◆会報第128号 目次 2025年7月






# by y-rekitan | 2025-09-14 17:00

芭蕉の魂魄 128号




心に引き継ぐ風景・・・(59

芭蕉の魂魄「狐川の渡」を通る
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「淀川両岸一覧・狐渡口」 大阪市立図書館デジタルアーカイブ

 元禄七年(1694)十月十二日、芭蕉は南御堂前花屋離座敷で亡くなった。遺言通り大津の義仲寺に葬るため、亡骸をまず平底の高瀬舟に乗せ、八軒屋では物打かけ、長櫃に入れて、あき人の用意のように拵え、二十石舟にかきのせた。

 御堂前から60㎞離れた義仲寺に亡骸を運ぶことは尋常ではなく、商人の荷物のようにカモフラージュする必要があったのである。淀川には船番所があり川﨑、平田、枚方、橋本、淀の五ヶ所で、舟の監視、積荷の検閲も行っていた。最後の逢坂の関所はどのように通過したのだろう。門人達には困難な搬送を可能にするだけの力のある人物が多く居た。後に上田秋成が「奥の細道」の旅を大名旅行と揶揄した風景を彷彿とさせている。

昭和三十七年(1962)山口誓子は守口に住む南画家直原玉青の依頼で次の句を詠んだ。「夜舟にて魂魄通る枯洲原」芭蕉の遺骸が遺言通り、淀川守口の枯れすすきの生い茂った浅瀬を遡る姿に思いをはせた句である。

『花屋日記』に「八幡を過る頃、夜もしらじらと明はなれけるに」とある。芭蕉の亡骸を乗せた二十石舟は「狐川の渡」で夜明けの洲原に浮かんだ。芭蕉は生前、八幡宮を訪れたことはないが、死して魂魄が八幡を通過した。俳諧の光を失った門弟十人の嘆きと共に袖(そで)寒き舟はやがて伏見京橋に着く。

(文と写真 谷村 勉)空白


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# by y-rekitan | 2025-07-29 23:40 | 心に引き継ぐ風景

芭蕉最後の旅路 128号


芭蕉最後の旅路

-奈良・大坂・伏見・義仲寺- 

谷村 勉 (会員)


松尾芭蕉:正保元年(1644)~元禄七年(1694)51歳没。

 伊賀上野に生まれ、藤堂良忠の近習として仕えながら、北村季吟に貞門俳諧を学び、宗房と号した。良忠の早世にあい致仕し、京都に出て諸学を修めたが、寛文十二年(1672)に江戸に下り、俳諧師として地位を固め、桃青と号した。江戸に出た芭蕉は時代の新しい機運に触れ、談林風の俳諧に染まったが、町人社会の功利的な気風に批判的となり深川の芭蕉庵に退隠した。天和二年(1682)、江戸の大火にあって無所住の思いを深くし、人生を旅と観じ、庶民生活の中に見出される詩情を「さび」の美に結実させた。元禄二年(1689)には「奥の細道」の旅に出、元禄三年(1690)には石山の幻住庵、嵯峨の落柿舎で過ごし、いったん江戸に帰り、「かるみ」の新風を興したが、元禄七年(1694)大坂で客死した。(『日本史小辞典』角川書店)


芭蕉最後の旅路

 元禄七年(1694)九月八日、体調を崩していた芭蕉は支考、素牛、又右衛門、二郎兵衛らに付き添われ、伊賀を出て大坂に向かった。酒堂(しゃどう)と之道(しどう)の不和を仲裁する為だった。一行は伊賀をでて、笠置・加茂間は川舟に乗り、加茂から奈良坂を越えて、猿沢池近くに宿をとった(支考『笈日記』)。その夜は、月明かりに鹿の啼き声を聞いた為、宿を出て池のほとりを吟行している。

ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿 (杉風宛書簡)

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猿沢池を吟行 2022.3.23撮影

            

暗峠越え

 飛鳥に都があったころは、難波への最短距離は竹内峠であったが、和銅三年(710)の平城遷都により奈良時代から難波への最短距離の道として暗峠が利用されたようだ。豊臣秀吉の時代になると大坂城への参勤の道となる。江戸中期、郡山城主柳沢吉里が峠頂上に本陣を置き、石畳の道とした。元禄七年(1694)九月九日重陽の節句に、芭蕉はこの峠を駕籠で越したとする説もあるが、
「菊の香に暗がりのぼる節句かな」の句を成した。急な坂を大坂へ下る道の法照寺傍に句碑がある。(明治二十三年(1890)に再建された句碑)


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暗峠・芭蕉句碑(大阪の豪商平瀬露香筆) 2025.2.16撮影


門人間の軋轢

 この春は、江戸でも杉風の「軽み」の実践に対し嵐雪が是を批判し、衝突していた。名古屋も揉めていた。尾張蕉門を主導していた荷兮は『曠野(あらの)後集』を刊行して古風への回帰を宣言し、芭蕉の「軽み」の新風を批判する。『曠野後集』を一瞥した去来は、荷兮を非難する手紙を芭蕉に出した。荷兮は芭蕉七部集の内、三部まで編んだ蕉門主柱の一人であるが、この頃は去来と荷兮に確執があった。 

その後、芭蕉自ら荷兮を訪れる。曽良宛書簡で「荷兮へ寄り候ひて三夜二日逗留、荷兮喜び、野水、越人同前にて語り続け申候。・・・・・。町はづれ一里余まで荷兮、越人大将にて、若き者ども残らず送り出で、餞別の句など道々申候」と書き、氷解の喜びを語っている。しかし、一旦和解したかに見えたが、芭蕉没後には再燃した。野水や越人、凡兆までも荷兮に従った。元禄七年は、最後の旅となったが、ほかにも各地で門人達の軋轢を抱えていて、体調不良の芭蕉にとって、支道・酒堂の仲裁役の大坂入りは「おもしろからぬ旅寝」(曲翠宛書簡)であったことは容易に想像できる。芭蕉晩年の俳諧理念「軽み」は門人間に軋轢を生み、容易には門人衆に受け入れられなかったのである。


酒堂と之道の不和

 元禄六年夏大坂入りし門戸を張った酒堂を暖かく迎えた之道との仲は、翌七年春頃にはすっかり冷えて,互いに反目し合うようになった。わずか数カ月の間に之道と酒堂が仲違いをした理由とは何か。湖南では尚白と、江戸では其角、嵐雪らに疎まれ、芭蕉にまで「芦間の蟹のはさみを恐れよ」といわれた傲慢不遜の酒堂の性格に、起因するかもしれない。芭蕉の庇護を傘に之道ら大坂蕉門の先住達に、横柄に振舞って反感を買ったのである。つまり酒堂は畦止や泥足といった富豪と結んで大坂入りし、門戸の拡張を図り、之道の門人を引き抜き、さらに之道の親友でパトロン的存在であった車庸にまで接近したとなると、之道は感情的にならざるを得なかった。芭蕉は同年九月二十九日発病し之道亭で療養、その後花屋の離れ座敷へ移りやがて病没するが、駆け付けた者や見舞客の中に酒堂の名はどこにもない。芭蕉終焉から葬儀一切を取りしきった去来、其角、木節、丈草らから完全に排斥されたのである。やがて大阪蕉門の雄になる之道とは、大変な相違である。之道は酒堂の肩を持つ芭蕉に、心から敬慕の念で接し、師の斡旋に感激し、自宅に迎えて誠意を尽くして歓待した。それだけに発病の責任を痛感、多くの蕉門の重鎮たちに感銘を与えるほど看病した。
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「摂津名所図会・八軒屋」 大阪市立図書館デジタルアーカイブ


酒堂

 元禄二年冬、膳所で越年していた芭蕉に面会し入門した。当時二十歳前後で、
自己顕示欲が強く我儘、性狷介といわれながら芭蕉を慈父のように慕って、お気に入りとなった。芭蕉も溺愛した。芭蕉の庇護によって図々しく振舞う酒堂は他の門人からは憎まれる存在であり、とりわけ大御所の其角から嫌われていた。大長老の杉風(さんぷう)や温厚な兀峰(こつほう)も酒堂をたしなめている。

元禄六年二月江戸を発った酒堂は、一旦故郷の膳所に戻り、京を経て大坂へ入り天王寺区の生玉辺りに居を構える。酒堂の大坂での活動は歓迎されたが、しかし、誰彼となく確執を起す酒堂は、かつて大層可愛がってくれた膳所の曲翠 とも不仲になったことが、芭蕉大坂入りの理由でもあった。元禄六年暮頃まで 仲のよかった之道とは、翌年春から夏にかけて決定的に不和となった。元禄七 年五月二十二日嵯峨野の落柿舎に入った芭蕉を、之道、酒堂は訪問するが、別々 の日に行っており、歌仙にも同席していない。芭蕉終焉を機に酒堂の活動は終わる。余程重鎮たちに疎まれたとみえる。(『大阪の芭蕉俳蹟』)


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南御堂 「旅に病んで」句碑 2025.5.26撮影 


之道

 『俳諧大辞典』によると、「槐本(えのもと)氏、通称伏見屋久右衛門。号諷竹、浪華俳諧長者と号す宝永五年没。享年五十四。大坂道修町の商家。平明な誹風を好んで大阪蕉門の中心をなした」 許六の『俳諧問答集』には、「槐之道諷竹、天性柔弱也。久しく薬草をなめて、薬害に悩まされ侍る。然れども毒草の力に寄て、相応にとりはやせり。細に脈を窺(うかが)ふに的中すべき良方なし。本病治し難からん。」とあり、これは之道が談林派の影響が強く容易に抜けきれない作風を寓したものだが、俳歴の古いことがわかる。」其角は『芭蕉翁終焉記』で、「之道貧しくて有りながら,切に心ざしをはこべるを賞(め)で、召して介抱の便とし給ふ。」と記し、『こがらし』にも、十歳の頃両親に先立たれ、頼む人も年々に亡くなり…とでており、経済的には恵まれなかったようだ。元禄三年六月、之道は洛中の芭蕉を尋ね入門を許された。(『大阪の芭蕉俳蹟』)
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御堂筋 芭蕉終焉石標 2025.5.26撮影
 [正面] 此附近芭蕉翁終焉ノ地ㇳ伝ㇷ
[側面] 昭和九年三月建立 大阪府


芭蕉の葬送

 芭蕉は大津の乙州(おとくに)に、遺骸は膳所の義仲寺の木曽塚のところに葬ってほしいと遺言していた。『芭蕉翁行状記』(路通)

花屋から八軒家浜までの移動は、路通の『芭蕉翁行状記』に「やがてとりしたため、むなしきがらを高瀬に乗、ひろからぬ舟の中、つきそうものはおほけれど」とあり、高瀬舟に乗って移動したことが判る。高瀬舟で、「八軒家浜」まで行くと、二十石船の過書船に乗り換えている。大坂・伏見間を結ぶ 過書船の三十石船は旅客専用で、二十石船は荷物専用であった。『芭蕉翁終焉記』に「夜ひそかに遺体を長櫃に入れ、商人の荷物のようにして運んだ」と其角が書き残している。
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天満橋の八軒家船着場の跡碑 2024.12.21撮影

之道は自著『こがらし』にこう記している、「浪華に下向を願ひ、あへなく十月中の二日にをくれ侍りぬ。悲しくなきがらを同門に渡して舟を見送り、人知れず棺にむかひて永きはなむけを捧ぐ」。 

ちからなき御宿申せし時雨かな  之道


伏見から大津へ

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伏見京橋  2025.6.11撮影

 伏見から大津までのルートはハッキリ記録にないが、「『花屋日記』に、程なく(川舟で上り12時間程)京橋につく。夫れより狼谷通りにかかり」とあり、路通の『芭蕉翁行状記』に、「さてひつぎは逢坂の関を越し、昼過の比は、栗津の義仲寺にかき入ける」とある。

ここに言う「狼だに」とは現在の「大亀谷」のことで、元禄の頃は「狼だに」と呼ばれていたがその後、「この街道に茶店があり、容顔(ようがん)麗(うるわ)しき女あり、名をお亀と称した為、自然と所の名を大亀谷と呼ぶようになった」(拾遺都名所図会)とする説と、徳川家康の側室「お亀の方」が住んだことから大亀谷と呼ばれるようになったとする説も伝わっている。

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「拾遺都名所図会 大亀谷」  個人蔵


なお、『花屋日記』には「八幡を過る頃、夜もしらじらと明はなれけるに」とあるので午前6時30分頃(旧暦)の日ノ出に通過したものと推定される。芭蕉の骸を載せた二十石舟は「橋本の渡し」や「狐川の渡」の目の前を通過した。芭蕉は生前、八幡宮を訪れたことはないが、死して魂魄が八幡を通過したのであった。


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「都名所図会・八幡神宮寺(大乗院)、狐川の渡」 個人蔵


伏見町中のルートは

先にも言ったように町中ルートの記録はないので、他の資料から推定してみた。

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伏見京橋「駿河屋本店」を左に見て、東海道に沿って町中へ
2025.6.11撮影

 恐らく京橋から大八車を使用して北へ、現在の伏見駿河屋本店を見て右折し、下油掛町から伯耆町、鷹匠町の町中を旧東海道(東海道分間延絵図参照)に沿って北上し、両替町から鑓屋町(京町通)に入り、墨染通りを右折し、墨染寺を右に見て、現京阪墨染駅踏切を横切り伏見街道に合流、凡そ150m北上した三叉路を右折、ここから大津街道に入って、大亀谷を目指す。

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両替町から鎗屋町(京町通)を経て、墨染寺を抜ける (東海道分間延絵図より)


藤森神社南鳥居、京都教育大学を左に見て、突き当りの現JR藤森駅手前を左折、大亀谷を通り抜けて、現名神高速道路脇の街道を山科勸修寺から奈良街道(R36)を経て、追分から逢坂の関を越したものと思われる。この大亀谷越えルートは特に西国大名の参勤交代時に使用された。大名と天皇との接触を避けるため、京の洛中を通過させないと云う目的があった。
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「淀川両岸一覧・藤杜枝道」(図の左上が東海道・大八車が見える)
大阪市立図書館デジタルアーカイブ


 舟が伏見京橋についてより、大いに急いで十三日の朝十時過ぎ、大津の乙州宅に着いた。
乙州は伏見から一足先に急いで帰り、座敷の万端を備え、湯灌(ゆかん)の用意をして待っていた。湯灌の役は呑舟、二郎兵衛が、御髪の月代は丈草が、死出の装束は智月と乙州の妻が縫った。
老師は茶を好んだので、智月の計らいで浄衣も茶にした。十二日暮、伏見を出た臥高、昌房、探芝、牝玄、曲翠たちは、花屋に駆けつけたものの行き違いを知り、慌てて引き返し深更に大津に戻って来た。入棺はその夜六時から七時まで、門人一同通夜し、松尾家の沙汰を待ったが無いので、去来、其角、乙州ら相談し、十四日夕刻六時葬儀と段取りを決めた。当日多くの会葬者が集まり、記帳したもの三百を越し、心から老師の死を悲しみ惜しんだ。

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東海道沿いの義仲寺  2025.7.8撮影

直原玉青(じきはらぎょくせい)画「芭蕉の夢」

 昭和四十八年四月、日本南画院の巨匠直原玉青は四年かけて精魂を打ち込んだ「芭蕉の夢」と題する二百号(259㎝×194㎝)の大作を寄贈し、本堂壁面に飾られた。門人に囲まれて静かに眠る芭蕉の終焉図を中央に、芭蕉の秀句十八句等を周囲にあしらった図柄である。(「芭蕉の夢」の絵画は現在研修室の階段踊り場に架けられて、普段は拝見出来ないが、筆者訪問の折、幸運にも拝見できた)

直原玉青は明治三十七年八月岡山県山形村生まれ、十七歳で大阪に来て南画家矢野橋村に師事し、画業を大成した。また俳句を愛好し、山口誓子に学び多くの佳句を発表、晩年は芭蕉に私淑した。守口市の直原玉青邸の庭には、山口誓子の句碑が残る。

夜舟にて魂魄(こんぱく)通る枯洲原(かれすはら)  誓子

誓子は本名山口新比古、明治三十四年十一月京都市岡崎生まれ、東京大学法学部卒、住友本社に勤務。ホトトギス同人から新興俳句運動の中心となり、水原秋櫻子の「馬酔木」に加わり、昭和二十三年から「天狼」を主宰し、高名な俳人となった。

上記の句は元禄七年十月南御堂花屋で客死した芭蕉の遺骸が、遺言どおり川舟に乗せられ近江の義仲寺に赴くべく、淀川の枯れすすきの生い茂った浅瀬の間をさかのぼって行く姿に思いをはせたもの。親友の玉青の依頼で詠んだもので、昭和三十七年五月に建立されている

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「淀川両岸一覧・守口駅」大阪市立図書館デジタルアーカイブ



最後の旅路の記録

九月八日  支考・素牛、実家の又右衛門、江戸から戻った二郎兵衛らに付き添われ、伊賀を出て大坂に向かう。笠置・加茂間は川舟に乗り、奈良 坂を超えて、猿沢池近くに宿をとり、奈良までは半残も同行した。  『芭蕉翁追善之日記』

          ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿

九月九日  奈良で重陽を迎え、発句二章なる。

          菊の香や奈良には古き仏達

          菊の香や奈良には幾世の男ぶり

奈良を発ち、くらがり峠越で大坂に入る。途中の吟、

くらがり峠にて  菊の香にくらがり登る節句かな

九日、南都をたちける心を 菊に出て奈良と難波は宵月夜

大坂生玉の酒堂(しゃどう)亭を仮の旅宿とする。

九月十日  去来・杉風宛書簡を執筆。伊賀から大坂へ出た事その他の近況、及び近作三句を報じ、『別座鋪』『炭俵』の上方における好評を告げ、
やがて参宮に赴く予定なども伝える。同日、去来宛書簡を執筆。去来から藤堂探丸に牡丹を献上した件で報を受け、これに謝し、探丸よりの謝意も伝えるとともに大坂到着の事を報じ、『続猿蓑』編集完了の事、去来の序文・板下清書人の事など出版準備の事を頼む。なお、金子二歩借用を依頼。この日、晩方から寒気・熱・頭痛に襲われる。同じ症状が二十日頃まで毎晩繰返す。(酒堂宅泊)

九月十一日 之道、酒堂不和仲裁の為、「打ち込み会」を持つ。遊行寺参詣。
九月十二日 酒堂宅で「床にきて鼾に入るやきりぎりす」と詠む。
九月十三日 住吉神社に詣で、升の市を見物。この日発熱のため、不快に陥り畦止亭十三夜月見の会出座を取りやめる(『追善之日記』)

九月十四日 畦止(けいし)亭で、昨夜の月の名残りを償って七吟歌仙興行。〔連衆〕芭蕉・畦止・惟然(素牛)・酒堂・支考・之道・青流。住吉の市に立ちてその戻り、長谷川畦止亭に各々月を見侍るに

          升買うて分別かはる月見かな  (畦止宅泊) 
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住吉公園東入口の芭蕉句碑 2025.5.18撮影

九月十六日 膳所の臥高来訪。「奈良の鹿」の句に感銘したとの正秀書状を持参。
曲水・臥高・昌房・探志・正秀ら膳所連衆の鹿の句が報じられる。

九月十七日 大垣の此筋・千川兄弟宛に書簡を執筆。『続猿蓑』編集の模様や板下清書段階に入った事を伝え、両人や大垣連衆の入集句数なども内報する(酒堂宅泊)

九月十九日 其柳(きりゅう)亭で八吟歌仙興行。発句として初め913を案じ,改案して913´ に治定(じじょう)する。〔連衆〕芭蕉・其柳・支考・酒堂・游刀・惟然(素牛)・車庸・之道。913 昨日からちょつちょと秋も時雨哉(『追善之日記』) 913´秋もはやばらつく雨に月の形(なり)  芭蕉 (其柳宅泊)

九月廿一日 車庸(しゃよう)邸で七吟半歌仙興行。この夜同亭に一宿。[連衆]芭蕉・車庸・酒堂・游刀・諷竹(之道)・惟然(素牛)・支考。

秋の夜を打ち崩したる咄かな 翁   (車庸宅泊)

九月廿二日 この朝、車庸に対して句あり。
あるじは夜あそぶこと好みて朝寝せらるる人なり。宵寝はいやしく、朝起きは忙(せわ)し

            おもしろき秋の朝寝や亭主ぶり 翁  (車庸宅泊)

九月中下旬 酒堂・之道(諷竹)と三物あり。

秋風に吹かれて赤し鳥の足 酒堂

臥して白(しら)けし稲の穂の泥 諷竹

駕籠舁きも新酒の里を過ぎかねて ばせを

九月廿三日 兄半左衛門宛書簡を執筆。大坂到着までの様子や着後発病の模様を報告。大坂の長逗留無益と嘆じ、二、三日中参宮に向かう心積り伝える。伊賀の京屋(権右衛門)に託す。(酒堂宅泊)

同日    意専(猿雖(えんすい))・土芳連名宛書簡を執筆。大坂着後の発熱を伊賀滞在中に起った「なまかべ(発疹)」の結果と考えて病状を伝え、長居は無益と漏らす。近作三句を報ずる。

九日南都立ける心を  菊に出てならと難波は宵月夜

       秋夜  秋の夜を打ち崩したる咄哉

       秋暮  此道を行く人なしに秋の暮

九月廿四日 当日付の風国書簡を受信。二句を報じて添削を乞い、『続猿蓑』に「名月や寝ぬ処には門しめず」の句入集の礼を言上。

九月廿五日 正秀(まさひで)宛書簡を執筆。『続猿蓑』に選入した正秀句の事、大坂で反目し合う酒堂・之道両人の仲裁に努め両門連衆打ち込みの俳席を設けた事を報じ、近作三句を伝える。来坂中の游刀(ゆうとう)に託す。

菊に出て奈良と難波は宵月夜   

又酒堂が、予が枕もとにていびきをかき候を

床に来て鼾に入るやきりぎりす

十三日は住吉の市に詣でて  升買うて分別替(かは)る月見哉

一合升一つ買ひ申し候間、かく申し候      (酒堂宅泊)

同日    曲翠宛書簡を執筆。大坂への途中老衰のため歩行困難を極めた事、大坂での発病を伝え、曲翠の誘う大和路行脚の無理なるを訴える。
近作二句所報。游刀に託す。

           秋の夜を打ち崩したる咄かな

           此道を行く人なしに秋の暮

九月廿六日 大坂新清水の料亭浮瀬(うかむせ)に遊び、泥足予定の選集「『其便』」の為に俳諧あり。十吟半歌仙成る。〔連衆〕芭蕉・泥足・支考・游刀・之道・車庸・酒堂・畦止・惟然・亀柳(其柳)。
                           
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夕陽ヶ丘の「浮瀬亭跡」 (現大阪星光学院) 2025.6.24撮影
     
   
 廿六日、清水の茶店にて遊吟して、泥足が集の俳諧あり。

人声や此道帰る秋の暮

此道や行く人なしに秋の暮

 この日、なお二句あり。

  あるじの男の深く望みけるにより、書きてとどめ申されし。

松風や軒をめぐって秋暮れぬ

旅懐  この秋は何で年寄る雲に鳥   (浮瀬泊)

九月廿七日 園女(そのめ)亭に招かれ九吟歌仙興行。〔連衆〕芭蕉・園女・之道・一有・支考・惟然(素牛)・酒堂・舎羅・何中。       (之道宅泊)

白菊の目にたてて見る塵もなし     
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梅田・大融寺 白菊の句碑  2025.7.18撮影

 意味は「白菊の花は目を凝らしても塵ひとつ見当たらない美しさだ」ということで、園女を「白菊」になぞらえ、その風雅の美しさを讃め、句に詠んだ。西鶴や素堂からも褒められ、当時俳壇では人気の女性であった。

九月廿八日 夜、畦止亭に酒堂・支考・惟然(素牛)・泥足・之道らと会し、七種の恋を結び題にして各々即興あり(他作者略す)。 (之道宅泊)

畦止亭において即興、月下送児(げっかにちごをおくる)

   月澄むや狐こはがる児(ちご)の供 (『其便』)

同日 明夜の芝柏(しはく)亭俳諧の発句として、予め一句を送り届ける。
明日の夜は芝柏が方に招き思ふ由にて、発句遣わし申されし

        秋深き隣は何をする人ぞ (『笈日記』)

九月廿九日 芭蕉は体調を崩しながらも門人たちと盛んに句会に臨んだが、やはり無理がたたったのか、この夜から重篤な泄痢(せつり)(下痢)を催して臥床。

日を追って容態悪化す。(『追善之日記』)   (之道宅泊)

十月一日  之道宅療養。薬湯効果なし。

十月五日  この朝、西横堀東入本町の之道宅より「南御堂前の静かなる方」(追善之日記)に病床が移される(久太郎町御堂ノ前、花屋仁右衛門貸座敷と、『壬生山家集』鳥酔記に伝える)。膳所・大津・伊勢・名古屋など各地門人に急が報ぜられる。  (『追善之日記』)
当時看護の人々、支考・素牛・之道・舎羅・呑舟・二郎兵衛。

十月六日  前夕よりやや小康を得、この日は起き上がって景色など見る。 (『追善之日記』)
十月七日  正秀・去来・乙州・木節・丈草・李由ら、相次いで馳参ず。(『追善之日記』)

十月八日  之道、住吉神社に師の延命を祈願(『追善之日記』)。

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之道、住吉大社に参詣する 「反橋」2025.5.18撮影

この夜深更、看護の呑舟を呼んで墨をすらせ、口授して一句を筆記させる。

            病中吟

       旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る (『追善之日記』)

十月九日  この日、支考に対し、句の改案について談あり(『追善之日記』)。服用の後、支考に向きて「この事は去来にも語りおきけるが、この度嵯峨にてし侍る大井川の発句おぼえ侍るか」と申されしを、「あ」とこたえて、「大井川浪に塵なし夏の月」と吟じ申ければ、「その句、園女が白菊の塵にまぎらはし。是も亡き跡の妄執と思へば、なし替え侍る」とて

        清滝や浪に散り込む青松葉  翁

「青松葉」の色や形からは、夏の清涼感や生命力、そして静謐で清らかな心の情緒が感じ取れる。それは、芭蕉が最晩年に到達した、執着や未練を離れた澄み切った気持ちと重なる。

十月十日  暮方より高熱に襲われ容態急変す。夜に入り去来を呼んで密かに談話。その後支考に遺書三通を代筆させる。兄半左衛門には自筆で遺言を書く。

十月十一日 この朝から食を廃し、不浄を清め、香を焚いて安臥する。夕刻、
上方旅行中の其角が芭蕉の急を聞いて馳せ参ずる(『追善之日記』)
夜、看護の人々に夜伽の句を作らせる。丈草・去来・惟然・支考・正秀・木節・乙州(おとくに)らに句あり。このうち丈草句「うづくまる薬の下の寒さかな」のみを「丈草出来たり」と賞す。(「芭蕉翁終焉記」)

十月十二日 申の刻(午後四時頃)没す。

遺言により、遺骸を湖南の義仲寺に収めるため、夜、淀川の河舟に乗せて伏見まで上る。この折の付添人は去来・其角・乙州・支考・丈草・惟然・正秀・木節・呑舟・二郎兵衛の十人(『追善之日記』)。膳所の臥高・昌房・探志ら三名、行き違いに大坂に下る。(同)

十月十三日 朝、伏見を発し、昼過ぎ湖南の義仲寺に遺骸を運び入れる。支考が師の髪を剃り、智月と乙州の妻が浄衣を縫う。埋葬は臥高ら三名の戻りを待って明日に延期される。(同)

十月十四日 夜、子ノ刻(午後十二時頃)葬儀。同境内に埋葬する。導師、同寺直愚上人。門人焼香者八十人。会葬者三百余人。(同)

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芭蕉翁の墓(義仲寺内) 2025.7.8撮影

                                 以上  

【主な参考資料】
『芭蕉年譜大成』  今 栄蔵 角川書店 
『大阪の芭蕉俳蹟』 三善貞司 松籟社
『松尾芭蕉集』   日本古典文学全集41 小学館 
『花屋日記』    小宮豊隆 校訂 岩波文庫
『浪花のにぎわい』 原田伴彦編 柏書房
『枯野抄』その後 —芭蕉終焉の旅路- 木佐貫洋 融合文化研究 第21号




一 口 感 想


1.芭蕉最後の旅について、全く予備知識がなかったが、旅に出た理由、途中詠んだ句、死後、義仲寺に葬られるまでの道のり等々を多くの画像と共に説明して頂き、大変参考になった。歌碑やゆかりの地を是非訪れてみたいと思った。
芭蕉は最後まで旅を続け、その亡骸も大阪から滋賀まで旅をしたことを知り、これまで興味はなかったが、これから色んな所に行く都度、芭蕉の関わりを考えることになると思います。素晴らしい切り口で貴重なお話を有難うございました。 (M・T)

2.宇治と伏見で、観光ボランティアを長くやっています。伏見に数ヵ所、宇治にも2~3ヵ所芭蕉の句碑が残っています。偉大な俳人「芭蕉」を拡めたい(ガイドにて)と思っています。貴重なお話でした。(M・S)

# by y-rekitan | 2025-07-29 23:30 | 講演会・発表会

石清水八幡宮と山麓の駅 128号

石清水八幡宮と山麓の駅」

野間口 秀國(会員)

 
はじめに

 「隣の芝生」と題して、会報第116号の京田辺市編を皮切りに、約1年半に亘り八幡市に隣接する7つの市や町での出来事や歴史に関することがらなどをシリーズで報告させていただきました。第116号以降は、第119号で大山崎町、第120号で島本町、第121号で久御山町、第122号で枚方市、第123号で城陽市、第125号で京都市伏見区淀のあたり、を取り上げました。出来栄えはさておき、身近な読者より「そろそろ八幡のことを書いたら」との意見をいただきましたので、本号では表題のテーマで書いてみました。




石清水八幡宮と麓の駅

 石清水八幡宮の由緒について、「国宝 石清水八幡宮」と題する同宮の案内チラシに、 “平安時代初め、清和天王の貞観元年(859)、南都大安寺の僧・行教和尚は豊前国(ぶぜんのくに)(現在の福岡県東部と大分県北西部)宇佐八幡宮にこもり日夜熱祷を捧げ、八幡大神(はちまんおおかみ)の「吾れ都近き石清水男山の峰に移座して国家を鎮護せん」とのご宣託を蒙(こうむ)り、同年男山の峰にご神霊を御奉安申し上げたのが石清水八幡宮の起源です。そして翌貞観二年(860)、朝廷の命により八幡造の社殿(六宇の宝殿)が造営され、四月三日に御遷座されました。” と書かれています。 (転用終わり。) また、ケーブル八幡宮山上駅傍の「石清水八幡宮案内絵図」の説明文には以下のように書かれてあります。(原文のまま) “ 

・・・(略)・・。 以来、朝廷や貴族、武家の棟梁である源氏の信仰が厚く、千年以上に渡り石清水八幡宮を参詣し、社殿や堂塔を寄進しました。山腹には「男山四十八坊」といわれた僧坊が所狭しと建てられて、山のふもとには門前町が栄えました。 (以下省略)“

 上述のように八幡大神は男山の峰に移座なさり、山上には本殿をはじめとする御社殿の建物群を見ることができます。今日では車で直接山上部へ行けるようになり、またケーブルカーで山上駅まで登れますが、古くは麓から歩いて上るのが一般的であったようです。本号では山上を目指す、麓の3つの駅(橋本駅、ケーブル八幡宮口駅、石清水八幡宮駅)について書きたいと思います。

橋本駅について

 なぜ橋本駅が? そう思われるかも知れませんが、橋本駅はれっきとした山上への起点の駅と言えるのではないでしょうか。橋本駅は京阪電鉄が大阪・天満橋と京都・五条を結んで営業を始めた当初の明治43年(1910)4月から存在する駅であり、駅から境内へ向かう道筋の複数の電柱に案内表示が設置されています。表示に従い歩を進め、住宅地を抜け、さらに男山レクリエーションセンターを左手に見ながら進めばほどなく到着します。このルートは石清水八幡宮の摂社である「狩尾(とがのお)社」近くを通るので、古くは「狩尾道」と呼ばれていたようです。どちらかと言えば健脚向きと言えるかもしれません。
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境内への案内表示

 また、このルートについては、古くから八幡市橋本東原にある「猿田彦神社」(本宮は三重県伊勢市・全国に二千余社あり)との関りについて述べる必要があると思います。以下の記載内容につきましては会報第120号の村山勉氏による報告、「猿田彦神社と猿田彦大神」の一部を引用させていただきます。

 曰く、 “猿田彦神社の主祭神「猿田彦命」はニニギノミコトの天孫降臨の際に道案内をしたことが日本神話にあると伝わっています。宇佐神宮を発たれて男山に移座される時に橋本の川向の山崎にて一夜休憩され、翌朝出発されたところ、道中で猿田彦神が「男山の峰にお鎮まりになるとお聞きし、道先案内として参りました」と申され、大神様をご案内されました。村人がこの話を知り、出迎えたこの地に祠を建ててお祀りし、今日に至っています。 (引用終わり。) 上述のように、鉄道の開通に先立つこと千年以上前に、山崎から橋本を経由して男山に向かわれたことが伺えますので、麓の駅の一つとして「橋本」を外すことは出来ないと思われます。

 そして今一つ、明治10年(1877)3月、淀川の対岸に旧国鉄の東海道線が開通しました。開通後、まさにこの橋本ルートを後押ししてくれるような唱歌がありますので歌詞を記して紹介したいと思います。鉄道唱歌・東海道篇、第54番がそれです。  “山崎おりて淀川を わたる向うは男山 行幸ありし先帝の かしこきあとぞ忍ばるる” 

 “汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり・・・” と歌われたように、新橋を出た列車は京都を過ぎて山崎に止まり、そこで列車を降りて渡し舟で淀川を渡ると橋本に着きます。 歌詞にある先帝は、孝明天皇です。

ケーブル八幡宮口駅について

 麓と山上の二駅(ケーブル八幡宮口とケーブル八幡宮山上)だけで、運転時間もわずか約3分の路線が京阪電鉄に属するのか、との疑問がありましたので京阪電鉄さんに確認しましたところ、「ケーブル線は鋼索線という名称で弊社の一路線です」と教えていただきました。二駅だけですが間違いなく京阪電鉄の営業路線の一つです。京阪電鉄には、淀屋橋・三条間の本線をはじめ、京津線、鴨東線、交野線、宇治線、中之島線など複数の路線がありますが、加えてこの「鋼索線」が存在しているのです。

 ところで、麓と山上を結ぶ鋼索線は、計画時には3つのルートがありました。八幡市誌にそれらの概略が書かれておりますので紹介したいと思います。 1つ目。 大正10年(1921)9月の最初の計画案は、「当時の八幡駅と橋本駅の中間点を起点として、男山の西から南門付近に至る約1500mのケーブル線」でした。市誌にあるこの説明から、起点は麓の八幡大谷にある常昌禅院付近で、書かれた約1500mとの距離から、山上にある石翠亭付近を目指したのではないか、と想像できますが・・・、具体的な場所などは書かれておりません。

 2つ目は、同年12月の、当時の「京阪本線の八幡駅を起点に谷不動の西側山腹を通り本宮社殿近くに至る約825mの路線」ですが、これについても詳細なことは書かれておりません。

 3つ目の計画案。 これがまさに現在運行に供されている路線なのです。すなわち、「京阪本線の八幡駅(計画当時の駅名)を起点として、神應寺丘陵を隧道で抜け、本宮北門直下へ至る(現在の鋼索線と同じ)約483mの路線」です。 これら3案を比べて見ると、路線長がそれぞれ約1500m、約825m、483mと、計画案ごとに短くなっていることも分かります。計画に沿って各案を検討した結果と思われますが、それによって建設費用を削減でき、維持管理費用や乗車料金等の低減にも大きく寄与できたのではないでしょうか。

 鋼索線の麓駅の名称等の変遷を以下にまとめてみますと、(1)大正15年(1910)6月22日、男山索道株式会社により開業、時の駅名は「八幡口」、(2)その後、昭和3年(1928)5月28日、社名は男山鉄道に変更され、戦時中には金属類の資材供出要請に伴い一度は廃止される憂き目を見ました。 昭和30年(1955)12月3日、京阪電気鉄道の鋼索線として駅名を「男山」として改めて開業、(3)昭和32年(1957)1月1日、鋼索線の男山駅を「八幡町」に名称統合して本線駅と統合、(4)昭和52年(1977)11月1日、市制導入に伴い駅名を「八幡市」に変更、(5)そして令和元年(2019)10月1日、駅を再び京阪本線から分離して、駅名も「ケーブル八幡宮口」へ変更されました。 整理すると、順に「八幡口」、「男山」、「八幡町」、「八幡市」と変り、現在では5つ目となる「ケーブル八幡宮口」となりました。
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麓の駅で発車待ちの「あかね」

 また、この路線の特徴は、ケーブルの両端に繋がれた「あかね」(01号車・あかね色)、「こがね」(02号車・こがね色)と名付けられた二つの車両が、運行時に路線の中央付近(?)にある複線部分ですれ違うことです。また、令和元年(2019)6月に車両のデザインが一新され導入された「あかね」、「こがね」の車両の正面に入るシンボルマークが微妙に異なることにも興味を惹かれます。

 車窓からは、春・夏にはモミジの青が、秋には色づいた紅葉が楽しめますし、更に木津川・宇治川に架かる御幸橋が、そしてその先には京都盆地が望めます。なおこの項の最後に、昭和53年(1978)9月に、当時の皇太子ご夫妻がご乗車されたことは記しておきたいと思います。

石清水八幡宮駅について

 手許にある 『全国鉄道旅行』 昭文社(2017年4版)の京阪神圏の鉄道路線図を見ますと、行政上の市の名称が駅名として使われている駅は、南海本線の和歌山市駅、南海高野線の大阪狭山市駅、阪急電車京都線の高槻市駅、茨木市駅、摂津市駅などが有ります。同じく京阪電鉄の路線を見ますと京阪本線には守口市駅、門真市駅、寝屋川市駅、枚方市駅、(八幡市駅・2017年版に残る)などが、また交野線には交野市駅が有ります。他の私鉄に比較すると京阪電鉄には多いような気がしないでもありませんが、現在では八幡市駅は存在しません。ところで現在の駅名(石清水八幡宮)に代わったのはいつだったのでしょうか。変更の前々日(2019.9.29)に撮影した、写真3がそれを教えてくれます。
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「石清水八幡宮」駅への名称変更案内表示

 橋本駅は京阪電鉄が営業を開始した明治43年(1910)4月から存在する駅であることは既に書きましたが、同様に現在の「石清水八幡宮」駅も当初から存在する駅でしたが、駅名は「八幡」でした。 その後、昭和14年(1939)12月25日、駅名が「石清水八幡宮前」に改称されました。改称の日がなぜか12月25日であったのは興味深いことでしたが、現駅名とは一文字違い( 「前」 の有り無し)です。さらに、昭和23年(1948)1月1日、「八幡町」に、昭和52年(1977)11月1日、八幡町の市制施行に伴い「八幡市」となり、そして令和元年(2019)10月1日、本線と索道線の駅の分離に伴い、京阪本線の駅名は現在の「石清水八幡宮」へと改称されました。 改称を知った当時には、駅名から八幡市の文字が消えることに一抹の寂しさもあり、ふと「昔の名前で出ています・・」との歌詞も浮かびました。 しかし、今では寂しさも消えて「伏見稲荷」、「枚方公園」、「東福寺」駅などのように、この駅名は、ここで降りると「石清水八幡宮」があるからだ、と思えるようになりました。

おわりに

 このように、生活圏内にあり、日頃からお世話になっている駅を改めて見つめ直すと、麓にある3つの駅には、それぞれの歴史があることが分かって興味深かったです。 最近では「橋本」駅周辺がかなり変わっていること、八幡の玄関口「石清水八幡宮」駅前の再開発のグランドデザインづくりが始まったこと(京都新聞・2025.6.24)もお知らせして、本稿を終わります。






(令和7年6月26日) 一一

参考書籍及び資料等:
『八幡大神』 田中恆清監修 戒光祥出版
「国宝 石清水八幡宮」 (案内チラシ)
「石清水八幡宮 案内絵図の説明」 (山上駅傍)
「石清水八幡宮 参道ケーブルのあゆみ」 (麓の駅構内)
京阪電車 お客様センター ・ 『全国鉄道旅行』 昭文社(2017年4版)
『日本唱歌集』 堀内敬三・井上武士編 岩波書店
『八幡市誌・第三巻』 ・ 会報第116、119~123、125号





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# by y-rekitan | 2025-07-29 23:20 | 隣の芝生

四方山草紙 八幡神あれこれ考

四方山草紙
~研究の背景より綴る片隅の記~

「八幡市にお住まいの皆様なら日々親しまれる八幡宮でありますが、実は様々な起源説があることをご存知でしょうか。その御神格については古来より様々な見解が示されており、地元でも意外に知られていない諸説が数多く存在しております」

 八幡神ほど不思議な神様も珍しいものです。これほど身近な存在でありながら、『古事記』『日本書紀』には全く登場いたしません。それが『続日本紀』天平九年(737年)四月条に突然「筑紫の八幡」として現れるのですから、まさに忽然と歴史の舞台に登場したと言えるでしょう。

 この謎めいた神様の正体について、時代を追って様々な説が唱えられております。
まず応神天皇習合説ですが、これは奈良時代から平安時代にかけて確立されたもので、『東大寺要録』や『住吉大社神代記』に八幡神を応神天皇とする記述が登場いたします。面白いのは、天平勝宝元年(749年)の宣命に「広幡乃八幡(ヤハタ)大神」とあり、当初は「ヤハタ」と訓読されていたのが、神仏習合により「ハチマン」という音読に変化したことです。

 次に聖武天皇霊魂結合説は平安時代初期の政治的混乱と密接に関わります。宝亀八年五月十九日(777年)、聖武天皇の葬儀から二十九周年にあたる日に八幡神が「出家」し、天応元年(781年)に「八幡大菩薩」の号が贈られました。これは聖武天皇の血統が絶えた後の天災を、聖武天皇の祟りと恐れた朝廷が、八幡神と習合させることで鎮めようとした結果と考えられております。

 一方、現代の研究では新たな視点から諸説が提起されております。外来神説は八幡神がもともと渡来系の神であったとする説で、豊前の土俗的信仰と新羅系の信仰が統合されて八幡神信仰の初期形態が整ったとされます。また母子神信仰遺存説は現代の民俗学的視点から、神功皇后と応神天皇の母子神信仰が八幡信仰の原型であったとする説です。さらに政治的抗争巻き込まれ説では、八世紀前半の隼人の乱や藤原広嗣の乱の鎮圧に活躍した勢力が背景にあり、当時の仏教政策を巡る朝廷内の対立に八幡神が巻き込まれたとする見方があります。

 さらに興味深いことに、現代ではユダヤ系説や中国系説といった国際的な視点からの説も登場しております。ユダヤ系説では「ヤハタ」がヘブライ語でユダ族を意味する「ヤフダ」に由来するとし、秦氏がユダヤ系渡来人であったとする見方です。一方、『八幡宇佐宮御託宣集』には「古吾は震旦国の霊神なり。今は日域鎮守の大神なり」という八幡神自身の託宣が記されており、中国系の神であったことを示唆する記述もあります。

 このように八幡神の起源については、古代からの習合説と現代の学術的推論が入り混じり、さらには国際的な視点まで加わって、まさに日本宗教史の複雑さを物語っております。記紀に登場しない謎の神様が、なぜこれほどまでに全国に広がったのか。その答えは、これらの諸説が示すように、時代とともに変化し続けた八幡神の多面性にあるのかもしれません。

本日の四方山草紙は、これにて巻を閉じさせていただきます。

片隅生 記
四方山草紙 八幡神あれこれ考_f0300125_16263484.jpg

# by y-rekitan | 2025-07-29 23:00 | 事務局だより