京都を学ぶセミナー(洛南編)のお知らせ

「陸路・船路が織りなす 洛南八幡域の交流の考古学」ー京都を学ぶセミナー(洛南編)ー が2025年5月13日に開催されます。ぜひお越しください。

日時:2025年5月13日(火)午後1時30分~3時00分(受付午後1時)

内容:八幡が、陸路や船路の中核をなし、原始・古代から文物や人が盛んに行き来し、物流の中心であった背景などを考古資料から明らかにしていきます。   
   
場所:  京都学・歴彩館 大ホール
     (当日先着・事前申込不要)無料 定員400名
講師:  小池 寛
     (公益財団法人 京都府埋蔵文化財調査研究センター)
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# by y-rekitan | 2025-05-11 16:00 | 事務局だより

イベント京阪沿線魅力再発見のお知らせ


ぶらり街道めぐり 水の恵み編 が 2025年5月11日(日)に開催されます。
ぜひお越しください。

日時:2025年5月11日(日)13:30~15:00
内容:
【自然講座】 淀川の攪乱と恵み 近畿の生物多様性ホットスポット
       竹門 康弘 (大阪公立大学・客員教授)
【歴史講座】 八幡の水文化 石清水八幡宮を中心に
       鈴木 康久 (京都産業大学・現代社会学部教授)
【トークセッション】 淀川三川合流地域について
           竹門 康弘 × 鈴木 康久
会場:さくらであい館ホール イベント会場(入場無料)定員:60名

講座のお申し込みは「さくらであい館」イベントページからお申し込みください


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# by y-rekitan | 2025-04-23 01:00 | 事務局だより

芭蕉最後の峠越え 126号


心に引き継ぐ風景・・・(57)

芭蕉最後の旅・暗峠(くらがりとうげ)越え
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暗峠に残る芭蕉句碑


 先に三条西公条の『吉野詣記』の連載を終了したが、奈良に取材中も多くの寺社で芭蕉句碑に出会っていた。数ある句碑の中、彼の暗峠(生駒市~東大阪市)の句碑が気になっていた。“旅の詩人”芭蕉最後の旅を記念する遺産である。

 暗峠は秀吉の時代に参勤の道となり、享保9年(1724)以降は大和郡山城主柳沢吉里が本陣を置き、石畳の道とした。さらに伊勢参宮道となって多くの旅籠が峠に立ち並んだ。東大阪市側の勾配31%の坂道は険しく、「酷道」と揶揄される。

 元禄7年(1694)9月8日、体調を崩していた芭蕉は支考、素牛、又右衛門、二郎兵衛らに付き添われ、伊賀を出て大坂に向かった。酒堂(しゃどう)と之道(しどう)の喧嘩を仲裁する為だった。笠置・加茂間は川舟に乗り、奈良坂を越え、猿沢池近くに宿をとり、その夜、池のほとりを吟行する。翌9日、重陽の節句に菊の花が咲き乱れる暗峠を越え、この句をなした。

 「菊の香に くらがりのぼる 節句かな」 はせを 

句碑中央から、菊の香に、右、くらがりのぼる、左、節句かな、はせを、と続く。

 下り道の法照寺傍のこの句碑は、明治23年(1890)俳句同人六郷社有志により再建されたもので、大阪の豪商平瀬露香の筆による文字が刻まれている。興味深いのは、山崩れで行方不明だった元の句碑(寛政11年(1799)建立)が、大正2年(1913)に3つに折れた状態で発見され、坂道下の勧成院に移設されている。


(文と写真 谷村 勉)空白


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# by y-rekitan | 2025-03-28 23:00 | 心に引き継ぐ風景

お亀の方と八幡 126号


於亀の方と八幡
- 相応院様御文を読んで -

 奥山 邦彦 (会員)


はじめに

 於亀の方 は八幡で歴史上もっとも有名な人物の中の一人であるが、私はその実際をあまり知らない。そこで於亀の方の伝系、義直補佐の諸臣について諸本を調べ紹介し、又於亀の方の消息を読みその実際に迫ってみたい。


一、於亀の方(相応院殿)の伝系(資料)
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1、於亀の方と義直

於亀の方の父は石清水八幡宮神職の志水宗清。義直(五郎太丸)由緒にて三千石賜り、且従五位下に叙し加賀守に任ぜられる。その子孫相続いて直義の臣下となる。慶長三年(1598)三月三日卒。

母は石清水八幡宮社家東竹甲清嫡女(龍雲院加月妙慶)。

於亀の方は文禄二年(1593)徳川家康公に奉仕し、同四年家康の第八子仙千代を出産した。家康は家臣平岩親(ちか)吉(よし)に子供がなかったので(文禄四年(1595))仙千代を養子としたが六歳(慶長五年(1600))で没した。

つぎに家康の第九子義直(五郎太丸、義利)を慶長五年十一月二十八日大坂にて出産。慶長八年(1603)義直(五郎太丸)四歳の時、甲斐国二十五万石に封ぜられるに及び、平岩親吉は伝として附属せしめられ国政を沙汰した。同十二年(1607)清須城主松平忠吉(ただよし)(家康第四子)が死去し、嗣子なきため、義直(義利)は甲州府中城主より尾張清須城主五十三万九千五百石に移らしめられ、忠吉の家臣は悉く義直に付属した。又その伝平岩親吉も尾張犬山城主十二万三千石移らしめられた。

昔二十九歳のとき、岡崎において、幼君次郎三郎信康(家康嫡男)の伝となって忠勤にぬきんでた親吉は、六十六歳にして、清須において幼君右衛門督義直(義利)の伝となって忠勤に励む。同十四年(1609)家康、義直と共に清須に入り政務を行う。同十五年(1610)西国諸侯に名古屋築城を命ず。親吉は新建設のどさくさの中、慶長十六年(1611)築城中の名古屋城二の丸において没した。七十歳。家来はすべて名古屋城主義直に属した。同十九年(1614)十月大坂冬の役、時に義直十五歳、兵一万五千を率い、尾張を発して大坂に入る。十二月和議成り、義直名古屋へ帰る。元和元年(1615)四月浅野幸長の娘春を迎へ室とする。元和元年五月大坂夏の役、豊臣家滅ぶ。

 元和二年(1616)家康薨ず。是より先平岩親吉卒するの後、家康駿府の老職成瀬正成をして義直の伝とし、竹腰正信と共に執政たらしめ、志水忠宗を加判とし、又石川光忠をして在国して政治によらしめ、又特に渡辺守綱に命じて義直の左右に侍して軍旅の事を輔導せしめしが、是に至りて義直生母と共に上国して、名古屋を常住の地と定む。

 元和三年(1617)七月、権中納言に任じられ、寛永三年(1626)八月、従二位に叙され、権大納言に任ぜらる。九月六日、天皇二条城行幸、家光先ず入って鳳輦を奉迎す。義直盛装騎馬してこれに従う。

元和五年(1619)五月幕府、義直に美濃の地五万石を加賜、是に至って総高六十一万九千五百石となる。


2、 義直補佐の諸臣

①、志水忠宗、小八郎、甲斐守、

父は加賀守宗清、天正二年(1574)八幡に生まれる。

於亀の方が忠宗の妹なるをもって、駿府に参勤す。慶長五年会津征伐・関ケ原合戦に供奉し、台命を被り、八幡山上山下の郷士等、志水氏の庶流等と石田三成に党すものたちを、悉く追捕し其余類絶つ。これにより上山城の地において食邑五百石を賜り、且山城・大和・河内の公領五万石の地を管理し貢納の事を務める。義直の封を尾張に移すや、於亀の方の縁をもって、忠宗を義直に属させ、采地五千石を賜う。同十五年名古屋築城の後深井丸榎多門内に住す(本丸に住す等他説あり)。同十六年加判に補され、元和二年(1616)城代、五千石加賜せられ総じて1万石。寛永三年深井丸で卒す。

②、竹腰正信、万吉、小伝次、山城守、

 天正十九年(1591)八幡の志水宗清宅で生まれる。祖父に八幡で養育される。文禄二年(1593)母家康に仕える。同三年家康に謁す。慶長十二年(1607)(1607)駿府城御次の間より出火のとき、家康を救出、その同年義直の家老職として尾張知多郡の内にて一万石に転封せらる。同十四年(1609)、家康の命により、大久保忠隣(ちか)の養女(松平右衛門大夫康寛の女)を娶る。

同十六年三月家康上洛に従い、従五位下山城守に叙任されるや、駿府の執政に列す。正信は御内証迄も御免にて、政治に習熟せしめられる。是れ予め尾張の国政をとらしめんがためなりき。四月家康、藩祖義直、駿河頼宜をして大坂に往き、相見せしむるや、成瀬正成と共にこれに従い、秀頼より其指料松浦信国の刀を給わる。同十七年(1612)成瀬正成と共に平岩親吉の後を継ぎて尾張の国政及び名護屋城土木の事を掌る。此年家康より一万石加増を受ける。同十九年十月、大阪の役に尾張の士の武将となりてこれを指揮する。元和元年(1615)五月、大阪の役再び起こるや、義直に従軍。同五年十二月義直より美濃今尾にて一万石を加増せられ、すべて三万石を領せり。正保二年(1645)四月晦日名古屋に卒す。五十五歳。

③、石川光忠、太郎八、市正、

 母は於亀の方、播・淡・摂三州の中五万三千石を領する大名石川光元の側室として石川光忠を生む。後離縁。父光元は関ケ原で西軍に属し、慶長六年(1601)に死去。時に光忠は八歳にして伏見に在り。

同十三年(1608)母の縁で召出され駿府に至り家康に奉仕す。同十五年(1610)濃・摂二州の中、一万三百石賜わる。十七年台命により尾州家に属し、後城代たり。寛永五年(1628)九月卒。三十五歳。

④、 山下氏勝、半三郎、信濃守、大和守、

 永禄十二年(1569)生まれ、於亀の方の妹(隆正院松誉貞春)を娶る。その縁により慶長七年(1602)義直の擁護役となる。慶長十二年(1607)家康、義直を尾州に封じ、清須城を以て本営と為す。氏勝、清須は水攻めを受け易い地勢、此地の不利を屡於亀の方を通じて家康に進言す、家康これを可とし要害の地名古屋に城を移すべく命ず。氏勝軍事に練達し、頗る才幹あり。築城の際其力に頼ること多しとする。

 慶長十八年(1613)浅野幸長卒して嗣子なし。弟長晟密に使を駿府に送り、氏勝に後継の斡旋を託す。氏勝また家康に説き、於亀の方の助けに依って遂に其目的を達する。大坂冬の役、大阪夏の役に義直を補佐し、其節制を家康大いに賞し、凱旋の後、氏勝に采地五百石を加増し、通じて二千石とす。元和元年四月義直、浅野幸長の娘を娶る。家康尾州に来りて婚儀を行う。初め於亀の方、義直の為に室を求めんとしこれを氏勝に諮る。氏勝、長政、幸長と善し。乃ち幸長の女を推挙す。是に於て終に決し、慶長十八年、婚約既に成れりと云う。承応二年(1653)十一月二十日、寿を以て家に終わる。八十六歳。

⑤、成瀬正成

成瀬正一の嫡子、永禄十一年(1568)(十年説あり)三州に生る 幼より家康に奉仕し小姓となる。長久手の戦い、小田原の役で功あり。慶長五年(1600)関ケ原役、家康麾下に在りて軍忠に励む。同年冬、泉州堺の政所の吏と成。慶長八年二月、家康将軍宣下につきて参内、正成布衣にて車の左側に供奉す、是より先家康、本多正純、安藤直次、成瀬正成等をして政務を掌らしむこと数年。是において、甲州の数郡二万石を賜う。後年三川足助庄を加えられ三万四千石にいたる。

 慶長十五年(1610)家康、正成を義直に、直次を頼宜に附属せられる。慶長十六年(1611)十二月平岩親吉卒せしを以て、翌十七年、正成、竹腰正信と共に尾州の国政を執る。大阪の役に従軍し常に家康の側に侍して軍議に参す。元和三年(1617)、駿州久能山より家康の棺を日光に移すや、正成其員に加はる。同年義直尾州に入るの時、正成これに従う。秀忠これに犬山城を賜い、且つ平岩従属の同心を家人と為さしむ。知行三万石余。その後元和六年、義直一万石加増。寛永二年(1625)一月十七日卒す。五十八歳。

⑥、渡辺守綱 

 十六歳のとき家康(元信)に仕え数々の軍功あり。槍の半蔵という異名で知られた。三川一向一揆では、一揆側に加わり家康に叛したが、罪を許され百三十貫文の地を与えられ、以後、家康旗本の武将として活躍した。元和六年(1620)四月九日卒。

 以上、於亀の方と義直、補佐する家臣たちについてみてきた。於亀の方は元和二年家康歿後薙髪、相応院と号した。寛永十九年九月十六日逝去、行年六十七歳。



二、相応院様御文

〚大日本古文書 家わけ第四 石清水文書之三(田中家文書)』には〔相応院様御文〕として「相応院徳川義直生母消息」が慶長四年(1599)から慶長十八年(1613)にわたって採録されている。(資料2)

その内容は、社務廻職に関するもの、検地免除と安居神事に関するもの、闕所に関するもの、田中敬清跡目に関するものである。以後、『大日本古文書 家わけ四ノ三』東京大学出版会.明44.6.30から文書名を【文書番号】で表し、それぞれ順に紹介していこう。

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1.社務廻職

慶長三年(1598)八月十八日豊臣秀吉薨御の知らせは直ちに公表されなかった。朝鮮出兵していた兵を引き上げるための時間が必要であったのであろう。翌年になって秀吉の死は公に知るところとなった。石清水八幡宮社務職は旧来将軍代始に将軍家御沙汰により改補されてきたところであるが、改補を廻り田中家、檀家、善法寺家、新善法寺家の間で相論となり、京都所司代前田玄以の調整するところとなった。

【951】慶長四年(1599)二月十三日「田中秀清申状案」
端裏書○おかめへあけしかき物あん」、
田中秀清は相応院に家康ヘの執成を頼む。

【1261】慶長五年(1600)五月十五日付「徳川家康八幡社務職判物」、
「田中秀清を当社社務となす」との内府徳川家康の裁可により決着した。

【1262】同五月廿五日付「徳川家康社務廻職判物」は社務廻職の定、社務領兼官領は当社務に付す」と定めた。

【1263】同五月廿五日付「徳川家康朱印状写」、
「田中知行分目録」が発給された。

 この間の於亀の方の消息。

【1279】慶長四年(1599)十九(月日不詳)付「田中殿への御返事、御うもし様宛ふしみよりかめ消息」、

「広橋(武家伝奏)殿へ御心へ候まゝ、御朱印のこと徳善院へ申し候て」と社務職改補につき前田玄以に斡旋を依頼せしめ、

【1280】同(月日不詳)付「田中秀清宛かめ消息」、

「わざと一筆申しまいらせ候。今日、本家衆公事、勝右衛門様(前田玄以執事松田勝右衛門尉政行)内府様(徳川家康)の御前にてお済まし候由候、そのついてに社務の事御申候て給わり候へと、我が身申候由御申候て、先の勝右衛門殿へ御やり候へく候、今日の公事のついでに必ず渡し候ように勝右衛門へよくよく御申候へく候」と、田中秀清に松田勝右衛門尉へ一筆託して持たせた。

【1281】慶長四年(1599)(月不詳)六日付「御師の田中様(秀清)宛かめ消息」、

「徳善院をよくよく御せがみ候へく候、こなた上様(徳川家康)は御がってんにて候、徳善院のまへばかりにて候」といまだ決定していないことに不満を伝へる。

【1282】同年十二月十日付「田中秀清様御めうけい様宛かめ消息」では大阪より、「たより御うれしく一筆申まいらせそうろう、いまだ社務之事定まり候はず候や、そもじ様も御大くつ候やとすもし申候、さたまり候ハすハ御やう申候て、小少将殿へ文やり候ままもたせ御やり候へく候、文のもようよく候や、よくよく御だんじ候へく候、御めうけいへ申し候、ちとちと御いで候へくそうろう、まちまいらせ候、きのうもふみにて申候つるか、とゝき候や、かならずかならず御いで候へく候、めでたくかしく」と便りを出し、

【1283】同年十二月十日付、

「徳善院様にて小少将様宛かめ消息」、

社務職改補遅延に付更に前田玄以の斡旋を依頼、「直目安にてなりとも申させ候はんや」と督促し、また徳善院の病気に気づかいしている。

【1284】【1285】【1286】と其の後年月日不詳、かめ消息が続く。いずれも「○この文書恐らくは慶長五年(1600)五月のものならん」と記されているが、慶長五年五月十五日付「徳川家康社務職判物」以後の消息であり、家康の裁可により社務職が田中秀清に決定したことを慶賀する消息である。


2.検地免除と安居神事

 天正十七(1589)年の太閤検地により、八幡神領では地下人の生活は変化し、境内経済の基盤が崩れてしまった。又それに応じて安居神事は中断していた。八幡惣中は豊臣奉行人に対して、安居神事頭役を勤仕することをもって検地免除を申請していたが、天正十七年までの知行地を記した「八幡山上山下知行高帳」を内府徳川家康に指出したことで、慶長五年(1600)五月廿五日付徳川家康朱印状が社家はじめ山上衆・神人衆・寺・地下人衆にあてて個別に発給され、検地免除が保証され、安居神事は復活した。

このことは内府家康が不法な縁故により独断にて朱印状を発給したものとして、豊臣家三奉行(増田長盛・長束正家・前田玄以)は同(1600)七月十七日付「内府ちかいの条々」で家康を弾劾し、内戦勃発寸前の状況になった。 

同年九月十五日 関ケ原の戦い。

【1264】同年九月九月十九日付「徳川家康禁制」、

関ケ原決戦に勝利した家康は、戦後の濫妨を防止する為、直ちに八幡八郷に禁制を布いた。

慶長八年(1603)、徳川家康には征夷大将軍となり、江戸幕府を開く。

【1265】慶長十五年(1610)廿五日付、

徳川家康朱印條目、

「放生川の疏水」「破棄」「地下人跡職」「殺生禁断」「八幡八郷検地免許」「守護不入」を定め、第二條で「先年検地免許之神領内、為地下人之役安居之神事相勤の間、田畠等他所之者幷坊寺江売候者、相改可棄破之事」と、領知朱印状と天下安全武運長久を祈願する安居神事勤仕とは一対のものと確認された。

【1288】慶長十六年(1611)八月十二日付、「田中秀清、善法寺舜清カ、新善法寺重清カ宛かめ消息」、

「御うれしく思ひまいらせ候、そこほと山城国中検地御入候へ共、そこほとは去年朱印にのり候て、御打候はぬよし、かすかすめでたく思いひまいらせ候、山上山下より上様へ菖蒲革拾枚御進上候、よくよく披露申入候、ことにわが身かたへも白金三枚給候、よくよくご心得て給候へく候」と、山城で予定されていた検地も八幡ではこれもなく、検地免許を共に慶ぶと共に、進物の御礼を伝へた

【1266】 慶長十八年(1613)七月廿三日付、「徳川秀忠黒印條目」、

先の大御所「徳川家康朱印條目」と同じ内様の征夷大将軍「徳川秀忠黒印條目。

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3.闕所について

【1289】 年未詳八月二日付「田中殿宛かめ消息」、

「放生川なとも御さらへさせ候よし、よき御事にて候、橋も闕所の物成にて、御懸けさせ候よし、よき御事にて候」、「闕所の山よししま少御入候よし、上様へ申し候へは、社務領の心に御替り持に下され候はんとの仰事にて候、そもし様の今社務を御持とて、そなたへ御とり候て、又社務替り候はゝ、これも添えて御渡し候へく候」

【1290】(年未詳)八月二日付「すわう殿御かうしつ様宛かめ消息」、

「上様へ申上げ候へは社務領の心に社務もつ人に、回り持ちに下され候はんとの事候まゝ」と、闕所の山社務領とすべきを告げる。

【1291】(慶長十八年カ)十一月十日付「田中殿(秀清)善法寺殿(舜清カ)新善法寺殿(重清カ)宛するかゟかめ消息)、「まつまつ豊蔵坊へ御つけ被成候道二忠右衛門分、御朱印のおもてはかり御わたし候へく候、その外によししま山いやしきなとは、二度まて上様へ御意を得申候へは、まつ社務領へつけておき候へと仰せられ候まゝ、社務領へ御渡候てよく候、もしかわる御事候はん共、それまではその分に被成候へく候」、とある。於亀の方は闕所となった領知について家康の指示を八幡に伝えへ、

「返々、はうさう坊へつけさせられ候時も、よししま山なとの事御意をうけ候へは、それはまつはしめことくにしておき候へとの御ゐにて候まゝ、その御心へ候へく候、はうさう坊も御しゅいんの外に、御取候はん事、なかなかむりにて候まゝ、まつまつ御ゐしたいに候て候へく候、めでたくかしく」と結ぶ。

闕所となった片岡道二は慶長度関東御朱印四十三石余拝領仕山城国雄徳山八幡宮本願地年預役であった(宇治歴史資料館片岡道二家文書)。おそらく忠右衛門も同様の役人であったろう。

 慶長五年(1600)の領知朱印状給付から慶長十五年(1610)の徳川家康朱印条目へと家康の石清水に関する施策は完結し、石清水は霊地として守護され、八幡惣中は安居神事を荘厳に催し天下安全・武運長久を懇祈することとなった。

4.田中敬清跡目相続について

 これ以降の「相応院様御文」は田中家における相続に関することである。敬清の跡目として善法寺家から召清を迎えて敬清の女のおきよと祝言することになっていたが、敬清に実子要清が生まれ、諸問題を於亀の方が調整するはこびとなった。

【1304】寛永十八年(1641)九月ミノ十八日付、

善法寺(幸清)新善法寺(常清)法恩寺宛相応院黒印、

相応院様徳川義直生母覚書○コノ文書紙継目裏ニ相応院ノ黒印アリ、

「相応院様((包紙ウワ書))御書物御黒印」

 おほへ

・田中敬清跡目の仕置き、
・召清と敬清の女との祝言
・敬清後室正受院隠居料、
・隠居屋、
・正受院一期の後は合力米等を田中へ返付せむ、
・敬清実子の養育、・敬清生母の扶持、
・田中家の道具、召清の貢献、

【1305】寛永十八年(1641)九月廿日付

法園寺宛相応院消息、

・田中跡目につき法恩寺の肝煎を頼む。

【1310】慶安二年(1649)丑正月十三日付、

善法律寺宛、志水忠政外二名連署事書

「田中家((包紙ウハ書))之御仕置之判物志水甲斐守山下市正玄皓(外書物書状等ニハ岡本――トアリ、之也)右三名宛所善法寺」

・田中召清と敬清後室との公事曖
・受領家屋敷等は一円田中の支配・敬清の実子を召清の養子とする。
・「一、田中御家之儀、相応院殿由緒も有之事ニ候、其上少之寺領方々へ御わけ候ハヽ、御勝手も成ましく候間、御後室之儀は、大納言殿御合力可被遣事候」、「一、田中殿へ久目松(要清)代継養子ニ被遣上ハ、正受院久目松へ少もかいほう有間敷事」と相応院殿の没後においても善法寺に対して志水甲斐守忠政(忠宗の長男)・山下市正氏政(氏勝の長男・名古屋城代)・玄皓(岡本某カ)が連署事書し、相応院の覚書を通達している。この慶安二年十二月廿二日は田中要清が得度した年であり、その前年には召清が本家を要清に譲り自分は東竹を再興、慶安年中石清水記録を整理した。

以上、「相応院様御文」と徳川家康の施策の関連をみてきた。相応院は家康の意を得ながら社務廻職、領知朱印状・検地免許と安居神事と八幡惣中のために奔走した。また田中家の分裂を防ぎ衰微しないように仕置し、また大納言(義直)の合力もあり田中家の安寧に寄与した。      (了)


*参考文献

1.「石清水祠官家系図」一、田中系図p29~p31。五、東竹系図p46。
  『石清水八幡宮史 首巻』続群書類従完成会)1939

2.正法寺所蔵「志水家系」
  科学研究費補助金研究報告書『中世神社史料の総合的研究』<研究代表者鍛代敏雄><研究課題番号19520590>2010.3

3.「○尾張大納言義直卿御母堂相応院殿伝系」
  国会図書館編『柳営婦女伝叢』)国書刊行会、1917、6
  国立国会図書館デジタルコレクション

4. 丹波紀美子「お亀の方について」
  八幡の歴史を探究する会 会報88号   2018.11

5.『名古屋市史』 [第六巻](人物編第一)
 ・「名門一二、初世徳川義直」p33・「執政一二、平岩親吉」p91
 ・「執政四、初世成瀬正成」p107・「執政六、初世志水忠宗」p113
 ・「執政七、初世竹腰正信」p114・「執政九、初世石川光忠」p121
 ・「執政一〇、二世志水忠宗p123・「僚吏二、山下氏勝」p235
                愛知県郷土資料刊行会。1980.3.
                国立国会図書館デジタルコレクション

6.鍛代敏雄「中近世移行期の石清水八幡宮寺と幕府・将軍   ― 安居神事をめぐる政治交渉―」戦国史研究。  2011.2

7. 「渡辺守綱」、 
  山本大 小和田哲男編『戦国大名事典東国編』新人物往来社1981.

8、『大日本古文書 家わけ四』石清水文書(田中家文書)
  東京大学出版会、1911.6





 
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# by y-rekitan | 2025-03-28 22:00 | 講演会・発表会

淀川水運の歴史  126号

淀川水運の歴史と山崎橋・芭蕉

 谷村 勉 (会員) 


淀川では古来より主要な交通手段として舟運が発達した。運搬の中身は食料や燃料などの生活物資や人の搬送あるいは情報や文化も運ばれた。明治以降の近現代になって運搬の手段は激しく移り変わった。

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磐之媛命平城坂上陵 R4.6.11撮影

磐之媛命(いわのひめのみこと)と平城(なら)坂上陵(さかのえのみささぎ)

   つぎねふ山背河(やましろがわ)を 宮(みや)のぼり我(わ)がのぼれば 
青丹(あおに)よし那羅(なら)を過(す)ぎ

   小楯(をだて)倭(やまと)を過ぎ 我(わ)が見(み)が欲し国は
 葛城(かづらぎ)高宮(たかみや)我家(わぎへ)のあたり 

                      磐之媛命『日本書紀』

(山また山のそそり立つ山背河を、葛城の高宮さして私がさかのぼって行けば、いつしかに、青土のうるわしい奈良も過ぎた。楯のように山々をめぐらした大和も過ぎた。
こうして旅のはてに、私が見たいと思っている国、それは葛城の高宮、私の生まれた家のあるあたりなのです。)
                      (『日本書紀』福永武彦訳)

「磐之媛皇后が、仁徳天皇と仲たがいして、淀川から木津川を上って山城筒木の宮(現京田辺市)にひきこもってしまった時、「那良の山口」で詠まれた望郷 の歌である。皇后の御陵は歌姫越えの旧道(奈良)を登った所、水上(みずかみ)池(いけ)をへだてて、平城京を見おろす高台にある。筒木の宮からも遠くはないから、皇后はしばしばここに立って、故郷の空を偲ばれたのであろう…‥。」

             (『かくれ里・葛城のあたり』白洲正子より抜粋)

 近鉄京都線平城駅で下車し、成務天皇陵から垂仁天皇皇后日葉酢媛陵を経て平城天皇陵の北を通り、磐之媛陵に達する。また、成務陵の北を東に歩き、歌姫街道を横切って、磐之媛陵の北西に達すると、内濠の堤に入ることもできる。

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水上池から葛城山を見る R4.6.11撮影

 奈良時代には、聖武天皇が恭仁京から難波宮へ遷都をした際の物資輸送は木津川から淀川を下る舟運によって行われた。

 時代は下り、豊臣秀吉によって城下町となった伏見と大阪とを結ぶ大量輸送手段として舟運は発展していき、伏見港周辺は舟運の拠点として栄えていく。江戸時代には、大阪と伏見との間に三十石船と呼ばれる船が往来し、人の移動の手段として使われるようになった。枚方付近では、三十石船の乗客に向けて小舟から飲食物を販売する「くらわんか舟」が有名であった。明治時代になると蒸気を動力とした外輪船が淀川で運航されるようになった。オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケの協力のもと、蒸気船が航行できる水深を確保するため、水の流れを集める水制工が設置される。

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 くらわんか茶碗 (個人蔵)

 また、新淀川が開削された際、水位差が生じた大阪市内河川との間を船が行き来できるようにするため、船のエレベーターの役割を果たす毛馬閘門が設置されている。しかし、昭和初期以降に鉄道や道路などの陸上交通網が整備されていくにつれ、舟運は徐々に人々の暮らしから遠ざかっていった。              (「淀川河川事務所」より一部抜粋)


橋本に架かる山崎橋

 奈良時代、神亀2年(725)に、行基によって山崎橋(大山崎~橋本)が架橋される。行基が活躍した奈良時代は平城京が都であった。古代山陽道は、奈良の都から現京田辺市の関屋橋で古代山陰道と分離し、八幡丘陵・楠葉の裾を北上し、橋本からこの山崎橋を渡って、北に山陰道(丹波街道)、西に山陽道(西国街道)とに分かれていた。当時、平城京に大きな物資を運ぶには淀川から木津川に入り、木津川の港から陸路をとって平城京へ運ばれた。物資運搬の中継地点として山崎の津があり、長岡京の造営に際しては、物資運搬の重要な港として機能した。

「続日本紀」に延暦3年(784)7月4日 阿波・讃岐・伊予の三国に命じて、山崎橋(山背国乙訓郡山崎郷)を造る材料を進上させた。山崎橋を復興する命が出されたことが記されている。

弘仁元年(810)9月薬子(くすこ)の変に対しては、「又、宇治・山崎両橋と与渡の市と津に頓兵を置く」(『日本後紀』)とある。

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宇治橋 R6.6.17撮影

『続日本後紀』から皇太子の廃位を伴う重大な事件「承和の変」を追うと。
承和9年(842)7月15日、嵯峨上皇、嵯峨院にて崩ず、(以下略)勅使を伊勢、近江、美濃三国に遣わし、関門を固く守らしむ。

17日、春宮坊帯刀舎人「伴健岑(とものこわみね)」・但馬権守従五位下「橘逸勢(たちばなのはやなり)」らの謀反が発覚。 嵯峨上皇が亡くなる5日前、伴健岑が阿保親王(平城天皇の子)の許に参り、「間もなく国家に内乱が起こるので、自分は皇太子を擁して東国に入らんと思う」と語る。「阿保親王、直ちに一部始終を書簡として嵯峨太皇太后(橘嘉智子)に上呈。太后は中納言「藤原良房」に密かに密書を渡し、天皇に奉上。同日、固関を解く一方で、伴健岑、橘逸勢を逮捕し、18日、19日の両日に両人を糾問。左右京職に京内街区の警固に当たらせ、山城国の五道を閉鎖し、宇治橋、山崎橋、淀橋を警固」とある。

『栄花物語』松のしづえの巻・天王寺御幸(延久5年(1073)2月)より
 延久5年(1073年)2月20日、後三条院は天王寺(四天王寺)に参詣した。陽明門院と聡子内親王も同行したが、上達部や殿上人は多くは参加せず、親しい人々と楽人たちが随行した。八幡宮参拝後、内裏からの使者が到着し、聡子内親王は本社に参拝する。「橋本の津」で船を御覧になると、各地からの船や御船が集まっており、豪華な装飾が施されていた。この御幸では、あらゆる面で贅を尽くした様子が描かれている。


山崎橋はいつ頃まで存在したのか

 永承三年(1048)、藤原頼通(藤原道長の長男)が橋下を通過した。記録に残る橋の最後の記述になる。
山崎橋の下を過ぎ御する間、桑糸二百疋納殿。‥‥臨昏、淀に着かしめ給うふ。(『宇治関白高野山御参詣記』永承三年(1048)10月20日)
 また、これより先の長元 8 年(1035) 5 月 16 日には関白藤原頼通の賀陽院で歌合が行われ、左方殿上人は 21 日に石清水に参詣し、22 日 には山崎橋下から乗船して酉刻に「熊河岸」へ到着し、馬で住吉社に向かい、23 日の帰路は「大渡」 で船に乗り、「大江御厨司等五六艘」が先導した記録が残る。(「長元8年5月16日関白左大臣頼通歌合」)

秀吉の「橋本之橋」架橋

 11世紀中頃以降に山崎橋の記録は絶えたが、秀吉によって文禄元年(1592)「山州八幡橋本之橋銘」の橋が架けられた記録が残る。その架橋は8月9日に始まり、12月4日に完成している。(『惺窩先生文集巻之八(享保2年(1717))』)
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石清水八幡宮全図橋本部分(中井家文書)

朝鮮出兵による街道整備の一環として架橋されたようだ。興味を引くのは、この橋は山崎橋ではなく、「橋本之橋」と命名され、近衛信尹(のぶただ)(近衛前久(さきひさ)次男・寛永の三筆)の『三藐院記(さんみゃくいんき)』に、文禄元年(1592)12月14日都をでて、山崎側から橋を渡り「橋本の橋をわたりこし乗船、沈酔故也、同船友枕(伊勢貞知)也」の文章を残している。橋本側の橋の位置は現在の橋本奥ノ町辺りで「石清水八幡宮全図(中井家文書)」の奧ノ町を見ると不自然に弓状に曲がった街道筋が見える。京街道(文禄堤)の工事開始は橋本の橋の架橋後となり、街道は既に完成された橋の親柱・袖柱を避けて造らざるを得ず、弓状に曲がったものと推定される。街道の弓状に曲がった形状は現在もそのまま残っており、橋本奧之町の現場に行けば成程と分る。同じ所には橋本等安(石清水八幡宮社士・連歌師)によって造られた橋本寺も旧蹟として全図に記されている。

  
 
鳥羽の魚市場遺跡碑と淀川過書船について

 秀吉伏見築城以前の宇治川は宇治の下流より巨椋池に入り、淀の南にて木津川、桂川と合流する。巨椋池は北に延び、伏見山西より鳥羽付近まで浸(ひた)し、京都より水路難波に行こうとするときは、下鳥羽より船を泛(うか)べて発するのを常とし、下鳥羽は草津と称せられて、洛南の重要な港だった。
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魚市場遺跡碑(羽束師橋東南・草津湊) R4.10.21撮影


 秀吉の伏見城の築城によって水路も大いに変更されて鳥羽及び伏見が発着所として淀川水運上重要な地位を占めるに至った。桂川の羽束師橋の東側サイクリングロード脇に魚市場遺跡碑が建つ、次の説明文がある。「伏見区横大路は平安京の昔より草津の港として栄え、明治10年京都、神戸間に鉄道が開通するまで1000年の長きに亘り、水上交通の要衝として東西行客の来往盛んとなり、京への生鮮魚介類の輸送もここを集散の場として賑わいをみせていた。

しかし鉄道の開通はこの魚市場を廃墟と化し、その伝統は現在の中央卸売市場に受け継がれている」。江戸時代、横大路から洛中への魚運搬の様子は『拾遺都名所図会』にも見える。

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『拾遺都名所図会』巻四「鳥羽作り道」(個人蔵)

 
 徳川家康が政権を執るに及んで、慶長8年(1603)10月河村与三右衛門、木村宗右衛門(いずれも紀伊郡納所の人)の二人を淀川過書船の奉行に命じ過書座と命名した。過書座は伏見京橋、納所、枚方、吹田、大坂、尼崎、神崎等に番所を設け、京都に会所を置いた。元和元年(1615)に至り幕府は河村与三右衛門を罷め、京都の角倉与市を過書奉行とし、木村宗右衛門とともに永く両名に過書船奉行として支配させた。 


高瀬川の開鑿(かいさく)

 京都に高瀬川が彫られるきっかけは、大仏殿の再興であった。徳川家康の腹臣・本多佐渡守正信は、かねてから大坂城中に数多ある金銀財宝を費消させて、豊臣家の勢力をそぐことの必要性を家康に進言した。家康は豊臣家の忠臣・片桐市正の機略を、大仏再興の奉行として京都にとどめ、大坂方の離反を図ろうと着々準備し、反片桐の將・大野修理亮治長を駿府に召して、大仏殿再建のことを勧めた。慶長13年(1608)9月のことである。

『角倉与一玄匡(げんきょう)の系譜』に曰く
「慶長十三年戊(つちのえ)申(さる)年京都大仏殿御造営御入用之大材木伏見より
牛馬に而運送難相成候に付右運送被仰付川筋を見立京都賀茂川の
水を堰分け新川を付右御材木運送御用相勤申候」

 陸路大材の運搬に、五人の壮丁が力を合わせ掛け声かけても難しく、牛馬の力をもっても、とても運びきれなかった巨木を鴨川の水路を整備し、水に浮かべて運び、難所は轆轤(ろくろ)で曳くなどして、難なく六丈(18メートル)の段差と二里(8キロ)余の道程を克服し得たのである。上記はまだ高瀬川が掘られる前に、了以(与一の父)によって、「鴨川運河」が掘られて、材木輸送にあたったことを記している。慶長16年(1611)了以はさらに幕府に申請して、運河の開削を願い出た。その結果でき上ったのが「高瀬川」である。


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高瀬川一之舟入 (R4.11.3撮影)

 
大仏より上流、二条まで舟を遡行させた。鴨川運河の延長である。さらに底の平らな舼(こう)船(せん)を使うことにより浅瀬も航行できるようにした。これにより高瀬川は、伏見と京都を直結した為、大坂への水運の道として、はなはだ重要な位置を占める、大坂を含めた上方の商業流通圏を確保したことは、京都再生策の決定打となった。了以は淀川の経済的魅力を充分知悉していた。『駿府記』によると御所造営のための材木も又、引き続いてこの川を利用して運んだ。この年の3月に後水尾天皇即位の儀式があり、禁中造営の工事がなされた。
(なお、鴨川の西に造られた高瀬川は、東九条の西南「東九条南松ノ木町付近」で鴨川に一旦合流させ、さらにそこから鴨川を横断する形の水道を造り、運河をもって竹田村を通過して伏見につないでいる)


三十石船と淀二十石船

 徳川時代の初期、淀川で結ばれていた伏見・大阪間の交通機関として旅客専用の船「三十石船」が登場する。米を三十石積めることから三十石船と呼ばれ、別名を過書船とも云われた。全長五十六尺(約17㍍)幅八尺三寸(約2.5メートル)乗客定員28人、船頭は当初4人と決められていた。上がり船は船頭の棹(さお)と男たちが綱を引いて淀川を遡(さかのぼ)った。三十石船の様子は、『東海道中膝栗毛』や上方落語『三十石』でも描かれている。大坂への下りは6時間、京への上りは12時間の長旅であり、乗客にとっては便利な交通手段であると同時に船上での交流や景色を楽しむ機会でもあった。幕末には“早舟三十石船”が現れ、上り下り共時間が短縮された。明治になると蒸気外輪船の導入や鉄道の開通により姿を消した。
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都名所図会「淀・三十石舟」 (個人蔵) 


 ところで、伏見から天満橋八軒屋船着場までの船旅には6時間を要したが、これを歩いて行くと、凡そ40㎞を10時間かけて歩く計算になる。一般に、 江戸時代の旅人は夜明け前に出発し、夕方に着く。1日8~10時間歩くが、距離にすると30~40㎞も歩いていて、驚くほど健脚であった。

「淀二十石船」は「淀上荷船」あるいは「淀船」とも称し、過書船に属するが、過書船以外の特権を持っていた。「淀船」の歴史は古く、古来石清水八幡宮神領地下の人々が、舟子となって同神社社務の支配に属し、一時は淀川の運輸を一手に掌握し、他船の往来を許さざる勢力を張った時代があり、淀船に対しては「運上」、「地子」を免じ、且二十石船は淀船以外に造る事を許されず、また一般過書船は船側に「過」の極印を押捺されたが淀船には捺(お)されなかった。

さらに一般過書船は船株売買自由であったが、淀船は売買厳禁の特権を有していた。秀吉の朝鮮出兵に際し、多数の船夫を淀より徴集し、これら妻子に向けて扶助を講じるなど相当の特典を与えたが、其後徳川時代に至っても、淀川運輸に関して功があった。慶長19年大坂の役に際しては、京都所司代板倉勝重の命により、木村宗右衛門軍用運送の事(兵糧米、鉄砲、楯、竹(たけ)把(たば)、御陣具等輸送)を勤め、大坂のお蔵米を伏見に運搬し、次の元和1年夏の陣にも大いに活躍し、夏冬両陣に用いた船数3,560余艘、船夫7,260余人に達す。

故に徳川幕府も淀船に対しては特典を付与した為、益々勢力を得て其船体の軽小を利用し、淀川本流は勿論、伏見、木津、桂川に渡って盛んに往来し、過書座所定の運賃以下を以て運送に従事した為、後に淀船と過書座との紛争を招くことになった。紛争は寛永3年(1626)の淀船改め以降も徐々に激しくなり、中々解決できなかったが、享保7年(1722)に至り幕府は過書奉行木村、角倉両氏並びにそれぞれの年寄りを召出し、二十石船は過書中に加えることを申渡し、同九年改めの過書運賃制札中に、新たに二十石船を加え、紛争は一段落した。
       (過書座二十石船由緒書『稲葉氏旧家老田辺家文書』、大阪市史)


松尾芭蕉の骸を航送する二十石舟

芭蕉最後の旅は元禄7年(1694)9月8日、郷里の伊賀上野を出発し、奈良から大坂に入った。芭蕉が大坂へ行ったのは、酒堂(しゃどう)と之道(しどう)の喧嘩を仲裁する為であった。体調を崩していた芭蕉にとって、弟子を和解させるのは骨の折れる事であった。支考の『笈日記』によると、8日は奈良の猿沢池のほとりに宿泊した。その夜は月が明るく輝き、夜中に鹿の鳴き声が聞こえてきた為、宿を出て猿沢池の周りを吟行し、「びいと啼く尻声悲し夜の鹿」と詠んだ。月明かりに聞こえてきた鹿の尻声が、自らの運命を予感する声のように聞いたものか。
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猿沢池 R4.3.23撮影

 明くる9日は重陽の節句で芭蕉はこの節句を奈良で迎えようとしていた。

「菊の香やならには古き仏達」の句をなし、暗(くらがり)峠を駕籠で越し、「菊の香に暗がりのぼる節句かな」の句をなした。

明日越ゆるくらがり峠おもふとき芭蕉の足も重かりにけむ  吉井勇

 その日の夜に一行は大坂の酒堂亭に到着した。体調を崩しながらも、芭蕉は大坂の門人たちとの句会に臨んでいる。やはり無理があったのか、9月29日、芭蕉は重篤な泄痢(下痢)をおこしてしまった。容態は悪化し、10月5日には南御堂前の花屋仁右衛門方の貸座敷に移る。10月8日、死を覚悟した芭蕉は、弟子の呑舟に最後の病中吟を書かせた。 「旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」

病中、旅路の終焉を悟るも、まだまだ旅の詩人でありたいという思いも込めたものであろうか、これが生前最後の句となった。

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天満橋京町「八軒屋船着場の跡」石碑 R6.12.18撮影 



芭蕉は門人に、遺骸は膳所の義仲寺の木曽塚のところに葬って欲しいと遺言 していた。元禄7年(1694)10月12日御堂前南久太郎町「花屋」にて、芭蕉は午後4時頃静かに息を引き取る、御年51歳だった。弟子達はすぐさま芭蕉の遺言を実行する。夜の帳が降りる中、芭蕉の遺体は「花屋」近くから高瀬舟に乗せられ、天満橋「八軒家浜」まで運び、そこで二十石船の過書船に乗り換えた。『芭蕉翁終焉記』に、「夜ひそかに遺体を長櫃に入れ、商人の荷物のようにして運んだ」と其角が書き残している。

 二十石舟で門人十人と共に淀川をのぼる。『花屋日記』には「八幡を過る頃、夜も白々と明けはなれけるに‥」と記されている。芭蕉に八幡宮を訪れた足跡はなかったが、芭蕉の遺骸を乗せた船は、夜明けとともに八幡橋本を通過したのである。義仲寺(大津市)に所蔵される「芭蕉翁絵詞伝下巻」には、淀城近くを航行する川舟の中に芭蕉の遺骸を納めた長櫃が描かれている。この絵は淀小橋を通過した直後の様子を描いたものである。

伏見船と今井船

 元禄11年(1698)八月若年寄米倉丹波守昌尹(まさただ)(旗本、武蔵金沢藩主のち下野皆川藩主)京畿水路巡察として西上し、大坂、堺、奈良、東山東海両道を巡る。伏見に至れば、伏見の困窮が公役にも堪えられない状況を見て、同年十二月伏見公船の許可を与える事になる。

ここに十五石船二百艘を造り、伏見新船は伏見、六地蔵港の出荷物引き受け、宇治、淀、鳥羽、横大路、木津川筋に運送し、更に過書船の営業区域である大坂、伝法、尼崎、伏見上下の荷物、旅客運送に従事する許可を得、小船を利用して敏速に活動を行った。

その結果またも過書船は少なからず脅威を受けた。当時過書船は船数六百余艘に達し、積載荷物がこれに伴わず、常に休船するもの四五十艘を数えて、飽和状態にあった。結局、紛争状態は紆余曲折を経て幕末まで続くことになる。

 以上諸船の他に今井船があった。「今井船、本名手操舟(たぐりぶね)なり、是亦浪花より伏見に往来す、禁裏へたてまつる生魚を積む、これ故に早働の船なり、今井道伴と云ふもの取立はじめし故、今井船といふ」(和漢船用集)とあり、禁裏御用の生魚輸送の特別任務を持ち、一般旅客をも載せたる事が『伏見鑑』にある。

巨椋池

 巨椋池は京都盆地の中で最も低い場所に位置する。現在の伏見区や宇治市周辺に広がる大きな池で、宇治川や桂川、木津川などが流れ込む遊水池として機能していた。この地域は古くから水上交通の要衝であり、木材運搬の中継地点としても重要な役割を果たしていた。巨椋池は縄文時代前期に形成されたといわれ、平安時代には景勝地として知られ貴族の別荘が立ち並んだ。
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旧山田家住宅(巨椋池周辺の大庄屋)H29.04.19


豊臣秀吉伏見城築城以前の巨椋池

 豊公伏見城構築以前は巨椋池の面積が大きい上、山城三川が巨椋池やその出口付近に流入していた関係上、巨椋池を中心とした河川の交通は極めて盛んで大船巨舶が瀬戸内海より直接出入りしていた。これら河川交通の中心地は初期においては山崎の津であり、平安以降は淀の津に移り、さらに伏見築城以来伏見ノ津がその中心地になるなど西から東へ三遷している。豊公伏見築城によって巨椋池が宇治川本流(淀川)より離れた為、巨椋池の交通は一変し、僅かに沿岸往来の物資運搬船、小型船の通運が残るばかりであった。


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豊公時代巨椋池沿岸土木工事図(巨椋池干拓誌)



木津川・宇治川の付け替え工事

 明治元年12月22日、木津川付け替え工事の無事を願い八幡宮での祈祷を終え、土砂持運・提築立てにかかったが、24日、25日が雨で、27日は雨による内水がひどく、年内の工事は中止となり、明けて翌2年1月5日から、工事は再開された。当初完成まで3年はかかると予測されていたが、新堤防が11月中に一応の完成を見、12月新川に水を流し、下奈良堤で水神祭を執行した。引き続き旧木津川筋を堰止める築堤工事を行い、明治2年も終わろうとする12月28日には一応完成報告を京都府に提出した。翌3年1月22日、全ての工事が完成し、ここに木津川付け替え工事の大事業は終了した。(『八幡市誌 第三巻』)

 淀川全体の治水工事の中で最大の宇治川付け替え工事は、明治33年11月に起工された。伏見観月橋下流より八幡荘地内の木津川合流点に至る新堤延長は約10㎞、川幅約272mの両岸に築堤し、同36年におおよその竣工を見た。この他、一口(いもあらい)・横大路・向島などにおいて旧堤を拡張したもの5,7㎞、また桂川吐け口の狭窄部を取り広げ、さらにその合流部を下流約4㎞の山崎地内に引き下げ、桂川の洪水防止にも大きな効果があった。

河川改修とワンド群の形成

淀川の近代河川改修は 明治8年(1875)からオランダ人技師ファン・ドールン、デ・レーケ等の指導のもとに淀川修繕工事に始まる.この工事は淀川の舟運のための航路確保を目的とした低水工事であり,両岸から水制工を張り出して流路を狭めることにより,掃流力を確保し,水深を維持しようとし,下流の天満橋から伏見に至るまで隈なく,両岸に水制工(ワンド)が建設された。
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 淀川に残る水制工(楠葉) R3.1.31撮影


 「この水制は岸から川の中央に向かって垂直に突き出した形をしており、木の小枝や下草をあんだものを何重にも積み重ね、その上に大きな石を乗せ、川の底に沈めて作りました。この水制を使えば、水の流れは、木の小枝の間を通ることができ、穏やかに川の流れを曲げることができました」(国土交通省)

                              以上


【主な参考文献】
『御大礼記念京都府伏見町誌』伏見町役場
『巨椋池干拓誌』巨椋池土地改良区
『日本書紀』福永武彦訳 河出新書
『続日本紀』宇治谷孟 講談社学術文庫
〖史料纂集 三藐院記〗八木書店
『三藐院 近衛信尹』前田多美子 思文閣出版
『京都高瀬川』石田孝喜 思文閣出版
〖京都鴨川探訪〗鈴木康久他 人文書院
『松尾芭蕉集』日本古典文学全集41 小学館
『芭蕉紀行』嵐山光三郎 新潮文庫
『八幡市誌第三巻』八幡市


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