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◆会報第20号より-01 八幡八景

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《講 演 会》
八幡八景の成立
― 2011年11月  松花堂美術館本館にて ―

京都府立山城郷土資料館   伊藤 太


 11月17日(木)午後1時半より、京都府立山城郷土資料館の伊藤太氏に、上記の演題でご講演いただきました。 編集者の責任で要旨のみにしぼってその概要を報告します。

1、八幡八景とは何か

 日本各地に八景と名のつくものは多数ある。中でも有名なものは近江八景であるが、八幡八景は、近江八景を真似たものではない。八幡は、連歌がさかんな所であった。八幡八景は、連歌が盛んな土地柄であるが故にうまれた文芸であるといえる。

2、八景とはそもそも何か

 近江八景の例で説明したい。安藤(歌川)広重の錦絵に、近江八景がある。矢橋の帰帆、粟津の晴嵐など八つの風景画であるが、絵の端に和歌が書かれている。つまり、昔の八景は詩歌がつきものであったのである。むしろ詩歌が中心であったことをまず認識してほしい。
八景のルーツは中国に在る。瀟湘八景がそれで、中国の長江の中流域の湖南省で、支流である瀟水と湘江が合流して洞庭湖を作るが、その辺りの景色を水墨画にし漢詩に詠んだものである。

3、瀟湘八景と日本への伝播

 瀟湘八景は今から1000年程前に生まれた。これが東アジアに広まり、やがて日本にも伝播する。それは鎌倉時代初頭のことである。鎌倉・室町の武家政権は禅宗文化を積極的に取り込むが、瀟湘八景もその流れの中で入り込んだといえる。
ことに、足利義満の時代、唐物といって当時の中国の第1級の文物が輸入される。そんな中の一つに牧谿の瀟湘八景図である「漁村夕照図」がある。そのテーマは遠浦帰帆、山市晴嵐、漁村夕照、瀟湘夜雨、洞庭秋月、平沙落雁、江天墓雪、煙寺晩鐘である。

4、八幡八景の発句の作者など

 元禄7年(1694)に制作された「八幡八景連歌発句絵巻」の句と作者を紹介したい。
<第一景>雄徳山松 
  みをきかぜ松やかすまぬおとこ山   里村昌陸
<第二景>極楽寺桜 
  かの国とこころさらでも花の庭    里村昌純
<第三景>猪鼻坂雨 
  雲霧もなが坂くだるながめ哉     里村昌憶
<第四景>放生川蛍 
  なつかはもいけるをはなつほたるかな 里村昌築
<第五景>安居橋月 
  河橋やのぞむたぐひもなつの月    里村周旋
<第六景>月弓岡雪 
  つもらせてゆきにこゑなし岡の松   里村玄心
<第七景>橋本行客 
  けさはしもとけし跡ある往来かな  直能(柏村直條の父)
<第八景>大乗院鐘 
  かねのこゑにしよりすずしふもとでら  宗得(直條の祖父)

 里村とは、幕府御用連歌師里村家のことで、柏村は石清水八幡宮の神職にあった者である。その成立の事情は、里村昌陸の序文と里村昌純の跋文(後書き)を読めばわかる。
要約すると、柏村直條の父直能は連歌の外に牡丹作りで有名で、その縁で宮中の霊元上皇に名を覚えられるまでになった。また、直條は「大和・もろこし」の例にならって男山の八景を和歌に詠み、有栖川幸仁親王にそれを見せた。すると、上皇の覚えが大層よく、連歌の発句を撰集することを思い立った。そのことを里村家の者に伝え、それが了承されて発句ができたということである。その際、直條は、自身の父である直能だけでなく故人であった祖父宗得の句も載せたのである。
 ◆会報第20号より-01 八幡八景_f0300125_21212788.jpgつまり、元禄7年に成立した八幡八景発句は、石清水の神職にある柏村直條の呼びかけで柏村家と里村家との合作のもとでできたもので、元は和歌をものしたというのである。その際、「もろこし」=瀟湘八景と「大和」=南京(奈良)八景を見本にしたということである。
和歌と発句ばかりではない。漢詩編もある。八幡市内のある旧家からそれがみつかった。その背景についてはまだ謎の部分があるので、地元の研究会の皆さんで是非解明してほし い。
(記者:土井三郎)
              
※「俳句」と「発句」について

 当日「昭乗北野吟行俳句」と題するチラシを配布しました。これは八景と石清水の文芸との関連を参加者とともに考えてみたいという主催者側の意図で、まちかど博物館に特別に依頼したものです。この「俳句」という言葉について伊藤氏は講演の中で、江戸時代には使われていないもので間違いであると指摘しました。ただし、「昭乗北野吟行俳句」はチラシ作成者の命名ではなく、引用した昭和年に発行された文献の筆者が「俳句」と云う言葉を小論の中で使用しており、そのまま引用したものであることをお断りしておきます。      ――編集担当より

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# by y-rekitan | 2011-11-28 12:00

◆会報第20号より-02 八幡八景解読

八幡八景解読奮戦記

安立 俊夫 (会員)



 八幡八景といえば数年前に市主催「八幡ものしり博士」第一回の検定テストに際して、必死に覚えた記憶があるくらいでした。そのときは確かすべて頭の中にあったはずですが、中身はすでに忘却のかなたに・・という状況です。この八景が市制5周年を記念して選定されたことは当時の検定テキストを開いてあらためて確認したことでした。
 例会で八幡八景が伊藤さんによって取り上げられること、それに先立つ会報19号で大田さんが寄稿された八幡八景についての「ルーツを探る-伊藤さんの講演に期待!」を目にしたことにより、おっとり刀で、瀟湘八景、南京八景、近江八景ということを知り、すこしは伊藤さんの講演前に予備知識を得ておこうという意識はありました。
 今回の八幡八景漢詩編との格闘の始まりは、古文書仲間の秋季近江への小旅行における長命寺での「五榜の掲示」ではなかったかと思います。そこではじめてその立て札を見た誰もが珍しいものを発見したという興奮と、現地の方すら未だ読み方も知らないということで、一生懸命解読に取り組んでおられました。私はこの小旅行には参加しませんでしたが、その日のうちにO氏からのメールで立て札の写真をいただき、日付から明治維新の五ケ條のご誓文の直近であること、太政官という名が実際に使われたのはごく短い期間であること、非常に札の保存のよいことなど、知っていることをフル回転させて返信などしたものです。
◆会報第20号より-02 八幡八景解読_f0300125_11235750.jpg

 あに図らんやこのO氏より、これは「五榜の掲示」というもので、実は先年訪れた、八幡旧家にもあった。写真もこのとおり撮っていたと指摘されました。“鱗”が落ちました。後で聞くとこの頃は高等学校の教科書にもこのことが記述されているようです。
 かくのごとく、自分にとっては初めてのことでも、殆んどのことは既に先人が調べ、記録、発表しているのが実際です。
 そんなときにD氏から、旧家に八幡八景の漢詩編がある。「五榜の掲示」も再度確認もできると誘われ、O氏と三人で訪れました。
 写真で見せていただいて、まだ解読されていないこと、由来等も明らかでないこと等を告げられ、己の恥と無能力を忘れ、また、O氏以下の強力な助っ人に頼ることを前提として、ぜひ解読したいという興味に駆られたのは、こんどこそはまだ誰もが手をつけていないものに、先鞭を付けられるというもっとも喜ばしい事態におかれているかもしれないという素人の浅ましさからです。
 当日D氏に教えられた、八幡八景に関する記事が載っている、山城郷土資料館発行の『山城の俳諧』という冊子を翌日早速求めました。幸い600円という安価で出されておりました。もっとありがたかったのは、その日資料館で、館員の方に、常設展の説明を私一人でも良いからと懇切丁寧にしていただいたことです。山城全体の歴史を概観する上で非常に有意義でした。
 所持者宅で撮らせていただいた写真で読もうとしましたが、読みづらくてこれは大変だとあきらめかけたところへ、D氏の下に所持者より非常に鮮明な綺麗な写真が届けられ、しぼみかけた挑戦魂をくすぐられました。
 漢詩編という以上いうまでも無く漢詩です。漢詩といえば五言絶句か七言絶句という言葉程度しか知らない状況での挑戦です。まして元禄九年です。使ってある漢字は今まで見たこともないような難しい字で、仮に辞書に似たような字があってもなかなかこれだとは言いきれません。
 そんなおり、たまたま私が参加したNHKの古文書スクーリングで知った上方の江戸積み酒造家が、伊丹の小西家(白雪)でその古文書展が開かれるとのことで、E、D、M、O、T各氏および私は伊丹へでかけました。
 「米の来た道」と題されたで2回目の展示らしかったのですが、古文書“愛好家”にとって内容・文書ともそれはすばらしいものでした。そこで、持参した□(判らない文字を□であらわす習慣)だらけの漢詩の解読会を開かせていただきました。
 皆さんの熱心さに意見百出、時間の経つのも忘れて、気がつけば我々だけが広い食堂を占領していました。想像してみて下さい。大の大人六人が周囲の迷惑をはばかることなくまるで大学祭の出し物について議論百出しているような騒がしさを。
 売店で、古文書記録をもとに“元禄と慶応”の作り方によって仕込まれたという2種類の“白雪”を、望(忘)年会持込用に購入しました。
 その後何度もメールのやり取りを行い解読に挑みましたが、全ての文字が埋まったところで、我々の限界ということで、一応読めたことにして所持者へも報告させてもらいました。
 話はこれでは終わりません。漢詩を読み解く上でも、資料館で求めた『山城の俳諧』の八幡八景の中で概要は記述されているが、釈文が掲載されていない、二つの連歌集及び序・跋文、並びに『柏亭日記』について是非全文を正確に読んでおく必要があると思い至りました。
 和歌で詠まれたイメージと漢詩のイメージとよく似たものが多くあって当然という理由から、漢詩の読み解きに少しでも役立てばということもありました。また、『柏亭日記』は元禄9年のもので、まさに漢詩編が編まれたそのときのものです。直條が日記に記したことは十分あり得ることで、非常に興味のあるところです。
 T氏、O氏に殆どオンブにダッコ状態でこれも相当数のメールの交換の後ようやく今度は漢詩編とは異なり、ほぼ正解に近いものが出来上がったのではと喜んでおります。
途中M氏は目が不自由ななか、細かい印刷物を天眼鏡で覗いていただいて、せっかく快方に向かっている目をいためられなかったか心配です。しかし、指摘事項は的確で助かりました。
 E氏ご指摘の“皃=顔・貌(かんばせ)”には脱帽でした。
その他沢山落ちた“鱗”のいくつかを紹介しておきます。“鰥寡”=年老いて妻の無い男性、夫の無い女性ー(五榜の掲示)。“悳”=徳。“しゅう燿”=蛍の別名。使われている印影も大事に扱い、できる限り解読に努める。“筑波の道”=連歌の異称。“霞の洞”=上皇の御所、仙洞。“もしほ草”=藻塩草、随筆手・紙筆・記などをいう。
 漢詩編の文字の解読は少しは出来たものの、和歌については伊藤さん提示の史料はほぼ理解できましたが、肝心の漢詩の読み方、意味についてはほとんど理解不能の状態です。今後の課題として時間をかけて探求したいと考えております。とりあえず期待1杯の伊藤さんの講演を拝聴する一応の準備はできたものとして私の挑戦は一区切りとさせていただきました。
# by y-rekitan | 2011-11-28 11:00

◆会報第20号より-03 謡曲女郎花

色香に愛づる花心――謡曲『女郎花(オミナメシ)』


石野 はるみ  (大阪国際大学名誉教授)


 八幡市の史跡である頼風(よりかぜ)塚(男塚)と女郎花塚(女塚)は平安初期、9世紀のこの地の伝説を伝えている。頼風塚は八幡市立図書館近く、女郎花塚は松花堂庭園西隅にあるが、いずれも風雨の年月を刻む五輪石塔で、静寂のなかにひっそりと立っている。◆会報第20号より-03 謡曲女郎花_f0300125_10494630.jpgこの伝説にもとづいて14世紀以降に謡曲が作られ、ご当地ソングとなり、その能舞台はこの地の人々を喜ばせたのだろうと推測できる。
 出典は不明であるが、元になる伝説は男女の成就されない恋の物語である。それがどのような謡曲として能の本に書かれたのであろうか。謡曲の詞書きは演劇的要素の他にさまざまな要素から成り立つ。『おみなめし』の謡曲をとり上げて、その中の古文書からの歴史的事柄と、本歌どりされている和歌の伝統に注目しつつ、ことばによって喚起され、わたしたちの心に今もよび覚まされる中世人の情感にふれてみたい。
 物語の筋は次のようなものである。山城の国、八幡に住む小野頼風という男のもとに、契りを結んだ都の女が、頼風と疎遠になったことを不審におもい、都から八幡に訪ねてくるが、頼風は不在であった。行き違いがあったかもしれない。しかし女は男の心がもはや自分にはなく、他の女のもとに通っていると思ったのであろうか、悲嘆にくれて放生川に身を投げてしまう。川のほとりで女が脱ぎ捨てた山吹色の衣が朽ちて、秋になって女郎花が咲く。頼風がこの花に近寄ると、花は頼風を避けるようになびいていく。頼風は女が自分を恨んで死んだことを悔い、ついに自身も放生川に身を投げる。
 秋の七草の一つである「女郎花」は、古くは、「おみなめし」と呼ばれ、万葉集では「美人部為」「佳人部為」の字が当てられ、もとは若く美しい女性の意味であった。源氏物語ではすでに「女郎花」となり、古今集には男性の女性へのときめきを歌った「女郎花、秋の野風にうちなびき 心一つを誰によすらむ」などの17首の女郎花の歌がある。同種で、白い花をつける「おとこめし」があり、それは「男飯」の字となって白飯を意味し、「おみなめし」「女飯」は花が黄色の粟に似て「粟飯」となるが、ときにはそのような生活に密着した意味が込められているようである。女郎花に喩えられるこの物語の女が遊女としての女郎であったかどうかは、明らかではなく、おそらく若く美しいそれほど身分の高くない女性であったと思われる。
 この物語は謡曲では四番目物(執心物)であり、テーマは叶わぬ恋への執心で、登場人物は花守の尉(老人)と小野頼風の霊、頼風の恋人の霊、旅の僧である。この曲は旅の僧が最初に出会った登場人物、女郎花の守りをする老人が、後になって、実は頼風の霊であるという設定の夢幻能である。後半、僧の面前に生前のふたりの恋人が現れるが、僧は頼風の語りの聞き役であり、現世に果たせなかった彼の恋人への思いを受け止め、最後に頼風の霊が執心から離れて成仏するようにと祈る役割である。二人は夫婦ともみなされるが、当時は通い婚であったので、女は契った人、恋人と受けとめるのがふさわしいのではないか。
 謡いの始まりでは、おみなめしのイメージや能の主題を示すために、おみなめしと関連する和歌の本歌取りなどを入れて、聞く人の想像力に訴えている。九州松浦潟(現佐賀県)より京へ旅する僧が、山崎あたりに来て、向かいの石清水八幡宮を見て、「わが国の宇佐の(宇佐八幡宮)と一体」の宮である石清水に参ろうと男山の麓にやってくる(山崎から橋本への渡し舟によってであろう)。男山は「千種の花盛んにして」男山を歌った古歌(古今集、布留今道「女郎花憂しと見つつぞ行き過ぐる男山にしたてると思えば」)を思い出して、おみなめしはこの地の名草であるので手土産に、一本折ろうとする。
 そのとき翁が出てきて、粟飯に似たおみなめしの名は、花の名前を聞くだけでもじょろう(女郎)と契る「偕老(かいろう)を契る」(源順の漢詩から)思いであるのに、咲いているこの花を手折るような情けのないことするなんて、あなたはひどい人だと制止する。 僧はこの翁が誰なのかと問うと自身は花守という。僧はそこで自分は出家の身で(契りには関係ない身)仏に手向けるためにほしいという。翁はここで古歌、菅原道真の「情けなく折る人つらしわが宿の主わすれぬ梅の立枝を」や後撰集、僧正遍照の歌をとって「折りつれば手ぶさに穢る」折れば手首が穢れるので、「立てながら三世の佛に花まつる」と応酬する。それにたいして僧は僧正遍照が「名に愛でて折れるばかりぞ女郎花」という歌を詠んだという。遍照さえ花を折りたく思ったと主張する。
 歌による僧と翁のバトルは続く。すると翁は遍照がその歌の続きで落馬したことを人に語るなというが、そのように忍ぶ、人目を避けるということばを引くかぎり、「忍ぶ摺衣(すりごろも)」ということばが思い出され、それから草枕(安芸の「女郎花よるなつかしく匂うかな草の枕もかはすばかりに」)を連想するではないかと反撃。単なる歌の応酬のようだが、花を折ろうとするのは娑婆の恋心があるからでしょう、と僧は戯れにとがめられているさまである。なおも僧は負け惜しみのように「色香に愛ずる花心」ならば、自分にはとやかくいう資格はないと、古歌(「女郎花憂しと見つつぞ行き過ぐる男山にし立てりと思えば」)にあるように、「行き過ぎ」ようとした。
 すると翁は、その古歌を知っているような「優しの旅人」ならば、この花には持ち主がいるけれど、一本手折るのを許すと云い、また僧が八幡宮に参るのなら案内すると申し出る。ここまでは古歌による掛け合いで、この能の主題であるエロス、恋心を示唆し、そして花守の尋常でないほどのあらがいようには、後半に明らかになる、想う女への男心の執心が垣間見られる。花守、実は頼風の霊は、自分の懊悩を僧に打ち明けるのであるが、この冒頭場面で、僧が吉田兼好いうところの「色好み」色香の心を知る人であると推し量られ、後半部の伏線になっている。また当地がすでに遊女、女郎のいる地としても知られていたこともわかる。
 次の場面は八幡宮の風景である。能にはこの八幡宮にかかわる謡本が多く残されている。能に出てくる八幡宮については、中世の八幡宮の歴史的、文化的重要性より多面的に考えられる。ひとつには世阿弥たちの演能のパトロン、足利義満将軍の生母、紀良子が八幡宮の別当の娘であったこと、足利三代にわたり、八幡宮の放生会を維持し参向したという事実があり、八幡宮への言及は、能演者のパトロンへの崇敬でもあっただろう。世阿弥とその一派は賎しい芸能者集団であったが、足利幕府の保護のもとに能を発展させていた。この謡曲では、歴史的に八幡宮が国家鎮護の宮となった経緯が述べられている。能は中央の貴族階級の宮廷文化と、地方の庶民大衆の神仏への奉納踊りの狭間に、両者の異なる要素の混交から生まれた芸能である。国の執政者、中央権力への崇敬とともに、彼らへの反発を底流にもつものが多くあり、この謡曲の八幡宮参りにもさりげなく中央への反発が秘められているように思われる。
 案内された僧は放生川をみて「川水にうかむ燐類はげにもいけるを放つかと」という。目の前に広がる山の風景を、「恵みの茂き男山」「久方の月の桂の男山」「石清水の苔の衣も妙なりや」「山そびえ、谷めぐりて諸木枝を連ねたり」「鳩の嶺越しきてみれば。三千世界も外ならず」とする。また「神宮寺ありがたかりし」といい、宮の「朱の玉垣御戸帳」の前で、「伏し拝む」。僧は聞きしに越えて尊くありがたい霊地であるとひたすら感服する。
 しかし、その一方で僧は「三つの袂に影うつる 璽(しるし)の箱(御神体を請した箱)を納むなる」と付け加え、この石清水八幡宮が、自分の出身地である九州の宇佐八幡宮の分家であること(分家にすぎないこと)を示唆する。それは神功皇后の宇佐八幡宮での詔があり、その主神である三神が、奈良大安寺の僧、行教の三袖に移り、箱に入れられて、石清水に遷都した歴史的な古事ではあるが。また僧は、終局で頼風の霊の成仏を祈るが、旅で通りかかったとはいえ、わざわざ九州の宇佐八幡宮に関与するらしき僧に供養してもらうのである。この謡曲に元来の本家重視の意識が出ているととるのは、うがちすぎであろうか。
 社前に案内した翁は、それから僧を麓の男塚と女塚に連れていく。由来を聞く僧に小野頼風と女の夫婦の塚であると告げて、実は自分は頼風だと明かし、たちまち消え去る。ここより夢幻能の見せ場である頼風と妻の霊が現れて彼らの物語を僧の目前で謡い舞う場面になる。
 夜がやってきて、僧がその塚で「南無幽霊出離生死頓証菩提(なむいうれいしゅつりしょおじとんしょうぼだい)」と二人の亡魂のために祈っていると、この広野に来る人は稀であるのにと云いながら、「花の夫婦」頼風と女の霊が現れる。
 女は「契りを籠めしに、少しの契りの障(さわ)りある人まを真と思いけるか」といい、都から頼風を焦がれてやってきたのに不在であった頼風を怨んで、放生川に投身したいきさつを謡い舞う。そこで頼風は、死骸を埋めた塚より女郎花が一本出てきたので、我が妻の花だと涙にぬれながら近寄ろうとすると「この花怨みたる気色にて夫の寄れば靡き退き、また立ち退けばもとの如し」という。また「男山の昔を思つて」(古今集序、紀貫之の「男山の昔を思ひ出て女郎花の一時をくねるにも 歌をいひてぞ慰めける」)と過ぎ去った昔を懐かしみ、慰めてほしいと共感を訴え、自分の科(とが)のために女が「徒(いたず)らなる身となるも」と謡い、自らも入水して「跡とむらいて賜び給へ」と弔いを頼む。しかしその依頼のあとすぐに「閻浮(えんぶ)恋しや」と付け加える。閻浮提(えんぶだい)(仏教用語で現世)娑婆を恋しく思う頼風は、自分の執心から離脱することができないでいるのだ。
 次の場面では頼風は地獄で「邪淫の悪鬼」から身を責められている。頼風が剣の山の上に恋しい人を見たと思って登っていくと、その剣の枝のたわむまで剣は頼風の身を通して「磐石(ばんじゃく)骨をくだく」。僧と観客はその壮絶な舞いを目前に見る。この剣の山は往生要集にある刀葉林地獄である。和泉式部がその地獄絵をみて「浅ましや剣の枝のたわむまで こは何のみのなれるなるらん」と詠じている。僧は頼風の魂のために「露の台(うてな)や花の縁に」(極楽の蓮華台上)に「罪を浮かめて賜び給え」と祈りこの夢幻能は終わる。
 ◆会報第20号より-03 謡曲女郎花_f0300125_1059133.jpg男女ともに一途で情熱的な女郎花伝説であるが、伝説をこのような謡曲に仕立てた作者は不明である。曲趣からはおそらく世阿弥より後のこの一派の作者の手になると推測される。世阿弥の作品は典雅の世界であり、神仏の力によって予定調和的に終わるものが目立つが、彼以降の後期の謡曲には、予定調和のものより破調があるもの、終局に救いが約束されるのかどうかは不明のものが作られる。謡曲『おみなめし』は、小曲ながら味わいふかい。心は仏や浄土への志向よりも「閻浮恋しや」と現世、娑婆へ向かっている。とりすますことなく、女郎花の様子におたおたとして、命まで捨てるさまは、「愛の喜びは一瞬、苦しみは生涯続く」(『愛の喜びは』)と歌うイタリアの歌曲のように、胸を打つものがある。    了
# by y-rekitan | 2011-11-28 10:00

◆会報第20号より-end

この号の記事は終りです。

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# by y-rekitan | 2011-11-28 01:00

◆会報第19号より-top

◆会報第19号より-top_f0300125_12132175.jpg
この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。

◆《例会報告》八幡の歴史を次代に遺そう!◆
◆シリーズ:“一枚の写真から”③完◆


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# by y-rekitan | 2011-10-28 15:00