芭蕉の魂魄 128号




心に引き継ぐ風景・・・(59

芭蕉の魂魄「狐川の渡」を通る
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「淀川両岸一覧・狐渡口」 大阪市立図書館デジタルアーカイブ

 元禄七年(1694)十月十二日、芭蕉は南御堂前花屋離座敷で亡くなった。遺言通り大津の義仲寺に葬るため、亡骸をまず平底の高瀬舟に乗せ、八軒屋では物打かけ、長櫃に入れて、あき人の用意のように拵え、二十石舟にかきのせた。

 御堂前から60㎞離れた義仲寺に亡骸を運ぶことは尋常ではなく、商人の荷物のようにカモフラージュする必要があったのである。淀川には船番所があり川﨑、平田、枚方、橋本、淀の五ヶ所で、舟の監視、積荷の検閲も行っていた。最後の逢坂の関所はどのように通過したのだろう。門人達には困難な搬送を可能にするだけの力のある人物が多く居た。後に上田秋成が「奥の細道」の旅を大名旅行と揶揄した風景を彷彿とさせている。

昭和三十七年(1962)山口誓子は守口に住む南画家直原玉青の依頼で次の句を詠んだ。「夜舟にて魂魄通る枯洲原」芭蕉の遺骸が遺言通り、淀川守口の枯れすすきの生い茂った浅瀬を遡る姿に思いをはせた句である。

『花屋日記』に「八幡を過る頃、夜もしらじらと明はなれけるに」とある。芭蕉の亡骸を乗せた二十石舟は「狐川の渡」で夜明けの洲原に浮かんだ。芭蕉は生前、八幡宮を訪れたことはないが、死して魂魄が八幡を通過した。俳諧の光を失った門弟十人の嘆きと共に袖(そで)寒き舟はやがて伏見京橋に着く。

(文と写真 谷村 勉)空白


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by y-rekitan | 2025-07-29 23:40 | 心に引き継ぐ風景
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