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by y-rekitan
| 2025-07-28 16:00
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by y-rekitan
| 2025-07-28 00:00
心に引き継ぐ風景
![]() 大安寺の僧、行教は、父が山城守紀魚弼(うおただ)で、兄が紀夏井、弟は本覚大師益信(やくしん)(東寺長者)であることから、益信同様、行教は備後国品冶(ほんじ)郡宮内(現広島県福山市新市町)の正仁谷で生まれたとされるが、出家前のことは詳しく分らない。 大安寺で行教は、最澄の師・行表の下で仏道を学び、唐へも留学したとされる。大安寺は聖徳太子が創建した大寺院で、南都七大寺に数えられ、僧侶の養成と仏教研究の場として、東大寺大佛開眼の立役者インドの菩提僊那や空海、最澄などが在籍していた。 行教は貞観元年(859)に宇佐宮から山城国男山に八幡神を勧請し、石清水八幡宮を創建したことで知られる。京都の南西、男山の東中腹に湧き出る石清水が神社名の由来と伝わる。『男山考古録』に「御山(男山)に往古より奇異の霊泉ありて、早くより地名にも呼び・・・」とあり、石清水と呼ばれる地名の存在は、八幡宮遷座以前から知られていた。 男山には元々石清水寺という寺があり、八幡神勧請後に寺を改築し、名を護国寺と改めた。別当には安宗(あんしゅう)(紀夏井の子)が、検校には弟の益信がついた。貞観十八年(876)になって、宇佐宮に準じて紀御豊(みとよ)(安宗の弟)が勅により初めての神主となるが、東大寺への八幡移坐とは異なり、宇佐宮の神官層は石清水への移坐には関与せず、僧侶が主体となった。 これにより、石清水八幡宮は僧集団支配体制の宮寺という形式を築き上げた。 (文と写真 谷村 勉)空白 #
by y-rekitan
| 2025-05-30 22:00
| 心に引き継ぐ風景
講演会・発表会
男山から眺める歴史点描 ―古代から中世へ―
そうした、今まで埋もれてきた地方の歴史を掘り起こそうという動きの中から、各地に郷土史会が生まれ、そして本日お集まりの皆様も、長年にわたり「八幡の歴史を探究する」という、非常に質の高い営みを継続してこられたわけであります。それは、歴史上の人物ばかりが活躍する「他人事の歴史」に、身近な郷土の先人達、御先祖達が、日々悪戦苦闘してきた「我が事の歴史」を重ね合わせることで、初めて日本の歴史というものが、リアルな実感として腑に落ちてくる、ということではないでしょうか。 ![]() 私は大学を卒業して直ぐに石清水八幡宮に奉職し、二十歳代前半の五年間ほどは男山の山上、石清水八幡宮社務所地階の独身寮で寝起きしておりました。その後は男山から下山することを許されて、山下の賃貸マンションなどを住居としましたが、毎日通い続ける職場は相も変わらず山の上、今日まで半世紀近く、昼間のみならず宿直勤務や参籠の日には昼も夜も、男山の山上で過ごしてきたわけであります。 そうした日々の生活の中で、地理的にも歴史的にも、何はともあれ「男山から眺める」という見方が、ごく自然に身に付いてしまったように思います。特に独身時代は、自室にこもって『古事記』や『日本書紀』、当時ブームにもなっていた「古代史」関連の本などを読み漁り、あれこれ自分なりに想像を膨らませては、思い付いたことを手当たり次第にノートに書き込んだりしていました。そうした事共も久しく忘却の彼方にあったのですが、最近は私も古希の齢を迎えて、ようやく“終活”の必要性を感じ、自宅や職場の身辺整理を始めまして、昔日のノートを再発見する機会があり、それらをパラパラめくって読み返してみると、「結構鋭いところ衝いてはるわ」と、若かりし頃の自分に我ながら感心したりすることもあるわけです。 実は本日のお話は、そうした四十年ほども前に書き留めておいた私の過去のアイディアがネタになっておりまして、それらの一部は既に色々な所で書いたり話したりしたのですが、特に何処かで採り上げられたり、反響を呼んだりしたこともなかったようですので、今日は改めて皆様からご批評などお聞かせ願えればと、思っているところであります。 古代の男山 そこで、まずは男山です。最初に取り上げますのは、『古事記』『日本書紀』に崇神天皇の御代の出来事として出てまいります「武埴安彦(たけはにやすひこ)の反乱」に関わる伝承であります。そこには、戦に負けた反乱軍の敗走ルートが記載されていますが、それがややコミカルな地名起源説話と併せて紹介されています。反乱軍が戦いを挑んだ所がイドミ河、それが泉河、即ち今の木津川になり、散々に負けて獣のように屠(ほふ)られた所がハフリ園、即ち今の祝園になり、敗走を続ける反乱軍が重い甲冑、カワラを脱ぎ捨てた所が伽和羅、これを岩波書店の「古典文学大系」等では現在の京田辺市の河原であろうと推定していますが、この後の楠葉方面に抜ける敗走経路や、「応神天皇記」及び「仁徳天皇即位前紀」に出てくる「訶和羅」「考羅済」等との関連から類推し、私は現在の八幡市神原、河原崎、高良などの地名に繋がるものと考えております。古代において男山の東麓、旧八幡町の北側は広大な巨椋池に連なる沼沢状の湿地帯で、とても人馬が普通に往来し得るような土地ではなかったと思われ、敗残兵は現在の美濃山から八幡神原付近を進み、男山の鞍部を越えて西山和気の辺りから河内方面へ、そして淀川を渡って丹波方面に逃れようとしたものと考えられます。 敗残兵が恐怖のあまり脱糞し、その汚れた袴を脱ぎ捨てた所がクソバカマ、即ち楠葉河(くすばかわ)、現在の淀川であり、そこから裸になって河を泳いで渡ろうとしたものの、大半が力尽きて溺れ「鵜の如く河に浮きたりき」という『古事記』の記載に相当するのが、淀川下流の高槻市道鵜町・鵜殿付近でありましょう。また、何とか対岸に泳ぎ着いたものの、そこには既に官軍が待ち構えていたので、万事休すとなり、土下座して命乞いをした所が「わがきみ」と書いて「我君」、これを普通「あぎみ」と訓ませているので、現在地は不詳、ということになっていますが、『記』『紀』の成立年代より更に古い時代に遡ってみますと、例えば、亡き妻を求めて黄泉国に至ったイザナキノミコトに対して、イザナミノミコトが呼び掛けた「夫君尊」という言葉、これを『記』『紀』ともに古語として「ナセノミコト」と訓じています。とすると、「我君」はナセと訓み、素っ裸の男たちが命惜しさに情けなくも手を合わせ、官軍の将兵たちに向かって「あなた」と媚態を示している有様を表したもので、しかも楠葉の対岸は「水無瀬」ですから、「なせ」→「みなせ」となって、地名起源説話としても辻褄が合い、実際の古代交通路とも符合するわけです。 ここに男山そのものは出てまいりませんが、いま申し上げた古代交通路の中において、男山の姿は言わずもがなの風景として、当時の人々の瞼に浮かび上がっていたのではないかと、私は想像いたしております。八幡大神の御鎮座以前、この男山は遥か大昔からの聖地、神宿る山、神奈備山(かんなびやま)として、奈良の三輪山や賀茂の御社の神山(こうやま)、宇佐の御許山(おもとさん)などと同様、信仰対象であったように思われるのです。こうした「神奈備山」には、山の主である男神と、その神に嫁ぐ聖なる乙女にまつわる伝承が語られてきたもので、三輪山には蛇体の大物主神とモモソヒメの「箸墓(はしはか)伝説」があり、賀茂社では丹塗矢(にぬりや)と玉依姫(たまよりひめ)の説話が有名であります。 そうして男山には「女郎花(おみなえし)伝説」というものがございます。平城(へいぜい)天皇の御代、八幡に住む小野頼風(おののよりかぜ)なる男のもとに京(みやこ)の女が訪ねてきたものの、男は不在で別の女性の所に行って留守だと聞かされ、嘆き悲しんだ女が男山の麓を流れる放生川に身を投げて亡くなってしまったが、身に付けていた山吹重ねの衣を脱ぎ捨てた所から女郎花が生え出てきた、というお話であります。 この平城天皇の御代とは「ならのみかどのみよ」、奈良に都があった遠い昔の話ということを意味しており、「京の女」も現在の京都ではなく、奈良の都の女性ということになります。したがって、奈良方面から八幡を目指して進んでまいりますと、武埴安彦軍の敗走ルートと同様に、現在の木津川市から精華町、京田辺市へと木津川沿いに北上し、京田辺の大住、薪、八幡市の美濃山、八幡神原、清水井へと、古代の幹線ルートを通って男山の麓に辿り着いたということになりましょう。小野頼風という名前も、本来は「おの」神、トガの「男の神」を擬人化したものではなかったでしょうか。 ![]() 改修後の狩尾社 そこで、次に狩尾神社(とがのおじんじゃ)について考察を進めてまいりたいと思います。狩尾の御社に坐す神は、宇佐の八幡大神が男山に御遷座になった貞観2年、西暦860年以降は、石清水八幡宮の一摂社として位置づけられてきましたが、それ以前においては、遥か大昔から男山全体を支配する地主神(じぬしがみ)として、特別に尊ばれ畏れられてきた神様であったと思われます。 御祭神は三座、中央に大己貴命(おおなむちのみこと)、東に天照大御神(あまてらすおおみかみ)、西に天児屋根命(あめのこやねのみこと)が祀られています。 男山丘陵は、北東から南西方向に細長く尾根状に伸びた地形で、その北端部分が上から見るとオタマジャクシの頭のように膨らんでいて、そこに三つの峯が並び立っているように見えます。中央の最高峰が科手山(しなでやま)とも呼ばれた鳩ヶ峰(はとがみね)、東が香炉峰(こうろのみね)の異名を持つ石清水の峰、西が閼(あ)伽(か)井(い)山(やま)とも称される今の狩尾神社が鎮まる御山であります。 八幡宮御鎮座以前、男山の地主神として崇められていた狩尾明神の主祭神は、国津神の代表である大己貴命であり、この神は即ち「山ノ神」であって、本来は中央の最高峰、鳩ヶ峰に鎮まると見られていたのではないかと推測しています。山ノ神は、我々の先祖が入植して森林を伐採し、田畑を開墾し、人が住むようになると、侵略してきた住民に対して「祟り」という反撃を加えることがある。その祟りを鎮め、和めるために行われた和平交渉の結果、山ノ神と入植者代表との間で締結された原初の契約=停戦協定を、毎年確認し更新する営みが、即ち「祭り」の起源であろうと、私はそのように考えております。この疫病なり自然災害なり獣害なりといった祟りを抑えるために、最初に入植してきた御先祖様が招かれて祭祀が営まれる。この祭祀の場に招かれる祖霊が、即ち「氏神」であります。ところで、ここが重要なところでありますが、我々は誰もが天津神の子孫であると観念されてきました。 我々のルーツは高天原にあって、この国土にはない。我々の祖先は、どこか遠い彼方からやってきて、この国土に入植し、開拓してきた。そうして、その大元を遡っていくと、天津神の代表である天照大御神に辿り着くのであります。極めて強力な山ノ神に対抗するためには、それほど強力な祖霊をお招きしなければ負けてしまう。そこで国津神の代表である大己貴命と、天津神の代表である天照大御神が、祭りの場で出会うことになるわけですが、いきなり強大国のトップ同士が顔を合わせるわけにはいかない。そこで両者の間を執り持つ聖職者、仲介者が必要になってまいります。それが中臣氏の祖神であり、我々神主たちの元祖に当たる天児屋根命になるわけであります。 そういうわけで、狩尾神社の御祭神は、三座とも超一流の神々でありまして、ただ山ノ神である大己貴命様は、地主神として常にこの男山にお鎮まりであり、東と西の御祭神は本来、年に一度の例祭や臨時の祭典の折にのみ降臨される神々であったはずでありますが、常設の社殿が造営される時代になりますと、三座とも常に狩尾社の社殿にお鎮まりであると観念されるようになったと考えられます。それ以前には、例えば天津神の代表として、インドの天神である帝釈天が勧請されるようなこともあり、もう少し時代を遡れば、継体天皇の御即位に際して、応神天皇の御霊が、ここ男山に降臨されることもあったのではないか、というのが次の考察です。 第25代・武烈天皇が崩御され、仁徳天皇から続く皇統が絶えてしまった後、越前三国におられた応神天皇五世の孫という男大迹王(をおおとのみこ)が、大伴金村ら群臣に迎えられて河内樟葉宮(くすばのみや)において即位され、その後、山背筒城宮(やましろのつつきのみや)、弟国宮(おとくにのみや)と遷られ、即位後20年を経て大和(やまと)の磐余玉穗宮(いわれのたまほのみや)に都を遷されたといいます。 この男大迹天皇、即ち継体天皇が、大和国に入るのに20年を要したというので、継体天皇を擁立したのは樟葉をはじめ淀川水系に基盤を持つ人々であり、そうした新興勢力に対抗する保守勢力が大和国内に根強く残っていたために、継体天皇はなかなか大和入りを果たせなかったのだ、といったような見方が多くの古代史学者の見解となっています。 しかし、「男山中心史観」に染まっている私は、樟葉宮の背後にある男山という存在に、どうしても焦点が合ってしまいます。現在の京田辺市・同志社大学構内の辺りに比定されている筒城宮も、現在の長岡京市・向日市辺りとされる弟国宮も、聖なる山、男山を中心にして捉え直してみると、そこに通説とは異なる意味が浮かび上がってくるのではないか。即ち、唯一「応神天皇五世孫」という血脈の正統性を権威の源泉として即位するに際し、継体天皇はおそらく〈神君〉応神天皇の御霊をお招きして即位式を挙行したにちがいない。 その御先祖の御霊が降臨するに最も相応しいとされた聖地が男山であり、そこを中心にして樟葉、筒城、弟国と順に都を遷されたのではないか、というのが私の考えであります。そうすると、応神天皇の御霊を初めて神としてお祀りしたのは宇佐の八幡宮に非ず、むしろ男山こそ発祥の地である、という見方もやや牽強付会の論にも聞こえましょうが、有り得るのではないかと思うところであります。 「倭の五王」の正体とは? 次のテーマは、いわゆる「倭の五王」についてであります。このことも以前、何度か色々な所でお話ししたことがあるのですが、この問題が「男山から眺める」という本日のお話と、どういう文脈でつながってくるのかと申しますと、石清水祠官家・紀氏という氏族を改めてクローズアップしてみた場合、古代史がまた別の相貌を表してくる、という一つの典型例として、ここにお示ししたいと考えたわけです。『古事記』も『日本書紀』を始めとする「六国史」も、ほとんど例外なく、皇室と藤原氏を中心とした歴史観に貫かれていると言ってよいかと思います。 「勝者による勝者のための歴史」と言い換えてもよい。そうした歴史観からすると、中国の史書に登場してくる倭の王様と言えば、必ず歴代の天皇様のことに決まっていると、そういう思い込みが江戸時代以前から学者たちの頭に染み付いてしまっているわけです。倭王「讃」といえば応神天皇か仁徳天皇、あるいは履中天皇か? 「珍」は反正天皇?「済」は允恭天皇、「興」は安康天皇、「武」は雄略天皇でほぼ決まり!などと、色々な手法を使って読者を納得させようとしてきました。 けれども、「倭王=天皇」という前提そのものが怪しいとなると、初めから話は違ってくる。それで、私は石清水祠官家の紀氏系図に親しんできた経験から、この中国の史書が提供してきたジグソーパズルに、古代の歴代天皇ではなく、紀氏というピースを嵌めてみた。そうすると『日本書紀』の中に、ピッタリ当て嵌まる人物がおった、というわけです。 即ち、『宋書』「倭国伝」に見える倭王武の上表文の「祖禰(そでい)」は武内宿禰(たけうちのすくね)であり、同書の「讃」は武内宿禰の子で韓地では沙至比跪(さちひこ)と呼ばれたという葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)、讃の弟「珍」は襲津彦の弟・紀角宿禰(きのつぬのすくね)、「済」は『日本書紀』に「大将軍」と特筆された紀小弓(きのおゆみ)、この小弓の「小」を「小百合(さゆり)」「小夜(さよ)」「細魚(さより)」「狹筵(さむしろ)」と同様に「さゆみ」と訓めば「済」の音に通ずると考えます。 次に「済」の世子「興」は紀大磐(きのおおいわ)、この「大」も紀氏系図には「紀朝臣大人」という人名にわざわざ「イカシウト」と振り仮名が振ってあり、大磐も「いかしいは」「いかしは」と訓めますから、これも「興」の音に通じると言えば通じる。そして「興」の弟・「武」には、紀生磐(きのおいわ)という人物が当て嵌まる。 ところが、なぜか多くの解説書の類いが、この人物を紀大磐と同一人物とみなしています。私は別人と考え、しかも「生」を「生方(うぶかた)」「産土(うぶすな)」「産湯(うぶゆ)」と同じように「うぶ」と訓めば「武」の音にも通じます。これら紀氏に連なる人々に共通するのは、朝鮮半島南部に拠点をもつ倭国の進駐軍総司令官であった、という点であります。そもそも「安東大将軍」等々、中華皇帝からの称号という“お墨付き”を欲したのは、海と山河によって幾重にも守られた内地の奥深く安住する畿内の大王ではなかった。本当に必要としたのは、異国の地で甲冑に身を固め、常に肩肘張って高句麗や百済、新羅、伽耶諸国を相手に睨みを利かせていなければならなかった、彼ら進駐軍総司令官であったにちがいないのです。 彼らは倭国の大将軍として彼の地に「府」を開いた。これが後にいう任那(みまな)日本府(にほんふ)であり、「顕宗紀」に紀生磐が戦に敗れて任那から帰国したとありますのは、将軍の府を朝鮮半島から筑紫に移し「筑紫日本府」を開いたということを意味しており、さらに想像を逞しくすれば、生磐=倭王武の後継者が筑紫君・磐井であって、筑紫日本府の後身が「太宰府」になったという道筋を想定してみることもできるのではないでしょうか。 藤原仲麻呂と道鏡、和気清麻呂 本日お配りした資料やパワーポイントの映像では「八幡神と応神天皇霊」、「行基と男山」などを取り上げていますが、これらについては前回の講演、「石清水八幡宮の儀礼と信仰」の中でもお話しいたしましたので、今回は「藤原仲麻呂と道鏡」「和気清麻呂と足立寺」について、少し詳しく述べさせていただきたいと思います。実は、藤原仲麻呂や道鏡について語るのは、いささか気が重いのです。 話の流れや関係する人物の動きが複雑に錯綜していて非常にややこしく、さらに色々な立場から流出したと思しきフェイクニュースのような諸説・俗説が入り乱れていて、何が真相なのか判然としない。 とにかく、今日一般的に定着している見方としては、「藤原仲麻呂も相当なワルではあったろうが、さらにその上を行く日本史上最大級の極悪人が妖僧・道鏡であり、皇位を簒奪しようとした道鏡の野望を挫き、彼に誑(たぶら)かされた称徳女帝の愚行を阻止した日本史上最大級の忠臣が和気清麻呂公である」、といったような評価でありましょう。 私は、和気清麻呂公を御祭神とする和氣神社の宮司でもありますので、こうした見方に素直に従っていた方が無難ではあると思うのですが、一般に流布している常識に、つい疑いの目を向けてしまいたくなるのが私の悪い癖でありまして、私の見解、というより八幡大神の神意は本当のところどうであったか、という想いから石清水八幡宮に伝わる「八幡託宣集」などを虚心坦懐に拝しますと、大神が徹底的に危険視し嫌悪している相手、その鉾先は「逆人仲麻呂」に向けられているのです。 詳論は省きますが、託宣にある「無道の人」とは本来は道鏡ではなく仲麻呂を指しており、「臣下が皇位を望むなど以ての外」、と断罪した相手も仲麻呂であって道鏡ではなかったと見られるのです。そうして、「皇位継承者には必ず皇族に連なる人を立てなさい」との神託通りに「法皇」として即位したのは、他ならぬ道鏡その人であったということになりますから、八幡大神の神慮は「道鏡を天皇とすれば天下太平」という託宣とも併せ、当初から首尾一貫していた、ということになります。 道鏡が皇族の出であり、具体的には施基王(しきのみこ)の子にして天智天皇の皇孫に当たり、光仁天皇とは異母兄弟の関係にある、というのは既に昭和3年、「道鏡皇胤論」で喜田貞吉(きたさだきち)博士が論じているように、かなり信憑性が高いように思われます。 それに対して藤原仲麻呂という人物は、骨の髄まで“中国かぶれ”で、そろそろ我が国も中華帝国の歴史に見習って「易姓革命」を実現させねばと、恐るべき大逆の非望を抱くに至り、橘奈良麻呂のような政敵ばかりではなく、皇族さえも次々に冷酷非情な陰謀を巡らせて罪に陥れ、捕縛しては拷問死に至らしめるなど、着々と布石を打ち続けた挙句、遂に自らの傀儡・淳仁天皇から禅譲を受けて藤氏王朝の初代皇帝となるべく玉座に手が触れた、と思われた所で立ちはだかったのが、八幡大神であり、称徳天皇と道鏡であり、吉備真備や藤原百川、和気清麻呂らであった、ということになるわけであります。 けれども、和気清麻呂という人物は、称徳天皇と道鏡を始めとする“勝ち組”に迎合することも潔(いさぎよ)しとしなかった。結果として大隅国に左遷され、称徳天皇が崩御し、道鏡が下野(しもつけ)薬師寺に隠退した後も、しばらくは冷遇され続けます。それは、彼が「我が国家開闢以来君臣定まれり。臣を以て君と為すこと未だ有らざる也」という八幡大神の託宣を特筆大書し声高に主張したことが問題視されたのではないか。 なぜなら、この主張が通ってしまうと、「太政大臣禅師」であった道鏡が一旦は臣下となった身でありながら法皇となったのは「臣を以て君と為す」ことに他ならず、次に皇位を継承すべき白壁王も今は「大納言」という臣下の身であるから同じであり、とすれば、道鏡の皇位も白壁王の皇位継承についても根本的な疑義が生じることになる、と。確かに、この時代まで臣下が天皇になった例は一度もなく、その主張は誰も反論し得ない正論であったからこそ、これをどう扱うべきか困惑した要人たちは、しばらく清麻呂を中央政界から遠ざけることにした、という辺りが真相ではないでしょうか。 或いは、臣下の身分ではない別の皇族某王を推す一派があり、清麻呂に対する処遇は、そうした水面下の抗争と絡むものであったかもしれません。 この和氣清麻呂については、『石清水八幡宮縁起絵巻』など、各地の八幡宮に伝わる縁起絵巻に面白い伝承が伝えられています。即ち、宇佐八幡宮の神託を受けて奈良の都に帰り着いた清麻呂が、その神託を女帝と道鏡に正直に伝えたところ、女帝の怒りに触れて両足を切られ、無人の船に乗せられ海に流されてしまいます。船は何処とも知れぬ浜辺に漂着したので、這い出た清麻呂がいざり行くと、そこに現われた猪が清麻呂を背に乗せ、険しい山中を通って宇佐宮の門前に至ります。 別の縁起では猪ではなく鹿の背に乗って行ったという絵巻もありますが、とにかく宇佐宮の宝前に至った清麻呂が拝礼すると、御殿の中から現れ出た五色の蛇が舌を出して清麻呂の脛(すね)を舐(な)めるうちに足が元通り生えて歩けるようになった、と。そこで清麻呂が「御礼に伽藍(がらん)を建てたい」と申し出ると、「汝男山に建立すべし」とのお告げがあったので、清麻呂は後に男山の奥に伽藍を建て、弥勒菩薩像を安置し、足が立つ寺と書いて足立寺(そくりゅうじ)と名付けた、という伝承であります。 この寺院が建てられたと見られる場所は、現在も八幡市西山地区に「西山廃寺(足立寺)」の史跡公園として整備されていますが、おそらく寺院単独で建てられたものではなく、八幡宮に付属する「神宮寺」として建立されたものと考えられます。と申しましても、石清水八幡宮が創建されるのは、この清麻呂公の時代より80年ほども後の話になりますから、当時は足立寺の近くに石清水八幡宮とは異なる八幡宮が、清麻呂公によって宇佐から勧請されていたことになります。 実際、足立寺跡の公園隣接地に境内を構える和氣神社、こちらは戦後の高度成長期における大規模な宅地造成によって地形そのものが全く変貌を遂げてしまっていますが、この和氣神社の中に二つの御社が左右並んで建っておりまして、向かって右が狭い意味の和氣神社、左が八幡社で、元来はこの八幡様こそ清麻呂公によって宇佐から勧請された八幡宮ではないか、と私は推測しております。 即ち、始めに八幡宮が清麻呂公の生前に創建され、その付属寺院として次に足立寺が整備され、さらに清麻呂公薨去後に清麻呂公の御霊を祀る和氣神社の祠が子孫の方々によって、最初の八幡宮の傍らに建てられた、という順番になるでしょう。ところで、清麻呂を助けたという動物たち、猪も鹿も蛇も、みな山ノ神の御使いであるという点に注目すると、清麻呂公が男山の地主神である山ノ神からも大切に扱われる存在であった、ということを暗示しているようにも思われます。 高身長と1間=5.5尺の謎 「文徳天皇と藤原良房」については、前回の講演でも少し詳しく申し述べさせていただきましたので、今回は次の問題に移って締め括りといたしたいと思います。石清水八幡宮の創建に関わる事柄については、まずは同時代の公的史料である『日本文徳天皇実録』や『日本三代実録』を繙く必要があることは申すまでもありませんが、私はこれらの史料を参照していく中で、一見すると石清水八幡宮とは無関係と思われる記事に、ふと興味を覚えることがあります。 その一つが、高身長の人物に関する記事です。たとえば、滋野貞主(しげののさだぬし)と小野篁(おののたかむら)は6尺2寸、紀夏井(きのなつい)は6尺3寸と紹介されています。これを現在の曲尺(かねじゃく)で換算すると1尺が約30.3㎝ですから、滋野貞主と小野篁は身長187.8㎝、紀夏井は190.9㎝の大男だったということになります。曲尺の1尺は、主に布地を図る際に用いる鯨尺(くじらじゃく)の8寸に当たり、逆に言えば鯨尺の1尺は、曲尺の1尺を10分の8とした時の10の値を指しますから、30.3㎝÷0.8≒37.88㎝という数式で導き出すことができます。 むろん、鯨尺で換算すると、紀夏井の身長は238㎝を超える大巨人となってしまい、さらに非現実的です。曲尺で図るにしても、190㎝を超える身長というのは、当時としても絶対に有り得ないということはないでしょうが、やはり考えにくい数字ではあります。 そこで、話はガラリと変わって、今度は石清水八幡宮の本殿に眼を向けてみましょう。私が以前から不思議に思っていたことがあります。それは、国宝・石清水八幡宮本社社殿の1間が6尺ではなく、5.5尺になっていることです。こういうことは、神社仏閣などの伝統建築では特に珍しいことではないのかもしれませんが、これを先程の『文徳天皇実録』や『三代実録』に出てくる高身長の人物と絡めて推理してみる。そうすると、一つの可能性として、ある時代に従前の1尺1寸を新たな1尺としたのではないか、という考えが浮かんできたのです。 つまり現在の1尺≒30.3㎝は、以前の11寸に相当すると考えると、30.3㎝÷11≒2.76となり、2.76×10=27.6㎝が貞観年間の頃の1尺だったのではないか。その数字を当てはめて計算すると、小野篁は171㎝、紀夏井は173.8㎝となり、当時としては確かに大柄と言えるでしょうが、常識的範囲内には収まるものと思えるわけです。 ここで再び石清水八幡宮の社殿に眼を向け、1間を普通に6尺として計算すると、以前は27.6㎝×6尺=165.6㎝だったものが、ある時代から30.3㎝×6尺=181.8㎝になり、石清水の場合は東西が11間という横に長い建物ですから、社殿全体が180㎝近くも横に広がって、これは山上境内という地形上の制約からして、かなり窮屈な状態になってしまいます。 そこで、1間を新たな6尺ではなく、5.5尺に置き換えるという工夫が施された。そうすると、30.3㎝×5.5尺=166.6㎝、以前の1間165.6㎝と、その差わずか1㎝、社殿全体としても約11㎝ですから、ほぼ問題なし、ということになるわけです。 とはいえ、このような全ての基本となる長さの単位が、ある時代に一気に改変されるという、極めて重大な出来事が本当に起こり得るものなのか、仮に起こり得たとしても、それが何者によって何時の時代に為されたのか、その理由、その手法、そしてなぜそのような重大なことが一般に知られずに見過ごされてきたのか…、といった疑問が次々に湧いてくるのであります。 そうして、これまで私が述べてきたような事柄は、専門家諸氏の間では古くから知られていることで、その殆どは既に解決済みの常識的な問題に過ぎず、ここで殊更に採り上げるような話題でもないのかもしれない、などと今更ながら思い至りまして、誠にお恥ずかしい限りでありますが、何か一つでも皆様の「歴史を探求(究)する」御心に触れるものがあったとすれば幸いであります。ご清聴、ありがとうございました。 #
by y-rekitan
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