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◆会報第109号より-05 橋本の町④


「変わりゆく橋本の町」 その4
-新たな四区公会堂-

野間口 秀國(会員)


<小字名のこと、追記いたします>

 今号では表題の「新たな四区公会堂」について書く前に、橋本の小字名について少し行数を頂きたいと思います。小字名のことをさらに調べる中で、前号にての報告内容に加えて『八幡市誌 第二巻』(P158/P159)に以下のように書かれた内容に出会いました。
 市誌には、「・・(略)・・ただ、日本住宅公団の土地区画整理事業に関係のある地域については、」との但し書きに続いて「1)昭和51年12月23日から、足立寺、東百反、西百反の3つの小字を廃止、2)・・(略)・・濁り池の一部を変更、3)西山足立、西山和気を設定し実施」などのことが書かれてありました。探し求めた 「濁リ池」の小字名は、おそらくこの時に廃止され「中ノ池尻」に一本化されたものと思われます。また「西山足立」と「西山和気」が橋本を冠しないで西山を冠する小字名となったことには、ある理由もあったようです。そして、ここに掲載されている小字名一覧表(同市誌P159)に見える「丸尾」は、現在では橋本でなくて西山を冠した「西山丸尾」となっておりますが、そのことには特に触れてはありませんでした。

<四区の成立の経過など>

 本題に戻ります。表題にもありますように、公会堂には「四区公会堂」と「四区」が付与されています。そこで、まず区の制度の成立の経過について書いてみたいと思います。『八幡市誌 第三巻』(P89)の「市域の確立」と題する項には以下のように書かれてあります。1)明治2年(1869)の暮れに木津川付け替え工事が完成し、川で分断された生津・際目・美豆の各村、下奈良村、川口村など、江戸時代の八幡郷の外四郷を除いた部分が八幡荘として、京都府の行政機構の下にあった。2)さらに、その後、町村の分離・合併を経て明治14年(1881)4月1日に八幡荘から八幡町が分離新設された。3)またその後、明治22年(1889)4月に市町村制が実施され、同年6月八幡町に第一区から第六区までが設定され、(略)・・・ 。 
 このような経過を経て橋本地区は第四区に指定されたのですが、なぜ橋本地区が四区となったのかについての記述はありません。この時点では、まだ橋本の大字名使用は認められておりませんが、ここではあえて橋本と書きました。 また、生津・際目・美豆の各村の区域が(一部の飛び地を除いて)現在の八幡市域外になっています。
 上記の通り、六つの区が設定された当時(明治22年6月)には橋本の大字名使用は認められておりませんが、翌7月2日には初の区長選挙が行われ、初代の第四区の区長に角谷徳三郎氏が選任されました。このように、区が出来て、区長が選ばれ、区としての新しい活動が始まると、その活動拠点とも言える公会堂ができたと思われます。 が、そのことについての事実確認を示すものには出会えておりません。

<四区公会堂の場所の変遷>

 写真1は移転前の旧四区公会堂です。建物のあった場所は「橋本焼野」です。しかしながら、建物は当初からこの地に建てられたのでは無く、同じく焼野の区域で、明治43年(1910)4月15日開業の京阪電車橋本駅(開業当時には無かった現在の大阪方面行き改札口)近くにあったようです。◆会報第109号より-05 橋本の町④_f0300125_13560828.pngまさに目と鼻の先がその場所だったようです。しかし、その場所は、昨年秋の会報105号(2021.09.21)にて書きました「歌舞練場兼芸娼妓慰安余興場」(以下、歌舞練場と記す)建設予定地と京阪電車橋本駅の間の地であり、「歌舞練場の建設予定近傍でありイメージ的にも好ましくない」などの意見によって、歌舞練場の建設に先立って移転を余儀なくされたのだ・・・、 とのことを地元の先輩に教えていただきました。お話の内容からは、歌舞練場の新築完成が大正11年(1922)7月ですので、その建設準備期間や建設期間を含めて考えると、大正8年から9年頃には移設されたと推測できそうです。
 手許に 「橋本焼野」 に移転した旧公会堂の位置を示す地図があります。その地図は会報第108号でも触れました「橋本遊廓沿革誌」(昭和12年6月10日発行)に含まれる「橋本遊廓一覧圖」です。一覧圖の描かれた正確な時期は同地図には書かれてありませんが、建物は京阪電車の線路の横にあり「第四区公会堂」と記されてあります。この地図には大正元年(1912)に操業が開始された「津田電線八幡工場と隣接する寄宿舎」が描かれてあり、四区公会堂の建物は電車の線路と寄宿舎の間に位置します(写真1を参照ください)。この地図によって、四区公会堂は大正時代の早い時期に「橋本焼野」の地にあったことが分かります。なお、移転当初の公会堂には管理人のご夫婦が住んでおられたようですが、具体的な事実の確認はできませんでした。

<新しい四区公会堂>

 さて、四区公会堂はこの3月に現在の位置に移転しました。公会堂の所在地も「橋本焼野」の地から道路を挟んだ隣り合わせの「橋本堂ケ原」に変わりましたが距離的にはとても近くです。この移転については、後述する令和4年4月の八幡市広報にて報じられましたので、お気づきの方もおられると思います。◆会報第109号より-05 橋本の町④_f0300125_14000874.png新しく四区公会堂の入った建物は、昨年の夏まではこの地で営業を続けていた「京都中央信用金庫 橋本支店」でしたが、樟葉に移転したのです。
 この年明けの頃から外壁の修復工事などに着手、引き継いて内装の工事が行われていましたので、春先から、いつ移転するのか気にはなっていたところでした。前号で “今日現在の予定では、公会堂も記念碑も2月末頃にはこの地からは移転するようです。” と書きましたが、新しい建物の内外装の改修工事も2月の末頃には終えて、令和3年度最終月の3月6日(日)に移転記念式典が挙行されました。「四区からのお知らせ」では、式典の様子に加えて、12回にわたる移転検討会が開催されたことや、予算措置や契約事項のことなどが住民にも分かり易く丁寧に書かれてありました。
 旧公会堂は3月14日週に閉鎖され、翌3月22日週に新公会堂での業務が始められました。4月に入ってから、許可をいただき内部を見せて頂きましたが、新公会堂の規模は旧公会堂の建物よりは一回りも二回りも大きくなったようです。建物の入り口右側にある真新しい四角い柱には「八幡市 四区公会堂」と誇らしく書かれてあり、玄関口には白い花が飾られていかにも新装開店の雰囲気が漂っていました。
 業務の新館への移転後、あまり間を置かないある日の午後、自宅のポストに何か入っているのを目にして、何だろうと思い手にすると、中央に縦書きで 「公会堂移転記念 八幡四区」 と書かれた熨斗つきのタオル1枚でした。旧公会堂の建物は近いうちに取り壊されるでしょうし、前号で報告しました橋本記念碑もいずれかの地に移転すると思いますが、四区公会堂の移転の様子に立ち会えて、記録し会報にて報告できたことはうれしい気持ちではありました。 
(2022.4.12)空白

<参考書籍・資料など>
「京都府公報」 第百七十二號
   昭和3年8月31日 (京都府告示第五百六十四號)
『八幡市誌 第三巻』 『八幡市誌 第二巻』 八幡市刊
「公報 やわた 第705号」令和4(2022)年4月 八幡市刊
「四区からのお知らせ」 2022年4月1日 八幡市四区刊
「橋本遊廓沿革誌」 橋本地域貸座敷組合事務所発行
   昭和12年6月10日発行
「八幡の歴史を探究する会 会報第108号」 (2022.3.15発行)
 

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# by y-rekitan | 2022-05-23 08:00

◆会報第109号より-06 2022年度年次総会

―八幡の歴史を探究する会― 
「2022年度年次総会」報告

高田 昌史(八幡の歴史を探究する会 事務局)

 4月22日に「2022年度年次総会」を開催し「議案書」の承認を得ましたので概要を報告します。本年度もコロナウィルス感染防止対策をして、毎月の行事等を推進する予定です。どうぞよろしくお願いいたします。

1.2021年度活動報告

(1)例会及び行事等の実施報告(下表)
◆会報第109号より-06 2022年度年次総会_f0300125_15100055.jpg

(2)その他の活動実績
① 会報の発行
 会報は予定通り奇数月に計6回(第103~108号)発行、会員及び関係者・関係機関に送付した。
② ホームページの管理・運営 http://yrekitan.exblog.jp/
 2013年11月より、インターネットのホームページを「八幡歴探サイト」(ブログ版)としてリニューアルし、情報を発信している。会報記事も第1号から掲載し現在累計523件になる。このホームページで八幡の歴史や文化情報を全国に発信している。最近は毎日25人前後の方からのアクセスがあり、現時点での累計来訪者は91、200人に達している。
③ “増補版第3刷「石清水八まん宮道」に誘う道標群”の出版
 2017年に八幡市内外の「江戸時代の八幡道標」を調査して取り纏めた冊子は2017年10月に初版本を出版し、増刷により計280冊を製本した。その後に新たに発見された「八幡道標」を追加した増補版を出版していき2022年3月に出版の“増補版第4刷”で掲載の江戸時代の八幡道標は計100基となった。増補版製本は計360冊。
④ 「公民館講座」の実施
 橋本公民館からの依頼により(八幡歴史講座シリーズ)の講座を担当。
・第1回 9月10日(金)「等安連歌の人物像と橋本家文書」 講師 谷村 勉
・第2回 9月28日(火)「橋本の地誌」    講師 谷村 勉
・第3回 11月19日(金)「鳥羽伏見の戦い」 講師 谷村 勉
⑤「展示会(京のやわた企画展)」の開催
 テーマ:心に残る!江戸時代の八幡道標
  3月4日~6日に駅前ギャラリーで開催し、3日間で来場者が161名で好評でした。

2.2022年度活動方針と行事予定

 基本方針 

 本会は八幡の歴史の探究と成果の共有を目指して、これまで同様に(研究者の講演・現地見学・会員の研究発表・連続学習会)を継続して会員相互の交流を深めるとともに、正確な歴史の探究と次世代への継承を目的とする。12年目を迎える本年度も例会・行事等は毎月開催とする。その活動の実施報告等は会報に掲載し、会報は昨年度と同様に奇数月に発行する。
 本会は受身の活動ではなく積極的に現場に足を運び、深く探究する活動を目指す。
◆会報第109号より-06 2022年度年次総会_f0300125_21163776.png

(1)2022年度例会等の行事予定
 下表の年間行事予定表により推進する。

2022年度例会・行事等の開催予定表
◆会報第109号より-06 2022年度年次総会_f0300125_20382903.png
(2)例会以外の活動予定①「会報」の発行
 これまで通り、奇数月の5月、7月、9月、11月、1月、3月の計6回(第109~114号)発行する。会報は例会行事等の概要と共に会員の投稿記事を広く募集掲載して、八幡の歴史や文化の発信と会員相互の交流を深めていく。また、会報掲載記事は都度ホームページにアップする。
②「ホームページ」
 会員の例会や行事等の確認、便利なデーターベースとして活用出来るホームページとして引き続き運用していく。ホームページは、ネットを通じての問い合わせ等とともに、貴重な情報がもたされるなど重要な媒体となっている。それらをふまえ更に活用を推進するとともに、ネットトラブルを起こさないよう配慮する。
③「市民文化祭」への参加
 10月29日(土)~30日(日)の第50回八幡市民文化祭に展示出展する。
④きょうたなべ環境市民パートナーシップ(ゆうゆうサイクルの会)からの講演依頼対応。
⑤「淀屋研究会」からの講演依頼対応
⑥ 橋本公民館講座:テーマ(八幡の歴史講座シリーズ)
 昨年に引き続き本年度も橋本公民館からの依頼により2回予定。
⑥ 特別行事など
 条件が整えば、単発的に行事等を開催する。

3.2022年度「八幡の歴史を探究する会」幹事等の紹介

  幹事 (代表)   ・谷村 勉
     (副代表)  ・丹波紀美子 
     (事務局長) ・高田昌史
     (会計)   ・村山 勉
     (庶務担当) ・田坂喜彦、奥山邦彦、野間口秀國、藤田美代子       
  会計監査      ・出口 修、奥山邦彦
  顧 問       ・是枝昌一

      以上、本年度もどうぞよろしくお願いいたします。
     



# by y-rekitan | 2022-05-23 07:00

◆会報第109号より-end


この号の記事は終りです。


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# by y-rekitan | 2022-05-23 01:00

◆会報第108号より-top

◆会報第108号より-top_f0300125_18544319.jpg

この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。


◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景”㊴◆
◆《会員研究発表》郷土史家、「やわた道」歩けば その1◆
◆《会員研究発表》郷土史家、「やわた道」歩けば その2◆
◆シリーズ:“八幡さんの花木” ④◆
◆シリーズ:“墓石をたどる” ⑫◆
◆シリーズ:“変わりゆく橋本の町”③◆
◆江戸時代の八幡道標(増第4刷)を刊行◆



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よって 《タイトル一覧》 から直接選択して頂くか、
下端の >> で1記事ずつめくってご参照ください。

# by y-rekitan | 2022-03-28 15:00

◆会報第108号より-01 石仏龕

◆会報第108号より-01 石仏龕_f0300125_16115857.jpg


心に引き継ぐ風景・・・㊴


  奈良十輪院の石仏龕せきぶつがん
◆会報第108号より-01 石仏龕_f0300125_08471488.jpg
 写真は奈良市の「ならまち界隈」にある「十輪院」で拝観した「石仏龕」です。訪問前に写真は見ていたが、等身大の石仏を眼の前にして思わず目を見張った。地蔵菩薩、釈迦如来、弥勒菩薩の浮彫と石龕世界を守護する四天王や金剛力士等の線刻の古仏は大分に初めて摩崖仏を訪ねた礼拝空間を思い起こし、齢を重ねてもなお感動の心を蘇(よみがえ)らせた。戦国時代、八幡橋本に橋本等安という連歌師が居たが、連歌界の第一人者「里村紹巴」の門人であった。
 等安の師である里村紹巴が歌人三条西公条(きんえだ・公卿)と歩いた『吉野詣記』(三条西公条著)の紀行文を辿(たど)ってみた、前年秋に妻を亡くした公条を紹巴が「名勝探訪」に誘ったようだ。天文廿二年(1553)二月廿三日に都を出発、八幡美豆、岩田を通り、奈良坂越て宿に入り、翌廿四日、春日大社参詣の後、十輪院に向う「けふは地蔵菩薩の縁日なれば弘法大師建立の寺十輪院にいたれり。石にきりつけられたる仏菩薩歴々として殊勝の霊地なり」とある。与願印の地蔵菩薩とその石仏龕をご本尊と祀る寺院は珍しく、「石仏龕」の前に数百年の時空を超えて二人と同じ立ち位置に在る有縁無縁の不思議を思った。桂離宮に感銘したドイツの建築家ブルーノ・タウトは“小さいが非常に見事な寺だ、初期の奈良建築の面影をとどめている”と日記に記し、本堂(礼堂・国宝)の中世邸宅風の建築を絶賛している。              
(文 谷村 勉)空白


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# by y-rekitan | 2022-03-28 12:00