綴喜古墳群と武埴安彦の乱2 127号


綴喜古墳群と武埴安彦の乱(二)
山陽道

岡村 松雄(会員)



初めに  

 前回の「綴喜古墳群と武埴安彦の乱(一)」に茶臼山古墳(前方後方墳)の首長と八幡東西車塚古墳(前方後円墳)の首長とは敵対関係にあったと想像できるとの記述をしたが,その後に理解できた事で当古墳が4世紀の創建であり、その時期には戦乱は終結しており、ヤマト政権の体制が確立していた。

当時は古墳の形状が埋葬者の地位により決まっていた。

後の天皇クラスの首長は前方後円墳であり、次の大臣クラスの首長は前方後方墳であり、それ以下の3位は円墳、4位(一般人に近い身分の低い役人等)は方墳となっていた。

そのため茶臼山古墳の埋葬者は大臣クラスで特殊な船形石棺(石の種類は九州産)であることにより、この大臣の職務が九州から瀬戸内海、淀川、木津川を利用した船利用の物流業務担当の重要人物であったと推定できる。
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舟形石棺イラスト

話は変わるが

 武埴安彦の乱は「古事記」、「日本書紀」の両方に登場する。10代崇神天皇(実在した最初の天皇との定説である。それまでは神話又は架空の天皇である)の時、前回の「綴喜古墳群と武埴安彦の乱(一)」の関係家系略図に記載した内容を再読すると明確なように、奈良を中心とした(大和王朝と呼ばれた)崇神天皇グループと南山城を中心とした9代開花天皇の血縁のグループ(葛城(かつらぎ)王朝と呼ばれた)との政権を争った戦いで、「記紀」共に記載があり、地名由来が多くあり、呼び名の正確性をあまり神経質にならなければ、実際に何らかの戦いが、紀元前80年ごろに複数回あったと思われる。

 「日本書紀」は「古事記」と比較して正史(東南アジア諸国の王朝以前の国家による公式に編纂された歴史書)であり説明が詳しく、事件の起きた年月日も明示されてあり「岩波書店の日本書紀」の原文を注釈に基づいて記述する。

 ただし乱の最終部は「古事記」のみに記載されており、その戦いは淀川付近が最終の主戦場と思える記述がされてある。


『日本書紀 原文』をスタート

9月9日、大彦命を北陸に、武渟川別を東海に、吉備津彦を西道(西海 九州方面)に遣わす。丹波道主命は丹波に遣わす。


「ここで日本書紀の原文と離れる」

丹波道主命を丹波に(3人の将軍は北陸、東海, 西海という大きな地区なのに、なぜ丹波道主命だけはマイナーな地方の丹波とは・・・・・私の以前からの違和感でした)。

 丹波道主命の名前は 地名の丹波、丹後をさした、道は後の山陰道の元となった小道から「古事記」作成時に後付けされたものと私は思います。
丹波道主命は後の12代景行天皇の外祖父。京都府京丹後市の神谷太刀宮神社に祭られている。

当時では、丹波道主命は四道将軍(ヤマト政権が全国制覇のため主要幹部を派遣)に選抜されるほどのキー・パーソンでした。

 関西外国語大学教授 佐古和枝氏の「記紀伝承」で以下のように述べておられます。

1 10代崇神天皇、11代垂仁天皇、12代景行天皇は4世紀に当たると考えられるが、すべてを史実とは考えられないので鵜呑みは出来ない。
2 この三代については国の土台となる地方制圧の伝承が多い
3 垂仁天皇記には、日本海側沿岸地域(出雲、但馬、丹後)の話が多い
4 垂仁天皇の二人目の皇后は丹波の地方豪族の娘、景行天皇の母・・・・と丹波道主命との関連性を示している。

 当時、京都府、兵庫県にまたがる丹波、丹後地区はヤマト政権に対抗すする王族が支配しており(門脇貞二氏による【丹後王国(次回 綴喜古墳群と武埴安彦の乱(三) 副題 山陰道で記述予定】)武器としての鉄を大陸から輸入していたヤマト政権が日本統一を有利に展開するための最重要な水路・・・・・、日本海➡若狭湾口➡由良川➡加古川➡瀬戸内海➡淀川➡木津川を抑えていた地区(丹波、丹後)の実力者を成敗し、ヤマト政権統一をするための丹波道主命の派遣。

「ここで日本書紀原文に戻る」

下図に戦乱の概要図を現代の地図上に表現する。

四角枠で表示したのは   上段は現代の地名

             下段は文中のNo. 及び当時の地名

 文中No. を確認しながら読んで下さい。
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詔(みことのり)(天皇の命令を伝える文章)して「もし教えに従ない者があれば兵を以て射て」と言われた。それぞれ印綬(官職を示す印)を授かって将軍となった。

・27日、大彦命(開化天皇の兄)は和珥坂(①)についた。ときに少女がいて歌っていた。

  御間城入彦(崇神天皇)よ。あなたの命を殺そうと、時をうかがっていることを知らないで、若い娘と遊んでいるよ。

そこで大彦命は怪しんで少女に尋ねた。「お前の言っていることは何のことか」と。
答えて「言っているのでなく、ただ歌っているのです」と。

重ねて先の歌を歌って急に姿が見えなくなった。大彦は引返し、仔細に有様を報告した。

 天皇の姑、倭迹迹(やまととと)日百襲姫(ひももそひめ)命(みこと)は聡明で、よく物事を予知された。その歌には不吉な前兆を感じられ、天皇にいわれるのに、「これは武埴安彦(孝元天皇の息子)が謀反を企てている印であろう。聞くところによると、武埴安彦の妻吾田姫がこっそりきて、倭の香具山の土をとって、頒巾(女性が襟から肩にかけたきれ)のはしに包んで祝言して【これは倭の国かわりの土で この土は勝利者の印の意味がある】と言って帰ったという。これでこの事がわかった。

速やかに備えなくては、きっと後れを取るだろう」と。そこで諸将を集めて議論せられた。

幾時もせぬ中に、武埴安彦と妻の吾田姫が、軍を率いてやってきた。それぞれ道を分けて、夫は山背(山城)より、妻は大坂(⓶)からともに帝京(みやこ⓷)を奪おうとした。その時天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)を遣わして、吾田姫の軍を討たせた。大坂で迎えて大いに破った。吾田媛を殺してその軍卒をことごとく斬った。また大彦と和珥(わに)氏の先祖、彦国葺を遣わして山背に行かせ、埴安彦を討たせた。坂の上に据え、精兵を率いて奈良山に登って戦った。その時官軍が多数集まって草木を踏ならした。それでその山を名づけて奈良山と呼んだ。

また奈良山を去って輪韓河(わからがわ ⓸)に至り、埴安彦と河をはさんで陣取りいどみ合った。それでときの人は改めて、その川を挑河(いどみがわ)とよんだ。

今、泉(いずみ)河(かわ)(木津川)というのはなまったものである。埴安彦は彦国葺に尋ねて、「何のためにお前は軍を率いてやってきたのだ」と。答えて「お前は天に逆らって無道である。王室を覆そうとしている。だから義兵を挙げてお前を討つのだ。これは天皇の命令だ」と。そこでそれぞれ先に射ることを争った。

 武埴安彦がまず彦国葺を射たが当たらなかった。ついで彦国葺が埴安彦を射た。胸にあたって殺された。その部下たちはおびえて逃げた。それを河の北に追って破り、半分以上首を斬った。屍が溢れた。そこを名づけて羽振苑(はふりその ⓹ 屍体を捨てた場所。今の祝園)という。

またその兵たちが恐れ逃げるとき、糞が袴より漏れた。それで甲(よろい、当時のよろいは革製で、落ちると革のからからという音がした。ゆえにかわらと言う)を脱いで逃げる。不利な立場になり、逃れないことを知って、地に頭をつけて「我君⑦」(わが君お許し下さい)といった。ときの人はその甲を脱いだところを伽和羅(かわら ⓺―1(⓺―2)という。袴から糞が落ちたところを糞袴(⑧)という。今、樟葉というのはなまったものである。また地に頭をつけて「我君」といったところを「我君」(和伎の地)という。

 ここで「古事記」のみには「糞袴」の記述の後の状況を示す文章が続いてある。 「古事記」の原文を戦いの部分から記述すると

ここに日子國夫玖命(「日本書紀」での彦国葺)、乞いう、「そなたの人、まず忌矢(戦いの初めに互いに射合う神聖な矢)放つべし」といった。

ここで武埴安彦、射るが当たらず、國夫玖命の放った矢は、武埴安彦に命中し死んだ。

そのため戦に敗れた兵は逃げ散った。その逃げる軍を追い詰め、久須婆(くすば)の渡りに至った時、皆負い苦しめられ、糞が出て袴にかかった。故、その地を名付けて糞袴と言う。

 (久須婆)→ 糞袴 → 樟葉と変化した。

またその逃げる兵を切りつけると死体が鵜のように浮かんだ。 それでその川を名づけて鵜(う)河(かわ)(⑨淀川)という、又その兵士を切り払ったので、その地を名づけて波布理曾能(「はふりその」と読む)。先記の祝園と同じ羽振苑「日本書紀」に相当する。

 この事が意味するのは主戦場が京田辺市だけに限らず八幡市、枚方市も、との可能性があると推察できる。

京田辺市の近鉄新田辺駅で下車し、河原公民館の近くに従来から「伽和羅(かわら)古戦場跡」との石碑が古くからあったが、近年になり立て看板が京田辺市教育委員会により作られ、「八幡市の正法寺の古文書により古戦場は八幡市の甲作郷(かわらごう)」と説明されてある。

 田中淳一郎氏(京都府立山城郷土資料館)の「八幡市正法寺文書調査のなかから」によると「甲作郷の位置について」の調査の結論として、「石清水八幡宮の南東一帯が甲作郷である」と報告されている。

【「男山考古録」には、志水町の北側の神原の地を昔は「河原」と読んだと記され、神原の東辺を現在でも河原崎と呼ぶことも注目される。(『日本書紀』大山守命の乱でも、同じく)、「訶和羅」を田辺町河原にあてているが、宇治で水死した者が、宇治川を淀まで下り、逆に木津川を田辺まで遡るということがあるのだろうか。…この点、「かわら」を八幡付近と解すれば矛盾はなくなるのである。
正法寺文書と考え合わせると「甲作郷」は、石清水八幡宮の南東部一帯、現在の八幡市八幡付近にあった郷名と結論することができよう。そして田辺町河原付近は「嶋郷」の地とするのが妥当であると考えられる】と結んでいる。この事は「古事記」の最終部分とぴったり一致する。

なお当件を要約した森浩一氏の「記紀の考古学」には明確に以下のように記述されてある。

文章そのままに記述すると、

【武埴安彦の乱の戦闘は、今日流にいうと奈良と京都の境の丘陵にはじまり、木津川ぞいには羽振苑(京都府精華町祝園)、かわら(八幡市清水井にあった甲作)、最後が北河内の樟葉である】とある。          

下図は八幡市、枚方市を通過する律令時代に制定された五畿七道(律令制下の地方行政区画。都に近い大和・山城・河内・摂津・和泉の5国を畿内とし、他の諸国を東海・東山・北陸・山陽・山陰・南海・西海の7道に分け、都から各道別に道を通じた)の一つの山陽道の図である。

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 京田辺市の岡村(地名)付近で奈良から来た道は山陽道と山陰道と二つに分かれる。

 その道に沿って古墳が集中しており、前回に説明したように、その美しさ、偉大さを誇示できるよう皆横向きに配置されてある。さらに進み枚方市に入ると継体天皇樟葉宮地と言われている交野天神社と鏡伝池(貴族の舟遊び場)の間(元山城郷土資料館学芸員の奥村誠一郎氏によると、古墳時代からこの小道があった。との事です)を抜け、八幡市の志水廃寺と同様に西山廃寺のそばを通り、久修園院を抜けて淀川の渡し場(後の山崎橋)に至る。


参考資料
記紀伝承と考古学 佐古 和枝    朝日カルチャーセンター
記紀の考古学   森 浩一     角川新書  
日本書紀(一)           岩波書店
古事記               岩波書店
古墳から時代を読む 奥村 誠一郎  


by y-rekitan | 2025-05-30 19:00 | 八幡の古墳
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