石清水八幡宮と山麓の駅 128号

石清水八幡宮と山麓の駅」

野間口 秀國(会員)

 
はじめに

 「隣の芝生」と題して、会報第116号の京田辺市編を皮切りに、約1年半に亘り八幡市に隣接する7つの市や町での出来事や歴史に関することがらなどをシリーズで報告させていただきました。第116号以降は、第119号で大山崎町、第120号で島本町、第121号で久御山町、第122号で枚方市、第123号で城陽市、第125号で京都市伏見区淀のあたり、を取り上げました。出来栄えはさておき、身近な読者より「そろそろ八幡のことを書いたら」との意見をいただきましたので、本号では表題のテーマで書いてみました。




石清水八幡宮と麓の駅

 石清水八幡宮の由緒について、「国宝 石清水八幡宮」と題する同宮の案内チラシに、 “平安時代初め、清和天王の貞観元年(859)、南都大安寺の僧・行教和尚は豊前国(ぶぜんのくに)(現在の福岡県東部と大分県北西部)宇佐八幡宮にこもり日夜熱祷を捧げ、八幡大神(はちまんおおかみ)の「吾れ都近き石清水男山の峰に移座して国家を鎮護せん」とのご宣託を蒙(こうむ)り、同年男山の峰にご神霊を御奉安申し上げたのが石清水八幡宮の起源です。そして翌貞観二年(860)、朝廷の命により八幡造の社殿(六宇の宝殿)が造営され、四月三日に御遷座されました。” と書かれています。 (転用終わり。) また、ケーブル八幡宮山上駅傍の「石清水八幡宮案内絵図」の説明文には以下のように書かれてあります。(原文のまま) “ 

・・・(略)・・。 以来、朝廷や貴族、武家の棟梁である源氏の信仰が厚く、千年以上に渡り石清水八幡宮を参詣し、社殿や堂塔を寄進しました。山腹には「男山四十八坊」といわれた僧坊が所狭しと建てられて、山のふもとには門前町が栄えました。 (以下省略)“

 上述のように八幡大神は男山の峰に移座なさり、山上には本殿をはじめとする御社殿の建物群を見ることができます。今日では車で直接山上部へ行けるようになり、またケーブルカーで山上駅まで登れますが、古くは麓から歩いて上るのが一般的であったようです。本号では山上を目指す、麓の3つの駅(橋本駅、ケーブル八幡宮口駅、石清水八幡宮駅)について書きたいと思います。

橋本駅について

 なぜ橋本駅が? そう思われるかも知れませんが、橋本駅はれっきとした山上への起点の駅と言えるのではないでしょうか。橋本駅は京阪電鉄が大阪・天満橋と京都・五条を結んで営業を始めた当初の明治43年(1910)4月から存在する駅であり、駅から境内へ向かう道筋の複数の電柱に案内表示が設置されています。表示に従い歩を進め、住宅地を抜け、さらに男山レクリエーションセンターを左手に見ながら進めばほどなく到着します。このルートは石清水八幡宮の摂社である「狩尾(とがのお)社」近くを通るので、古くは「狩尾道」と呼ばれていたようです。どちらかと言えば健脚向きと言えるかもしれません。
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境内への案内表示

 また、このルートについては、古くから八幡市橋本東原にある「猿田彦神社」(本宮は三重県伊勢市・全国に二千余社あり)との関りについて述べる必要があると思います。以下の記載内容につきましては会報第120号の村山勉氏による報告、「猿田彦神社と猿田彦大神」の一部を引用させていただきます。

 曰く、 “猿田彦神社の主祭神「猿田彦命」はニニギノミコトの天孫降臨の際に道案内をしたことが日本神話にあると伝わっています。宇佐神宮を発たれて男山に移座される時に橋本の川向の山崎にて一夜休憩され、翌朝出発されたところ、道中で猿田彦神が「男山の峰にお鎮まりになるとお聞きし、道先案内として参りました」と申され、大神様をご案内されました。村人がこの話を知り、出迎えたこの地に祠を建ててお祀りし、今日に至っています。 (引用終わり。) 上述のように、鉄道の開通に先立つこと千年以上前に、山崎から橋本を経由して男山に向かわれたことが伺えますので、麓の駅の一つとして「橋本」を外すことは出来ないと思われます。

 そして今一つ、明治10年(1877)3月、淀川の対岸に旧国鉄の東海道線が開通しました。開通後、まさにこの橋本ルートを後押ししてくれるような唱歌がありますので歌詞を記して紹介したいと思います。鉄道唱歌・東海道篇、第54番がそれです。  “山崎おりて淀川を わたる向うは男山 行幸ありし先帝の かしこきあとぞ忍ばるる” 

 “汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり・・・” と歌われたように、新橋を出た列車は京都を過ぎて山崎に止まり、そこで列車を降りて渡し舟で淀川を渡ると橋本に着きます。 歌詞にある先帝は、孝明天皇です。

ケーブル八幡宮口駅について

 麓と山上の二駅(ケーブル八幡宮口とケーブル八幡宮山上)だけで、運転時間もわずか約3分の路線が京阪電鉄に属するのか、との疑問がありましたので京阪電鉄さんに確認しましたところ、「ケーブル線は鋼索線という名称で弊社の一路線です」と教えていただきました。二駅だけですが間違いなく京阪電鉄の営業路線の一つです。京阪電鉄には、淀屋橋・三条間の本線をはじめ、京津線、鴨東線、交野線、宇治線、中之島線など複数の路線がありますが、加えてこの「鋼索線」が存在しているのです。

 ところで、麓と山上を結ぶ鋼索線は、計画時には3つのルートがありました。八幡市誌にそれらの概略が書かれておりますので紹介したいと思います。 1つ目。 大正10年(1921)9月の最初の計画案は、「当時の八幡駅と橋本駅の中間点を起点として、男山の西から南門付近に至る約1500mのケーブル線」でした。市誌にあるこの説明から、起点は麓の八幡大谷にある常昌禅院付近で、書かれた約1500mとの距離から、山上にある石翠亭付近を目指したのではないか、と想像できますが・・・、具体的な場所などは書かれておりません。

 2つ目は、同年12月の、当時の「京阪本線の八幡駅を起点に谷不動の西側山腹を通り本宮社殿近くに至る約825mの路線」ですが、これについても詳細なことは書かれておりません。

 3つ目の計画案。 これがまさに現在運行に供されている路線なのです。すなわち、「京阪本線の八幡駅(計画当時の駅名)を起点として、神應寺丘陵を隧道で抜け、本宮北門直下へ至る(現在の鋼索線と同じ)約483mの路線」です。 これら3案を比べて見ると、路線長がそれぞれ約1500m、約825m、483mと、計画案ごとに短くなっていることも分かります。計画に沿って各案を検討した結果と思われますが、それによって建設費用を削減でき、維持管理費用や乗車料金等の低減にも大きく寄与できたのではないでしょうか。

 鋼索線の麓駅の名称等の変遷を以下にまとめてみますと、(1)大正15年(1910)6月22日、男山索道株式会社により開業、時の駅名は「八幡口」、(2)その後、昭和3年(1928)5月28日、社名は男山鉄道に変更され、戦時中には金属類の資材供出要請に伴い一度は廃止される憂き目を見ました。 昭和30年(1955)12月3日、京阪電気鉄道の鋼索線として駅名を「男山」として改めて開業、(3)昭和32年(1957)1月1日、鋼索線の男山駅を「八幡町」に名称統合して本線駅と統合、(4)昭和52年(1977)11月1日、市制導入に伴い駅名を「八幡市」に変更、(5)そして令和元年(2019)10月1日、駅を再び京阪本線から分離して、駅名も「ケーブル八幡宮口」へ変更されました。 整理すると、順に「八幡口」、「男山」、「八幡町」、「八幡市」と変り、現在では5つ目となる「ケーブル八幡宮口」となりました。
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麓の駅で発車待ちの「あかね」

 また、この路線の特徴は、ケーブルの両端に繋がれた「あかね」(01号車・あかね色)、「こがね」(02号車・こがね色)と名付けられた二つの車両が、運行時に路線の中央付近(?)にある複線部分ですれ違うことです。また、令和元年(2019)6月に車両のデザインが一新され導入された「あかね」、「こがね」の車両の正面に入るシンボルマークが微妙に異なることにも興味を惹かれます。

 車窓からは、春・夏にはモミジの青が、秋には色づいた紅葉が楽しめますし、更に木津川・宇治川に架かる御幸橋が、そしてその先には京都盆地が望めます。なおこの項の最後に、昭和53年(1978)9月に、当時の皇太子ご夫妻がご乗車されたことは記しておきたいと思います。

石清水八幡宮駅について

 手許にある 『全国鉄道旅行』 昭文社(2017年4版)の京阪神圏の鉄道路線図を見ますと、行政上の市の名称が駅名として使われている駅は、南海本線の和歌山市駅、南海高野線の大阪狭山市駅、阪急電車京都線の高槻市駅、茨木市駅、摂津市駅などが有ります。同じく京阪電鉄の路線を見ますと京阪本線には守口市駅、門真市駅、寝屋川市駅、枚方市駅、(八幡市駅・2017年版に残る)などが、また交野線には交野市駅が有ります。他の私鉄に比較すると京阪電鉄には多いような気がしないでもありませんが、現在では八幡市駅は存在しません。ところで現在の駅名(石清水八幡宮)に代わったのはいつだったのでしょうか。変更の前々日(2019.9.29)に撮影した、写真3がそれを教えてくれます。
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「石清水八幡宮」駅への名称変更案内表示

 橋本駅は京阪電鉄が営業を開始した明治43年(1910)4月から存在する駅であることは既に書きましたが、同様に現在の「石清水八幡宮」駅も当初から存在する駅でしたが、駅名は「八幡」でした。 その後、昭和14年(1939)12月25日、駅名が「石清水八幡宮前」に改称されました。改称の日がなぜか12月25日であったのは興味深いことでしたが、現駅名とは一文字違い( 「前」 の有り無し)です。さらに、昭和23年(1948)1月1日、「八幡町」に、昭和52年(1977)11月1日、八幡町の市制施行に伴い「八幡市」となり、そして令和元年(2019)10月1日、本線と索道線の駅の分離に伴い、京阪本線の駅名は現在の「石清水八幡宮」へと改称されました。 改称を知った当時には、駅名から八幡市の文字が消えることに一抹の寂しさもあり、ふと「昔の名前で出ています・・」との歌詞も浮かびました。 しかし、今では寂しさも消えて「伏見稲荷」、「枚方公園」、「東福寺」駅などのように、この駅名は、ここで降りると「石清水八幡宮」があるからだ、と思えるようになりました。

おわりに

 このように、生活圏内にあり、日頃からお世話になっている駅を改めて見つめ直すと、麓にある3つの駅には、それぞれの歴史があることが分かって興味深かったです。 最近では「橋本」駅周辺がかなり変わっていること、八幡の玄関口「石清水八幡宮」駅前の再開発のグランドデザインづくりが始まったこと(京都新聞・2025.6.24)もお知らせして、本稿を終わります。






(令和7年6月26日) 一一

参考書籍及び資料等:
『八幡大神』 田中恆清監修 戒光祥出版
「国宝 石清水八幡宮」 (案内チラシ)
「石清水八幡宮 案内絵図の説明」 (山上駅傍)
「石清水八幡宮 参道ケーブルのあゆみ」 (麓の駅構内)
京阪電車 お客様センター ・ 『全国鉄道旅行』 昭文社(2017年4版)
『日本唱歌集』 堀内敬三・井上武士編 岩波書店
『八幡市誌・第三巻』 ・ 会報第116、119~123、125号





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by y-rekitan | 2025-07-29 23:20 | 隣の芝生
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