◆八幡の歴史を探究する会 129号

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 本会では、2010年より京都府八幡の歴史についての探究と共有を目指して、講演会や歴探ウォークの開催、会報の発行等の活動を積極的に続けています。


    ◆おしらせ         2025年10
# by y-rekitan | 2025-10-10 23:00

伏見宿の芭蕉を歩く 129号




心に引き継ぐ風景・・・(60

東海道54次、伏見宿の芭蕉を歩く

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旧尾張藩伏見屋敷門前の江戸時代の道標

 伏見宿の中を走る旧東海道に「京・大津(みち)」と書かれた江戸時代の道標があった。広大な旧尾張藩屋敷跡の門前に建つ。現在は伏見板橋小学校正門となる。道標東面は「左り ふねのり(口)」とあり、伏見港を案内している。

 元禄七年(1694)十月十二日、大坂南御堂前『花屋貸座敷』で客死した芭蕉(五十一歳)の亡骸は遺言通り、大津の義仲寺に向かう。翌朝、伏見京橋で舟を降りた其角等門弟十人は、芭蕉の長櫃と共に大津迄、20㎞の道程を急いだ。

 伏見宿の道筋の記録はないが、整備された東海道を通ったとみるのが順当だろう。東海道分間延絵図通りに歩くと、京橋から下油掛町を駿河屋、油掛地蔵を左に見て次の中油掛町角を左に伯耆町へ入り、大手筋京都銀行横を一直線に北上、やがて鷹匠町の金札宮、大黒寺を抜けると正面に大きな道標(写真)が見える。

 右に道をとって一つ目角を左に曲がり、下板橋町を北へ向かい指物町から右に石屋町へ、そこから両替町・鑓屋町・京阪墨染駅・大亀谷へと向かう。藤森社分れ道までは約4㎞、1時間の道のりである。

 下油掛町西岸寺(油掛地蔵)では貞享二年(1685)二月、芭蕉(四十二歳)が任口上人を尋ねた際「我衣にふしみの桃の雫せよ」の『野ざらし紀行碑』が残る。 

 途中、鷹匠町の金札宮に対面する民家の庭に、風に揺らぐ大きな芭蕉の葉に気付いた時、門弟達と共に歩いた「芭蕉最後の旅路」の風景を見た。

(文と写真 谷村 勉)空白


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# by y-rekitan | 2025-10-10 18:00 | 心に引き継ぐ風景

再読織田信長文書 129号

《講演会》


再読織田信長文書
 


鍛代 敏雄  東北福祉大学大学教育学部教授
石清水八幡宮研究所主任研究員


はじめに

 今回は、計7通(正文5点・写2点)の織田信長文書について、古文書学と中世文書のアーカイブズ(記録史料の保存と管理)学の観点から、あらためて解説した。所蔵・管理の問題、正文の祐筆や印文「天下布武」の朱印・黒印、信長の官位昇進と書札礼の異同、刊本情報の補訂、加賀前田家からの借用・筆写および買受願いにたいする「御断」の文書など、多面的に報告した。なかでも永禄12年の八幡捴(総)郷宛て「撰銭」朱印状については、破損箇所の復元や内容の再検討、また同年禁制写は交通拠点としての「橋本」の歴史地理上の重要性などについて論説した。


Ⅰ 石清水八幡宮所蔵の織田信長文書(朱印状と黒印状)

1)石清水の信長文書

〔信長文書一覧〕のとおり、石清水八幡宮が所蔵する織田信長文書は、正文の朱印状4通(①④⑥⑦)、正文の黒印状1通(⑧)、朱印状写が2通(②⑤)ある。なお、現存していないが、紛失の朱印状1通(③)が想定される。①の撰銭令は〈八幡総郷〉宛、②の禁制は〈橋本〉宛で、石清水八幡宮の神領境内都市に発給された文書である。⑧の正遷宮史料の外は、狭山郷および木代庄の所務関連の裁許や安堵にかかわる文書である。①から⑤までが、将軍足利義昭・信長連合政権時代、⑥から⑧は信長天下時代ということができる。

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2)信長の朱印状と黒印状についての説明は割愛、当日のレジュメを参照されたい。朱印は3種(楕円形〈A〉馬蹄形〈B〉双龍円形〈C〉、黒印は1種、印文「天下布武」。石清水所蔵の印影をならべて比較すると、黒印は若干彫りが異なるが、朱印の馬蹄形印〈B〉と同型の印章を用いていることがわかる。

3)官位昇進に関し、信長の場合を見ると、将軍義昭を追放した翌天正2年(1574)3月18日参議・正四位下(従三位)に昇進(下野した義昭をのぞけば武家公卿は信長のみ)、同3年11月4日権大納言・従三位、7日右近衛大将、4年11月13日正三位、11月21日内大臣(義昭の官位を超す)、5年11月20日右大臣・従二位、6年正月6日正二位、4月9日右大臣・右大将を辞官。天正10年5月3日三職(関白・太政大臣・将軍)推任の勅使派遣、翌6日面会、5月29日上洛、本能寺に入って、光秀の変で6月2日自刃。信長の書札礼の転換点は、やはり天正2年の公家成から確認できる。顕著な事例としては、家康宛て書状が等輩(同等)から下様(下等)へとかわった点。また、石清水の場合では、④の元亀2年朱印状の賞翫(上等)から⑥の天正3年朱印状および⑧の天正8年黒印状は下様へと、書札礼が明らかに変化している。


Ⅱ 正文(④⑥⑦⑧)の古文書学的検討
  (釈文や内容などの詳細はレジュメ参照

④元亀2年(1571)領知裁許朱印状 田中御門跡(長清)雑掌宛て(田3-1155・杉雑10-4)折紙・楮紙(強杉原)、巻子装

*折紙の六折(朱印〈B〉の映りと「ももけ」に注意)。付年号・宛所は「書所上」「御門跡」→賞翫(「宗五大艸紙」〈大永八年正月日 下総入道宗五判〉『群書類従』22輯)。右筆は武井夕庵、二位法印・号は爾云、妙伝、坊主衆。書止文言「仍執達如件」=奉書形式:室町将軍家御教書(管領署判の奉書)と等しく、畿内幕府勢力圏における将軍義昭の政治(上意)を信長が執務している文書形式、信長領国(尾張・美濃・伊勢)に発給なし。註)江戸期、前田綱紀は「貴命」をもって本④号文書も所望するが、田中家側は「御断」したことがわかる(天和3年(1683)3月12日前田家所望目録「覚」「田中家文書」槇11、未刊)

⑥天正3年(1575)領知安堵朱印状 田中殿(長清)宛て(田3-1258・槇13-1)折紙・楮紙(強杉原)

*朱印〈B〉型、押紙「信長公朱印」「田中社務」、裏打有。右筆は楠正虎(入道号「長諳」)、式部卿法印、宮内卿法印=松井友閑、二位法印=武井夕庵らとともに坊主衆。付年号・宛所「田中殿」は「書所下」で「殿書」草書、上所・脇付なし、書札礼は下様。書止文言「仍状如件」は直状形式の書下で信長の上意下達様式。

⑦(天正7年ヵ1579)朱印状 塩川長満宛て(菊6-417号・い47)折紙・楮紙(強杉原)  

*折紙の八折(袖の朱印映りと「ももけ」に注意)。朱印〈B〉型、右筆は楠正虎。書止文言「候也」は直状形 

 式。年欠・宛所は「書所下」、「とのへ」の草体は「下様」(仮名書「とのへ」となれば書かないことと同様の下様「宗五大艸紙」) 

⑧天正8年(1580)黒印状 善法寺(堯清)宛て(菊-418・い20-1)折紙・楮紙(強杉原)

*黒印は朱印〈B〉と同型、彫に若干差異が認められる。右筆は楠正虎(長諳)。書止文言「謹言」、書状形式の「下様」、宛所の「善法寺」は「書所下」で、脇付なし。文中の宮内卿法印(松井有閑)は信長の寺社奉行(石清水関係の史料は、天正3年8月14日、同7年12月27日造営につき山上供僧衆の相論、社内の調停)

 

Ⅲ 永禄12年の朱印状(①②)の歴史的な意義

①永禄12年(1569)3月16日八幡捴郷宛て織田信長朱印条目(精撰追加条々)(大日本古文書「菊大路家文書」333号・続叢書3〈い53-1〉) 一巻「石清水八幡宮関係諸事文書」 一通(2紙・続紙)。法量は縦33.㎝・横95.5㎝の続紙、破損あり。素紙は楮と雁皮の混成紙の「斐紙風」と呼ばれるが、斐紙(雁皮)で良い。刊本「菊大路家文書」所収だが、当時の社務職は善法寺堯清だから「善法寺家文書」として保管されたもの。同じように、慶長5年9月19日八幡八郷宛て徳川家康禁制朱印状〈田3-1264号〉は、社務職の田中秀清によって「田中家文書」として相伝された。右筆は明院良政(信長の側近・奉行、村井貞勝らとともに京都の諸政、禁裏・幕府との交渉に携わる。元亀元年姉川合戦の軍忠が終見、以後未詳)。印署は日下に「弾正忠」、朱印〈A〉の楕円形で印文はもちろん「天下布武」。


〔『大日本古文書』の修正点〕(奥野高広『織田信長文書の研究』に釈文なし)修理された現在の正文は、大日本古文書の編纂時よりも残画が見えるので、他の撰銭令も参考し、以下のように復元することができる。
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〔永禄12年・信長撰銭令一覧〕(『中世法制史料集 第五巻 武家法Ⅲ』参照)は下記のとおりである。

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〔撰銭令の歴史的な背景〕は、慢性的な銭貨の不足、倭寇の鎮静化、鋳造地を明政府が直接掌握、東南アジアへの銭の流出といった要因が想定される。永禄12年の一連の信長撰銭発令の目的は、同年正月の信長上洛に従軍した8万人におよぶ大軍団、新将軍・義昭の二条城普請、禁裏普請にともなう大規模な労働者の在京により、悪銭が流入し、その使用・取引の混乱を解除することを目指したものである。

〔撰銭令が出された「場」の特性〕について、とくに留意すべきは、Cの「分国中」表記がA・Bには見えない点。Cⅳの熱田宛てからもわかるように、畿内だけでなく織田分国内に撰銭令が発布された(例、「信長分国は皆々相定む由なり」『二条宴乗日記』1569年3月23日条)。また、本文書Cⅲとその他Cⅰ・ⅱ・ⅳの異同については、全7か条、条文はほとんど同文だが、相違点はCⅲの第7条に「町人之年寄中として」とある点、境内都市〈八幡〉では、安居会の頭役を奉仕する本頭神人らが殿原衆と呼ばれ、自治をつかさどっていた有徳神人(侍身分)、町ごとの年寄中「惣町」(惣中)の年寄中の自治が確かめられる。

石清水八幡宮寺神領境内都市〈八幡〉は、神と仏と人が融合する「霊地」(神聖不可侵な平和領域、アジール

(Asyl 独語)として、公武公権に保護された、まさに≪蔵の街≫として発展した。「八幡捴郷」(内四郷〈金振・山路・常盤・科手〉と外四郷〈美豆・際目・河口・生津〉)は、石清水八幡宮寺を宗教領主とする「守護不入」の神領境内都市〈八幡〉として、公武(朝廷・幕府)の権力から認知され、金融資本を蓄積する物流拠点、南山城の中核都市として評価されていたから、撰銭が発令された。

②永禄12年(1569)3月日八幡橋本宛て織田信長禁制朱印状写(「八幡本頭社司(士)覚書」所載)出典「八幡本頭社司(士)覚書」:袋綴・冊子、素紙は斐紙(雁皮)、法量は縦8・5㎝、横18・8㎝、紙数142枚(表紙・白紙共)、小型の横帳、ほぼ同筆(達筆な小文字墨書)、表紙は表・裏共に白紙、外題・内題・奥書ナシ、内容は年中行事・仏神事・祭祀儀礼・服忌例・社司らの書札礼、山上の本宮・護国寺など神社・堂塔伽藍、境内四郷惣町(二四町・二村)、神人の奉仕役・神職、八幡の御朱印数、助郷役・国役、木津川普請など多岐、もっとも古い年次が永禄12年、終期が天保15年(1844)、江戸末期、某の備忘録(覚書)、筆録者の身分は社司(士)(「石清水八幡宮社司安居本頭神人」「八幡住人侍分共云」(慶長5年指出帳、宮史6-524頁)橋本町・橋本等安ら6名)、橋本の記述が散見、橋本町の自治を主導した年寄衆、史料の流出状況から旧「落合家文書」と推測される(釈文は当日のレジュメおよび拙稿「新出の織田信長禁制写」『交通史研究』104号)

〔文書の内容〕宛所の「八幡橋本」は、石清水八幡宮寺神領境内「八幡」の「橋本」のことで、橋本の年寄衆が幕府奉行人や信長奉行人と交渉して獲得した禁制の可能性が高い(例、橋本満介(等安)-里村紹巴-細川藤孝)。八幡捴郷・八幡惣中宛て、「四郷中」宛て、「城州河口郷」宛ての禁制、「生津郷」「美豆惣中」などの郷名の単独表記は確認できるが戦国織豊期、町単独宛ての禁制は八幡内では他に未確認、橋本の自治と自立が評価できる。書止文言「仍執達如件」については、京・山城を中心とした将軍義昭が統治する「天下」の領域においては、信長禁制の書止文言は「仍執達如件」の奉書形式、将軍義昭を推戴した≪義昭・信長連合政権≫といえよう。「八幡本頭社司(士)覚書」同丁・後文には「此御制札如何訳候也、今ハ無之候」「御制札当時金橋ニ在之宝暦四五年之比大風ニ而吹落損シ」と見えるが、信長の禁制は木札の場合は朱印ではなく、書判=花押を据える。写しだが「朱印」とあるので木札ではない。正文は、橋本の年寄の家中で別に保管されていたと考えられる(例、天正15年5月17日八幡山下町人中宛て秀吉朱印状写〈菊-拾遺33号、『続叢書二』「梛」五-②〉は八幡惣中代官の片岡道二が所持、橋本の落合忠左衛門も秀吉方代官、慶長期にともに闕所処分となる)。なお、橋本南端の金橋(三国橋)に「守護不入」の鉾木(「男山考古録」『叢書』1一438頁)、小金川が山城・河内の国堺である。

〔文書の背景〕永禄12年正月、三好三人衆が将軍足利義昭のいる本圀寺を攻囲、その2ヶ月後の禁制、第1・2・3・5条は、軍勢の違乱行為を抑止するための規定、第3条に寄宿禁止と橋本内の通路を確保する条目、宿場町の公道の維持と町内街区の安全保障策(他の信長禁制では未確認)、第4条の国質・所質は市場法(元亀3年3月日摂津尼崎内長遠寺門前市場宛て禁制〈国質・所質・付沙汰の禁止〉)、第3・4条ともに、交通・流通にかかわる都市的な場「橋本」側からの申請により付帯、橋本の町衆・商人にたいする所質への安全を保障している。

〔橋本の歴史的景観〕史料上の表記に注目すると、南北朝期の「橋本津」「橋本関」、室町後期・戦国期の「橋本渡」(「灯油通路境内橋本渡」)、「過書廻船」、織豊期の「橋本惣中」、江戸前期の「橋本町」「橋本宿」

日本中世、質と量ともに最大の物流をになった内陸水路としての淀川水系における、石清水八幡宮神領境内都市橋本は、公用年貢の搬入地としての河津から発展し、淀川の廻廊における水陸両路併用の宿・町へと発展、中世的な関所の設置や対岸への渡し場といった立地は、石清水八幡宮寺の宗教的な権威に守護された、神領境内都市〈八幡〉のなかでも独自性が強く、橋本惣中の自治組織と経済力を基盤とし、自立的に展開、「八幡橋本」宛て信長禁制写は、京都の義昭・信長連合政権が「橋本」の地勢的な重要性を評価したものと考えられる。


おわりに

原本(正文・写・案)調査の重要性はいうまでもない。歴史学の視野をひろげるためにも、いま新しい古文書学や史料論が必要である。古文書・古記録、典籍・聖教類を含めた、中世史料のアーカイブズの観点から、前近代にさかのぼった文書の修理・装丁、文書管理、文書保存、記録化(目録や写本作成)、前近代の編纂史、近現代の編纂史を再構築する研究が進められている。いま、まさに歴史の全体史を創造するための総合的な基盤調査・研究のあり方が問われている。

石清水八幡宮所蔵の古文書・古記録・典籍類は、正文・案文あわせて約1万点近くある。八幡の歴史を探究する道は、歴史の評価をめぐりながら、永久に続くものと確信している。地域に住む方々による、新しい地域史の発見や創造に期待している。


 
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# by y-rekitan | 2025-10-10 10:00 | 講演会・発表会

尾張藩のルーツは八幡にあり 129号

尾張藩のルーッは八幡(京都府八幡市)にあり



                        丹波紀美子  (会員) 

 この表題は平成13年か14年頃、松花堂ボランティアガイドと発足したばかりの八幡観光ガイドボランティアの合同研修会で徳川美術館に行った時の美術館のキャチフレーズでした。多分八幡から見学に来るということで急遽作成されたものかも知れなかったが、私たちは何とも言えない親しみを感じたのを覚えています。


駅前の情報ハウスでガイドとして出務している時に名古屋の方がお越しになることがあるが、その時に「名古屋藩のルーツは八幡にあり」とお話しすることがあり「エエッ!そうですか?」と殆どの方は不思議に思われるようですが、中には「尾張藩初代藩主の母が八幡出身だからでしょう」とズバリお答えになったりします。

尾張藩のルーツは八幡にあり 129号_f0300125_17093157.gifそれでは名古屋の市章は?と尋ねると「丸八マーク」と皆さんがおっしゃいます。〇の中に八の字が入っていて親しまれる市章の様です。八幡市の市章は丸竹の中に二羽の鳩が向かい合っての八幡の八の字です。八幡市のホームページを開くと【町村合併10周年を記念し、広く公募して制定しました。周囲の竹は、伸び行く若い力と困難に打ち勝つ根強さを、中央の2羽の鳩は、八幡市の頭文字である「八」を形どると共に、平和と友愛の精神を表現しています。竹と鳩は、ともに本市にゆかりの深いものです。昭和39年(1964)10月1日に制定、昭和52年(1977)11月1日、市制施行に伴い町章を市章としました】

(二羽の鳩は宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ八幡神を勧請した際、白い鳩が道案内をしたという伝承に由来し、以来鳩は神様の使いとして尊ばれている。)

尾張藩のルーツは八幡にあり 129号_f0300125_18242438.gif名古屋市の市章は「〇に八の字」から「まるはち」と呼ばれ、名古屋市民に親しまれています。尾張徳川家の合印(あいいん)として使用した「〇に八の字」印に由来し、明治49年(1907)10月名古屋市の市章として決議された。名古屋市会史には【徽章(きしょう)の丸は無限に、円満に膨張する力を象徴し、中の八は支え拡がる形であり、発である】(名古屋市ホームページから)

※合印(あいいん)とは帳簿、書類を他の帳簿、書類と引き合わせたしるしに押す判

何故、尾張徳川家は八の字を使って合印としたのか? 色々考えてみたいと思い、初代徳川義直や母の亀女のこと尾張家の裏話など、知られている事柄かも知れないが、その歴史などを調べて丸八との関連を推察みたいと思います。

亀女は八幡正法寺・志水宗清の娘で天正4年(1576)に生まれ、石清水八幡宮に寓居していた竹腰助九郎正時(先祖は美濃斎藤氏の家来)に嫁ぎ天正19年(1591)1月21日16歳で竹腰正信を出産した。(正信は後に義直の御付家老として美濃今尾3万石の城主となる。)亀女は夫と死別? 離別? して志水家へ戻った。竹腰正信は祖父,宗清の元で11歳迄養育された。


亀女は光忠を産んだ同じ年の文禄3年(1594)18歳の時、徳川家康に見初められ側室に入った。文禄4年(1595)3月13日家康の八男仙千代を伏見城で出産し、家康は子どものなかった平岩新吉の養嗣子とした。しかし慶長5年(1600)2月7日6歳で夭折してしまった。大坂の一心寺へ葬られた。

兄の忠宗は亀女が側室となると家康に仕え、後に名古屋大高城主1万石の城代家老となった。

家康の家臣であった山下氏勝〈1568~1653〉は義直の守役となり、亀女の妹と結婚。後に氏勝は2代藩主となる光友の認知に奔走。名古屋市史によると義直が側室のお尉の方の懐妊を認めなかったことから、藩内の意見が割れた。妊娠を見つけたのは義直の乳母で春姫を憚って氏勝に知らせた。義直は頑として我が子を認めなかったが、義直の守役だった氏勝はもし義直の子どもでなかったら自分は死んでも構わないと言って、ようやく義直も認めたという。殿様の子として成長儀礼は何一つされておらず、これらの節目は全て氏勝が賄ったことに対して、相応院は江戸にいて感謝をしている。春姫の養子として決着がついたという経緯もあった

※御付家老と城代家老について
 御付家老…☆徳川幕府初期、将軍家血筋の貴公子が藩主になった際に将軍家より直接命を受け付属させた家老

☆将軍家から徳川御三家へ遣わした御付家老は幕府と藩の双方から家禄を受けていた。例 尾張家、成瀬正成。紀伊家、安藤直次。水戸家、中山新吉などいずれも家康の直参だった。

城代家老…城主の留守中代理として城を管理する。

慶長5年(1600)11月28日、家康の九男で後の尾張大納言徳川義直を伏見区大亀谷の清凉院で出産(辞書などには大坂城西の丸)義直の幼名は五郎太丸という。
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お亀の方像(17世紀、作者不詳)出典:Wikimedia Commons/PD‑Art


家康は五郎太という名前を付けた由来には「蹴とばしても壊れないような丈夫な道端の石」という意味で「ごろた石」にあやかって付けた。またもう一説には「城壁を築く際に大石、巨岩を積み重ねるが、その間に「くさび」として五郎太石を用いなければならない。その意味でこの子は天下の「くさび」になってくれる。」家康の期待の表れだと考えられる。尚、清涼院の辺りを五郎太町と呼ばれている。『徳川義直と文化サロン』によると幼名は成瀬正成の案によるとも、指物屋清右衛門が宮参りの地名に因んで付けたとも伝えられています

尾張徳川家は初代義直以後、当主の幼名は皆「五郎太」と名付けられている。

中でも5代藩主の五郎太は五郎太のまま数え年3歳で身罷っている

義直の異父兄、竹越正信は慶長6年(1601)11歳の時、母お亀の方に従って江戸で家康に謁見した。慶長6年から10年まで母のお亀の方や家康の子どもの義直、紀州徳川家の祖となる頼宣、水戸藩の祖となる頼房たちと一緒に駿府の家康の側で暮らしていた。

一方義直は3歳にして甲斐城主となり、又後に清洲城主の松平忠吉(二代将軍秀忠の

同母弟で家康の4男)が享年28歳で慶長12年(1607)3月5日に没した為、清洲城主となり、後に新たに築かれた名古屋城主となった。名古屋城は慶長17年(1612)天守閣が完成し、慶長20年(1615)に本丸御殿が完成した。

名古屋城築城には家康は西国、北国大名20家に命じ、所謂天下普請として、その任に当たらせた。

※義直の人柄と彼に関わる人たちについて

尾張藩のルーツは八幡にあり 129号_f0300125_18281171.png 慶長19年(1614)15歳で弟頼宣と共に大坂冬の陣に出陣し、初戦を飾った。冬の陣に出陣する前の慶長18年〈1613〉5月石清水八幡宮宝前正面に竹腰正信は義直の武運長久を祈って石灯篭10基を奉献している。母の亀女も夏の陣が始まる前の慶長20年〈1615〉3月にわが子の無事を祈願して石灯籠1基を献納している。(現在八幡宮神前には20基の石灯篭が設置されているがその内11基は尾張家の竹腰正信と母が奉寄進したものである)

義直は慶長20年(1615)4月12日浅野幸長(長政の長男)の娘春姫と結婚し4日後の16日に大坂夏の陣に参戦した。

 春姫との間には子どもは恵まれなかったが、夫婦仲は非常に良かった。義直は謹厳実直で側室を置こうとはしなかったが、尾張藩存続の為、母親、家臣たち、家康の重臣たちの計らいで公命という形で側室が置かれたといわれている。

春姫は寛永10年(1633)側室の子ども2人を伴って江戸に移るまでは、義直と名古屋城本丸御殿に居住していた.夫婦揃って本丸御殿に居住した唯一の藩主夫妻である。(参勤交代の制度の下、藩主の正室は江戸で暮らすことになる)

春姫は寛永14年(1637)35歳で逝去した。


義直は幼少の頃より家康の儒臣であった林羅山から儒教を学んだ。義直の『手習手本帳』には松花堂昭乗から学んだ『勅撰集の和歌』や本阿弥光悦から学んだ『書状用語の手本』が残されている。(徳川美術館蔵)

 当時の京都には三長者と呼ばれていた角倉家、後藤家、茶屋家があった。このうち義直は角倉素庵と早くから交友関係を持っていた。義直と角倉素庵との橋渡しに一役かったのは林羅山といわれている。

 義直は母を通じて松花堂昭乗を知り、昭乗は近衛家との繋がりが深く、しばしば義直の為に近衛家を通じて禁裏との仲立をして文化サロンの人々を紹介している。この関係から禁裏と幕府を結ぶ役を担っていて寛永3年(1626)秀忠、家光の上洛につき後水尾天皇の二条城行幸のお供をしている。

 義直の青年期、壮年期には寛永文化が昂揚した時期であり、小堀遠州や松花堂昭乗との関わりが深く、尾張藩のお茶道具などの調達などをしている文書が竹腰家に残っていたが現在は徳川博物館蔵となっている。


義直の成人後は藩政を自ら行い,灌漑用水の整備、新田開発など積極的に行って米の増産に努めた。その他検地による税制改革など年貢収納を確立した。又学問や絵画、武道、茶道を好み、家康の形見分けで受け継いだ『駿河御譲り本』に自身で収拾した書誌を合わせた『蓬(ほう)左(さ)文庫』を創設し、決して門外不出にすべからずと現在の図書館のはしりとなる文庫にした。絵画では家康像や母の晩年のふくよかな姿を描いている。義直は松花堂昭乗の絵を高く評価していて、義直の絵の師は伝えられていないが、松花堂の絵画と比較してみると共通点が多い(徳川義直と文化サロンより)。又、儒教を奨励し【孔子堂】の建立や城内に尾張東照宮の建築を進めた。武術では柳生兵庫之介(柳生利(とし)厳(よし)1579~1650…柳生石舟斎宗(むね)厳(よし)の孫)から新陰流兵法の相伝(新陰流第4世を継承)も受けている。


※義直の子どもたち(側室2人、各々男女を出産)

☆長男光友は尾張藩2代藩主となる。寛永2年〈1625〉7月29日生まれ。光友の正室は徳川3代将軍家光の長女の千代姫。光友は父同様に武芸、書道,茶道などに優れた才能があり剣術では指南役の柳生厳(とし)包(かね)〈1625~1694〉より柳生新陰流を学んだ。

☆長女京姫は公家の広幡忠幸の室。寛永3年〈1626〉6月16日生まれ。広幡忠幸は八条の宮智仁親王の第三王子で母は京極常子。京姫は足が少し悪かったが母親に似て美しく和歌、管弦 書画にも優れ、非常に聡明で父義直から溺愛され、婚期を逸したという。


2代藩主となる光友について

義直の長男光友(寛永2年1625生まれ)と家光の長女千代姫(寛永14年1636生まれ)は寛永16年(1639)9月21日に結婚。千代姫数えて3歳、光友15歳であった。何かと将軍家と軋轢のあった尾張家はこれで安泰であると、父の義直、祖母の相応院は胸をなでおろしたのだが、家光はプレッシャーをかけた。「尾張家のたっての望み故、大切な姫君を差し上げるのだ、相応院も大事に守り立てて頂きたい」当時乳幼児の死亡率は非常に高かく、相応院は江戸にいて千代姫を生後間もない時から育てており、これを聞いて非常に悩んだといわれている

家光の娘千代姫は無事成人し、慶安5年〈1652〉3代藩主となる綱(つな)誠(なり)と承応5年1656〉高須藩松平家初代となる次男の義行を産んでいる。又、光友は側室の子どもの3男義昌には陸奥梁川藩所を与えた。そして光友は父が没した後、父が溺愛していて婚期を逸していた京姫を婚約していた幸丸(後の広幡忠幸)と名古屋で結婚させた。京姫は相次いで5人の女子を産み、長女の新(にい)姫(ひめ)(承応3年1654生まれ)は光友の長男で尾張藩3代徳川綱(つな)誠(のぶ)(慶安5年1652生れ)の正室となった。3代綱(つな)誠(のぶ)と新(にい)姫(ひめ)の間には子どもは生まれなかった。京姫享年49歳。他の京姫の子ども4人の娘も伯父の2代藩主光友の養女となって、それぞれ大名家へ嫁いだ

※家光の長女千代姫は元禄6年〈1693〉63歳で死去。夫の光友は元禄13年〈1700〉75歳で彼岸の人になった。


将軍家との軋轢

将軍家と尾張藩との衝突はその前の初代義直のころからあったようだ。『東海史話』より抜粋してみる。寛永10年(1633)家光が病気になり、危篤の噂が流れると、その頃家光には嫡男が生まれておらず、万が一のことがあれば将軍家が途絶えてしまうと思い、義直は急遽江戸に向かった。慌てたのは幕府首脳で、いくら義直といえども許可なく江戸に入ることは許されないことであった。義直はすごすご引き返すが、この時より、「尾張殿に謀反の意有り」と睨(にら)まれ警戒されるようになった。そして又、寛永11年(1634)家光が京へ上がることになり、その帰路、名古屋へ立ち寄ることを義直に告げた。将軍のおなりとなれば家門の誉れ、門や屋敷を新築するのがならい、義直も城内の改修をした。ところが家光は急遽予定を変更し、名古屋城には寄らないことになった。これには義直面目丸つぶれ膨大な費用と手間をかけて御殿を改築したのも全て無駄となった。義直はやり場のない怒りに燃え、こうなったからには幕府に対し籠城して一矢報いようと思い、弟の紀州頼宣にも相談を持ち掛けたが、頼宣の誠心誠意の説得で事なきを得たということである。

 正徳6年(1716)7代将軍徳川家綱が8歳で早世し、秀忠の男系男子が途絶えた後を受け御三家の中から家康の世代的近さを理由に御三家筆頭の尾張家を抑えて8代将軍になったのは紀州徳川吉宗32歳であった。吉宗は家康の曽孫(家康、頼宣、光貞、吉宗)尾張6代藩主継友は家康の玄孫(家康、義直、光友、綱誠(つなのぶ)、継友)で一世代吉宗の方が家康に近かった。この様な事から御三家筆頭の尾張家には将軍の座が回ってこなかった

※尾張徳川家は御三家の当主でありながら熱心な「勤皇家」であった。この思想は尾張家の家訓として受け継がれ脈々と幕末まで受け継がれた。 


相応院と義直の死

※相応院は寛永19年〈1642〉9月16日江戸藩邸で死去。享年66歳。
戒名は相応院殿信誉公安大禅定尼。伝通院で荼毘され遺骨を名古屋に持ち帰り、義直の手で相応寺を建立し埋葬された。

※義直は27歳の時、寛永3年(1626)後水尾天皇より従二位大納言に任命された 
慶安3年〈1650〉5月6日江戸藩邸で鬼籍の人となった。享年51歳

諡号(しごう) 源敬公【二品前亜相尾陽侯源敬公】墓所は2代光友が建立した建中寺と古刹の定光寺(じょうこうじ)


※尾張藩分家高須4兄弟について

尾張藩2代光友と家光の長女千代姫との間の次男義行が高須松平家初代となって10代目を数えた高須義建(よしたつ)は水戸藩主徳川斉(なり)昭(あき)とは従弟同士で義建(よしたつ)の正室は斉昭の姉であった。

その義建(よしたつ)が高須4兄弟の父である。4人は江戸の高須藩上屋敷で母はみな違うが生を得た。そして各々は他家へ養子に出された。

➀尾張徳川家14代当主徳川慶勝(よしかつ)。②一橋徳川家10代当主茂栄(もちはる)(一橋慶喜(よしのぶ)が15代将軍になったため一橋家へ)➂会津松平家9代当主松平容保(かたもり)、④桑名久松松平家4代当主松平定敬(さだあき)。

禁門の変後、尾張徳川慶勝(よしかつ)は第1次長州征討総督として趣味の写真機を持って出陣した為、多くの非難を浴びた。一橋茂栄(もちはる)は江戸留守居役、京都守護職は松平容保(かたもり) 京都所司代をしている松平定(さだ)敬(あき)。

第2次長州征伐には尾張徳川玄同(後の一橋茂栄(もちはる))も幕府軍として参戦した。鳥羽伏見の戦いの1月7日夜、部下や家来には何の伝達もせず徳川慶喜(よしのぶ)、老中の板倉勝静(かつきよ)、会津の松平容保(かたもり)、桑名の松平定敬(さだあき)たちは大坂城から停泊している開陽丸に乗船して江戸へ帰って行った。政局はとうとう戊辰戦争へと移っていった。

高須4兄弟は、せめて尾張藩だけでも新政府に参画しておかねばと藩内の様々な非難を浴びながら耐えた徳川慶勝(よしかつ)、維新の際、徳川家を代表として新政府との交渉にあたった一橋茂栄(ひとつばしもちはる)、新政府軍と徹底抗戦した会津藩の松平容保(かたもり)と桑名久松藩の松平定敬(さだあき)。それぞれの立場で激動の幕末維新を生き抜いた4人でした。


明治11年〈1878〉9月3日、4人は一同に集まり、銀座の写真館で写真を撮った。

明治16年8月1日 徳川慶勝(よしかつ)死去。60歳
明治17年3月6日 一橋茂栄(もちはる)死去。54歳
明治26年12月5日 松平容保(かたもり)死去。59歳。松平容保は第7代日光東照宮宮司を務めた
明治41年7月21日 松平定敬(さだあき)死去。63歳。松平定敬は第8代日光東照宮宮司を務めた


名古屋の市章丸八について考えてみたい

➀亀女は初代尾張藩主徳川義直を出産し彼女の出身は八幡であることの八
②義直の母亀女の縁者は殆ど八幡出身。兄の忠宗、山下氏勝の妻である妹、息子の竹越正信たち。

このような事を考えると名古屋の市章は尾張徳川家の合印(あいいん)から由来しているといわれていて、丸八の八は八幡の八で末広がりの縁起が良い八、若しくはお亀の方と竹越正信の思い入れのある石清水八幡宮の八ではないかと思われてくる。合印が作られた時期は定かでは無いが、恐らく尾張藩の初期の時だと考えられる。お亀の方も健在、重役は八幡と深い関係のある人物たち、丸八はその頃作られたのではと推測する。

八の字をよく見るとお亀さんの顔に見えてくるのが不思議です。
以上の説は筆者の八幡贔屓の独りよがりで記したもので、名古屋では他に言い伝えもあると思い少し調べてみました。


八事の由来について

名古屋の「丸八」の由来は、無限に広がる力を象徴する「丸」と、末広がる発展を示す「八」を組み合わせ、さらに八という字は八事という地名の高野山真言宗別格本山の「八事山興福寺」に由来するとされている。その八事山の八が尾張徳川藩の合印に使用されたものとも考えられます、尚「八事山興福寺」は元禄元年〈1688〉創建され、尾張徳川家の祈願所とされていた


<参考資料>

徳川美術館発行・・『徳川義直と文化サロン』
松花堂美術館発行・・石清水八幡宮展、八幡正法寺名宝展
葵の残葉・・奥山景布子著,
インターネット・・名古屋市史、東海史話、新宿歴史博物館、Wikipedia,ほか各種書き込みなど、八幡市、名古屋市のホームページ


# by y-rekitan | 2025-10-10 09:00 | 会員研究

綴喜古墳群と武埴安彦の乱3 129号


綴喜古墳群と武埴安彦の乱(三)
山陰道

岡村 松雄(会員)

初めに  

 前回では武埴安彦の乱を記述したが、同じく王権を争った忍(おし)熊(くま)王(おう)の反乱(古事記でのタイトル)を「古事記」の内容と少し異なっているが、詳細の説明のある「日本書紀」の方に従って記述する。

 下図に戦乱の概要図を現代の地図上に表現する。
四角枠で表示したのは 上段は現代の地名、下段は文中のNO及び当時の地名
文中NOを確認しながら読んで下さい。
綴喜古墳群と武埴安彦の乱3 129号_f0300125_19381211.jpg
神功皇后が新羅を征服した、仲哀9年2月に、軍団を率いて穴門豊浦宮(① 山口県長門)に朝鮮から引き揚げてきた。仲哀天皇の葬儀を行って、都(② 倭との表現もある、奈良のヤマト)を目指して船出した。

一方、麛坂(かごさか)王(おう)・忍熊王は【天皇は崩御された。又、皇后は新羅に勝った。合わせて皇子(後の応神天皇)が生まれたと聞いた。この状況では「今、皇后は子供がいる。部下の人々はみな従っている。必ず兄(応神天皇の異母兄弟)の私をないがしろにして、弟の皇子を天皇と決めるだろう」と思った。】

そこで対抗するため、皇后の殺害を目論み、仲哀天皇のために陵(天皇の墓)を作る風にして、播磨の赤石(③ 明石)に山陵を造った。淡路島からの石を運ぶためと称し、兵を多く集めて皇后を待ち受ける事とした。

ここで寄り道して、『明石の山陵』であり『仲哀天皇が埋葬者』と伝わっている、五色塚古墳について記述する。
下図は五色塚古墳及び周辺のイラスト
綴喜古墳群と武埴安彦の乱3 129号_f0300125_19393172.jpg
     
海岸線に沿う国道二号線から登った所に史跡公園があり、遠目には淡路島、明石海峡大橋が望まれる。明石に隣接した神戸市垂水区にある墳長194m、高さ18mで、兵庫県最大の前方後円墳である。整備された史跡としては日本で一番の最初に出来た古墳公園である。

古墳の前方部の頂からは瀬戸内海の海が見渡せられ、当然、その古墳の偉大さは航行する船上の人々には、十分感じ取ることが出来たと思われる。

古墳の墳丘に並べられていた鰭付(ひれつき)円筒埴輪、朝顔型円筒埴輪等々は、国の重要文化財の指定がされてある。古墳の名前由来は諸説あるが、仲哀天皇の陵を造るのに「日本書紀」の記述の通り、淡路島の「五色浜」の石を運んで造られたという名残である、という説もある。

又仲哀天皇の「陵」が今の五色塚古墳であり、ヤマト王権の古墳群とその特色は、ほとんど一致しているため、埋葬者は仲哀天皇との説がある(ただし、考古学者の間では、仲哀天皇は実在していなかったとの、説が主流である)。

元の「日本書紀」に戻る。

犬上君(④ 滋賀県犬上郡の住人)の祖倉(くら)見(み)別(わけ)と吉師(瀬戸内海の水上交通に携わっていた集団)とさらに東国の兵が多く参加してきた。忍熊王たちは戦のための祈(き)狩(かり)(占い)をした。もし戦に勝利するようならば、かならず良い獲物を捕らえると・・・・。

ところが赤い猪が飛び出し、麛坂(かごさか)王(おう)はかみ殺された。戦団は恐れ慄いた。

忍熊王たちはこの事は不吉な前兆、ここでは戦わず、住吉(⑤ 大阪市住吉区)に移動して戦う事とした。

皇后は忍熊王が兵を起こして待ち受けていると聞き、武内宿禰(たけしうちのすくね)に命じて、皇子を横にして棺桶に収め、死んだ事にし、迂回して南海より出て、和歌山に移動させ保護した。皇后はすぐに難波を目指した。ところが船が進まず、ただ回っているのみだった。そこで務(む)古水門(このみなと)(⑥ 兵庫県武庫川河口)に帰り、占った。占いは天照大神及び住吉三神を相応の地に祭るべし、とのお告げで、実行すると、神の御心で海は静まった。

忍熊王はさらに兵を引き連れて、莵道(⑦ 宇治)にしりぞき軍態勢を整えた。

皇后は紀国の日高(⑧ 和歌山県の日高)に回り、先に到着していた棺姿の皇子と再会した。

忍熊王を責めると決め、小竹宮(⑨ 和歌山県御坊市)に移動した。この時に急に暗くなり、そのまま続いてまるで常夜のようだった。

調べてみると小竹宮の神職と天野宮の神職が同じ墓に、埋葬されるよう希望していたが、その通りでなく、その祟りで常夜状態だったのがわかった。その希望に対応すると、通常の昼夜の区分となった。

3月5日、皇后は武内宿禰と和珥(わに)氏の祖先、武振熊とに命じて数万の兵を率いて、忍熊王を討とうとした。精鋭を選んで山城より出陣した。莵道に着いた。忍熊王の兵、熊之凝(くまのこり)が戦いの先陣となり、戦意を高揚させるため、ようようと歌を大声で吟じた。

武内宿禰は多くの軍に命令し、椎結(かみあげ)(この髪型は夷人のもので、降状のふりをしたと考えられる)をした。さらに命じて、控えの弓(ゆみ)弦(づる)を簿髪の中に隠し、木刀を腰におびた。

皇后の命により当初の作戦通り、忍熊王をたばかって言った。

「皇后は天下を望まない。ただ皇子をいだいて、忍熊王が皇位になられたら従います。ただちに戦いをやめて、弓を放し、和睦をしましょう」と言い、弓(ゆみ)弦(づる)や、刀(木刀)を川に投げ入れた。忍熊王はその言葉を信じ、軍隊に命じて軍装をとき、弓弦も切った。

そこを狙って武内宿禰は大軍に命じ、弓を張り、真剣を腰に帯びて進んできた。忍熊王側は騙されたことを悟り逃げて、逢坂(⑩ 滋賀県大津市)で大敗した。さらに逃げて、狭狭浪(ささなみ)(⑪ 大津市膳所)に及んで、ほとんど全滅した。

忍熊王は辞世の歌を歌って、瀬田の済(⑫ 瀬田川)に投身して死んだ。

その屍はなかなか見つからなかったが、数日を経て菟道河(宇治川)で発見された。 


「けいはんな風土記」によると、浪速を目指して上陸したが、前の武埴安彦の乱と異なって、木津川左岸の戦闘がまったく記されてないことは、5世記以降の時代には、丘陵の東緑南部の相楽地域の古墳の特色は、佐紀古墳群(⑭ 奈良県の佐保川西岸、佐紀の地にあったヤマト政権の王の墓の多い場所)と同じような様子だった。

このことは、京阪奈丘陵を含む一帯は乱の当時には、すでにヤマト政権の支配下での土地になっていたと思われる。

さらに西は明石から東は近江の逢坂におよんだ戦闘の地域が、ヤマト政権による権力範囲、すなわち、後の五畿七道の【畿内】の元となっている。


下図は現代の近畿地方を五畿七道の行政区分に従って表現した。
中央のNO付けしてあるのが畿内である。
綴喜古墳群と武埴安彦の乱3 129号_f0300125_19565931.jpg
①山城  ② 大和  ③ 河内  ④ 和泉  ⑤ 摂津

先に説明した「畿内」はヤマト政権が確定とした領土であり,他の七道には、程度の差はあったが、まだヤマトの力が及ばない地域がほとんどだった。

 紀元前80年ごろ、統一を図ろうとしていた頃で、武埴安彦の乱以前、かなり前から、特に山陰道として区別された地帯【畿内に近い順に、丹波、丹後、但馬(京都府、兵庫県)から出雲(島根県)を経由して 隠岐(山口県)】 にはヤマト政権に、十分対応しうる勢力があった。

 「丹後王国論」は門脇禎二氏により昭和58年(1983)に提唱され、当時は非常な反響を呼んだ。その内容はヤマト政権が確立される以前の、弥生時代から古墳時代にかけて、京丹後市の峰山盆地を中心として野田川、竹野川、川上谷川、各流域を含めた地域に、地域国家が存在していたというものです。

ここで下図の画像の丹波、丹後、但馬、及び周辺の近江、山城、摂津、播磨の一部の概略地図を参照しながら読んで下さい。

綴喜古墳群と武埴安彦の乱3 129号_f0300125_19572186.jpg

いずれにしてもこの段階に於いて当時の国際状況、特に朝鮮との関係が深く、日本海という、貴重な水運の交通手段を生かし、文化、技術、人材(各地における帰化人の事、その故の地名由来が、現代にも多く残っている)等々が伝わり、全体に大きく、倭国にとっては貴重な、良い、影響を及ぼしていた。

日本海に面した各地、出雲等々の一つ、若狭湾も大きなポイントで、河川,潟(せき)湖(こ)(湾が砂州によって外海から離れて、湖沼化した地形。ごく狭い水道により外海と繋がっている例もある。港の機能を果たした)の存在が、朝鮮との交易を可能ならしめる、地域特性であり、そのおかげで、ヤマト政権に対応しうる権力者集団が昔から存在した。


代表的な古墳(すべて前方後円墳)は以下の通り。

古墳時代前期    門脇禎二氏による「丹後王国」に該当する

丹後半島北端

① 網野銚子山古墳
  京都府京丹後市網野町、 サイズ 墳丘長201m、高さ16m(後円部)
  製造時期 4世紀末~5世紀初部
  日本海側の第一位の大きさ   日本海三大古墳の一つ
  佐紀古墳(奈良市のヤマト政権がある古墳集合地)と同形

② 神明山古墳
  京都府京丹後市丹後町,   墳丘長190m
  製造時期 4世紀末、5世紀初頭
  全国第36位の古墳      日本海三大古墳の一つ

③ 蛯子山古墳
  京都府与野郡与野町   墳丘長145m 高さ16m
  製造時期 4世紀頃    日本海三大古墳の一つ
  舟型石棺、直葬 

古墳時代中期    加古川流域の兵庫県丹波に遷都した権力者集団

④ 雲部車塚古墳 
  兵庫県丹波篠山市    墳丘長140m  高さ13m
  製造時期 5世紀中葉

  篠山盆地東縁の亀岡盆地と、つながる交通上の要所に建築された古墳。

 古墳の年代観からは時期に、大きな矛盾があるとの問題があるが、丹波道主命に比定(ある事物と同質のものがない場合、他の類似のものと比較して、物の成立年代や形式などを判断する事)するという説がある。

  竪穴式石室で内部には組合式長持形石棺(畿内の王豪に見られる)、大王と共通する。       

古墳時代後期    亀岡盆地に中心を移した権力者集団

⑤ 千歳車塚古墳

  京都府亀岡市  前方後円墳(特殊に前方部が発達しており、前方部巾が後円
  部直径を上回るという種類)  墳丘長82m  高さ7.5m(後円部)
  製造時期   6世紀前半

被葬者は倭彦王(仲哀天皇の5世孫)で、継体天皇と同格の皇位継承者であったという説がある。このように当地の権力者の歴史は、三段階に区分ができる。

  
 終わりに当たり、ヤマト政権とタニハ『旦波(たんば)、丹波』の有力首長との関係を、まとめると、以下の通り。

2世紀末~3世紀中ごろ、邪馬台国を中心とした政治連合に、「タ二ハ」の首長たちが倭国に、同盟、服属したのは間違いない。
古墳に副葬された鏡は、丹波半島北端の弥栄町と峰山町にまたがる⑥ 太田南古墳、 

⑦ 熱江丸山古墳(加祝町)でも、三角縁神獣鏡等々であり、ヤマト政権との密接な関係を示すものである。

 又、4世紀前期、中期には200m級の古墳はヤマト以外に国内に出現しておらず、例外として、大阪府の摩湯山古墳、兵庫県の五色塚古墳(先記)と「タ二ハ」の網野銚子山古墳、神明山古墳でそれらは、佐紀山古墳群とそっくりである。

この事の意味は、埋葬者はヤマトとの深い関係であると示している。

 

 前回 綴喜古墳群と武埴安彦の乱(二)の、「日本書紀」に登場していた、丹波に派遣された、将軍「丹波道主命」は、「タニハ」地方に大きな勢力を持っていた、「旦波大県主由碁理」の娘を后としていた。第9代開花天皇の后の一人である、「丹波道主命」の母は和旦氏の出身であり、開花天皇とは異母兄弟である、豪族の子孫である。「丹波道主命」は今も京都府京丹後市の神谷太刀宮神社に祭られてある。

「丹波道主命」の娘たちが、第11代垂仁天皇の后となり、第12代景行天皇を儲(もう)けているというような、血縁関係による、「タニハ」の有力者が、ヤマト政権と密接した関係を有していた,多くの例が存在していた。


<参考図書>

日本書紀(二)                岩波書店
京都府の歴史                 山川出版社
前方後円墳の世界      広瀬和夫     岩波新書
けいはんな風土記      門脇禎二監修   同朋舎出版
記紀伝承と考古学      佐古和江     朝日カルチャーセンター
大丹波王国 ―ヤマトも畏れた北の大国―  奥村淸一郎

# by y-rekitan | 2025-10-10 08:00 | 八幡の古墳