人気ブログランキング | 話題のタグを見る

◆会報第109号より-top

◆会報第109号より-top_f0300125_18401211.jpg

この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。

この号が最新号です。
最新号に限ってはスクロールで5記事ずつの一気読みができます。

◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景”㊵◆
◆《講演会》石清水八幡宮の文化財につて(前編)◆
◆シリーズ:“「吉野詣記」を歩く” ①◆
◆シリーズ:“私の歴史さんぽ” ⑦◆
◆シリーズ:“変わりゆく橋本の町” ④◆
◆「2022年度年次総会」報告◆



<< ひとつ新しい号へ   < TOPに戻る >   ひとつ古い号へ >>


スクロールによる、号全記事の一気読みはできなくなりました。
よって 《タイトル一覧》 から直接選択して頂くか、
下端の >> で1記事ずつめくってご参照ください。



# by y-rekitan | 2022-05-23 15:00

◆会報第109号より-01 道標物語②

◆会報第109号より-01 道標物語②_f0300125_16115857.jpg


心に引き継ぐ風景・・・㊵


「八幡宮道」道標物語 ②

往生礼讃道標
◆会報第109号より-01 道標物語②_f0300125_09310391.jpg
 数ある「八まん宮道」道標の中で最高傑作といわれる「往生礼讃道標」は、圧倒的な存在感を放っています。場所は下奈良隅田の「井関墓地」の入口で、川口の南方面から1号線に抜ける途中にあります。嘉永四年(1851)建立の道標正面には卓越した技量の石工による「阿弥陀三尊来迎図」の浮彫が鮮やかに残り、その下部に法然上人と、師である善導大師も描かれています。右面には「願共諸衆生 往生安楽国」(願わくば、衆生と共に、安楽国(極楽浄土)に往生せん)とあります。善導大師の『往生礼讃』の中に繰り返し出てくる言葉です。三尊像は寺院や美術館で拝観、鑑賞することはありますが、道標に彫られた阿弥陀三尊像を見るのは初めてで、郷土史を研究する人々には文化財の豊富な八幡の底力を感じさせる場面です。
 左面上部に「南無阿弥陀仏」、その下部に「右 うじ・左 よど 道」とあります。八幡は浄土宗が盛んな地で、江戸時代には浄土宗の寺院は九十六カ寺を数え、その内の三十六カ寺が御朱印寺で徳川家康から領知朱印状を給っています。墓地の西側男山方向には「獅子塚跡」の三宅安兵衛遺志碑が立っています。
 なお「往生礼讃道標」は岡山大学名誉教授馬場俊介氏の学術情報データベース「近世以前の土木・産業遺産」の中で京都府下の道標では唯一Aランクに登録されました。(会報92号2019.07.24) 
(文と写真 谷村 勉)空白


<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒


# by y-rekitan | 2022-05-23 12:00

◆会報第109号より-02 八幡宮文化財①

◆会報第109号より-02 八幡宮文化財①_f0300125_23262477.jpg
《講演会》

石清水八幡宮の文化財について
2022年4月
八幡市文化センター第3会議室にて

西 中道(石清水八幡宮 禰宜)
   
 4月22日(金)に八幡市文化センターにて年次総会に引き続き、表題の講演会を開催しました。講演会参加は44名でした。多くの参加者からは大変好評な感想を寄せられています。講演会の会報掲載用記事は、ご多忙な講師の西中道禰宜に詳細な詳細な原稿も作成していただきました。
 原稿は長文ですので、本号と次号会報110号(7月発行予定)と2回に分けて掲載します。(会報編集担当)

はじめに

 私は東京杉並の出身で、神社とは関係のない家庭に生まれ育ったのですが、父がよく神社やお寺に私の手を引いて一緒にお参りに行ってくれたお蔭でしょうか、そうした神社に象徴されるような「古き良き日本」に幼い頃から親しみを覚えていたように思います。
 中学生になると、『古事記』や『日本書紀』などを一冊にまとめた『神典』という書物を古本屋で父に買ってもらい、これは「総ルビ」でしたので、中学生の私でも『古事記』を言葉に出してスラスラ読めるようになりました。◆会報第109号より-02 八幡宮文化財①_f0300125_11164692.jpg 高校卒業後は、父や兄の勧めもあり、國學院大學の文学部神道学科に入学し、そこで4年間、神職になるための教育を受けることになりました。『古事記』『日本書記』などの「神道古典」、正座や拝礼作法等から始まる「祭式同行事作法」、「祝詞作文」、神道以外の諸宗教を学ぶ「世界宗教史」や「宗教学」、本居宣長・平田篤胤ら国学の基礎などを学ぶ「神道思想史」、その他さまざまな科目がありましたが、私はさほど真面目な学生ではなく、仲の良い友人らとよく授業をサボって色々なところへ「探検」に行ったりしていました。そうした探検の中には、当時渋谷の街頭で盛んに勧誘活動をしていた新興宗教のセミナーなどに冷やかし半分で参加するような、かなり危なっかしい行動もあったのですが…。
 また、大学時代には「民俗社会研究会」というサークルに入会し、柳田國男や折口信夫によって確立された日本民俗学を学び、春休みや夏休みには泊まりがけで東北地方や信越方面の山村に分け入り、古老と呼ばれる人々を訪ねて昔話や信仰習俗などの聞き取り調査を行うといった活動にも度々参加しました。そうした経験を通じて、大学の神道学科で学ぶ国家的な神道や、神道学者が説くような難解で専門的な知識を要するような特殊な神道とは別の、ごく普通の人々が習俗として受け入れてきた神道、民間信仰とか民俗神道というものの重要性を肌で実感するようになりました。この経験は、私にとって大きな財産になったと思いますが、その一方、この常の民、「常民」という概念を拠り所とする民俗学の「限界」もどこかで感じていました。神職になろうとしている私は、果たして「常民」なのか、むしろ「非常の民」であることを自覚する必要があるのではないか、といった思いから、少し大袈裟な話ですが、大学の卒業論文―「案山子の研究」というテーマでした―の中で、私は密かに「民俗学との決別」を宣言したのです。
文化財との出会い

 学生時代の個人的な話はさておき、あれこれ紆余曲折を経て八幡様との御縁をいただいた私は、昭和52年4月から石清水八幡宮に奉職することが決まりました。そこからまた色々な出会いがあり、新たな展望が開けていきました。
 私のような関東出身の人間にとって、近畿圏というのは正に歴史の宝庫です。広い関東平野全体を見渡してみても、名所旧跡の類いは疎らにポツンポツンと点在するだけで、しかもその多くが近世以降の浅い歴史に限られますが、こちらに移り住んでみると、もっと古い時代の歴史上のエピソードに由来する石碑などがあちこちに立っていて、何気ない日常風景の中に積み重なった歴史の厚みというものに改めて驚かされました。
 石清水八幡宮に就職して二年目に車の免許を取得し、中古車を購入してからは、休みのたびにマイカーを運転し、あちこち名所旧跡巡りに出掛けました。古墳、特に天皇陵なども随分お参りしました。むろんカーナビもパソコンもスマホもない時代、御祭神の神功皇后陵や応神天皇陵はもとより、石清水八幡宮の創建に深く関わる文徳天皇や清和天皇の御陵なども、地図を頼りにやっとの思いで辿り着いたものです。
 関東にいた頃は、平安時代などというのは途方もなく古い時代だと感じていましたが、こちらに来てみると、それほど遠い昔ではないなぁ、と思うようになりました。もっと遡れば、古墳時代も当時の古墳が今も変わらぬ位置にあって、ほぼ原型を保っているということからすると、つまりは今と同じステージ上にあって、古墳時代と現代人との間に決定的な断絶はない、と確信が持てるようになりました。50万年前とか百万年前といった地質学的な年代スケールになると話は別ですが、数千年程度の時間差はたいしたギャップではない、ということです。
 そんな中、奉職して5年ほど経つと、私は「石清水八幡宮研究所」という小規模な組織の担当を命ぜられました。同研究所は、石清水八幡宮の所蔵する膨大な「文化財」、特に古文書類の管理・研究等を神社から委嘱された國學院大學史学科の教授や講師らを中心とする組織で、当時は同大学教授・村田正志主任研究員の下に、石川晶康、田中君於両研究員がおられ、さらにその助手として、当時はまだ大学院生だったと思いますが、鍛代敏雄氏も加わって、年に3~4回ほどのペースで東京から石清水八幡宮に来られ、3~4日滞在する間に、膨大な古文書類の整理や調査に当たっておられました。私は神社の担当職員として、先生方の宿泊の手配や車での送迎、収蔵庫から社務所への古文書の運搬、採寸や写真撮影の補助等といったお手伝いをさせていただきました。古文書学や歴史学の専門家ではない私も「門前の小僧」となって、それなりに古文書の取り扱い方や読み方のコツなどを習得していったように思います。と言っても、基本的には今も素人であることに変わりはなく、偉そうなことを言える立場ではありませんが…。そうこうするうち、世は昭和から平成へと御代替わりの時を迎え、私の運命も大きく変転することになります。

平成の御大礼に奉仕して

 平成元年9月、当時は権宮司であった現在の田中恆清宮司から呼び出され、宮内庁への出向を命ぜられました。宮内庁掌典職という宮中祭祀を掌る部署からの要請を受け、神社界が宮中で行われる御代替わりに関わる諸儀式のお手伝いをすることとなり、特に皇室との御縁が深い勅祭社の中から職員を派遣することになったというのです。私は当時まだ独身で、さほど重要ポストにも就いておらず、しかも実家が東京でしたから宿泊費も不要…ということで、神社にとって「人身御供」を差し出すには最も都合の良い人材だったのだと思います。同年10月、東京渋谷の神社本庁に事務研修員という立場で出向し、そこからさらに宮内庁へ出向しました。神社界からは伊勢の神宮、熱田神宮、明治神宮、鶴岡八幡宮、そして石清水八幡宮と、5社から選抜された20~30代の若手神職が集まり、さらに宮内庁でモラロジー研究所という団体から派遣されてきた2人が加わって、合わせて7名が掌典職の人々と力を合わせ、約1年3ヶ月という短い期間でしたが、昭和天皇の御大葬の諸儀式から、年が明けて新帝陛下、即ち現在の上皇陛下の御即位に関わる諸儀式に「臨時掌典補」という立場で関わらせていただきました。
 この間の詳しい経緯等は省きますが、戦後初めて行われる大嘗祭ということで、色々と試行錯誤を繰り返すうち、模型を用いて机上演習を行う必要があるということになり、私ともう一人、手先の器用なモラロジー出身の人と協力して大嘗宮の1/50スケールの正確な模型と人形を製作し、これが当時の東園掌典長の御手引きにより天覧に供され、我々製作者2名もお側近く陪席を許されるという、信じられないような光栄に浴させていただいたこともありました。模型を製作してみて思ったことは、大嘗宮というのは弥生時代以前の技術・素材で作りうる極めて簡素な臨時の建物であった、ということです。そもそも大層な経費を掛けて大手ゼネコンなどが製作するような建物ではない、ということです。
 大嘗祭へのご奉仕を通じて、石清水八幡宮と皇室との深い結びつきを改めて実感させていただくことが多々ありました。例えば、男山に自生するヤマアイという植物と、大嘗祭の奉仕員が束帯の上に羽織る「小忌衣(おみごろも)」という装束です。この衣には梅の枝や蝶などの模様が「青摺(あおずり)」で施されますが、この青摺の染料として用いられるのが男山のヤマアイなのです。大正・昭和度の大嘗祭でも、平成の御代の大嘗祭でも、この慣例は踏襲され、大嘗祭の数ヶ月前に男山の山内で採取されたヤマアイを宮中に献上しています。この度の令和の大嘗祭においても、旧宮本坊跡のヤマアイを採取して石清水井の清水で洗い清め、宮内庁御用達業者を通じ宮中に献上しました。
 なお、このヤマアイを染料として用いる場合、葉の部分をすりつぶして出来る緑色の液体を摺り付けるという旧来の説と、青く変色した地下茎の部分を用いるという説があります。後者の説は、比較的最近になって提唱されたもので、私も実際にヤマアイの地下茎を掘り出し、これを天日に3日ほど晒して観察してみたところ、初めは白かった茎の部分がやがて鮮やかなブルーに変色しました。この青く変色した地下茎を粉末にして水で溶き、衣服に擦り付けたのが本来の「青摺」だったのではないか、というわけですが、これは確かに信憑性が高いように見受けられました。
 それから、男山のマダケと大嘗祭に用いられる祭器具との関係です。男山産のマダケは毎年11月に宮中で斎行される新嘗祭に際しても献上されますが、大嘗祭においてはさらに多くの厳選されたマダケが献上されます。この竹を何に用いるのかというと、大嘗祭や新嘗祭で天皇陛下が御自ら御手に執られる御箸は、男山のマダケを掌典職の人々が加工して謹製するピンセット状のお箸で、水鳥の細長いクチバシを想起させます。
 また、同じく掌典職の人々が調製する祭器具類に「窪手(くぼて)」という四角形の箱状の器と、「枚手(ひらで)」という円形の皿状の器があり、これらは男山のマダケを細く削った棒状の竹を骨組みにして、そこに他の地域から献上された大きな柏の葉を巻き付け、さらに紐条に薄く削った竹で編み付けて作製します。いずれにせよ、男山のヤマアイとマダケは、天皇の即位儀礼を始め、宮中祭祀に欠かすことのできない重要な植物だということがお分かりいただけたかと思います。
 なお、大嘗祭の本義について、かつて折口信夫博士は、新天皇が大嘗宮に敷設された寝具=真床覆衾(まとこおふすま)にくるまって「天皇霊」を身に付ける「秘儀」に臨まれたのではないか、と推測されたわけですが、これを近年、同じ國學院の岡田荘司博士が否定し、大嘗祭において過去も現在もそうした秘儀的要素は一切なく、伊勢の神宮に鎮まる皇祖神への「遥拝」の形が大嘗祭の根幹をなしている、といった主旨の説明をされました。
 私は、大嘗宮の主賓として天皇がお迎えし、おもてなしをする相手は、そもそも皇祖神=天照大御神ではなく、「穀霊」あるいは「国魂」とよばれるような存在であったろうと見ています。大八嶋国全体の統治者として即位する儀式において、祖神と子孫の関係は言わば「内」の論理に基づく私的な祭祀であり、より重要なのは外に開かれた公的祭祀であったはずです。東の代表の悠紀国と西の代表である主基国の両者は、即ち大八嶋国全体を表象し、その悠紀国・主基国それぞれの「国魂」が宿った米や粟など穀物そのものが饗応すべき遠来の賓客であり、皇祖神は子孫である天皇と共に、これを迎え入れる主人側の立場に立って、その様子を遥かにご覧になるという構造ではなかったかと思うのです。即位した天皇は、これら大八嶋の国魂を我が身に取り込むことによって、王の中の王、真の大王としての資格を得られるものと観念されたのではないでしょうか。
◆会報第109号より-02 八幡宮文化財①_f0300125_11290267.jpg
行幸啓を仰いで

 石清水八幡宮と皇室との御縁の深さについて先ほども見てきましたが、要するに皇室にとって石清水八幡宮は、伊勢の皇大神宮と同じく「先祖の御霊をお祀りする大切なお宮」という位置付けなのです。それで「二所宗廟」と称された。距離的にも時間的にも遠い方の御先祖がお伊勢さん、近い方の御先祖が八幡さん、というわけで、歴代の天皇や上皇をはじめ皇族の方々は、どなた様も「近い方の宗廟」に足しげくお参りに来られました。
 私が奉職してから45年の間にも、皇族方の公的参拝を3度経験しています。昭和53年9月の皇太子・同妃両殿下、平成9年8月の天皇・皇后両陛下、以上の2回は、どちらも現在の上皇・上皇后両陛下でいらっしゃいます。また平成27年11月には、皇太子殿下、現在の天皇陛下が御参拝になっておられます。この他にも、皇族方の私的参拝を度々お迎えすることがありました。
 中でも平成9年8月、猛暑の最中における天皇・皇后両陛下の御親拝行幸啓は、警備も厳重を極め、なかなか大変でしたが、特に「天皇陛下におかせられては、このたび『金銀御幣』をもって御参拝との思し召し」云々という宮内庁からの伝達があり、当時の田中弘清宮司、同恆清権宮司の命を受け、稲垣・西両禰宜以下、主だった職員が手分けをして過去の事例を調べ、他の勅祭社にも伺いを立て、或いは宮内庁京都事務所へ何度も足を運んで、どのような形状の「金銀御幣」を用意し、どのような作法で、どこで誰が御幣をお渡しし、誰がそれを受け取り、その御幣を最終的にどのように神前に奉るか、といった細々とした形を整えていきました。何しろ、明治10年の明治天皇以降、天皇の御親拝行幸をお迎えした事例は1度もなく、しかも明治天皇は「立て玉串」という現在も踏襲されている近代以降の作法で御拝礼になりましたので、金銀御幣を用いての拝礼という形は、孝明天皇の文久3年、1863年の事例に範を求める以外にありませんでした。
 そして調べてみると、幕末の孝明天皇は、弘安4年、1281年の元寇の国難に際し、亀山上皇が石清水八幡宮に参拝された時の作法に倣われて金銀御幣に攘夷の御祈願を込められ、平成の御代の天皇陛下は孝明天皇の文久行幸の先例に倣われて金銀御幣ということを仰せ出されたらしい、ということが判ってきたのです。よくよく歴史をお調べになっていらっしゃるのだ、ということに改めて感銘を覚えました。
 そうこうするうちに、校倉という倉庫の中から、今まで見落としていた黒漆塗りの御幣串が1本見つかり、そこに取り付けられた金具に菊の御紋が浮き出ていたことから、これこそ文久行幸の折に奉献された金銀御幣の一部に間違いない、ということで、それと同じ形状・寸法の串3本を業者に発注し、御親拝当日までにピカピカの金銀御幣を用意することができたのです。これらのことを通じて、現代を元寇や幕末の「国難」と重ね写しに御覧になっておられるという、陛下の大御心を我々も国民の一人として厳粛に受け止めねばならないと、宮司以下職員一同、深く心に刻んだものでした。
 平成27年秋に今上陛下、当時の皇太子殿下が御参拝になった時も、事前に宮内庁筋から「殿下には貴宮所蔵の古文書についてご関心をお示し」云々との打診があり、これを受けて当宮研究所の鍛代敏雄主任研究員とも相談し、当日ご覧いただく文書のリストを作成し、殿下へのご説明役は鍛代先生ご本人にお願いします、ということで当日は社務所で待機してもらいました。御本殿での御参拝が終了して、ご休憩場所の社務所書院で鍛代先生が学界で以前から面識のある殿下をお迎え申し上げ、臨時に設営された古文書の展示コーナーにご案内し、いざご説明をしようとすると、殿下はご自分で古文書の文字をスラスラと読み解かれ、ほとんどご説明するまでもなかった、とのことでありました。それほどに今の天皇陛下は、大学教授さえ顔色を失うほどの学者であられ、英邁な君主であられるということです。

本殿遷座祭

 毎年9月15日に執り行われる勅祭・石清水祭には、天皇陛下の御使いとして、宮内庁掌典職から掌典と掌典補の方が差し遣わされ、御祭文を奏上し御幣物を奉献されます。
 50年間に1度あるかないか、という極めて稀な儀式として、御本殿の修復工事に伴う本殿遷座祭がありますが、勅祭社である当宮では、この時も勅使をお迎えして勅祭と同様の祭典が斎行されます。私も平成21年4月25日、昭和42以来42年振りとなる本殿遷座祭に奉仕することができました。修復工事中、若宮社を仮の御本殿としてお鎮まりいただいていた八幡三所大神に、竣功したばかりの御本殿へお還りいただく儀式です。
 夕刻、暗くなってから3基の御鳳輦に3座の御神霊をお乗せして、勅祭と同じく数百人もの神人たちを従え、提灯と松明の明かりを頼りに、若宮社から東総門を下り、護国寺跡から石清水社前を通過し、大扉稲荷社前で表参道に入り、三ノ鳥居へと石段を上がり、南総門から御本殿楼門下へと進み、御本殿に入御するという道筋が正規のルートなのですが、この日は直前まで雨が降り、石段が濡れて足もとが滑りやすく、極めて危険だということで、宮司に事情を説明し、禰宜1名が「神幸御幣」を捧持して正規のルートを先行し、山内道筋の神々に事の由を奉告することとし、本体の神幸列は東ケーブル参道の平坦な最短コースを進んで本殿に入るということで、何とか事なきを得たのです。
 ところが、急きょ神幸御幣の御役を仰せ付かった私は、たった一人で御幣を担ぎ、真っ暗な石段を降りていかなければならず、足は浅沓という木の履物、雨に濡れた落ち葉の積み重なった石畳の道は非常に滑りやすく、必死の思いでしたが、なぜか不思議なことに足もとがボーっと仄かに白く光って見え、苦もなく正規のコースを進み、御役を全うすることができたのです。まさに神の御加護という他はありません。
 その翌日、「奉幣の儀」が賑々しく斎行され、そこに参列された各界の重鎮の中に比叡山の天台座主と高野山の座主がおられ、最澄と空海の離反以来、千数百年振りに天台・真言両宗が石清水八幡宮の本殿で同席し和解を果たした、との報道もなされ、ちょっとした話題にもなりました。

(次号「文化財の相次ぐ新発見」に続く)空白

<<< レポート一覧へ    ひとつ前の《講演会》レポートは⇒⇒

# by y-rekitan | 2022-05-23 11:00

◆会報第109号より-03 吉野詣記①

『吉野詣記』を歩く

(奈良再発見!①)

 谷村 勉 (会員) 


 戦国時代、八幡橋本に連歌師の橋本等安が住んだが、会員読者には橋本等安の存在は既によくご存知のように、当時の連歌界の第一人者「里村紹巴」の門人であった。里村紹巴、細川藤孝(幽斎)と連歌を詠み、両者に添削を依頼した自作の連歌巻や連歌帳を残している。八幡に住む橋本等安という連歌師(八幡宮社士)の存在を知って、数年前から連歌にまつわる探究をするようになり、『吉野詣記』を読むに至った。これより以前、松花堂昭乗と江月宗玩和尚が歩いた『松花堂昭乗奈良吉野紀行』(柿衛文庫蔵)を読んでいたので、その比較も面白かった。 
 橋本等安の師である里村紹巴が歌人三条西公条(きんえだ)《公卿》と歩いた『吉野詣記』(三条西公条著)を辿(たど)ると、前年秋に妻を亡くした公条に対し、紹巴が「名勝探訪」に誘ったようだ。天文廿二年(1553)二月廿三日に都を出発、八幡美豆・御牧、石田(いわた)小野を通り、天神の森、柞(ははそ)の杜(もり)《祝園(ほうその)神社》を過ぎ、「奈良坂越」で奈良に入る。
 『吉野詣記』は奈良・高野・吉野・住吉社・四天王寺を尋ね、水無瀬・石清水八幡宮を経て帰京するまでの二十二日間の旅行記である。
奈良盆地を縦断し、高野山、吉野山、信貴山に登り、御所市の高天(たかま)寺からは金剛山頂を極めて役行者が創建した転法輪寺に参るなど健脚ぶりを見せている。この旅行の目的には吉野の花見と亡き妻へ冥福を祈るとともに、己の往生安楽の祈願がこめられ、太子信仰の巡礼や父の三条西実隆が歩いた吉野と高野山を辿ってその足跡を偲ぶものでもあった。◆会報第109号より-03 吉野詣記①_f0300125_15234890.png 奈良の寺社については高名な文人の古寺巡礼、風物詩、随筆等数多あるが、実際の現場に行けば次々と関連する興味深い再発見があった。今回、初めて訪問する寺社も多く、奈良の東西南北を中心に60ヶ所以上に及んだ。残念ながらその本来の魅力を充分には伝え難く、読者が自ら歩いて探索し、改めて再発見されて、楽しまれんことを願いたい。
 尚、旅行記の底本として「相愛女子短期大学研究論集、33,27—69,(1986‐03)三条西公条『吉野詣記』:(翻刻・校注)北谷幸冊、鈴木徳男、鶴崎裕雄」を使用した。『吉野詣記』の紀行文は原文を太文字で表し、その下に訳文を併記した。

吉野詣記         西三条称名院
 いにし年の秋はからず。とし比ふしなれたる床はなれ。かきつくへき心地もなくて。あはれ修行にも出立なばやと思ひつゝとかくまきれしに。紹巴とてつくばの道に志ふかくて。此ころ都の住居し侍りて夜ひるきとふらひける。しかもしき島の大和ノ国人にて道たとたとしからす。吉野ゝ花見るべきよしいざなひけり。さらはとて人々にいひふるゝ事もなくて。む下にかほしらぬ人宗見と云ひと一人をめしつれ。
 ことし天文廿二年二月廿三日のあした。ひそかに都を出侍るとておもひつゞけける。名残おもふいもせにあへるみちやありとよしのゝ奥を尋てそとふ鳥羽よりみつの御牧にまかりけるに。近き年々水のうれへに絶かね堤塘(ていとう)をきつくとてはるはるとしわたしたるけふにいとなみけり。此所は領しける所たるに。あはれことしは秋もゆたかにて思ふまゝに水の害もさりぬべしと。夏禹の神助をこゝろにあふきて。
 ✱はびこりし 水の堤に しゐてかの うかりし年の 秋もわすれん いはたのおのなど云所を過て天神の森にいたりたきゝなといふ所見やり。森のかげなる里にて駒に水かひをのゝゝうちやすみ。泉川のあたりうち過柞(ははそ)の社にいたりて。 
 ✱春にたに はゝその森は よそよりも わきてかすみも うすき色かな 奈良坂越て般若寺の文殊堂に立よりしに。程なく日くれ旅のやとりに夜をあかしけり。

『訳文』
 去年の秋、馴れ親しんだ妻を亡くした。よりどころとする心地もなく、仏道修行にでも出ようかどうか思いをめぐらす時に、紹巴という連歌の道に志深い者が都に住んでおり夜昼となく訪ねて来る。しかも紹巴は大和の国の出身であるから道中の確かな吉野の花見に誘ってくれた。それではと誰かに言葉をかけ相談することもなく、よく顔も知らなかった宗見と云う人一人を召し連れ。
 今年天文22年(1553)2月23日の朝早く都を出発すると決めた。愛しい妹の名を負う妹背に出会える道もあろうかと吉野の奥を尋ねる旅だ。鳥羽から八幡美豆・御牧に来て、近年は洪水から守るのに堤防を築き、安心して暮らせるようになってきた。この一帯は三条西家の荘園であった。堤防が出来上がれば今年は水害もなく、実りの秋には豊作であり、夏王朝の禹王の神のような助けに感謝するばかりだ。
 ✱氾濫する河水も堤を築いたお陰で水害の酷かった年の秋も忘れてしまった。石田小野(八幡)と云う所を過ぎて、天神の森に到り薪(たきぎ)(八幡宮領)に着く。陰ある里にて馬に水を飲ませて休憩した。木津川を過ぎ祝園神社の森に到着。
 ✱ははその森の紅葉は色が淡いと云うが、春でさえ他所より霞も淡い色だな。奈良坂を越え般若寺文殊堂に立ち寄り、日も暮れて宿に入り夜を明かした。
        (ハハソとはコナラ・クヌギ、カシワなどの総称・落葉樹)

◇ 夏禹(かう)の神助(しんじょ)
 古代中国、夏王朝の禹王の神のような助け。禹王は黄河の洪水を治めたといわれる。◆会報第109号より-03 吉野詣記①_f0300125_15544125.png日本にも、禹にかかわる碑《大禹謨(だいうぼ)》や地名がたくさん残っている。我々八幡の祖先たちにとっても水害多発地域として治水事業は重大な関心事であった。
 [河川の合流部や堤防に近接した場所に禹王を祀ることで水害減少を願った。江戸時代になって禹王崇拝が高まった背景には徳川幕府が儒学を文治政策の基本理念としたことが挙げられる。古代中国の名君主を聖人として崇めた儒学思想の浸透が、外国起源の治水神・禹王を日本固有の神と並ぶ信仰の対象にならしめたのです](海津市歴史民俗資料館 水谷容子)

◇石田(いわた)の小野
 文中の「いはたのおの」の語訳については、伏見区石田から日野にかけての
地と紹介しているが、八幡の岩田と思われる。現在、八幡に岩田はあるが、「岩田小野」の地名は存在しない。しかし、江戸時代の絵図(皇州緒餘撰部山城國𦾔地圖)には岩田帯の発祥地と云われる岩田に「石田(いわた)小野」が存在していた。八幡美豆から伏見区の日野に飛ぶのは不自然で、美豆からそのまま奈良街道を南下して八幡の「石田小野」を目指した、とする方が自然と思われる。

◇奈良坂
 山背の国から旧街道の奈良坂を越えて大和の国に入ると、坂の中間辺りに般若寺があり、かつては般若坂と呼ばれた。国宝の般若寺楼門を左に見て徐々に坂を東大寺大仏殿方面に下って行くと、金網に囲まれた「史蹟北山十八間戸」の石碑が建つ白壁十八間の細長い建物(西大寺叡尊の弟子忍性が癩患者らのために建てた病舎)が見えてくる。その手前左のオレンジ系色の民家北隣に「夕日地蔵」と呼ばれる大きな地蔵石仏がある。会津八一(歌人・美術史家、明治十四年(1881)~昭和三十一年(1956))が詠んだ石仏だが、歌碑は般若寺の庫裏に立つ。
*ならざかの いしのほとけの おとがひに こさめながるる はるはきにけり  
   《「おとがい」とは下顎(あご)のこと》
◆会報第109号より-03 吉野詣記①_f0300125_08251553.png 石仏の下顎(あご)を流れる雫(しずく)に奈良の春の風情を詠んでいるが、会津八一は、[「夕日地蔵」は滝坂(旧柳生街道)に「朝日観音」というものあるに遥かに相対するが如し]と「自註鹿鳴集」に述べているので、奈良坂では「夕日の地蔵」を見たいと思っていたが、生憎雨になってしまい、八一は臨機応変に歌を詠んだようだ。「その表情笑うが如く、また泣くが如し」と、その印象も鹿鳴集に記している! 
 なお、会津八一の奈良にある自筆歌碑は20基に及ぶ。

◇滝坂の道(旧柳生街道)
 旧柳生街道は、春日山と高円(たかまど)山の谷あいの道を通り、奈良市街地から柳生へ通じる古道。滝坂の道とは道沿いに小さな滝が無数にある事に由来している。
 水の流れとそのせせらぎを聞いて歩くのは、まことに心地よく山歩きの醍醐味である。奈良市高畑町から歩き始め、石を敷き詰めた石畳を暫く登るとやがて摩崖仏の寝仏、夕日観音、朝日観音が順番に見えてくる。◆会報第109号より-03 吉野詣記①_f0300125_08311208.png朝日観音の解説板を見ると、対岸に彫られている朝日観音が「早朝高円山の頂からさしのぼる朝日にまっさきに照らされることから名付けられたもので、実際には観音ではなく中央は弥勒仏、左右は地蔵仏です。文永二年(1265)の銘がある」とあり、鎌倉時代の磨崖仏を実感する。
 奈良坂「夕日地蔵」、滝坂「朝日観音」どちらも実物に出会えばこの写真では表現できない大きさと迫力でせまってくる、「ああっ、これだ」と出会った瞬間はまことに快(こころよ)い。

般若寺(奈良市般若寺町221 ☏0742—22—6287)
 京街道奈良坂にある。般若寺創建には諸説あるが、奈良時代の建立は確かであるとされる。治承四年(1180)平重衡(たいらのしげひら)はこの坂から南都攻めを行い、般若寺も全焼した。
 また、延徳二年(1490)の失火で文殊堂などが焼失、その後、文殊堂は再建されたが、永禄十年(1567)、松永、三好の戦禍によって再度文殊堂などの伽藍を失っている。(『多聞院日記』)。なお、それ以後は無事であった経蔵を文殊堂として用いた。現本堂は寛文七年(1667)の再建である。
 般若寺は元々興福寺の末寺であったが、鎌倉時代に入り十三重大石塔をはじめ七堂伽藍の再建が行われ、金堂本尊には西大寺叡尊上人によって丈六の文殊菩薩がまつられ信仰の中心となった。◆会報第109号より-03 吉野詣記①_f0300125_08433476.png文永四年(1267)七月二十五日文殊像開眼法要が始まり、二十八日に結願した。開眼導師は叡尊、僧衆は百八十人余に及んだと『感身学正記』(叡尊自伝)は記し、さらに西大寺の末寺に加わることを明記している。 
 鎌倉時代の楼門(国宝)の前からは正面に十三重大石塔が見られる。この大石塔は笠塔婆に刻まれた銘文により、宋から来朝した伊行末(いゆきすえ)が造立したと判る。石塔納入物に建長五年(1253)の墨書もあり石塔の建立年代が確定された。現在、春は山吹、初夏は紫陽花、秋にはコスモスが咲き乱れ、古寺の風情が残る般若寺を訪れた多くの文人の歌碑(向井去来・正岡子規・森鴎外・水原秋櫻子・会津八一等)がある。 

◇森鴎外歌碑(奈良五十首より)
 *般若寺は 端(はし)ぢかき寺 仇(あだ)の手を のがれわびけむ 皇子(みこ)しおもほゆ

 『太平記巻第五;大塔宮熊野落の事』の故事を題材に詠う。
 -南北朝時代、後醍醐天皇が、笠置山の戦いに敗れ、皇子の護良親王は辛くも般若寺に潜んだ。すぐに般若寺にも追手が来たが、唐櫃に入って難を逃れる-
 戦前には、尋常小学唱歌第五学年用・『大塔の宮』と題して歌われていた。
[「奈良五十首」は森鴎外が大正七年から大正十年にかけて、毎年晩秋に帝室博物館長として正倉院開封のため奈良に出張した。その時の経験を詠みためておいたものであり、鴎外文業全体の中で、この連作は彼の文芸面でまとまった創作として最後の作品となった](鴎外選集第十巻 解説 小堀桂一郎による)
 なお、鷗外は大正十一年(1922)七月九日没60歳。
―つづく―空白
                            
<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒



# by y-rekitan | 2022-05-23 10:00

◆会報第109号より-04 歴史散歩⑦

◆会報第109号より-04 歴史散歩⑦_f0300125_2093583.jpg
シリーズ「私の歴史さんぽ」・・・⑦

吉井 勇

           岡村 松雄 (会員) 


 私の住まっております近くに 戦後の一時期を八幡に住んだ吉井勇の庵があります。◆会報第109号より-04 歴史散歩⑦_f0300125_09543757.png八幡月夜田の宝青庵(通称もみじ寺)に住んでおりました。
 (吉井勇自身の文中に) 宝青庵小景 
 「城南八幡の月夜田の里にある、この草庵に住みてより、早くも十月に近くなりぬ。浄土宗の小刹なれど足利の世の建築なりとぞ。」          
 この地での吟詠は歌集『残夢』に5百余首まとめられてある。吉井勇が歌を作るようなったのは、次のよう家庭環境によるものである。薩摩藩士で幕末に西郷隆盛らと国事に奔走した志士であり、伯爵であった祖父友実が歌を好んだこと。
 吉井勇は昭和20(1945)年10月「宝青庵」に移り住み、昭和23(1948)年8月には京都市に移っている。◆会報第109号より-04 歴史散歩⑦_f0300125_10362050.png 
 宝青庵には吉井勇生誕百周年記念会の手により昭和62年(1987)に建設された歌碑がある。

   ここに住みしかたみにせよと 地蔵佛 
   われにくれたり洛南の友


 吉井勇は「八幡音頭」を作詞しており、私の住まいの横に「男山吉井」と地名を残されており、バス停の名前は「吉井」となっている。
八幡に住まいおる間に松花堂で 谷崎潤一郎、志賀直哉、梅原龍三郎などと親交を深めていた。
 吉井勇が八幡を詠んだ歌の一部を紹介します。いずれも八幡の地への愛情と郷愁があふれる歌です。
   
   昭乗といへる隠者の住みし蘆 近くにあるをうれしみて寝る
                    (松花堂庭園に歌碑がある)
◆会報第109号より-04 歴史散歩⑦_f0300125_10070950.png
   松花堂の好みの膳にむかひゐて 杯取ればもの思ひもなし

   松花堂のあるじが呉し納豆を 食みてわびしき冬ごもりかも

   松花堂の置きたる石と丈山の 置きたる石といづれ寂びたる

   松花堂好みの露地幾うねり 郁子の雨にも濡れにけるかも
                   (むべ 生垣用等の植物)
   しばらくは石の燈竜の八幡形 ながめてありきわれを忘れて

   八幡なる泉之坊につたはれる この襖絵の幽玄を見む

   女郎花塚のあたり雲雀鳴き 夕日のなかを雲水の来る

   女郎花塚の由来を妹にして あはれと言ひぬ夕食の後に

   蘆を刈るころ越路よりうつり来て すでに六月の月夜田の里

   山城の八幡の庄の月夜田の 里居わびしく妹のやせたる

   月夜田の里居寒けく我妹子の 厨やつれを盛ればわびしも

   竹林のこのしずけさのなかにゐて 何故にしづかにならぬ心ぞ

   裏山の竹さうさうと風に鳴り やがては野千鳴き出でむ夜か

   安居橋はおもしろき橋太鼓橋 人のわたればとどと鳴る橋

   霜しろき圚福寺道をかえりゆく 僧の痩肩寒げなるかな

   達磨忌もすでに過ぎたる竹日和 泥龍法師訪ふによろしも

   門辺見て妹言ふ雲水ひとり伴れ 泥龍和尚通りたまふと

   朝ごとに花を手向けて庭隅の 童女の墓をあわれがる妹

《参考資料》
1.吉井勇全歌集      中央公論新社 2016年1月刊
2.八幡の歴史を探究する会「会報22号」(2012年1月)
3.八幡の歴史を探究する会「会報46号」(2014年1月)



<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒



# by y-rekitan | 2022-05-23 09:00