に八幡宮を設け石清水を勧請し京都の別宮にした。(『八幡信仰』) 東大寺供養の建久六年(1195)三月九日には、征夷大将軍として石清水臨時祭に参詣し、夜通し神前に参籠した。妻政子、嫡男頼家と一緒でした。この時、舞装束を寄進した様です。おなじく今度は下向に際して、四月三日、同十五日に参詣している。ちなみに、頼朝の実父・義朝はかつて太刀を寄進していた。そのことは、文治三年(1187)の盗難事件で発覚しました。刀身は神泉苑から、着帯用の具足は盗人の法師宅から見つかったと伝えられる。(『八幡さんの正体』) 参考・治承四年(1180)、平重衡の兵火により東大寺伽藍の大半が焼失 ・文治元年(1185)、重源上人が後白河法皇、頼朝の援助を受けて開眼供養 ・建久六年(1195)三月十二日、大仏殿落慶供養 ![]() 足利尊氏と石清水八幡宮 鎌倉時代には鎌倉幕府の八幡宮崇敬は鶴岡を中心として成り立ち、鎌倉御家人を通じて全国的に伝播した。 しかし、室町時代になると、再びその中心は石清水に戻った。元々足利氏は源氏の出であり、その嫡流であるから八幡神は足利氏の氏神であり守護神でもあった。足利氏は古くから、八幡に関する伝説をもっていた。『難太平記』には、義家の置文の事や、尊氏の祖父、家時の時のことが「八幡大菩薩に祈申給ひて」などと記されている。 尊氏が元弘三年(1333)三月、綸旨を奉じて丹波国に挙兵したときも、同国南桑田郡の篠村八幡宮に願文を奉った。同書にも八幡大菩薩は王城の鎮護、我が家の祖廟なりとか、尊氏は神の苗裔たり、などと言っている。 建武三年(1336)九州に下った時も、宇佐八幡宮に白旗を奉り、香椎・筥崎に詣で、東上に際しては石清水に祈祷し、鶴岡に社領を寄進している。 足利義満の石清水崇敬 室町幕府の基礎を築いた足利三代将軍義満は、北野、春日、日吉等々諸社を重んじ、自らも参詣した。とりわけ石清水に対する尊信は他社に比較できなかった。石清水に対しては特別に崇敬した。 特に幕府が京都に開かれたことで、これまでの鎌倉の鶴岡をすてて、公武の信仰は石清水八幡宮に集中した。ことに義満の生母は善法寺通清の女であったことから、義満の石清水八幡宮の崇敬は特別のものがあった。義満は応安二年(1369)将軍になると、自ら石清水に参詣した。南北合一した明徳二年(1391)以後になると、足繫く参詣し、前後十三度に及んでいる。 ![]() 石清水別当 鎌倉幕府開設以来、ややもすると取り残されていたが、石清水に別当融清が出てから義満の意を受けて盛況になった。石清水別当は田中・善法寺の二流が分立し、田中家は公家方であったが、善法寺家は武家方であったので、その勢力はいずれも盛んであった。 足利氏も善法寺家と結び、尊氏の九州出発の時には法印通清が祈祷をしたため、以来足利氏の祈祷は彼が修した。ことに通清の女良子が義詮の室となり、義満を産んだ。義満が将軍になったので善法寺家は盛運に向かう筈であったが、嗣子に恵まれず、権力は田中融清の手に移った。融清は応永七年(1400)三十四歳以来十五年間社務を握った。 四代将軍義持の時代まで田中坊家全盛時であり、善法寺家は失意の立場にあった。しかし融清が没すると、善法寺家も回復し、室町時代を通じて親密の関係を加えた。 善法寺家はもともと武家方で、足利家とは姻戚の家であり、融清在世中でも、将軍社参には善法寺家を宿坊にした位である。融清没後は旧に復し、善法寺家は堂上に並び繁栄したのみならず、宇佐弥勒寺の本家職も世襲していた。 徳川家と石清水八幡宮 徳川家康は中世以来のアジール(神聖不可侵な場)を近世においても保証した。 江戸幕府二百六十年間、石清水八幡宮門前の境内都市〈八幡〉は税制調査のための検地が免除されました。だから、平安時代からの歴史と文化が残されました。 なお、国家と将軍家を守護する安居神事は、徳川幕府に引き継がれました。 ところで、厄除けの神事やお守りは全国の神社でよく見かけますが、神矢(破魔矢)は石清水八幡宮が発祥だといわれます。現在、石清水では神矢を授与する時に、神楽を舞います。神の威徳によって家内安全、厄除けを祈念して、一年を過ごし、また来年、古い神矢を返して、新しい年を迎える、宗教上の作法となっています。今に生きる、八幡信仰の形と言えます。 弓矢といえば、猿楽(さるがく)は神楽であると明言した世阿弥元清が「祝言の正直なる道」 と自讃したのが、ほかでもない、「弓(ゆみ)八幡(やはた)」でした。三代将軍義滿に寵愛された世阿弥は、南北朝の動乱を鎮め、天下一統の世を築いた義満を称賛しました。 四代将軍義持の就任祝いのために書かれた演目は、後宇多天皇の使者が、二月初卯の神事に参詣したことからはじまります。 社頭にあがろうとすると、多くの参詣者の中に、弓をおさめた錦袋をかつぐ翁がいました。不思議に思って尋ねると、翁がいいました。わたしは八幡様につかえ、神託を伝える高良明神だ。この「桑の弓と蓬の矢」(『将門記』には、桑の弓は快く引くことができる。蓬の矢はまっすぐにあたる、と見える。中国では桑弧蓬矢(そうこほうし)といって、男子が生まれると、将来の雄飛を予祝した故事がある)を奉納するために待っていた。 この武器は天下を治めるためにもちいたが、干戈(戦争)をやめて、天下泰平になった今、天皇に捧げたい、と語った。そして、八幡さんの神徳をたたえて、神の舞で祝賀する、という内容です。(『八幡さんの正体・八幡信仰と日本人』鍛代敏雄) お亀の方と内府違いの条々 世に名高い「関ケ原合戦」は慶長五年(1600)九月十五日に起り東軍が勝利した。 合戦前の慶長五年五月廿五日、徳川家康から八幡に領知朱印状361通が発給された。これだけの大量の朱印状が発給された地域は他に類例を見ない。 合戦二カ月前の慶長五年七月十七日、石田三成は「内府」こと家康に対する弾劾状を全国の大名に布告した。これがいわゆる十三ヶ条にわたる「内府違いの条々」であるが、ここに「お亀の方」に関わる文言が記されている。最後の十三条に「内縁之馳走を以、八幡の検地被免候事」とある。「お亀の方」の進言によって、八幡に領知朱印状を発給したことは「守護不入」「検地免除」を約束して、家康が豊臣政権から戦略上の重要拠点を奪取することを意味した。 石田三成は、家康の亡き秀吉の遺命に背いた数々の行動が豊臣家の存亡にかかわるものであるとし、その対決の意思を弾劾状に表明した。 尾張徳川家は「お亀の方」の子、徳川家康九男義直に始まる。徳川一門強化のため、義直は慶長八年(1603)わずか四歳で甲府府中二十五万石を、同十二年尾張清州城を与えられるが、名古屋城築城までは駿府の家康のもとで育てられた。 関ケ原勝利の年、慶長五年十二月、お亀の方の兄、志水忠宗が「安居の頭役」を勤めて、豊臣政権時代の検地により中断していた「安居神事」の祭が復活した。これより後、「安居の頭役」を担った八幡宮神人は毎年「年頭御礼」のため、尾張藩主に会い、江戸城では白書院にて将軍独礼を許されていた。 (歴探「会報」101号・谷村 勉) ![]() 以上 【主な参考文献】 『藤原良房・基経』瀧浪貞子 ミネルヴァ書房 『集英社版日本の歴史⑤平安建都』瀧浪貞子 集英社 『八幡信仰(民衆宗教史叢書②)』中野幡能編 雄山閣出版株式会社 『八幡さんの正体・八幡信仰と日本人』鍛代敏雄 洋泉社 『続日本後紀』森田 悌 講談社学術文庫 『日本史探訪(第1集)八幡太郎』 角川書店
by y-rekitan
| 2025-05-30 20:00
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