四方山草紙 連歌千年の流れ 131号

四方山草紙
~研究の背景より綴る片隅の記~


連歌千年の流れ -「私」から「私たち」へ-


 一人で詠む和歌と、複数で詠む連歌では、何が根本的に違うのでしょうか。和歌は一人で完結する「私」の表現、連歌は複数で紡ぐ共同の営み——そう言ってしまえば簡単ですが、この違いには、深い意味が隠されているように思えます。本日は、連歌という不思議な文芸の歴史を、奈良時代の始まりから明治時代の俳句の誕生まで辿りながら、「共に詠む」ことの意味について、少しお話させていただこうと思います。

起源:贈答歌から短連歌へ
 連歌の源流は、奈良時代の贈答歌文化にさかのぼるとされています。万葉集には、大伴家持(おおとものやかもち)と尼との唱和のように、一首の短歌を上の句と下の句に分けて詠み合う例が見え、これが「短連歌」と呼ばれる形の始まりとされています。たとえば「佐保川の 水を堰き上げて 植ゑし田を」という上の句に、「刈れる初飯は ひとりなるべし」と尼が下の句を付けたと伝えられます。表面的には田植えと収穫の歌ですが、「植ゑし田」に娘を育てた苦労を、「初飯」にその成果を重ね合わせた、機知に富んだ恋のやりとりだったとも解されます。一人で完結する歌ではなく、相手の言葉に応じて自分の言葉を差し出すという、応酬のかたちがすでに生まれていたわけです。

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大伴家持(狩野探幽『三十六歌仙額』)

 平安時代になると、宮廷社会では和歌の贈答が人間関係を調整する重要な道具となります。恋の駆け引き、政治的な配慮、晴れの儀式でのやりとりなど、和歌は単なる個人の表現を越え、場と場、人と人をつなぐ媒介として機能しました。短連歌もまた、その中で「相手の言葉を受けて応じる」遊びとして育まれ、やがて複数人が次々と句を継いでいく連鎖表現へと発展する素地を形作っていきます。詩を「送り、受け取る」こと自体が、一つの技芸になっていきました。

中世:百韻と天神信仰
 鎌倉時代に入ると、連歌は大きな転換期を迎えます。一首を二人で分け合う短連歌から、百句をひとまとまりとする「百韻(ひゃくいん)」の形式が整い、「前の句との関係」や「季節・恋・月・花」などの配り方を定める規則(式目)がしだいに整備されていきました。多人数が長時間にわたって句を継いでいく以上、座の全員が共有できる「約束事」が必要とされたのです。

 この時期に見逃せないのが、菅原道真を祀る天満宮との結びつきです。連歌会はしばしば「天神さま」への奉納として行われ、和歌・連歌の巧みさそのものが、学問と文才の神への祈りと感謝を表す行為となりました。そこでは、「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり」といった、四季の推移を典雅に詠み分ける句が、座の祈りとして天神に捧げられたと伝えられます。座に集う人々が、句をつなぐことを通じて神とつながり、一つの「捧げもの」を作り上げる営みが、そこにはありました。連歌は、ただの遊びではなく、「祈りを言葉のやりとりに託す」実践でもあったのです。

室町:式目と「座の文化」
 南北朝から室町時代にかけて、連歌はまさに黄金期を迎えます。二条良基(にじょうよしもと)は『応安新式』などで、前句との関係、季語の配置、同じ題材の繰り返しを避ける工夫などを体系化し、連歌の式目を高度な「作法」として整えました。例えば、月の句の直後には空や雲を詠むことを避けるなど、連想が単調にならないように配慮する規則が設けられます。これは、一人の天才のひらめきではなく、座に集う複数の詠み手が、互いの技量と趣向を尊重しつつ、全体として豊かな流れを生み出すための知恵でした。

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宗祇像 (山口県立山口博物館所蔵)

 やがて宗祇らの手によって、こうした規則を踏まえながらも、格調高く優美な「正風連歌(しょうふうれんが)」が確立されます。文明二年(一四七〇年)春、摂津国水無瀬の離宮で、宗祇、肖柏(しょうはく)、宗長(そうちょう)という三人の名手が、一夜のうちに百韻を詠み上げました。月が昇り、夜が更けていく中で、三人は互いの句を受け止め、次の人のために言葉の余白を残しながら、春から夏へ、恋から旅へと、季節と情景を巡らせていきます。「花の陰 菊に移ろふ 月影や」——春の花の下にあった月影が、季節の巡りとともに菊の上に移っていく。花から菊へ、春から秋へという移ろいを、三人の詠み手が受け渡しながら描き出しているのです。この『水無瀬三吟百韻(みなせさんぎんひゃくいん)』は、正風連歌の最高傑作として後世に語り継がれることになります。

 一句一句は独立しながらも、全体としては季節が巡り、恋が訪れ、旅や世相がさりげなく織り込まれていきます。一人の作者が書く長編作品とは異なり、連歌は「座の文化」として、その場に集った人々の感性が即興的に響き合い、一回性の作品を生み出す場となりました。座の空気が最高潮に達したとき、個々の詠み手の技量を超えて、座全体がひとつの生き物のように息づく瞬間——それを連歌師たちは「一座建立(いちざこんりゅう)」と呼びました。

戦国:武将の教養と俳諧の芽生え
 戦国時代になると、連歌は武家社会の中にも深く入り込んでいきます。その立役者となったのが、大和(奈良)生まれの連歌師・里村紹巴(さとむらじょうは)です。紹巴は織田信長、豊臣秀吉という天下人に仕え、戦国一の連歌師として各地を往来しました。天正十年(一五八二年)、明智光秀が本能寺の変の直前に催した愛宕百韻(あたごひゃくいん)では、光秀が発句「ときは今 あめが下しる 五月かな」と詠み、紹巴が三句目に「花落つる 池の流れをせきとめて」と付けています。合戦前の祈りの場で、主君と連歌師が言葉を重ねてゆく光景には、緊張と親密さが同居していたに違いありません。

 連歌会は、戦勝祈願や和平交渉の席などでも開かれました。刀と槍がものを言う時代にあっても、武将たちは言葉を介して心の内を整え、主従や同盟者との距離を測り直していたのです。形式に則った一つ一つの句が、その場に集った面々の性格や立場、思惑までも映し出していました。

 一方で山崎宗鑑らは、こうした格式高い連歌から一歩外れ、滑稽・諧謔・俗世間の匂いを積極的に取り込んだ「俳諧連歌」を生み出しました。たとえば「柳散る 池の蛙も 老いにけり」といった句には、自然の景とともに、どこか自嘲めいた人間味がにじみます。寺社や武家屋敷だけでなく、町や村の人々も参加しやすい、よりくだけた座が各地に生まれていきました。そこでは笑いや皮肉も含めた言葉のやりとりが、人々のあいだの空気をやわらげる役割を担っていたはずです。

近世:歌仙から俳句へ
 江戸時代に入ると、三十六句を一巻とする「歌仙(かせん)」が広く行われるようになります。百韻よりも短く、しかしなお座のやりとりの醍醐味を味わえるこの形式は、町人文化の中で花開いた俳諧の主流となりました。松尾芭蕉もまた、この歌仙を通じて数多くの作品を残し、旅の途中のささやかな出会いや、自然の移ろいを、仲間たちとの掛け合いの中に封じ込めていきます。その芭蕉の代表的な発句として知られる「古池や 蛙飛びこむ 水の音」も、もともとは連歌・俳諧の座で詠まれた一声でした。一瞬の静寂と音の対比、その余韻を、同席する仲間たちと共有した情景が思い浮かびます。

 この時代、連歌や俳諧の巻き始めに置かれる「発句(ほっく)」は、あくまで座の連なりを開く役割を担いながらも、とりわけ洗練された一句として重んじられていきます。やがて、この発句が次第に独立性を増し、季語と切れを備えた短詩として鑑賞されるようになると、「ひとつの句だけを味わう」という楽しみ方が徐々に広がっていきます。

 明治時代に入ると、正岡子規が、それまで俳諧の発句と呼ばれてきた十七音の短詩を、連句から切り離して独立した詩の形式として位置づけ直し、「俳句(はいく)」という新しい名で呼ぶことを提唱します。その結果、発句は連歌・俳諧の巻頭句という性格を離れ、一人の作者が完結した作品として詠む短詩型へと再定義されていきました。形式としては、一人で詠む短詩に戻ったように見えるかもしれませんが、その背後には、座で磨かれた感性と、前後の句との関係を意識する「連鎖の美学」が息づき続けていたと言えるでしょう。

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正岡子規 (国立国会図書館)

結び:「私たち」をつくる文芸として
 こうして連歌の歴史を振り返ってみますと、時代ごとに姿かたちは変えながらも、ある種の共通した"場の在り方"が浮かび上がってきます。贈答歌のやりとりから始まり、天神さまへの奉納、座付きの作法、戦場前夜の祈り、町人たちの笑いを交えた興行にいたるまで、連歌はいつも、誰かと誰かが向かい合うところに置かれてきました。

 和歌が「私」の心を磨くものであるならば、長い歴史の中で育まれてきた連歌は、「私たち」という関係のかたちを、さりげなく映し出してきました。前の句を読み取り、次の人のために余白を残し、座全体の流れを乱さないように気を配るという営みの中には、日本人が長く大切にしてきた、間合いの取り方や遠慮の美学がにじみ出ています。千年の時を経て、形式は俳句へと移り変わりましたが、句会や歌会、あるいは地域のささやかな集まりの中で、言葉を介して人と人がつながるという感覚は、今もどこかで息をしています。

 一人では生まれ得なかったものが、場をともにしたときにふと立ち上がってくる——連歌という文芸は、その瞬間をとらえるための、古くて新しい器でした。では、今を生きる私たちは、どのような「言葉の座」を、これから先の時代に向けて紡いでいけるのでしょうか。八幡の地にも、かつて連歌を楽しんだ人の痕跡が残されています。その足跡を、いずれ稿を改めてたどってみたいと思います。

 本日の四方山草紙は、これにて巻を閉じさせていただきます。


片隅生 記


# by y-rekitan | 2026-01-30 10:00 | 事務局だより

時々バードウォッチング 131号


時々バードウォッチング

谷村 勉(会員)

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① ヨシゴイ
 この鳥はなんだ! 2025年7月、裏山に続く庭の木に止まっていた。庭に来る鳥の名前はかなり知っていると思っていた(観察員の経験あり)が、初めて出会った。珍しい鳥に出会うと何か良いことがありそうで楽しい、

早速、写真を撮り調べると、サギ類の中で最も小さいヨシゴイという鳥であった。サギ類のコサギ、ゴイサギ、アオサギ(最大のサギ、羽を広げると約1メートル)はいつも大谷川で見ている。ヨシゴイは主に池や沼、川岸、休耕田などで、アシ、マコモ、ガマ類などの背の高い単子葉植物が茂った湿地に生息する。最近は淀川の河川敷などのアシやマコモなどの湿地性植物や雑木が綺麗になくなり、住処を追われたのだろうか? そういえば言えば、キジの鳴声も全く聞かなくなった。バッタ類の昆虫も激減し、ほとんど見なくなった。

 東南アジアから渡って来たヨシゴイにとっては気の毒に思えた。このヨシゴイは頭上が綺麗な赤褐色、下面に褐色の縦斑があるので雌(メス)であった。雄(オス)は頭上が黒く、体が黄褐色、飛ぶと風切りが黒い。
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②ウラルフクロウ
 数十年前に一度飛ぶ姿を見たことがあった。男山の峡谷で音もなく飛ぶ姿を見て驚いた。その時以来の出会であったウラルフクロウであるが、1月の寒い日、やはり裏山に続く柿の木の枝に止まっていた。

 普段、夜行性であるため、滅多に出会うことはないが、夏の夜になるとフクロウの鳴声はよく聞こえてくる。夕暮れ時には山から山へ音もなく飛んでいく姿を時々目にしていた。  日本では九州以北から四国、本州、北海道にかけて分布する留鳥で定住性が強く、平地から低山,亜高山帯にかけての森林や里山に生息する。大木のある社寺林や公園で見られることがあるらしい。以前は八幡宮本殿近くの楠木にとまっているのをよく見かけた。

 梟や珍しい鳥、滅多に見ない小動物がたまに現れた時、必ずなにか良い知らせを持ってきてくれるので、楽しみにしている。



# by y-rekitan | 2026-01-30 09:00 | 八幡さんの自然

◆会報第130号 目次 2025年11月







# by y-rekitan | 2025-11-30 23:00

二宮忠八は渡し舟でやって来た 130号




心に引き継ぐ風景・・・(61

二宮忠八は渡し舟でやって来た
―『虹の翼』吉村昭より― 
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山崎側からの男山(石清水八幡宮とその史蹟)

 慶応2年(1866)、愛媛県の八幡浜で生まれた二宮忠八が京都府八幡の橋本を訪れたのは、京阪電車が開通する(明治43年)2年前の明治41年の早春の頃だった。明治39年11月、京阪電気鉄道株式会社が創立されて、用地買収も終わり、路線測量が始められた。

 忠八は京阪電車の線路敷設予定地域での測量を眼にするために、橋本に着いた。「かれは、大阪から汽車に乗り、山崎でおりた。それから10分余り歩くと淀川の渡船場についた。背後には天王山、淀川をへだてて男山が見え、彼は風光の美しさにみほれた。淀川には、大阪、京都間に外輪式汽船が定期的に往来していて、ちょうど汽船が外輪をまわし水しぶきをあげながら上流にむかって進んでゆくのが見えた」(『虹の翼』(吉村昭))

しかし、忠八が橋本へやって来た当日は測量が行われていなかったことを船宿の人から聞いて失望したが、かれは丘陵の上にある石清水八幡宮に参詣した。船着き場に戻って、しばらく川沿いを上流に向かって歩くと、碑があって故郷と同じ八幡浜の字が刻まれていた。「なにか自分と深い関係がある土地のようにも思えてきた」とある。

当時、橋本の渡し舟は山崎と橋本を結ぶ重要な交通手段で、明治以降も多くの文化人が往来した。谷崎潤一郎が『蘆刈』に描いたことで知られるが、歌人の吉井勇、東大寺別当上司海雲、陶芸家河合卯之助なども利用し、そして二宮忠八もまた舟に乗って訪れた。のちに吉村昭は、忠八の二男・顕次郎氏から父忠八の日記が蔵から見つかったと聞き、その貴重な資料を拝見している。資料を重んじる吉村は、この発見を契機に改めて忠八という人物を深く追った。

(文と写真 谷村 勉)空白


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# by y-rekitan | 2025-11-30 22:00 | 心に引き継ぐ風景

狩尾社本殿の修理からみえてくること  130号

《講演会》


重要文化財石清水八幡宮摂社
狩尾社本殿の修理からみえてくること 



京都府教育庁指導部文化財保護課    村瀬 由紀史



1.概要

(1)石清水八幡宮の歴史
石清水八幡宮は、桂川・宇治川・木津川の三川が合流して淀川となる地の南側、男山丘陵上に鎮座する。その創建は、貞観元年( 859)に南都大安寺の僧・行教が宇佐八幡宮にて八幡神の神託を得たことを受けて、清和天皇が三宇ずつの正殿・礼殿を造立したことことにはじまると伝えている。
その後、石清水八幡宮は皇室の霊廟に位置付けられるとともに、八幡神を源氏の守護神とみなし、中・近世を通じ広く武家の信奉を集めた。現在の社殿の多くは寛永8~ 11年( 1631~ 34)にかけて徳川家光により再建されたもので、このうち本社本殿を含む 10棟が国宝に、摂社等8棟が重要文化財に指定されている。

(2)摂社狩尾社の沿革
狩尾社は、本社西方の飛地境内に鎮座する境外摂社で、大己貴尊・天照大神・天児屋根命を祀る。創建は詳らかではないが、八幡神が男山へ勧請されたことに伴って、当地の地主神が場所を移したものと伝わる。現本殿は、慶長6年( 1601)に、当時社務職を務めていた田中秀清の縁戚にあたるお亀の方(徳川家康の側室、尾張徳川家始祖義直の母、相応院)が本願人となって建てられたもので、石清水八幡宮に現存する最古の建物になる注 1。
社殿は、三間社流造、檜皮葺で、基壇は正面を切石積、側背面を野面石積とし、礎石上に土台を組んで身舎柱を立て、身舎は外廻りを板壁に木摺りを打ち付けて設けた漆喰壁とし、内部は間仕切りを設けて内陣と内々陣に区画し、身舎の正面に棚・浜床を設け、庇柱の端部から側背面にかけては延石上に板玉垣を廻らせるというものとしている。
建物全体には丹塗を基調とした塗装が、庇部分の柱上部から組物にかけては彩色が施される。
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(3)事業の概要
修理前の建物は、基壇石積が孕み、一部が崩落していたため、礎石が不同沈下して全体に著しい歪みを生じていた。また、屋根の檜皮葺の破損が進み、応急処置として部分的に鉄板が葺かれる状況となっていた。この他に漆喰壁や塗装の剥落も進行していた。
以上のような状況から、令和3年( 2021) 11月から令和7年( 2025)3月にかけて、修理方針を解体修理とする保存修理事業を実施した。事業では、基壇の石積を積み直し、木部の補修と組立、屋根の檜皮葺の葺き直し、漆喰壁・塗装・彩色の塗り直しを行った。
なお、基本的には建物の姿が最も整っていたと考えられる寛永修理後の状況に復することとしたが、彩色については寛永修理時の状況が十分には確認できなかったことから、延享4年の修理後から江戸後期までの姿に復することとした。ただし、庇頭貫の波に龍の図柄については痕跡が十分に残っていなかったため、弁柄を塗って整備することとした。

2.建物の変遷

(1)建立と前身建物
慶長建立時の姿は、基壇は正面まで同高の野面石積、庇柱と板玉垣は礎石建としていたと考えられる(図4)。
なお、建立年代を明確に示す史料は発見できなかったが、年輪年代測定で 1598年頃の伐採とみられる壁板が確認され、土壁の納まりからは建立以降に軸部の解体が行われていないことから、慶長6年 (1601)の建立が裏付けられた。
一方で、柱・梁・桁・天井材など、主要部材の多くには転用された材料が用いられていて、その寸法・形状からは、現状とほぼ同規模・同形式の前身建物が存在し、部材が再用されている可能性が考えられた。
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(2)寛永19年(1642)の改変
寛永 19 年に屋根葺替のほか、社殿の修理が行われ、身舎内部に間仕切りが設けられた(写真2)。また、基壇の正面側の石積を一段低くして切石積として積み直したほか、庇柱から玉垣下に延石を廻らせ、これに伴って玉垣板の取付位置が上げられた。なお、寛永年間に本社や摂社等の再建が行われていることから、これらの一連の改変は他の摂社の形式に倣って行われたものとみられる。
その後、寛文5~7年( 1665~ 67)に屋根葺替が行われ、この際には屋根葺材が木賊葺に変更された。また、正徳元年( 1711)には屋根葺替と彩色修理が行われ、この際には屋根葺材がこけら葺に変更されたものと考えられる。 
      
(3)延享4年(1747)の改変
延享4年の屋根葺替では小屋組の修理が行われ、正面流れの小屋組材が丸太を用いたものに一新された。また、棟通りは登梁を合掌に組んだ上に束を立てる形式から、地棟に束を立てて野棟を受ける形へと変更した。屋根葺材は檜皮葺に復されたが注 2、野小舞は間隔を変えずに幅の狭いものへと取り替えられ、棟積が現状の成の高い棟積に変更された。
その後、安永9年( 1780)、文政2年( 1819)に屋根葺替・部分修理が行われた。文政2年の修理では、正面側の小屋組の修理が行われ、この際に一部の打越垂木を切断して庇桁より先を取り替え、化粧裏板の張替えを行った。また、登梁を引き出して杓子枘を彫り直すとともに、野木舞下に野地板を追加し、南東庇柱と庇格子戸・棚板・身舎床板・床束等の一部取替えも行ったものと考えられる。さらに、文久2年( 1862)に屋根葺替・部分修理を行い、この際に檜皮葺の軒付が蛇腹板から裏板を用いるものに変更されたとみられる(図3)。

(4)近代の修理・改変
近代に入ってからは、明治7年( 1874)に屋根の部分修理を、同 20 年に屋根葺替・部分・塗装修理を行った。同 41 年に屋根葺替と玉垣の塗装修理を、同 43 年には基壇の背面東半の石積が崩落したことから、花崗岩割石を用いて積直しが行われた。
その後、昭和2年( 1927)に屋根葺替・部分修理を実施、この際に正面木段・雨除板の
取替え、玉垣延石の据直しを行い、繕い部分に古色弁柄塗を施している。同 25 年7月には屋根の小修理を行ったものの、9月のジェーン台風により被災、翌 26 年までに棟積の復旧と塗装修理が行われた。昭和 35 年には屋根葺替・彩色修理を実施、現状の彩色はこのときに施されたものと考えられる(図2)。直近の屋根葺替は昭和 58 年頃に行われている。

3.建物の塗装及び美装

(1)現状の彩色
修理前の本殿は、全体的に鉛丹が塗られ、彩色は、庇柱に金襴巻が、組物及び蟇股股繰見付に繧繝が施され、庇頭貫の見付には波に雲龍を描いた板絵が張り付けられていた。庇柱の金襴巻は、正面から側面、背面へといくに従い図柄が省略され、組物の見込・見返し図5 現状彩色(上左:庇柱金襴巻、上中:蟇股、上右:組物、下:庇頭貫板絵)と花・実を除いた部分の蟇股彫刻は、鉛丹若しくは合成ウルトラマリンを用いて塗り潰されていた(図2・5)。
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(2)単色塗
単色塗の変遷については、塗膜の重なりを修理時期に比定するとともに、顔料の蛍光 X線分析と溶剤のガスクロマトログラフィー質量分析を行って確認をした。この結果、ほとんどの部材で木地が赤く染まっていることから、建立当初は弁柄で塗装されていたもの推測された。ただし、蟇股彫刻には彩色が施されていたほか、正面庇の竹ノ節欄間には、黒色のチャン塗が施されていたものと考えられた(図4)。
その後は、昭和 26年に弁柄と乾性油・フタル酸樹脂・カゼインを用いて塗り直し、昭和35年に弁柄を鉛丹に代えて合成樹脂を用いて塗直しが行われたものと考えられた注 3 , 4。

(3)彩色
建立時の単色塗の状況から、最下層で見つかった彩色の痕跡は、寛永期に初めて施されたものと考えられた。確認できた図柄は、身舎柱・庇柱は金襴巻、庇頭貫は熨斗、庇・身舎軒桁は波、内法長押・繋虹梁・舟肘木は牡丹唐草、組物は繧繝となっていた。
その後、延享4年の修理では、庇頭貫が波に龍に、舟肘木が繧繝に、内法長押が別種の牡丹唐草に塗り替えられた(図3・6)。また、明治 20 年の修理では、身舎柱の金襴巻の剣先紋、舟肘木と組物・蟇股の彩色のみを残して弁柄で塗り潰され、さらに昭和 35 年の修理では、題材を一新して現状の彩色に改められた。
なお、これらの彩色に使用された顔料及び染料は、蛍光 X 線分析及び残存塗膜片の顕微鏡観察の結果、一般的な青・赤・緑・紫・茶の五色ではなく、青・赤・緑の三色を基調とした塗分けが行われているものと判断した。赤色塗料には朱・弁柄が、青色塗料には群青・藍・花紺青(スマルト)が、緑色塗料には緑青・花緑青が、黄色塗料には石黄・藤黄・黄土が確認されており、塗膜層の重なりや顔料の使用された時代から推測して、青色は群青、藍を経て花紺青へ、緑色は緑青から花緑青へと使用塗料の変更があったものとみられる。
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(4)前身建物部材の再用における「洗い」の技法について注 5

身舎内部の内法長押には前身建物の部材が再用されていたが、これには幣軸の取付痕があることから、旧は外部で使用されていたものとみられた。この木地表面は初期台鉋で加工されているが、風蝕が僅かに残っている箇所が確認できたことから、再用にあたって木地表面を台鉋でこそげる「洗い」がかけられているものと推測された。こそげによる洗いの技法は、古代より建物の修理・移築・古材再用等の際にみられるもので、唐招提寺講堂の建治元年( 1275)解体修理や當麻寺本堂の前身建物部材の再用等でも確認されている。
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また、身舎内部の小組格天井は、前身建物に用いられていた折上小組格天井を転用しているものと考えられ、折上部分の再用材に補足材(建立時の当初材)を継ぎ足して組まれていた。再用材にはヤリガンナの、補足材には台鉋の加工痕が残っていたが、再用材にはこそげによる「洗い」はかけられていなかった。一方で、再用材と補足材の木肌の違いを隠すために、双方に古色が塗られていたと推測され、部材の周囲には古色塗料による液垂れの痕が確認できた。なお、この古色については、弁柄が薄く残る所があることから、墨を溶剤に溶かして弁柄で色味を整えたものが塗られていたとみられる。溶剤は現在と同様の水か柿渋が想定されるが、成分の特定には至らなかった。

〔注〕
1.「某社棟札之写」(『史料纂集〔古文書編〕30』「石清水八幡宮外」筑波大学所蔵文書下所収)による。
2.小屋裏より発見した延享4年( 1747)修理棟札の記述による。
3.大沼清利「塗装技術発展の系統化調査」(『国立科学博物館 技術の系統化調査 第 15 集』所収、平成 20 年)より、日本のフタル酸樹脂塗料の市場導入は昭和6年( 1931)から、石油化学の発展による合成樹脂の登場は戦後からとされている。
4.柳澤誠一「接着剤技術の系統化調査」(『国立科学博物館 技術の系統化調査 第 17 集』所収、平成 24 年)より、カゼインは大正5年( 1916)から日本への輸入が開始されている。
5.節中の再用材・転用材・補足材の名称は、構成部材調書における再用・転出・補足の区分に準じた。
〔参考文献〕
1.北野信彦『建造物塗装彩色史の研究』、雄山閣、 2022 年
2.今井成享『チャン塗と唐油彩色-近代建築塗装史の研究-』、江東錦精社、 2023 年
3.中山利恵『「洗い」の日本建築史 建築の経年と木肌処理技術』、東京大学出版会、 2024 年





 
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# by y-rekitan | 2025-11-30 20:00 | 講演会・発表会