![]() ◆おしらせ 2026年1月 #
by y-rekitan
| 2026-01-30 20:00
心に引き継ぐ風景
![]() (文と写真 谷村 勉)空白 #
by y-rekitan
| 2026-01-30 12:00
| 心に引き継ぐ風景
講演会・発表会
谷村 勉 (会員) 戦闘開始前の状況 大政奉還ののち天皇ご臨席のもと、小御所会議が開かれ、結局、新政府に慶喜を加えないという結末になった。この決定により、前将軍の徳川慶喜は朝廷の官職(内大臣)を退いて、京都二条城から大坂城に移る。しかし、会津・桑名両藩をはじめとする旧幕府軍は、新政府から慶喜を完全に排除するとの決定に憤激した。慶喜は朝廷に対し憤激する者達を制し、努めて事を平和的に解決しようとしていた。しかしながら、江戸薩摩藩邸砲撃などをうけた薩摩兵は、薩摩の軍艦で西へと江戸を離れてしまった。慶喜は江戸における薩摩の反抗や幕府に背を向けた事件を知った。幕臣らは早々に慶喜上洛の上「討薩表」の奏上を勧める。慶喜はここに意を決し、慶応四年一月二日、この日幕府は 先遣使節として、大目付瀧川播磨守具挙(ともあき)に奏上する「討薩表」を所持させ、夜中に大阪を出発させ、京に向かった。 ![]() 戦闘開始 一月三日戦闘開始する。午前十時ごろ横大路に着いた瀧川先遣隊は、下鳥羽に前進する。待つこと数時間、幕府主力軍が横大路に到着し、進軍の命令を受けたのは既に午後四時に近かった。下鳥羽赤池まで来ると新政府軍の警戒兵とぶつかる。直ちに薩摩藩軍監椎原小弥太が単身で馳より止める。瀧川は椎原と折衝、椎原は断固として前進を許さず、幕府見廻組の兵たちも詰め寄る… この時、石川百平、大河原銀蔵(幕府先遣隊歩兵二大隊指図役)が「大砲前へ!」と命令、大砲を引き出し砲口を薩摩軍に向けんとした時、それに向け薩摩軍が轟然と発砲、弾丸は幕軍砲二門の前で炸裂、傍にいた石川、大河原は倒れてしまった。瀧川は慌てて馬に飛び乗り自陣に戻ろうとするや忽ち戦闘が始まった。 ![]() 橋本・山田家文書より 二日夜半ゟ大坂方諸軍追々上京、淀川筋舩ニ而会津勢終夜相登伏見着舩之趣 「旧幕府軍1万名が上京し淀などに宿泊、5千名は大坂城に、伏見着船の部隊は伏見奉行所、伏見御堂(本願寺別院)に駐屯」 三日晴、肥後侯通行、其後高松勢又桑名勢歩兵等数千人引続上京、桑名勢先陣ニ而鳥羽海道相登大垣勢其余一橋方諸軍淀伏見ニ毛集 同日申ノの刻ゟ伏見奉行所へ会津新撰組陣営へ向ヶ、京勢薩州長州二手之勢大砲打掛ヶ合戦始ㇼ、伏見町家追々焼出し大坂方敗軍 同刻、鳥羽海道小枝橋へ京方薩州勢出陣、大坂方先手徴兵隊幷桑名勢等合戦始、大坂方追々敗軍、伏見ㇵ終夜砲声相聞火勢段々盛ニ相成(山田家文書) 「通行を廻って、押し問答を繰り返した、午後4時頃幕府軍が「押通る」と強行突破しようとした時、薩摩軍が一斉攻撃し、戦いが始まる。不意を突かれた幕軍は多くの死傷者を出して後退する。伏見でも鳥羽の銃声を聞いて奉行所への攻撃を開始した。夜半まで戦いは続いたがここでも幕府軍は後退を余儀なくされた」 四日になって事態はますます深刻化し、大坂方の敗勢によって、戦場が伏見から次第に淀・八幡へ近づいてきた。同時に橋本陣屋など八幡近辺に駐屯する幕府軍の軍規の乱れによって、住民に迷惑が掛かりだした。 河原崎安親(八幡岸本)の『日記』によると、正月四日「幕府砲兵当地へ酒飯買ニ来、乱妨の振廻有之ニ付人家何ㇾ毛閉門致居事」という事態になり、さらに翌五日の条には「砲兵妨乱ニ来、家財衣類等奪取候事、土蔵者押破狼藉言語道断也」 と、敗戦による軍兵の乱暴を難じている。(河原崎家文書) 四日晴、鳥羽海道伏見表敗軍之様子ニ而、午刻過ゟ手負死人追々引取夕方ニ至桑名勢高松勢門前通行ニ而大坂へ引退… 早朝から戦闘再開となるが、幕府軍は赤池辺りから下鳥羽、富ノ森へ後退しつつ一進一退の攻防が続く、この日淀妙教寺に砲弾が飛び込む」 五日、伏見会津勢惣敗軍、鳥羽海道モ同様敗軍ニ相成、諸軍淀迄引取、淀小橋焼落淀八幡山崎ニ而防戦之用意有之趣 同日午刻過惣大将若年寄松平豊前守橋本迄引退、暫時此方宅ニ而休息、軍議有、夫ゟ若州陣屋江引移陣営ニ相成、関門相固被居候、鳥羽海道敗軍手負門前引続通行、同日午刻過、淀城下江砲発、城下市町追々焼失、淀侯ハ当時在江戸ニ而留守中ニ候得共、家老降参ニ而京方江城被渡、今日落城、京勢入替ニ相成趣、 八幡橋本辺ハ大坂勢充満、防戦之用意頗也、同夜は砲声も無之、両軍共休息 「早朝、仁和寺宮嘉彰は錦旗を左右に押し出し鳥羽街道を南下、淀近くまで進行、伏見を経て東寺に帰る。新政府軍は苦戦するが、幕府軍は富の森、納所陣地を支えきれず淀迄後退する。伏見の幕府軍は伏見街道の「千両松」 で新政府軍を阻止しようと構えたが、両軍とも激戦から多数の死傷者を出した。新政府軍の圧力で幕府軍は淀まで後退する。幕府軍は淀城を拠点に抗戦しようとしたが、入城を拒絶された為、淀小橋と淀大橋を焼き落とし、 城下に放火して八幡、橋本まで退却、防御線を設営する」 五日昼過ぎ、幕府軍総大将若年寄松平豊前守は橋本迄退き、橋本の山田家で暫く休息と軍議を行い、続いて橋本陣屋へ移って陣を設営し、関門を固めた。その間も鳥羽街道を幕府軍の負傷者が続々と陣屋前を通って大坂へ逃げ帰った。 同じ頃、淀では京方の砲撃が始まっていた。淀城の留守を預かる家老は幕府軍の入城は拒否したが、京方の薩長軍には城を明け渡した。淀城の落城によって、次に八幡への砲撃は避けられず、八幡では八幡宮を守るため本宮の遷幸を行うことになった。 六日陰晴、辰ノ刻頃ゟ御当宮大隅村御遷幸諸神人浄衣着用、御鳳輦供奉警護社士ハ麻上下胸当着用手槍携前後警衛、同日辰ノ刻頃ゟ京勢薩長因芸ノ四手淀ゟ発向、美豆村狐川渡、木津川筋生津辺三方ゟ押渡戦争、大坂方ハ八幡山橋本樋ノ上北堤辺ニ而防戦之処、山崎警衛藤堂勢是迄大坂方之処変心、高浜舩番所ゟ楠葉関門江向ケ横矢ヲ砲発、淀川隔双方ゟ大砲小銃弍時斗打合之処、大坂方終ニ惣敗軍ニ相成諸軍敗走、八幡町中大方焼失、橋本町ハ八拾弐軒焼失、残分ハ漸四拾軒餘也、此方居宅ハ別条無 同日申刻前長州勢橋本陣屋関門乗取、陣屋ハ焼払ニ相成、同夜長州因州之人数三四百人斗大隅村へ罷越、御当宮一刻も早々還幸奉成候様御迎ニ参入 (山田家文書) 月読神社(京田辺市大住池平) 月読尊・伊邪那岐尊・伊邪那美尊をまつる式内社で、大社に位置づけられていた。 中世には度々兵乱を受け、社殿の焼失・再建を繰り返したという。本社が位置する大住地域の多くは平安時代末期以降、室町時代まで奈良興福寺の領地であった。 神宮寺として法輪山福養寺が明治初めまで存在した。同寺には奥ノ坊・新坊・中ノ坊・西ノ坊・北ノ坊・東ノ坊の六坊があり、大住小学校は北ノ坊のあった場所と伝えられる。 神社境内には奥ノ坊の庭園の跡が残っている。「慶応四年(明治元・1868)、伏見鳥羽の兵乱が及ぶのをさけて、八幡の石清水八幡宮が当社境内に一時遷座されたこともある。」 (京田辺市教育委員会) 樺井正資家文書 ![]() 妙教寺(伏見区納所北城堀) 妙教寺は、豊臣秀吉が建てた淀古城区域の南端に位置し、日考上人を開基として寛永三年(1626)に開かれた寺院である。境内南の低地は淀古城の濠の名残と云われている。 現在の京阪本線の淀駅から見える淀城址は、江戸時代に松平定綱が築いたものである。 慶応四年(1868)正月四日、「鳥羽伏見の戦い」で後退してきた東軍は、淀城に入るべくいったん妙教寺周辺で布陣し、追撃の西軍と戦闘になった。寺内は銃弾の雨で、本堂の壁を破って砲弾が飛び込んでくる有様であった。砲弾は内陣の柱を貫通し、庫裏の玄関で不発のまま止まったという。傷ついた柱は今も残されている。 明治四十年(1907)榎本武揚筆による追悼碑、「戊辰役東軍戦死者之碑」が建立された。 碑文に戦死者の埋骨地として、悲願寺、愛宕茶屋、八番楳木(うめき)の3か所の記載がある。 八番楳木戦場跡(千両松・伏見区納所下野) 慶応四年一月五日早朝、伏見を撤退した新選組、会津兵、幕府大砲隊は、千両松堤に布陣する。伏見口より追撃してきた新政府軍とこの地で激戦となる。新政府軍は、会津藩佐川官兵衛率いる槍隊の猛反撃に遭い、いったん引き揚げるが援軍を得て攻勢に転じた。旧幕府軍は陣を捨て八幡方面に退却する。 土方歳三も新選組30名ほど率いて猛進するが新政府軍の銃勢が激しく左右の堤の陰に分かれて、会津兵に合流して戦った。 この戦いに於いて、双方ともに多くの死傷者が出る。新選組にも数十名の隊士が討死する。その中で試衛館からの同士で六番隊組長であった井上源三郎も一発の銃弾を受け戦死する。甥の井上泰助が井上の首と刀を持って大坂に向かうが、他の隊士より遅れがちになり、「そんなものを持っていると、遅れて敵につかまってしまうぞ、残念だろうが捨てろ」といわれ、ある寺の門前の田圃を掘って埋めたという話であるが、寺の名は伝わっていない。(幕末史蹟研究会) ![]() 「千両松付近の戦い」壁画 作松林桂月(明治九年(1876)―昭和三十八年(1963) 近代の南画を代表する画家。文化勲章受章(昭和32年)。壁画は56歳の時の作品(昭和8年完成)、壁画の制作にあたり桂月は、鳥羽伏見戦を体験した陸軍中将三浦梧楼に取材するなど入念な準備を進め、十一年間を費やして完成させた。 「長州藩の騎兵隊を率いる三浦梧楼は(手前中央)は抜刀して全軍を鼓舞し、会津藩兵(手前左)を攻め立て、薩摩藩の大砲(手前右)がこれを援護している。松並木は猛烈な寒風に吹き荒び、遠くに淀城が望まれる(左奥)」 長円寺(伏見区淀新町) 門前に榎本武揚の「戊辰役東軍戦死者之碑」が立ち、その碑文には東軍戦死者の埋骨地が長円寺の他、淀町光明寺墓地、大専寺、文相寺、東運寺および八幡番賀にあると記されている。「戊辰戦争」直後には東軍戦没者慰霊事業は憚られていた。入口横えんま堂左側にも、「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の慰霊碑(明治40年建立)が立っている。 東雲寺(伏見区淀新町) 長円寺の隣にある東雲寺も埋骨地6ケ所のうちの一つ。本堂裏手の墓地中央の大きな切株の前に「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の慰霊碑(明治40年建立)が立っている。 明治七年賊軍の慰霊を許可 明治7年(1874)8月に明治政府は、戊辰戦争で「王師ニ抵抗」した者に対しての慰霊を公的に許可した。それまで賊軍になったために、慰霊碑や墓石を立てることができなかった。慰霊碑建立の許可が出て以来徐々に慰霊碑等の建立が増えた模様。戊辰戦争と西南戦争の戦死者の慰霊が同時に行われるケースも多かった。 八幡、橋本の地形 八幡橋本の地形は京都平野の西南端で、淀川によって分断した対岸に山崎があり天王山端の隘路口をなしている。八幡、橋本も生駒山脈の一分脈が北走し、こちらも隘路口である。京都平野と大坂平野とを両分している咽喉で、両所に関門が設けられていた。 かかる故に古来兵家はこの地を重視し、山崎合戦でも明智光秀が豊臣秀吉をこの隘路口で秀吉軍を撃破せんとした事はよく知られる。 八幡、橋本の局地地形は北向に100メートルの高地と前面は開豁(かいかつ)して凡そ1500メートルあり、そこに当時は木津川が流れていた。敵の木津川半渡に乗じて迎撃すべき絶好の攻勢防禦の陣地である。この好陣地を幕軍には誰一人理解した人が居なかった。 官軍はどうであったか。西郷はこの要点攻撃を重視して、みずから淀まで出馬している。 西郷が国元の川口量次郎へ一月十日に送った書簡に「八幡は要地難戦と相心得候に付、先晩より窃かに抜出で候て参り候ところ、訳もなく打ち破り」とある。また長州藩の記録「輦下(れんか)日栽(にちさい)」には「この地もやはり賊兵半渡を撃つの策なく」とあり、薩、長側の戦略、戦術眼の方が、坂軍(幕軍)に比して遥かに高い。(戊辰役戦史(上))大山柏著 八幡、橋本の戦闘 官軍諸隊は六日の早朝から何れも舟で木津川を渡り、徐々に同川の左岸に展開したが、 若干の監視兵と小闘しただけで、敵に出撃の企図は全くなく、全軍容易に左岸に展開することができた。 官軍は三方面に分かれ、右翼隊は薩兵の主力が橋本方面の科手(橋本東北一キロ)に向かい、中央隊は長兵主力と薩の一部とで八幡宮高地を攻撃し、左翼隊は前夜来、坊ノ池に宿営した宇治川左岸支隊(薩二隊と長第六中隊)をもってし、生津(坊ノ池西南一キロ、当時木津川左岸にあった八幡領)付近で渡河、敵の右翼を包囲する如く西面して攻撃せしめた。 かくて全軍が渡河したのが午前八時頃で、直ちに攻撃前進に移った。官軍左翼隊の攻撃前進が進捗すると、敵は包囲されるので動揺を生じた。しかし、右翼隊の科手正面は敵陣地が最も堅固なうえ、敵が頑強に抵抗するから、攻撃は中々進捗しなかった。中央隊の前面も地形が堅固で、最初の内は敵の抵抗も靭軟(じんなん)だった。しかし、官軍の砲弾が陣地内の民家に爆発、炎上するにおよび、敵に動揺の色が現れた。 腰折坂から橋本砲台へ 薩摩兵が八幡山の御本社(ごほんしゃ)道を通って楠葉方面に向かう時、腰折坂に「賊兵三十余人山中に番兵たるを見、これを急襲した」との記録が残っている(『楠葉台場跡』枚方市教育委員会)。八幡での戦闘は激しく、頓宮、高良社、正明寺など山下の中心部や志水でも大きな被害を受けた。橋本も砲撃などで120軒中82軒が焼かれた。新選組二番隊組長の永倉新八が残した『浪士文久報告記事』にも八幡・橋本の戦いや橋本陣屋への引き揚げの様子などが記録されている。「永倉新八と斎藤一は八幡中腹で戦っていたところ、八幡堤を見ると堤には味方が一人もなく、残らず橋本の陣屋に引き揚げたという、そこで永倉新八と斎藤一は急いで兵を引いて橋本の陣屋に向かうと、途中で敵に前後を囲まれ、必死の戦いの末に一方を破り、ようようのことで橋本の陣屋へ戻った」『新撰組戦場日記』木村幸比古(PHP研究所) 津藩裏切り事件 津藩裏切りは、一月五日、朝廷から勅使として大夫四条隆平(たかつね)が山崎の津藩本営に遣わされ、津藩重臣藤堂采女以下に御沙汰書を読み聞かせ、逡巡する藩士等を鞭撻して帰順を迫り、ついにこれを承服せしめたことにより、四条大夫は津営に泊まり、津兵の砲撃を監視し、発砲を見て朝廷に報告すると共に、幕軍の敗走を目認して帰還、復命した。 この際勅使を追って、長州支藩の徳山藩世子毛利平六郎元功(もとたか)も兵を率いて津営に来たり、 「若し津藩にして徳川家に向かい発砲するに忍びざる場合は、暫くその砲を借り、徳山兵がこれを操作して、幕軍を砲撃したい」と提案したので、津藩においても協議の末帰順に踏み切った。また徳山二小隊と岩国藩一小隊は、六日朝淀川を舟渡して、山崎に入り、津兵と協力して水際に幕軍を横撃した。(戊辰役戦史(上))大山柏著 恐らく午前十一時頃、一大事変が突発した。即ち淀川右岸の山崎関門を守備していた津藩(藤堂、三十二万余石)の兵千余名が、突然銃砲を揃えて真側面から川を隔てた坂軍(幕軍)目掛けて射撃を開始した。幕軍は全く予期していない出来事であり、友軍として確信して全く開放してあった側面だから、それを不意に攻撃されて大混乱に陥った。現実的な損害以上に精神的な打撃の方がより大きい。すでに譜代淀藩の裏切りだけでも大きな衝撃だったのに、今度はかつての徳川四天王の一家によって、甚大な痛手を被り、幕軍内部に疑心暗鬼を生ぜしめ、ために著しく戦意を低下せしめた。 高浜砲台(島本町高浜) この砲台は慶応二年(1866)十月淀川の守りとして幕府の命により対岸の楠葉砲台と共に築かれた。周囲約180m高さ2.5mの堅固なものだったようだ。高浜は藤堂藩が守備し、対岸の楠葉砲台は酒井藩が守っていた。慶応四年正月、鳥羽伏見の戦いに敗れ楠葉まで退いていた旧幕府軍に対し、新政府方に帰順した藤堂藩は砲撃を仕掛けた。 楠葉も応戦したが撤退することになった。砲台は高浜と広瀬との境界付近にあり、現在は河川敷ゴルフ場になっている。 ![]() 番賀墓地(八幡市八幡番賀) 「戊辰戦争」の東軍戦死者の埋骨地の一つで、淀・長円寺の門前に建つ「戊辰役東軍戦死者の碑」の碑文に、淀の5カ寺の名と「八幡番賀」の名が刻まれている。橋本での戦闘の犠牲者が葬られている。入口から最奥に進んだ右側に石碑がある。 八幡宮宮工司長濱尚次家や柏村直條家など有力社士・神人の墓石が多い。 西遊寺(橋本中ノ町) 本祥寺の南平野山へ行道の東側、山に据て高く西面に在、浄土宗、本寺無し也、本尊阿弥陀如来、開山欣誉元晴上人と云、猶観音堂、鐘堂等有(男山考古録)。 天正元年(1573) 感誉上人が奥橋本山から、現地に移して創建した。慶長五年(1600)徳川家康から朱印状を賜り法灯が盛んになった。八幡市指定有形文化財の帝釈天立像(木造榧(かや)材一木造・藤原時代)は元狩尾神社本殿東側の帝釈天堂に安置してあったが、明治11年西遊寺に移転した。安政五年(1858)、八幡・山崎の警備を命じられた松江藩が橋本陣屋が新設されるまで分宿していた。 久修園院(枚方市楠葉) 久修園院は、行基ゆかりの49寺院の一つで、神亀二年(725)創建の古刹。この場所は昔から交通の要衝で、神亀二年、行基によって対岸の山崎との間に山崎橋が架けられた。 さて、千両松から敗走した幕軍は、久修園院を橋本本陣とする。対岸山崎の高浜砲台を守備していた藤堂藩から、突然の砲火を浴びて大混乱に陥り、多くの死傷者をだした。 久修園院には「鳥羽伏見の戦い」の時の、次の話が伝わっている。 慶応四年(1868)正月六日、「鳥羽伏見の戦い」において敗色濃くなった幕府軍が、追撃の官軍を迎え打つために敷いた橋本の陣に、対岸の山崎から藤堂藩が突如砲撃してきた。飛来する砲弾で辺り一帯は火の海となる。砲台場は被弾と火災で大混乱となった。そのさなか、砲台場の指揮をとっていた加藤隊長(23歳)が炸裂した砲弾の破片で重傷を負う。彼は従兵の大森少年(16歳)を呼び、「俺はもうこれまでだ、俺の首を持ってこの場を早く立ち去れ」と自刃した。大森少年は泣く泣く隊長の首をかき切ったが、重くて持って歩けない。切迫した状況の中、寺院裏の墓地の、ある墓石を起こしてその下に首を埋め、生駒山を越えて桑名に帰り着いた。明治になり、彼は新政府に奉職し内務省高官に任じたが、あの隊長の首のことは忘れることがなかった。 しかし、いったん明治天皇に弓を引いた身で恐れ多いと憚り、そのままになっていた。 明治天皇が亡くなり、大正天皇の即位の礼も終わったので、改めて懇ろに葬り、慰霊したいと久修園院を訪れたのだった。加藤某の首級確かに受け取りましたと、「首級受取書」に大森鍾一と署名し、包みを提げて寺院を去った。大森鍾一とは内務省総務長官から京都府知事(明治35年~大正5年)を勤めた人物である。 御本社道・腰折坂(橋本東浄土ヶ原) 文久元年(1861)に刊行された『淀川両岸一覧』楠葉の項に「当村中に、男山八幡宮へ参詣の道あり」とあり、楠葉からの参詣道を示している。枚方市町楠葉二丁目9の京街道沿いの民家南西角に数年前まで「右八幡宮/是より/ちか道/二十三丁」の古い道標(明治六年再建の銘あり)があった。「御本社道」とは枚方市町楠葉から橋本の南西方面、腰折坂を通って八幡宮に至る大坂方面からの近道であった。江戸時代の石清水八幡宮全図(中井家文書)の上部に「御本社道」と記載されている。 「御本社道」の途中、橋本東浄土ヶ原に「腰折坂」はありますが、「薩摩兵が八幡山の御本社道を通って楠葉方面に向かう時、腰折坂に「賊兵三十余人山中に番兵たるを見、これを急襲した」との記録が残っている。」(楠葉台場跡・枚方市教育委員会) 八幡、橋本、洞ヶ峠での番兵の意味は分かるが、なぜ腰折坂に番兵が必要なのか、それは腰折坂が男山東麓の「八幡宮道」である志水道から楠葉へ通じる為であった。 橋本台場後方へは狩尾社経由ではなく腰折坂経由で向かう必要があった。対岸の藤堂藩からの砲撃と橋本台場の背後からの攻撃などによって、幕府軍はついに敗走した。 ![]() 慶喜公維新の戦跡を弔ふ 慶応4年(1868)正月3日、鳥羽「こえだ橋」で始まる鳥羽伏見の戦は八幡・橋本が最後の決戦場となった。6日午前11時頃、山崎関門守備の友軍、津藩から不意に攻撃された幕府軍は大混乱に陥りついに敗走する。 「45年後の大正2年(1913)5月16日、徳川慶喜は伏見桃山御陵(明治天皇陵)参拝の後、旧幕臣の大森京都府知事等を伴い淀城址に登り、暫く遠近の風景を眺望した。「官軍、幕軍が刃、砲火を交えた戦場の跡なれば、将軍の瞼に涙あり、さもありなんと同伴の人々惻隠同情の念に打たれたり」…。公は憮然と「五十年ぶりの此の地は大分変った様じゃ」と語り出でて昔を偲び、夫れより男山八幡宮に詣でた後、伏見町寺田屋に引き返した。薩摩藩の志士が勤王の血に染めたりという一室に入りて子細にそこらを見回し、同家に保存せる記念の品々を点検し、大森知事をはじめ、旧幕臣と卓を囲んで夕餉を認めながら、戊辰の役に淀にて戦死せる幕臣の首が近来、楠葉で発見されたることなど聞きて一層感を深め、薄暮同家を出で午後八時二十分京都駅発列車にて帰京せり。」 ―『大阪毎日新聞』―(「八幡の歴史を探る」第74号 八幡の歴史を探究する会) ![]() 淀城天主台跡 新選組戦場日記 ―永倉新八「浪士文久報告記事」を読む― 木村幸比古 「ここに一軒家があり、これに火をかけると永倉新八と斎藤に報告があった。橋本陣屋に引き揚げようとしていた永倉新八と斎藤はそれを少しも知らず、八幡中腹で戦っていたところ、八幡堤を見ると堤には味方が一人もなく、一軒家に火をかけているので不思議に思い、田村一郎を土方歳三のもとに遣わしたが一人もおらず、残らず橋本の陣屋に引き揚げたということを、田村一郎が戻ってきて語った。」 橋本陣屋縄張り 天保から弘化(1844)と改元されるや諸外国からの渡来が相次ぐ。イギリス・アメリカ・フランス・デンマークなどの軍艦渡来と通商の要請に対して、拒否し続けていた。しかし、年々増加する諸国の来航・通商要請は、嘉永六年(1853)六月に至って、アメリカ・東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦四隻を率いて浦賀へ入港し、アメリカ大統領の国書を幕府へ強制的に届けるという結果を招いた。翌安政元年(1854)、幕府はアメリカと和親条約を結び、その後イギリス・ロシア・フランスに対し和親条約を締結していく。 一方、幕府の開国政策に反対する尊王攘夷の動きも活発化し、討幕運動は激化の一途をたどった。特に尊王攘夷派の活躍の著しい京都を中心として京阪間の往来は活発化し、加えて薩・長・土・肥など西南雄藩が反幕の拠点として朝廷擁護の為京都へ軍勢を派遣する可能性が大きく、幕府は京阪間の警備を強化する必要があった。 安政5年(1858)10月19日京都所司代と京都町奉行所の与力・同心が八幡領内にやってきて、橋本の焼野・堂ケ原一帯7000坪を松平出羽守警備の幕府陣屋設置の縄張りを行う。 突然の上地(強制土地有用)に土地地主は慌てた。『焼野陣屋地諸事記』(山田家文書)によれば、縄張りのあった翌日すぐに郷当役溝口・森本の2名が橋本町へ出張し、橋本町の行事立会で地域の確認を行ったこととその夜、橋本町の社士が「陣場予定地は百姓・町人などが多く土地を所持しており、それらの者が所有者として公儀へ届けるのは不都合であるので、社士の朱印地と偽って届け出よ」との郷当役からの指図を検討し、百姓・町人の地主を呼び出し了承の請印をさせることが急遽決められたことがわかる。 ところが11月5日になって、急に5000坪に変更され、あわてて京都西町奉行所へ、おおよそ区分した絵図を添え提出した。 陣屋の規模 橋本陣屋が予定された頃、他に3ヵ所(主として京の出入口の内、北と西の入口)が幕府に召上げられ陣屋地とされた。 1,塚原村4000坪、山陰道からの進入路に当たる老ノ坂峠の警備(現在の京都市西京区大枝塚原町) 2,蓮台寺境内4000坪、京の七口の一つである長坂口の警備で、長坂口は丹波山国からの丹波街道の京口である。(現在は京都市北区紫野) 3,大山崎領関戸裏(現在は京都府乙訓郡大山崎町)671坪 西国街道の要地 これに橋本を加えれば、幕府の警護が京へ進攻する恐れのある西南雄藩、特に因州・長州の山陰地方と薩摩・土佐・芸州などの諸藩及びその脱藩者に対していたことがわかる。また、各陣屋地には代替地こそなかったが、それぞれに応じて補償がなされている。 *橋本陣屋地は安政6年(1859)11月20日松平出羽守(松江藩)へ引渡され、翌万延元年(1860)9月2日には陣屋四方に新道が完成し、住民達が内部を窺い知ることができなくなった。 *松江藩は万延元年9月16日、橋本岩鼻に見張番所を置く(台場資料編p6) 『焼野陣屋地諸事記』(山田家文書)から、わずかに内部を覗いて書いたらしい絵図によると、 *陣屋地は西と北に門を構え、北門からは西遊寺から平野山へ通じる旧道敷に沿って舘二棟、厩、番所などが並んでいる。 舘二棟はいずれも板葺で、一間(1.82m)四方の井戸を前にして建てられ、一棟は桁行三間(5.46m)、梁行二間半(4.55m)のもので、もう一棟は桁行四間(7.28m)、梁行二間半(4.55m)とひと回り大きなものであった。厩は六頭分の間仕切りが記されている。 旧道路敷の南端には長屋があり幅二間(3.64m)長さ十三間(23.66m)一間(1.82m)の庇(ひさし)のついた瓦屋根のこの建物はかなりの警固人数を収容できたと思われる。 *西が陣屋の表門であったらしく、河内へ続く京街道の橋本町往来へ、陣屋地内から直交する道が造られている。西の表門を入った左には馬繋ぎの柵があり、右は幅二間半(4.55m)、長さ九間(16.38m)の大きな武器庫が建てられていた。馬繋の柵の奧は番所(桁行一間、梁行一間半)が置かれ、正面奥の山手となった部分には二間(3.64m)四方と一間(1.82m)四方の土蔵が二棟並んでいた。 *さらに陣屋地の北西隅には、瓦屋根・梁行二間半(4.55m)・桁行二間半の米倉が建てられ、兵糧などの収容などに使用した。 橋本陣屋地復元図 絵図などをもとにして配置を復元してみると、陣屋は南北に通る旧平野山道を中心にして、北方の寺院(西遊寺・常徳寺)や人家に接近して舘を建て、その南に舘の指揮者層がしようする馬六頭分の厩を設け、その南に置いた番所で、舘などの警備に当たるという位置関係にある。番所から西へ表門までの間に少し大きな番所があり、正面からの出入りが監視警備できるようになっている。(八幡市誌 第三巻) ![]() ![]() 以上 【主な参考文献】 『男山考古録』石清水八幡宮史料叢書 長濱尚次 石清水八幡宮社務所 『八幡市誌 第三巻』 八幡市 『楠葉台場跡(資料編)』 (財)枚方市文化財研究調査会 枚方市教育委員会 『戊辰役戦史』 大山 柏著 時事通信社 『鳥羽伏見の戦い』 野口武彦 中公新書 『新選組戦場日記』・永倉新八「浪士文久報告記事」を読む 木村幸比古 PHP研究所 『戊辰戦争・鳥羽伏見之戦跡をあるく』 服部善彦 暁印書館 『明治天皇のご生涯』 打越孝明 明治神宮監修 新人物往来社 『新選組と幕末の京都』 川口正貴(取材・編集) ユニプラン 『伏見の歴史アラカルト「鳥羽伏見の戦い」戦史全貌』 三木敏正 海文舎印刷(株) 『幕末戊辰西南戦争・歴史群像シリーズ特別編集』 学研 『八幡の歴史を探る』第74号・76号・95号・96号 八幡の歴史を探究する会 #
by y-rekitan
| 2026-01-30 11:00
| 講演会・発表会
事務局だより
四方山草紙 ~研究の背景より綴る片隅の記~ 連歌千年の流れ -「私」から「私たち」へ- 一人で詠む和歌と、複数で詠む連歌では、何が根本的に違うのでしょうか。和歌は一人で完結する「私」の表現、連歌は複数で紡ぐ共同の営み——そう言ってしまえば簡単ですが、この違いには、深い意味が隠されているように思えます。本日は、連歌という不思議な文芸の歴史を、奈良時代の始まりから明治時代の俳句の誕生まで辿りながら、「共に詠む」ことの意味について、少しお話させていただこうと思います。 起源:贈答歌から短連歌へ 連歌の源流は、奈良時代の贈答歌文化にさかのぼるとされています。万葉集には、大伴家持(おおとものやかもち)と尼との唱和のように、一首の短歌を上の句と下の句に分けて詠み合う例が見え、これが「短連歌」と呼ばれる形の始まりとされています。たとえば「佐保川の 水を堰き上げて 植ゑし田を」という上の句に、「刈れる初飯は ひとりなるべし」と尼が下の句を付けたと伝えられます。表面的には田植えと収穫の歌ですが、「植ゑし田」に娘を育てた苦労を、「初飯」にその成果を重ね合わせた、機知に富んだ恋のやりとりだったとも解されます。一人で完結する歌ではなく、相手の言葉に応じて自分の言葉を差し出すという、応酬のかたちがすでに生まれていたわけです。 ![]() 大伴家持(狩野探幽『三十六歌仙額』) 平安時代になると、宮廷社会では和歌の贈答が人間関係を調整する重要な道具となります。恋の駆け引き、政治的な配慮、晴れの儀式でのやりとりなど、和歌は単なる個人の表現を越え、場と場、人と人をつなぐ媒介として機能しました。短連歌もまた、その中で「相手の言葉を受けて応じる」遊びとして育まれ、やがて複数人が次々と句を継いでいく連鎖表現へと発展する素地を形作っていきます。詩を「送り、受け取る」こと自体が、一つの技芸になっていきました。 中世:百韻と天神信仰 鎌倉時代に入ると、連歌は大きな転換期を迎えます。一首を二人で分け合う短連歌から、百句をひとまとまりとする「百韻(ひゃくいん)」の形式が整い、「前の句との関係」や「季節・恋・月・花」などの配り方を定める規則(式目)がしだいに整備されていきました。多人数が長時間にわたって句を継いでいく以上、座の全員が共有できる「約束事」が必要とされたのです。 この時期に見逃せないのが、菅原道真を祀る天満宮との結びつきです。連歌会はしばしば「天神さま」への奉納として行われ、和歌・連歌の巧みさそのものが、学問と文才の神への祈りと感謝を表す行為となりました。そこでは、「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり」といった、四季の推移を典雅に詠み分ける句が、座の祈りとして天神に捧げられたと伝えられます。座に集う人々が、句をつなぐことを通じて神とつながり、一つの「捧げもの」を作り上げる営みが、そこにはありました。連歌は、ただの遊びではなく、「祈りを言葉のやりとりに託す」実践でもあったのです。 室町:式目と「座の文化」 南北朝から室町時代にかけて、連歌はまさに黄金期を迎えます。二条良基(にじょうよしもと)は『応安新式』などで、前句との関係、季語の配置、同じ題材の繰り返しを避ける工夫などを体系化し、連歌の式目を高度な「作法」として整えました。例えば、月の句の直後には空や雲を詠むことを避けるなど、連想が単調にならないように配慮する規則が設けられます。これは、一人の天才のひらめきではなく、座に集う複数の詠み手が、互いの技量と趣向を尊重しつつ、全体として豊かな流れを生み出すための知恵でした。 ![]() 宗祇像 (山口県立山口博物館所蔵) やがて宗祇らの手によって、こうした規則を踏まえながらも、格調高く優美な「正風連歌(しょうふうれんが)」が確立されます。文明二年(一四七〇年)春、摂津国水無瀬の離宮で、宗祇、肖柏(しょうはく)、宗長(そうちょう)という三人の名手が、一夜のうちに百韻を詠み上げました。月が昇り、夜が更けていく中で、三人は互いの句を受け止め、次の人のために言葉の余白を残しながら、春から夏へ、恋から旅へと、季節と情景を巡らせていきます。「花の陰 菊に移ろふ 月影や」——春の花の下にあった月影が、季節の巡りとともに菊の上に移っていく。花から菊へ、春から秋へという移ろいを、三人の詠み手が受け渡しながら描き出しているのです。この『水無瀬三吟百韻(みなせさんぎんひゃくいん)』は、正風連歌の最高傑作として後世に語り継がれることになります。 一句一句は独立しながらも、全体としては季節が巡り、恋が訪れ、旅や世相がさりげなく織り込まれていきます。一人の作者が書く長編作品とは異なり、連歌は「座の文化」として、その場に集った人々の感性が即興的に響き合い、一回性の作品を生み出す場となりました。座の空気が最高潮に達したとき、個々の詠み手の技量を超えて、座全体がひとつの生き物のように息づく瞬間——それを連歌師たちは「一座建立(いちざこんりゅう)」と呼びました。 戦国:武将の教養と俳諧の芽生え 戦国時代になると、連歌は武家社会の中にも深く入り込んでいきます。その立役者となったのが、大和(奈良)生まれの連歌師・里村紹巴(さとむらじょうは)です。紹巴は織田信長、豊臣秀吉という天下人に仕え、戦国一の連歌師として各地を往来しました。天正十年(一五八二年)、明智光秀が本能寺の変の直前に催した愛宕百韻(あたごひゃくいん)では、光秀が発句「ときは今 あめが下しる 五月かな」と詠み、紹巴が三句目に「花落つる 池の流れをせきとめて」と付けています。合戦前の祈りの場で、主君と連歌師が言葉を重ねてゆく光景には、緊張と親密さが同居していたに違いありません。 連歌会は、戦勝祈願や和平交渉の席などでも開かれました。刀と槍がものを言う時代にあっても、武将たちは言葉を介して心の内を整え、主従や同盟者との距離を測り直していたのです。形式に則った一つ一つの句が、その場に集った面々の性格や立場、思惑までも映し出していました。 一方で山崎宗鑑らは、こうした格式高い連歌から一歩外れ、滑稽・諧謔・俗世間の匂いを積極的に取り込んだ「俳諧連歌」を生み出しました。たとえば「柳散る 池の蛙も 老いにけり」といった句には、自然の景とともに、どこか自嘲めいた人間味がにじみます。寺社や武家屋敷だけでなく、町や村の人々も参加しやすい、よりくだけた座が各地に生まれていきました。そこでは笑いや皮肉も含めた言葉のやりとりが、人々のあいだの空気をやわらげる役割を担っていたはずです。 近世:歌仙から俳句へ 江戸時代に入ると、三十六句を一巻とする「歌仙(かせん)」が広く行われるようになります。百韻よりも短く、しかしなお座のやりとりの醍醐味を味わえるこの形式は、町人文化の中で花開いた俳諧の主流となりました。松尾芭蕉もまた、この歌仙を通じて数多くの作品を残し、旅の途中のささやかな出会いや、自然の移ろいを、仲間たちとの掛け合いの中に封じ込めていきます。その芭蕉の代表的な発句として知られる「古池や 蛙飛びこむ 水の音」も、もともとは連歌・俳諧の座で詠まれた一声でした。一瞬の静寂と音の対比、その余韻を、同席する仲間たちと共有した情景が思い浮かびます。 この時代、連歌や俳諧の巻き始めに置かれる「発句(ほっく)」は、あくまで座の連なりを開く役割を担いながらも、とりわけ洗練された一句として重んじられていきます。やがて、この発句が次第に独立性を増し、季語と切れを備えた短詩として鑑賞されるようになると、「ひとつの句だけを味わう」という楽しみ方が徐々に広がっていきます。 明治時代に入ると、正岡子規が、それまで俳諧の発句と呼ばれてきた十七音の短詩を、連句から切り離して独立した詩の形式として位置づけ直し、「俳句(はいく)」という新しい名で呼ぶことを提唱します。その結果、発句は連歌・俳諧の巻頭句という性格を離れ、一人の作者が完結した作品として詠む短詩型へと再定義されていきました。形式としては、一人で詠む短詩に戻ったように見えるかもしれませんが、その背後には、座で磨かれた感性と、前後の句との関係を意識する「連鎖の美学」が息づき続けていたと言えるでしょう。 ![]() 正岡子規 (国立国会図書館) 結び:「私たち」をつくる文芸として こうして連歌の歴史を振り返ってみますと、時代ごとに姿かたちは変えながらも、ある種の共通した"場の在り方"が浮かび上がってきます。贈答歌のやりとりから始まり、天神さまへの奉納、座付きの作法、戦場前夜の祈り、町人たちの笑いを交えた興行にいたるまで、連歌はいつも、誰かと誰かが向かい合うところに置かれてきました。 和歌が「私」の心を磨くものであるならば、長い歴史の中で育まれてきた連歌は、「私たち」という関係のかたちを、さりげなく映し出してきました。前の句を読み取り、次の人のために余白を残し、座全体の流れを乱さないように気を配るという営みの中には、日本人が長く大切にしてきた、間合いの取り方や遠慮の美学がにじみ出ています。千年の時を経て、形式は俳句へと移り変わりましたが、句会や歌会、あるいは地域のささやかな集まりの中で、言葉を介して人と人がつながるという感覚は、今もどこかで息をしています。 一人では生まれ得なかったものが、場をともにしたときにふと立ち上がってくる——連歌という文芸は、その瞬間をとらえるための、古くて新しい器でした。では、今を生きる私たちは、どのような「言葉の座」を、これから先の時代に向けて紡いでいけるのでしょうか。八幡の地にも、かつて連歌を楽しんだ人の痕跡が残されています。その足跡を、いずれ稿を改めてたどってみたいと思います。 本日の四方山草紙は、これにて巻を閉じさせていただきます。 片隅生 記 #
by y-rekitan
| 2026-01-30 10:00
| 事務局だより
八幡さんの自然
谷村 勉(会員) ![]() ① ヨシゴイ この鳥はなんだ! 2025年7月、裏山に続く庭の木に止まっていた。庭に来る鳥の名前はかなり知っていると思っていた(観察員の経験あり)が、初めて出会った。珍しい鳥に出会うと何か良いことがありそうで楽しい、 早速、写真を撮り調べると、サギ類の中で最も小さいヨシゴイという鳥であった。サギ類のコサギ、ゴイサギ、アオサギ(最大のサギ、羽を広げると約1メートル)はいつも大谷川で見ている。ヨシゴイは主に池や沼、川岸、休耕田などで、アシ、マコモ、ガマ類などの背の高い単子葉植物が茂った湿地に生息する。最近は淀川の河川敷などのアシやマコモなどの湿地性植物や雑木が綺麗になくなり、住処を追われたのだろうか? そういえば言えば、キジの鳴声も全く聞かなくなった。バッタ類の昆虫も激減し、ほとんど見なくなった。 ![]() ②ウラルフクロウ 数十年前に一度飛ぶ姿を見たことがあった。男山の峡谷で音もなく飛ぶ姿を見て驚いた。その時以来の出会であったウラルフクロウであるが、1月の寒い日、やはり裏山に続く柿の木の枝に止まっていた。 普段、夜行性であるため、滅多に出会うことはないが、夏の夜になるとフクロウの鳴声はよく聞こえてくる。夕暮れ時には山から山へ音もなく飛んでいく姿を時々目にしていた。 日本では九州以北から四国、本州、北海道にかけて分布する留鳥で定住性が強く、平地から低山,亜高山帯にかけての森林や里山に生息する。大木のある社寺林や公園で見られることがあるらしい。以前は八幡宮本殿近くの楠木にとまっているのをよく見かけた。 梟や珍しい鳥、滅多に見ない小動物がたまに現れた時、必ずなにか良い知らせを持ってきてくれるので、楽しみにしている。 #
by y-rekitan
| 2026-01-30 09:00
| 八幡さんの自然
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