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◆会報第118号より-01 吉井勇


◆会報第118号より-01 吉井勇_f0300125_16115857.jpg心に引き継ぐ風景・・・㊾

吉井勇と小杉放庵
◆会報第118号より-01 吉井勇_f0300125_22405649.jpg
 吉井勇の四国初訪問について歌集『人間経』詞書に、「昭和5年8月、わが世の煩いを忘れむとして、浪速潟より遠く四国路にかけての旅に出でぬ。さすらひの身の夜ごとの夢の愴然たりしこといまに忘れず」と、妻との確執を伺わせる。
 宇和島運輸(株)の招きで宇和島に上陸、伊予路(愛媛県)を歩いた。当時は、国鉄も通らず、国道56号線もなく、宇和島から阪神や九州を結ぶ船便が主な交通手段であった。幕末の宇和島藩主伊達宗城は領内の細工職人に蒸気船を造らせるなど、誠に開明的な気風を持った地域であった。卯之町にはシーボルトの弟子二宮敬作が外科医として活躍し蘭学塾を開く。シーボルトの娘イネも居た。
 勇は翌年5月に初めて土佐に遊び、伊野部恒吉を知る。勇に伊野部を紹介したのは旧知の小杉放庵(文人画家・歌人)だったのではないかといわれている。
伊野部は高知の酒造家で早稲田大学を出ていた。勇の心境をいろいろ聞いて、土佐に隠棲することを勧めたようだ。昭和8年6月には小杉放庵、伊野部恒吉とともに佐渡が島へ行く。
  放庵は金北山に登るなりわれこそは取れ大き杯  勇
 この佐渡同行の伊野部氏が、ことごとく吉井氏に傾倒して、その後土佐に行った吉井氏の面倒をよく見た。
     (小杉放庵追悼文「吉井勇の事ども」より一部抜粋)

(文と写真 谷村 勉)空白


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# by y-rekitan | 2023-11-27 12:00

◆会報第118号より-02 源氏物語

◆会報第118号より-02 源氏物語_f0300125_23262477.jpg
《会員研究発表》

石清水八幡宮寺と源氏物語

2023年6月 八幡市文化センター第3会議室にて

大田友紀子(会員)
 9月29日午後2時より八幡市立文化センターにおいて表題の会員研究発表がありました。紫式部が生きた時代、石清水八幡宮寺は洛中の人々には託宣を貰う所として、広く知られ、当時、女人禁制の諸寺院は多かったが、老若男女を問わず託宣を乞いやってくる人々を迎え入れていたのは、石清水八幡宮寺のみと言っても過言ではなく、それが、世間に周知されていました。
 講師の大田さんは、京都産業大学の日本文化研究所の研究員で紫式部についても研究調査をされています。紫式部は来年の大河ドラマの主人公でもあり現在注目されています。講演の概要は大田氏が纏められた。(会報編集担当) 

はじめに

 平成20年(2008)、源氏物語が貴族社会で読まれていたことが明らかとなり、そのことにより『源氏物語千年紀』として、京都では各種の催しが企画された。その中で「源氏物語千年ウオーク」という小冊子が作られ、物語に出てくる場所が掲載され、この冊子を片手に持ち、各所を歩いて楽しんでもらおうというコンセプトのもと京都市観光協会にて作られ、配布された。今見返してみると、4コースが紹介されている。

① 玉鬘が詣でた寺―石清水八幡宮寺

◆会報第118号より-02 源氏物語_f0300125_10324134.jpg 「六条御息所の生霊によって命を落とした夕顔と、頭中将の忘れ形見である玉鬘。母亡き後、乳母(めのと)について筑紫国に下っていたが、肥後国の豪族の理不尽な求婚から逃れるため上京。無事、都に着き、筑紫国で願を立てた松浦や筥崎(はこざき)の八幡宮と同じ社であると、石清水八幡宮に参詣した。このあと、都で寄る辺のない一行は、玉鬘の開運を願って徒歩で初瀬の観音(長谷寺)に詣でる。ここで、もとは夕顔に仕え今は源氏のところにいる右近との再会を果たし、玉鬘の運命は大きく変わっていく。」(京都府商工労働観光部観光課)
 この文章から感じたのは、当時の源氏物語の読まれ方である。私の神戸の友人から聞いた話だが、「石清水ではあかへんかったから、長谷寺に行って観音様のお導きで、元母の女房・右近とめぐり逢うことが出来た。」と笑いながら講義されたとか。◆会報第118号より-02 源氏物語_f0300125_10441119.jpg 確かに、源氏物語では、「神仏こそは、さるべき方にも導き知らせ奉り給はめ。(中略)そのわたり、知れる人に言ひ尋ねて、五師とて、早く親の語らひし大徳残れるを呼びとりて、詣でさせ奉る。」とあり、「五師」という階級の僧侶を仲介にして、石清水八幡宮寺に玉鬘を参詣させたということが書かれている。
 当時、老若男女問わず参詣出来たのは、石清水八幡宮寺のみで、そのことは世間に知れ渡っていた。

※五師について
 「石清水八幡宮寺組織図」によると、『山上五座』の一座で、上座の下の権上座で行事五師の下に五師が置かれた。その下部組織に《衆徒》二十坊があり、この立場から、貴族や庶民を始めとする参詣者に対して便宜供与にあたっていた。この時の五師は僧の階級では「五徳」であったと書かれている。宮寺の僧侶は60歳までは婚姻しないことから『聖』であり、仏事に従事し、そのトップは、検校、別当、権別当、少別当・修理別当と続く。

※「八幡の宮と申すは、かしこにても参り祈り申し給ひし松浦、筥崎、同じ社なり」
 松浦社 佐賀県唐津市鏡にある『鏡神社』 一の宮には息長足姫命(神功皇后)を祀り、御神徳は武運長久、勝運、開運、聖母、子宝、安産。
 筥崎宮 「八幡大菩薩筥崎宮一座大」とある明神大社。筑前国一宮。大宰府と関わりが深かった。上代は穂波郡大分村に有。大分(だいぶ)八幡宮より、中世今の筥崎の宮に遷座された。

※江戸時代にこの地方を旅した記事から
 貝原益軒『筑紫国続風土記』巻之十八 糟屋郡表 筥崎八幡宮の項
 松浦、箱崎、おなじ社なりとかけり。松浦に社は二社有。仲哀帝の御矛(みほこ)なり。一社鏡の宮は、神宮皇后の御鏡を安置し玉ふ所にて、共に応神帝に由ある神なれば、同じ社と書しにや。また此御社(=筥崎宮)にも、神功皇后おはしませば、松浦におなじ社と書しもむべ也。

② 紫式部の一族

 紫式部は、平安時代中期の物語作家で、生没年不詳であるが、出生は天延元年(973)あたり、没年は長和3年(1014)以降ではと推定されている。父の藤原為時(生没年不詳)は北家良門系、母は藤原為信(935?~987?)の娘。為信は北家長良系で、大雲寺を創建した藤原文範の子、式部の外祖父。権力を確立させた良房系が摂関家となる。
藤原宜孝(?~1001)の官歴
 平安中期の廷臣。藤原氏北家の高藤(長門)系で、右大臣定方の曾孫、権中納言為輔の子。紫式部の夫となる。
 紫式部の父為時と為輔はいとこであり、宜孝と式部は、またいとこである。最終官歴は、正五位下。
 花山天皇の中宮大進、左衛門尉、蔵人、(花山)院判官代、太宰少弐を経て、寛和元年(985)、丹生社に祈雨の使となっている。正暦元年(990)、御嶽精進を行い、その年、筑前守になる。御嶽精進の逸話は、『枕草子』に詳しい。その年の3月末日に、濃い紫の袴に白い狩衣姿で、参っていて、話題になる。清少納言は、そのことについて書き留めた。
◆会報第118号より-02 源氏物語_f0300125_11134050.jpg


③ 玉鬘の系譜など

 源氏物語は、「人生」を描いていると言われている。もちろん、主人公である光源氏がその中心にいることは言うまでもない。今から12年前、「八幡市リカレント教育推進講座」では『歴史を生きた女たち 4』というテーマで開催され、当時、同志社大学の廣田 収氏が紫式部個人について話された。 副題は「中宮女房としての紫式部」で、まず、源氏物語は、「何のために書かれたのか」という持論を展開されて始まった。そのことについて私はずーっと、疑問として考え続けた時もあった。何のために書かれたか、ということは藤原道長の依頼によるとされ、一般的な仮説になっており、「紫式部は、その中宮彰子の教育係として出仕を求められた」と廣田収氏は考えられている。
 「問題はそこから先にあり」で、当時、12、3歳の稚き姫君にとって見れば、源氏物語は「余りにも『毒』があり過ぎる」と締めくくられたが、娘・賢子に読ませることもその目的の一つであるとも話された。そのことについては、私なりに考えでは、紫式部は源氏物語の読み手を一条天皇として、一条天皇が一刻も早く続きを読みたがるような物語に仕上げ、一条天皇が足しげく彰子のサロンを訪れるようになれば、道長の意に叶うものであり、一足早く天皇の寵愛を受けている中関白家の定子から、引き離すことに成り、彰子の元に通わせた結果、2人の皇子を懐妊することに至り、十分に道長の夢、天皇の外祖父となり、当時の貴族として最高の権勢者となることを実現させたのである。その目的として、「玉鬘の巻」を書いたのだろうか、だとすればこの巻を書いて、紫式部は何を訴えたかったのか、という新たな疑問が生じたのである。
 冷静に物事をみる紫式部の夕顔の娘である玉鬘の扱いは、母・夕顔の人生よりももっと辛い、過酷な運命を玉鬘や乳母の一族に与える必要があるのか、私には分からない。筑紫国より這う這うの体で、都に逃れて来た玉鬘の一行は、石清水宮寺に参詣して託宣を受け、それによって長谷寺に行き、亡き母・夕顔の女房・右近と出会った。右近の話を聞いて、源氏は玉鬘を手元に引き取り世話をして、宮仕えへの道などを模索する。冷泉天皇の覚えもめでたく内侍となった玉鬘の出世を乳母を始めとする一族は喜び、これから送る夢のような生活を思い描いていただろう。そんな玉鬘に前途洋々とした未来が開かれようとしたところで、髭黒大将が現れ、無理やりその妻とされた。
 それでも、それなりの生活を約束されて良かったのだと、紫式部は書いているが、これでは筑紫国の豪族・大夫監の求婚から逃れた意味は余りないと思うのだ。
 そんな私の想いが、謡曲「玉鬘」には表されていて、「払えども、湧き上がってくる恋の妄想に苦しみ、救いを求める1人の女性の物語」として語られている。謡曲「玉鬘」は分類としては四(よん)番物で、「執心女物」のジャンルに入っている。作者は金春禅竹で、玉鬘の執着した相手のことは出てこないが、源氏物語ではすべてが源氏に集約されるから、源氏ではないかとも思われる。きらびやかな内侍生活を支えてくれたかもと、後から気づくがすべては後の祭りである。
 当時の女性にとって、紫式部の娘・大弐三位のように、親王の乳母にもなれたのに。紫式部は、天皇の「乳母」となることが、女性の最高位だとその日記でも書いていて、娘がその地位を手にしたことが誇らしかったはずだ。大弐三位が後冷泉天皇の乳母になったのは、万寿2年(1025)頃で、その6年後の長元4年(1031)、紫式部は没したと言われている。

④ 源氏物語の愛読者たち―

 『更級日記』の作者・菅原孝標(たかすえ)の娘は、1008年生まれ、没年不詳。14歳の時の回想を描いた日記の部分を引用する。
 父の任地から帰京した孝標の娘(14歳)は、「物語を読みたい」と母にせがむので、母は親戚である三条の宮に仕えている「衛門(えもん)の命婦」に依頼文を送った。命婦は孝標の娘たちの帰京を珍しがって喜び、「宮様がお持ちのものを拝領しました。」と言って、格別に素晴らしい冊子どもを、硯箱の蓋に入れて贈ってきた。孝標の娘は、「一の巻よりして、人も交じらず 、几帳の内のうち伏して、引き出でつつ、(夢)みる心地、そして、彼女の有名な言葉「后(きさき)の位も何かはせむ。」と思った。実際にはなれるはずもない高貴な身分もいらないくらい、夢中になって読みふける姿を想像すると楽しくなってくる。 ◆会報第118号より-02 源氏物語_f0300125_13473525.jpg 
 彼女が生まれた年は、藤原道長の土御門第にて、彰子の出産を記録するために、呼ばれた紫式部も同第に寝起きしていた。
 敦成親王の「五十(いか)日の祝」の宴会が開かれていたその時、紫式部の隠れていた几帳の間から覗いて「失礼ですが、この辺りに若紫はおいでですか。」たわむれたことから、2008年が『源氏物語千年紀』とされ、観光に一役も二役もかった。
 更級日記は、当時の乙女たちの様子や物語に対する憧れを教えてくれる。でも、孝標の娘は例外中の例外であり、全巻を一辺に贈られることは特殊なことであり、実際には何年もかかって全巻を読んだ娘たちの方が多かったと思う。

⑤ 貴族の教養―それは生き抜くためのアイデンティティ

 当時の宮廷生活では、いろんな場面での物事を円滑に進めるため、和歌を始めとする教養が必須であり、その為に、そのお手本となる古今和歌集、伊勢物語、源氏物語を学び、読書初めは『論語』や『文選』などの漢籍を学んだ。彼らはまた、その教養を基にして勉強・自己の研究などにいそしみ、その中には集大成として注釈書を書く和学者もいた。特に多く流布した源氏物語は、同様に数多くの注釈書が書き写された。その写本を手元に置いて研究し、和学者としての名声を得ることは生活に直結するため、特に大事であった。
 その一例として、戦国時代をたくましく生きた貫いた山科言継(ことつぐ)の日記に注目すると彼は庶民派貴族として評価された一面を持つ。戦国時代に突入すると、多くの貴族は自家の荘園からの米が都に届かず、消滅状態となり、自分の荘園の地に行きそこで暮らす貴族たちも出始めた。
常に生活は厳しく、貧乏ではあったが、山科家には宮中に先祖代々が受け継いだ官職があり、それだけでも他の貴族に比べるとまだまだましであった。その事については、 
 「建永元年(1206)6月20日条(『三長記』)に、「御逗子所(みずしどころ)別当の事を奏す。(内蔵頭(くらのかみ)これを兼ねぬ。近例定まる事なり。)とあり、山科家は御逗子所や供御人を支配する事となった。内蔵頭を世襲する家となったのである。」(今谷明著)
 ★『三長記』とは、藤原長兼(生没年不詳)の日記で、長兼は鎌倉時代の公卿、漢詩人で、正三位、権中納言となる。
 言継にとって、その役職を追行する為の人脈づくりが必要で、源氏物語を中心とした写本外交が有効に作用した。言継は『河海(かわい)抄』と『弄花(ろか)抄』、『明星抄』などの解釈書などを手元におき、主家(三条西)に出向いて、「校合」(数種の本を比べあわせて、異同を引き合わせること)を行なったりした。その頃、多くの写本が出回っていたのだ。写本の多くは「源氏物語」であり、校合が出来る専門家として世間に知れ渡っていたのである。
 その日記には、校合の依頼が多く、有力公卿の三条大納言(実量?)亭に出向いたりもしている。その中で、特に目を引くのは、養女である葉室好子が、正親町天皇即位後、女官長(長橋局)を拝命し、好子の元には今上天皇からの依頼で長橋局において「校合」している。書き写すため、誤字脱字が多かったのだろう。
 「当たり前の事は書かない」という習俗があり、よくある事は書かないが、たびたび校合に従事しているので、その道の専門家と見られていた事を誇示しているのかも知れない。言継の面目躍如、プライドの高さが垣間見られて面白い。言継は副業として、調薬は「純然たる民間の素人療法であったといわれるが、その契機の一つに家計窮迫があった」(今谷氏)とされる。典薬頭丹波宗成や同業家などから、医薬を学んだのでは、と考えられる。言継の場合、他の公家医家とは異なって地下庶民の患者たち多数の面倒を見て、地域住民と幅広い交流があった。町衆との文化・芸能面での親密な関係も、その背景にこのような医薬を通じての広汎な顧客関係を下敷きにしてのものである。今年の大河ドラマ主役・徳川家康とは、彼が「今川の人質であった時の随身・三河の松平親乗に早速音信を通じて、同8日には親乗の方から言継を訪ねてきて盃を重ねている(弘治3年(1557)正月5日~8日、12日条)。この正月15日親乗の主元信(のちの徳川家康)は義元の命で元康と改名し、今川の一族関口氏と婚礼挙げたばかりであった。後年、(略)言継が朝儀の財源を求めて家康の許へ志したのは、おそらくこの時の親乗との親交を回想したからではなかろうか。」(今谷著)。その後も、家康とは調薬などで結び付いていたようだ。家康はいつも健康に気を付けて、自分から薬草を干して調薬するようになり、それを指南したのは言継であったらしい。

★注釈書とは?
 『河海抄』(20巻) 注釈書とは、著者の見解を加えたもので、貞治年間(1362~1368)頃に、幕府2代将軍足利義詮の命によって成立した河海抄はつとに有名であった。前代までの諸注釈書を批判的に統合しつつ、豊富な引用書を駆使した考証により成った本書は、「源氏物語」研究初期の集大成的注釈書といえる。
 著者の四辻善成は、南北期時代の和学者で、八幡とのゆかりがあり、彼は順徳天皇の皇子善統(よしむね)親王の孫。姉に智泉聖通がおり、紀良子を生んだ。良子は足利義詮との間に義満を生む。足利義満は善成の甥である。
 その後、『弄花(ろか)抄』は三条西実隆、『明星抄』は、その子・公条(きんえだ)は山科言継の和歌の師である。言継は、三条西家で和歌の他にも学問一般をも学び、その面でも主家に当たる。
 河海抄は、言継に「注釈書の中でも優れている」と評価されている。

―おわりに―源氏物語の享受史(きょうじゅし)

★源氏物語の後世への影響
①源氏学 源氏物語に関わる全てを対象とした学問。
 源氏物語は和学者たちに『源氏学』と呼び習わされ、物語の文中の和歌も古今集と共に研究された。注釈書などを含み、学問として発展する。その後、公家の間では父子の間で嫡男に相伝した。和歌の道では、師弟関係を結び『古今伝授』という秘伝を受け継ぐことが珍重された。
 古今伝授は、鎌倉~室町時代頃、東常縁(とうつねより)から連歌師・宗祇(そうぎ)に伝えられたのが始まりで、「古今集」の難解な歌や語句についての解釈を秘伝として伝え授けることであり、古今伝授が絶えることを惜しんだ後陽成天皇の勅令により、その命を助けられた細川幽斎が有名である。
 源氏物語の後、南北朝末期の元中元年(1384)頃、庶民層に向けて「御伽草子」(作者不詳の短編物語の総称)が成立する。それは、「室町物語草子集」にまとめられており、分類としては国学者である市古(いちこ)貞次による、公家物、武家物、宗教物、庶民物、異類物異国物の6種類に分けられている。代表的なものに「一寸法師」「浦島太郎」があり、庶民を主人公とした物語が多いのが特徴。「酒呑童子」は武家物として、分類されている。浦島太郎の結末は現代に伝わる話とは大きく異なる。
 その中にある『猿源氏草紙』は挿絵入りで、「光源氏」の名を踏まえており、いわば「源氏物語」の庶民版草子といえる。『言経卿記』慶長2年(1597)2月5日条の「鰯ウリノ物語」は同じものであるいう。「鰯売り」と題した古写本も存在している。

②源氏絵
 源氏絵とは源氏物語絵の略で、『源氏物語』に取材した絵。絵巻としては、12世紀前半に白河院・鳥羽院を中心とした宮廷サロンで製作されたという「源氏物語絵巻」、画帖で詞(ことば)と絵によって物語の流れを追ったものから、屏風に一場面を大きくするものまで種々の形式がある。桃山時代には土佐派が源氏絵をお家芸とし、ことに光吉は精緻、華麗な色紙絵を描いている。その一方で源氏絵を屏風などに拡大する傾向も活発化し、代表とされるのは狩野山楽筆『車争い図屏風』や俵屋宗達筆『関屋・澪標図屏風』がある。
 今日用いられている「源氏絵」という名称には二通りの意味がある。一つは源氏物語絵、また源氏の絵ともいうべき、室町後期から近世初期に確立した『源氏物語』に画題を求めた一連の作品群を指す用語として、もう一つは『偽紫田舎源氏』(著者は柳亭種彦)に題材を求めた錦絵の作品群である。挿絵師は歌川国貞(1786~1865)で、初代歌川豊国の門人で、役者絵と美人画と得意とした。著者の種彦とは気が合い、多くの種彦作品の挿絵を描いている。国貞は後に三代目豊国継ぐ江戸時代の浮世絵師で、作品数は1万点で最も多い。「豊国にかほ(似絵)、国芳むしゃ(武者)、広重めいしょ(名所)」ともてはやされた。
 最後に、公家社会では書き写して読み継がれた『源氏物語』は、室町時代になると庶民層をターゲットに「御伽草子」が成立した。いくぶんパロディー化されたところもあるが、婦女子にまで物語が浸透して行く。江戸時代になると、前半は京風の雅を宮中への憧れを伴い、源氏物語・源氏絵がもてはやされたが、歌舞伎の錦絵、浮世絵が流行り出すと「江戸文化」が隆盛、『偽紫田舎源氏』がベストセラーとなるが、天保13年(1842)に天保改革における奢侈禁止令の一環として、絶版処分を受ける。
 その時代その時代に合わせて、源氏絵は変化を繰り返しながらも読み継がれた。現在、沖縄でも源氏物語がブームとなっているようだ。来年の大河ドラマの展開を楽しみにしている。紫式部は、何を伝え表したいと思っていたのだろうか。

【参考文献】
京都府氏子青年連合会 第3回文化講演会 お宮を語る『神社と源氏物語』 2008.3.23
八幡市リカレント教育推進講座 
「歴史を生きた女たち 4」『中宮女房としての紫式部』 2011.6.18
『河海抄』・傳兼良筆本1・2 四辻善成著 
  天理大学出版部 八木書店 1985
『源氏物語注釈書・享受史事典』 井伊春樹編 
  東京堂出版 2001.9.15.
戦国時代の貴族―『言継卿記』が描く京都 今谷 明 
  講談社学術文庫 2002.3.10
「アスニー特別講演会」 『この男、光源氏は何者か』
  岸本久美子(京都市立堀川高校非常勤講師) 2023.9.22 
『源氏物語と江戸文化』
  小嶋菜温子・小峰和明・渡辺憲司編 2008.5.7 発行
 
「添付資料1」 紫式部の系図
「添付資料2」 貴族の階級


「一口感想」より

昔、読んだ源氏物語、今日の資料をゆっくり読んで記憶を甦らせたいと思います。又、山科言継氏と徳川家康との関係も初めて知っておもしろかったです。盛りたくさんの資料、帰ってゆっくり読んでみます。ありがとうございました。(K・A)
源氏物語はそんなに好きな小説ではなかったのですが、大田さんのお話を聞いて、もう一度、読み返そうと思います。ありがとうございました。
(S・Y)
少し聞き取りにくい様で、理解しにくい所が多々(こちらの勉強不足)。帰宅してゆっくり、じっくり、研究された事、読ませていただきます。
(※・※)
 
◆会報第118号より-02 源氏物語_f0300125_20173941.jpg
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# by y-rekitan | 2023-11-27 11:00

◆会報第118号より-03 吉野詣記⑨

『吉野詣記』を歩く
(奈良再発見!⑨)

 谷村 勉 (会員) 

吉野詣記 西三条称名院 
(*高野山に参詣します)

 三日けふは逍遙院忌日にあたれる。うれしくてかゆこはいひなともとりあへず朝霧を払ひて奥の院にまいれり。節句のしるしにや衆徒袖をつらね道もせきあへずそ有ける。参りて拝み奉るに白き犬ゐ垣のあたりに臥たり。利生のよし人々申けり。よろこひなから御前を立て灯籠堂に参り太子の念珠五鈷なと頂戴し。大塔諸堂結縁してやとりに帰れり。此十とせばかりに成ぬるにや。参詣せし事おもひいてゝ一度参詣高野山。無数ノ罪障道中ニ滅の記文も有かたきに二度まての参詣ニ仏縁あさからす。
         横嶺縦峯不耐登ルニ  友人携ㇸ手ヲ又支ㇷ藤ヲ
         再来尤喜桃花ノ節   前度ノ劉郎一箇ノ僧
 たらちねもまたたらちめのはゝ子草つみうしなはんけふこゝにきてをのゝゝ旅のよそひして下山す。昨日も山中野火所ゞみえし。けふは又大なる木やけておれかゝりたる中よりほのほあがれり。右はやま左はふかき谷あしもとにも火もえける。木の下を通れるまことに避雨の陵をすくる心地もかくとみえたり。くたりつゝ見れは麓なるかね川きのふは渡りしに。けふは橋打わたりてきつきけり。水村山郭酒旗ノ風のすかた。杏艶桃嬌奪ㇷ晩霞ヲそらのうらゝかさも心地よけなり。節日の盃よび出して各いはひけり此行さき清水と云川は吉野川の末なればいつしかこのころは花のおもかけもうかひていそきわたり。日暮ぬれは絵堂にとまり後夜の念仏など聴聞してあかしけり。

『訳文』

 三日。今日は父逍遥院の忌日(公条の父実隆の命日)に当たれり。うれしくて、粥(かゆ)・強飯(こわいい)などもそこそこに、朝霞(あさがすみ)を払うように奥の院にお参りした。上巳(じょうし)の節句(桃の節句)のために、僧侶衆が袖を連ねて並び、道も通れないほどの混みようだった。奥の院に参じて拝み申しあげると、白い犬が斎垣(いがき)の辺りに臥していたが、その犬が御利益を与えるとのことを人々が申していた。歓喜しつつ御前から立ち離れて、灯籠堂に参り、弘法大師の数珠・五箇などをありがたくおし頂き、大塔や諸堂で結縁して宿坊に帰った。はや十年程になろうか、以前にも参詣したことを思い出して「一度高野山に参詣すると、限りない罪障がその道中で消滅する」との唱導文も尊いのに、二度までもの参詣は、宿縁も浅くなく思われた。
   縦横の峰々は登るに難儀、友人と手足を支え合う。
   桃花の節での再来を最も喜ぶも、
前回参詣時の劉郎(放蕩者)のような俗人の身は、今は一介の僧であるよ
 たらちねもまたたらちねも母子草(ははこぐさ)つみ失わん今日ここにきて
(父の罪も、また母の罪も、今こうして高野の聖地に参じたことですべて消滅させたいことだよ)
 みんなが旅の支度を整えて山を下りる。昨日も山中で野火が、所々に見えていたが、今日もまた大きな木が焼けて、折れかえった中から炎が立ち上がっている。
 右側は山、左側は深い谷、足元でも火が燃えている、そうした木立の下を通りぬけたことは、本当に避雨(ひう)の陵(おか)(中国河南省にある陵の名)を過ぎる心地もこうだったかと思われた。下りながら見てみると、麓に流れる河根川(かねがわ)は、昨日歩いて渡ったのに、今日は橋を架け渡して堤を築いていた。あの「水村山郭酒旗(すいそんさんかくしゅき)の風」(晩唐の詩人杜牧の詩、水郷や山村の酒店の旗が風になびく景)の趣、「杏艶桃嬌晩霞(きょうえんとうきょうばんか)を奪う」(唐代の唐彦謙の詩、杏桃の嬌艶さが晩霞の佳景に勝るの意)空ののどけさも思いやられて、心地よさそうである。桃の節句の杯の支度を頼んでそれぞれ祝いをした。この行く先にある清水という所の川は吉野川の下流なので、このころは早くも吉野山の花の面影も水に浮かんできて急いで渡り、日が暮れたので絵堂に宿泊した。後夜の念仏(夜半から朝までのおつとめ)などを聴聞して夜を明かした。

◎高野山 和歌山県伊都郡高野町高野山132(金剛峰寺)
 「宿を出立して、戸だて山、真土峠(まつちとうげ)、桜井を通って、高野山に登った。◆会報第118号より-03 吉野詣記⑨_f0300125_08351391.jpg学文路坂(かむろざか)、不動坂など、かねて聞いていたよりも険しい。この辺りは乗物が使えないので、徒歩でかろうじて登りついた」と詣記にあるが、現在は車で登るので大した苦労はない。まず迎えてくれるのは朱塗りの高野山大門である。

◎奥の院(弘法大師の御廟を中心にした霊域)
 高野山を訪ねた日は生憎くしぐれ模様の為、真っ先に奥の院に向かった。
 御廟に至る約2kmの参道は20万基を超えるともいわれる墓碑や供養塔、慰霊碑、祈念碑で埋まっている。有名な武人や歴史上の人物の墓碑,供養塔も見える。
高野山で最も神聖な聖域中の聖域が弘法大師御廟。835年に弘法大師空海が入定した祠です。入定とは究極の修行の1つで、仏になるため生きながら永遠の瞑想に入ること。この御廟の中で弘法大師は現在も修行を続けていると信じられていて、1200年間欠かすことなく毎日2回の食事が運ばれています。◆会報第118号より-03 吉野詣記⑨_f0300125_08422662.jpg 約1200年前の弘仁7(816)年に高野山を開いた弘法大師空海は、その29年後、結跏趺坐のまま奥之院最奥にある現在の大師御廟に入定。大師は今も御廟所で瞑想しながら救いの手を差しのべていると信じられ、奥之院は弘法大師信仰の中心聖地になっている。燈籠堂にてお参りした後、さらに裏手に廻ると、回廊を挟んだ奥に弘法大師入定の「御廟」があった。

番外編 吉井勇と高野山
 昭和5年8月、宇和島運輸(株)の招きで四国・宇和島の地に入ったのが、吉井勇の四国行脚の始まりであった。この時は伊予路(愛媛県)を歩いた。この宇和島行きに先立って高野山に参籠している。勇には空海に寄せる特別な思いがあったようだ。この後、昭和6年5月には高知を初めて訪れて、後の隠棲時代の勇にとって重要な人物となる伊野部恒吉との出会いもあった。この時、「室戸岬に佇んで」と題する随想を残している。
 「私が旅を愛するのはつまりは遍路の心持なのである。春の四国に赴くと、遍路の姿を多く見るが、いつもその中に自分も交じっているような気がしてならない、今度も機縁があって海を越えて四国に渡り、南国らしい風景の中に、幾人もの遍路の姿が絵のように点ぜられているのを見た。そしてやはりその中の一人のような心持で、土佐の南端室戸岬の巌頭に佇んだのであるが・・・」
  はるばると室戸岬にわれは来ていきどほろしく荒海を見つ  勇
                  (吉井勇の旅鞄・細川光洋より抜粋)

 四日高天寺にいたりぬ。初陽毎朝来の梅の樹ちかき比風におれたるよし申て。一丈はかりの数囲故朽したる傍に小枝有
   くちてたに梅もたかまのはなの色に八雲をみねにのこすうくひす
桜花 今さかりなり
   来てみれは山のかひよりみし雲のうへにたかまのはなさきにけり
是よりうへは乗物はかなはざるよし申せしかは。誠に山臥のすがたにてかつらきの嶺金剛山へと心さしけり。道すからのけはしき。鳥の音もたへたり。所々雪のこれりみ山しきみなど冬のうちの盛の姿にてのこれるは誠に鳥のかよひもなき故と人々申せり。晡時(ほじ)にからくして上りつきぬ。ほたと云物たきすさみたる炉火のもとによりて。道すからのさむさつくろふ。ほどもなく点心など云物とりまかなへる。かく道たへたる山の上に。かゝるたくはへのとりあへさりしも
ふしきにて思ひつゝけける。
       衆峯絶頂金剛ノ窟  行者高蹤路転迷ㇷ
       今日初嘗禅悦ノ食  相監法喜法見ノ妻
かくて法喜菩薩役ノ行者おかみ奉り。かつらきの神橋わたし給ひし所なと拝みて、 末とけぬおもひはかけし岩はしもかくこそありけれかつらきの神
   春の日もにしに成らしかつらきや
    はなにとよらの鐘ひゝくらそ  紹巴
やかて下山すべきとて麓まて迎の馬などこひてまたせけるに。道をふみちがへ木くだしの道とて猶けはしき方にくだりける程に。迎乗物からうしてくるゝほどに行あひて又室へそ帰りける。

『訳文』

 四日、高天寺(たかまでら)についた。鶯が「初陽の朝ごとに来てみても、会うことなくて本の巣に還る」と鳴いたといういわれの梅の古樹が、近年風に折れたことを申して、一丈ほどの高さで枝囲いされて、枯れ朽ちた木がある。その傍らに小さな枝がある。
  (朽ち枯れてさえも咲く、有名な高天寺の梅の花の美しさに誘われて、
     鴬は八雲の歌の尊さを伝え鳴いている)

また桜の花も咲いていて今が盛りである。
  (登ってきて見ると山あいに見えた雲のその上に、
     高天の桜の花が今を盛りと咲いているよ)

 高天寺から上の方は乗物を使うことができないとのことを人が申したので、ほんとうの山伏姿になって、葛城の山の金剛山へと志して登った。道すがらの険しさは並々ではなく、鳥の鳴き声も途絶えた秘境である。所々に雪が残り、みやま樒などが、冬の間の盛りの姿で残っているのは、本当に鳥の行き来もないからだと、人々は話をしていた。日暮れにやっと登り着いた。榾(ほだ)という焚き木を盛んに燃やしている炉火の近くに寄って暖をとって道中の冷えをいやす間もなしに、早くも点心などという食物を用意しあてがってくれた。こんな道も途絶えた山の上に、こうした蓄えがすぐに整ったことも不思議で、そこで詠じた七言絶句、
  葛城山系の絶頂金剛窟を目指し 行者高蹤の路を迷い辿る今日、
  初めて法悦の食を口にし、法喜菩薩と法身の亡妻とに修行の誓いをかわす

 こうして、法喜菩薩と役行者の尊像を拝み申しあげ、葛城の神が、岩橋を架け渡しなさった跡などを拝んで、
 葛城の一言主神にしても、このように岩橋を架けずじまいだったのだから、妻と末まで遂げられぬつらい思いはもう心にかけまい
 春の日もはや西へ傾くころになったのだろう桜咲く葛城の夕べの空に、豊浦寺の入相の鐘が響いている 紹巴

 すぐに下山しようとして、麓まで迎えの馬などを頼んで待たせておいたが、道を取り違えてしまい、木くだしの道といって、さらに険しい方へ下っていったところで、迎えの乗物と、やっとのことで日暮れ時に行きあって、また室の宿所へと帰り着いたことだった。

◎高天寺(たかまでら)(橋本院) 
       御所市高天350 ☏0745-66-2141

 高天寺は現在の高天彦神社付近にあった行基開創と伝える寺。◆会報第118号より-03 吉野詣記⑨_f0300125_09541398.jpg葛城氏の祖神を祀る高天彦神社の北東500mほど歩いた所に橋本院があり、橋本院は高天寺の跡といヽ、本尊の十一面観世音菩薩像は高天寺本堂のものを移したものです。
 「『寛文記』曰く、高天寺は金剛山の麓にして草庵五六坊あり、いにしえは伽藍巍巍たりしか何の代よりか頽廃して僅かに三間四面の堂に十一面観世音幷釈尊の霊像を安置す、其側に遍昭院という草庵の庭前に孝謙天皇の御宇に鶯やどりて和歌を詠したる梅ノ木今にあり」と記す。(大和名所図会)
◆会報第118号より-03 吉野詣記⑨_f0300125_09595779.jpg 「高天彦神社から高天の集落を抜けて 500 ㍍ほど歩くと橋本院(写真)が見えてきます。橋本院は高天寺の後身で、本尊の十一面観世音菩薩像は高天寺本堂のものを移したものです。今も葛城古道を散策するコースとして多くのハイキング客が訪れます。」
 第十代崇神天皇からは、三輪山山麓に遷り三輪王朝がはじまるが、それ以前の九代は葛城王朝であり、本拠地は葛城山地であった。葛城金剛山脈の中腹には平坦な台地がある。台地は水田や手入れのゆきとどいた畑がひらけ、南北に走る細い葛城古道は往古の面影をたっぷり残している。
 養生訓で有名な貝原益軒が元禄二年(1689)京を出発した時の『南遊紀行』に「高間に桜多し、鴬の名所なり、大なる社あり、高天寺あり、俗に所謂鶯の初陽毎朝来と囀りし梅ありし所と云、“朽ちてたに梅も高天の花の色に八雲を峯にのこす鶯”」と記され、『吉野詣記』の三条西公条の歌を紹介している。
―つづく―空白

主な参考文献
 『吉野詣記』鶴崎裕雄他 翻刻・校注 (相愛女子短大研究論集三三)
 『中世日記紀行集・吉野詣記』伊藤敬 校注・訳  小学館
 『大和百話』由良琢郎 武蔵野書院


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# by y-rekitan | 2023-11-27 10:00

◆会報第118号より-04 紀良子


紀良子の家族
-子どもたちと主な孫たちについて-

丹波紀美子(会員)

 二十数年前松花堂ボランティア仲間の一人の呼びかけで、紀良子(足利3代将軍義満の母)の墓を5~6人で探したことがあった。彼女は知り合いの話で「八幡馬場の中田氏の邸内にあったのを明治になって善法律寺に移した」と、聞いて来て我々に話したのが始まりで、善法律寺の古そうな墓を片端から探して歩いたが、分からなかった。住職さんにも尋ねたが「そんな話は聞いたことがないし知らない」と言われた。住職さんがご存じないのなら、もしかしたら中田さんの家に未だ残っているかも?と、そこにも行ったが、周りは塀で囲まれており入ることも出来ない。塀の内には、樹木のおい繁った一角があり、そこだろうか?と思ってみたが住んでおられる形跡はなく、尋ねることも出来なかった。それに八幡の記録には一言も記載されていないし、変な話だな?とは思いながらも、もしこの事が本当ならば一大発見であるとボランティア仲間は少しワクワクもした。しかし年月とともに何時しか忘れてしまっていた。
 歳月が過ぎ、言い出しっぺの彼女も、とっくにボランティアを辞め、私も3月末日をもって卒業した。そんなたわいも無い紀良子の墓探しの思い出にふと紀良子の事をもう少し調べて書いてみようかな?と思いたち数冊の参考本やネットから探し出して記してみた。

紀良子の父母兄妹について

父は善法寺通清(?~1356)
 通清の祖父で石清水八幡宮第27代検校善法寺宮清は鎌倉時代初期(正嘉年間1257~59年)自分の邸宅をお寺にして奈良東大寺から実相上人を招いて開山した人物であり、唐招提寺の末寺で善法律寺という。(善法律寺のしおりから)◆会報第118号より-04 紀良子_f0300125_10492022.jpg 紀良子の紀氏というのは石清水八幡宮を宇佐八幡宮から勧請した奈良大安寺の僧 行教系譜の出自である。
 故に石清水八幡宮の祠官家(田中家、善法寺家、新善法寺家,壇家etc)は全て紀氏の系統。
 ※石清水八幡宮の西谷にあった八角堂は順徳天皇の依頼により建保年間(1213~19)善法寺祐清が建立したもので、祐清は邸宅を善法律寺にした善法寺宮清の祖父にあたる。系図は下記の通り。
   祐清 ➡ 實清 ➡ 宮清 ➡ 尚清 ➡ 通清 ➡ 良子  
         ※宮清の孫が通清で通清の長女が良子

母は智泉聖通(ちせんしょうつう)(1309~1388)
◆会報第118号より-04 紀良子_f0300125_10532634.jpg 順徳天皇(1197~1242)の曽孫(ひまご)と言われている。
順徳天皇・・後鳥羽上皇の皇子。承久の乱で佐渡へ配流。その地で崩御。路傍の花を見て【都わすれ】と名づけた人との伝承。
系譜について・・84代順徳天皇が佐渡へ配流になった後に善統(よしむね)親王が生まれた。この方が初代の四辻宮善統(よつつじのみやよしむね)親王。
 2代四辻宮尊雅(よつつじのみやたかまさ)親王の皇女が智泉聖通(紀良子の母)
  系譜  順徳天皇 ➡ 善統親王 ➡ 尊雅親王 ➡ 智泉聖通 ➡ 良子
◆会報第118号より-04 紀良子_f0300125_11024980.jpg 4人の子どもなした智泉聖通は後に出家して、夢窓疎石に師事し京都に通玄寺を開き曇華庵(どんげあん)を建てて隠棲 嘉慶2年(1388)11月25日没 享年80歳。
※夢窓疎石(むそうそせき)(国師)・・・臨済宗の僧。天龍寺開山(開基は足利尊氏)
作庭家(天龍寺、西芳寺など禅庭といわれる枯山水庭園の完成者)
 四辻宮家は3代の善成(智泉聖通の弟)で絶家か?。兄は無極志玄(天龍寺2世・夢窓疎石が1世)


紀良子の兄妹

兄は 菊大路(山井)昇清(1326~1364) 石清水八幡宮別当  貞治元年(1362)狂乱した為幽閉。貞治(じょうじ)3年(1364)39歳没
妹は 紀仲子(1339~1427) 北朝第4代後光巌天皇(「暦応元年~応安7年」1338~1374)に入侍。〈広橋(藤原)兼綱の猶子 崇賢門院 梅町殿ともいう。
            広橋仲子 ――― 後光厳天皇
                  ||
            後円融天皇(1359/12/2~1393)
広橋仲子が北朝5代後円融天皇の生母、後円融天皇と足利義満とは従弟同士。                
妹は奥州伊達家9代伊達政宗(1353~1405)の正室 輪王寺殿(蘭庭明王禅尼)(1356~1442)
 鍛代敏雄先生のお書きになったものによると善法寺通性の次男、別当昇清は室町将軍家から祈祷僧を許され善法寺家は代々、将軍家の武家祈祷を任されていた。
奥州伊達家9代政宗の正室、輪王寺殿(蘭庭)の実父は善法寺昇清ではないか?。39歳で不慮の死を遂げた後、9歳の蘭庭(了清1348~84の妹)は長命な祖母、智泉聖通の養女になったのではと記されている。伊達政宗の長男氏宗(1371~1412)は蘭庭16歳の子息。
 尚、独眼竜伊達政宗は第17代。

紀良子について 
延文(北朝)3年~応永20年(1336~1413)

 ◆会報第118号より-04 紀良子_f0300125_11283563.jpg紀良子が足利義詮(1330~1367)の側室になる前に足利義詮の正室として足利氏の一族の渋川義季の娘、渋川幸子(「元弘2年~明徳3年」1332~1392)がいて、観応2年(1351)7月27日に男子を産み千寿王と名付けられたが、文和4年(1355)に体調を崩し7月18日には足利尊氏は東寺、清水寺、西大寺などへ病気平癒の祈祷を命じているが、れらの甲斐もなく文和4(1355)7月22日、6歳で夭折してしまった。
 その後には、幸子には子供が無かった。良子の産んだ義満や満詮の嫡母となってその養育に当たり、義満も幸子を重んじて生母良子に対する以上に孝養を尽くしたという。幸子は1381年従一位に叙され1393年61歳で等持院に荼毘され、嵯峨香巌院に埋葬された。
 良子は石清水八幡宮、善法寺通清の娘ではあるが、武士の娘として斯波高経の猶子になった後、2代足利義詮の侍女となっている。
 良子は1358年8月22日義満を産んだが、その前年1357年5月5日にも男子を産んでいる。またその後1364年5月29日義満の弟の満詮を産んでいる。更にその翌年1365年4月10日にも男児を産んだが、月足らずで翌日死亡した。
 良子は2代将軍足利義詮の三条坊門第に住み、義詮が亡くなった後は北向三品禅尼と呼ばれた。3代将軍義満の生母として重んじられたが、1374年6月、にわかに母、智泉尼の草庵に逃れて隠遁しようとし、義満や細川頼之らが,思い止まらせた。原因は明らかでない。義満が北山第に住んだ頃は義満の弟の満詮の小川第に住んで小川殿大御所と称され、義満の子、法尊を養育した。後に従一位となり応永20年(1413)年7月13日に78歳で亡くなった。良子の法号は洪恩院殿月海如光禅定尼と言い洪恩院に葬られた。

良子の子供 
三代将軍足利義満 延文(北朝)3年~応永15年(1358~1408)について

 義満が生まれたのは足利尊氏(1305~1358年4月30日)が亡くなって丁度100日後の8月22日に誕生したといわれている。幼名を春王と称した。春王の幼少のころは南朝との抗争、足利家の内紛などで寺や武将の所に匿われ幼児期を伊勢邸で養育されたり、赤松則祐の居城、播磨白旗城へ避難、しばらくの間、赤松則祐に養育されたりしたが、京都に帰った後は新しく管領になった斯波義将に養育された。その後、貞治の変で斯波家が失脚し一時期祖母の赤橋登子(尊氏の妻)の所で住まいしていた。細川頼之が管領となり、頼之夫妻が養育。義満の乳母は細川頼之の後室の持明院氏。後年彼女が死去した際に義満は北野天神社に参籠していたが、彼女の死を聞き急いで退出し乳母の所へ駆けつけたという。その位乳母は義満にとって特別の存在だった。(義満は北野天満宮の馬場に万部経会を修めたことで北野信仰の機縁となる)
 1366年(南朝:正平21年、北朝:貞治5年)9歳のとき柳原忠光が選び後光厳天皇から義満の名を宸筆にて賜る
 1367年12月7日父の義詮没、享年38歳。義満10歳で三代将軍となる
 父の義詮の法名・・宝筐院殿道権瑞山 墓地・・鎌倉浄妙寺光明院、他、瑞泉寺,円覚寺黄梅院、嵯峨宝筐院(楠正行に敬慕していた義詮の遺言で正行の傍らに眠らせてほしいと二人の墓が並んでいる)。
 2代将軍義詮は尊氏や直義の様な度量や機略もない凡庸な器で飲酒にふけり人の好嫌も激しい人であった様で義満は年齢僅か10歳だけれども容姿端麗で慈悲あり、威厳あり、まるで聖徳の天使の兆しと期待された。年若くして全ての学問に通じ、聖徳太子再来説にもなった。
 1368年4月15日 義満11歳のとき細川頼之が烏帽子親で元服した。
細川頼之は義満の近習する者の邪曲(不正、非道)を禁じ、学問の師を選び、諸大名の専恣(わがまま、気まま)を制圧し将軍の権威を確立しようと努めた。このようにして義満の権威は次第に増大し,諸将を威伏させ幕府の隆盛をもたらせたと共にそれが朝廷内にも及んだ。
 1369年12月30日 13歳 朝廷から征夷大将軍の宣下を受領
 1375年、18歳の時、初めて石清水八幡宮へ参拝。日野業子(義満より6~7歳年上)と結婚。これ以後、足利家は日野家との婚姻が始まる1405年業子55歳で没後、彼女の姪の日野康子が継室になる。
 1378年、21歳、京都室町に「花の御所」と言われる政庁及び邸宅を造る。
◆会報第118号より-04 紀良子_f0300125_11582602.jpg
 1380年 23歳、覚雄山宝幟寺、鹿王院を建立。開山は春屋妙葩(普明国師)。
 1382年~1393 25歳~36歳 相国寺建立。相国とは中国から伝来の名称。国を助け収めるとの意味合いで、日本では左大臣の位を相国と呼んでいて
義満は左大臣であり、相国であることから相国寺と名付けられた。
 1386年 26歳 宗教統制を強化、京都、鎌倉に五山制度を整える(臨済宗)。
京都五山・・別格上位南禅寺、1位天龍寺、2位相国寺、3位建仁寺、4位東福寺、5位万寿寺となった。(1401年義満の意向で、相国寺を五山の第一位とするが義満の死後。元に戻された)
鎌倉五山・・別格上位南禅寺、1位建長寺、2位円覚寺、3位寿福寺、4位浄智寺、5位浄妙寺

 1391年、34歳のとき明徳の乱が起こる。因幡の国の守護大名山名氏清、満清が幕府に対して起こした反乱を破り足利将軍の勢力を拡大した。
 1392年、義満35歳。南北朝を統一。56年続いた南北朝の分裂を終わらせた。
※統一の条件➀南朝が持っている三種の神器を北朝へ渡す
      ②皇位には持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)が交互につく
      ➂領地は鎌倉幕府時代に戻すこと
 ※南朝第4代の99代後亀山天皇が100代後小松天皇(北朝6代)に攘夷する形で統合された。しかし後小松天皇の御子の101代称光天皇、102代後花園天皇(後光厳天皇(良子の妹仲子の夫)の兄弟崇光天皇の玄孫)と北朝の天皇が続き現在に至る。102代後花園天皇により善法寺家は天皇の血筋が消えた
 1394年 37歳 相国寺全焼
 1394年、37歳 将軍を息子の義持(9歳)に譲る。義満は太政大臣になる。
 1394年 37歳のとき春日局から義嗣(1394~1418)誕生。幼名は鶴若丸。(同い年に6代将軍になる義教がいる)
 (義嗣への異常な愛情が義満死後に義嗣失踪によりに謀反の疑いで義持の命により自害?殺害?25歳没)
 1395年~1399年 相国寺再建。
 1395年 38歳 出家する。(太政大臣を辞めた)出家したからと言って政権の座から離れたものではない。出家して道義と称し、天山と号した。
 1397年~1399年40歳~42歳 北山に別荘 後の金閣寺を建立◆会報第118号より-04 紀良子_f0300125_13233147.jpg
 1399年 42歳 応永の乱で大内氏を破り、幕府の力をさらに強める。
 1401年 44歳 明との貿易を求め使者を送る。
 1404年 日明貿易が始まる。義満「日本国王の印」永楽勘合を携えて明の使者と北山第(きたやまてい)で面会。
 1408年 4月3日 51歳石清水八幡宮へ社参。これが石清水八幡宮参拝の最後となる。4月25日愛児の義嗣(1394~1418)を連れて内裏の清涼殿(普通は紫宸殿)にて15歳で元服させている。(清涼殿は主に皇族が元服するところ)義嗣は容姿端麗才気があり義満自慢の息子であった。官位も瞬く間に昇進した。
義嗣は義満の寵児であり、当時の世人は義満の後継者は義持ではなく義嗣であろうと噂した。
 4月27日ころから義満の病状が悪化。いろいろ手を尽くしたが5月6日に世を去った
 等持院で荼毘され、相国寺鹿苑院に埋葬 「新捐館(しんえんかん)鹿苑院殿准三宮大相国天山大禅定門」分骨は高野山安養院に収められている。
 義満は従一位太政大臣と最高位を極め三宮に準じていて、これ以上贈るべき官位は無く贈号をするならば天皇の父として太上天皇の尊号が贈られたが、4代将軍義持によって辞退された。しかし今でも相国寺過去帳には「鹿王院太上天皇」とある。
 尚、義満が石清水八幡宮に社参したのは24回である。その中参籠1回 他代参1回(細川頼元)。
 また、義満の子女は20人(良子の孫)、妻妾15人を数えた。

義満の弟、足利満詮 
貞治(北朝)3年~応永25年(1364~1418)

 良子は貞治3年(1364)5月29日には義満の弟、満詮(みつあきら)を四条坊門朱雀の中条兵庫入道の宿所で出産。幼名は乙若。◆会報第118号より-04 紀良子_f0300125_13522745.jpg 名前は父の義詮の詮と兄の義満の満を頂き満詮と名のった1375年11月19日に12歳で元服、官歴は13歳で 従五位下、18歳で左馬頭、1402年には参議従三位翌年の1403年6月には権中納言、同年12月には権大納言、従二位、死後には贈従一位左大臣、兄とは全く違った人生であったが皆から慕われた人で死去の際は「諸人惜之如父」(諸人これを惜しむこと父の如し)の声が上がったといわれた。
 永和4年(1378)12月義満が東寺に出陣した際には共に錦の直垂に弓箭を帯し、武者数百人を従えて美々しく陣に臨んだこともあったが、その後は義満の華やかな活躍の陰に隠れ、平穏な一生を送った。
 生母良子と共に武者小路小川第に暮らした。応永9年(1402)参議従三位、応永10年(1403)12月7日に42歳で出家し、法名を勝山道智となった。義満は小川第に自ら往き、その剃髪を務めた。従二位権大納言は出家後に沙汰されたものである。出家後も小川第に住み応永25年(1418)5月14日、55歳で逝去、等持院で荼毘された。 諡号は養徳院贈左府、彼には藤原誠子(ともこ)と言う室があり、子には実相院増詮、三宝院義賢、浄土院持弁、地蔵院持円、安禅寺比尼らがいた。子供は皆僧籍に入っていて、孫はいない。

義満の主な子どもたち

 3代将軍義満は未だ弟の満詮が存命中の1406年に満詮の妻、藤原誠子(ともこ)を召しだし一子義承(梶井義承)を産ませている。生涯を通じて破天荒な女性関係を持ち続けた義満と常に兄に従順だった満詮との対照的な生き様を物語るエピソードである。
 義満が生ませた義承は応永19年(1412)3月に梶井(三千院)に入室得度し梶井門跡、応永35年(1428)には天台座主となる。応仁元年(1467)10月18日示寂、62歳。
4代将軍義持の弟義嗣の出奔、(義満は義嗣を僧侶にするため梶井(三千院)に入れていたが、思惑があってか還俗させていたのが災いであった。)1418年義嗣25歳で没。

 5代将軍は義持の息子で義量(よしかず)応永14年(1407)~応永32(1425)19歳 没(実権は父の義持が持っていたため、大酒を飲んでいて体を壊したといわれている)
4代将軍義持は義量が亡くなった後の1427年8月19日42歳のとき石清水八幡宮に参籠し男児誕生のお告げを受け未だ自分にも子供が出来ると信じ、最後まで後継者を言わないで逝った応永35年(1428)43歳。

 1403年義持18歳の時初めて石清水八幡宮に社参、生涯のうち八幡宮へは42回社参、その中19回参籠した。
 くじは石清水八幡宮で行われたが、義持死後に開封され、6代将軍が決まった。
  尚4人の候補者は下記の通り 
   青蓮院門跡義円〈義教〉                 
   大覚寺門跡義昭     
   梶井(三千院)門跡義承   
   相国寺虎山永隆 
    4人が決まり石清水八幡宮で籤引き。 
 籤の開封は義持死後に開封。籤引きの結果6代将軍には青蓮院義円(義教)となった。 
 (義教の母は4代将軍義持と同じ藤原慶子) 
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3代将軍義満の子どもで6代将軍となった義教の子孫が
覇権争いをしながら15代まで続く

 6代将軍、足利義教は嘉吉の乱(かきつのらん)で暗殺される。
 嘉吉の乱とは、嘉吉元年(1441)6月24日、播磨など三カ国の守護を務めていた赤松満祐が京都の自邸に足利義教を招き、暗殺した事件である。義教の恐怖政治ではあったが、赤松満祐が義教を殺した最大の原因は弟の義雅の領土が没収されて一部が遠縁の赤松貞村に与えられたことと、赤松貞村の娘が義教の側室になっていたため特に重用されていて、そして満祐の領地も没収され貞村に与えられるという噂も起こっていたことにもよる。現職の将軍が殺害されたことは、多くの人々に衝撃を与えた。
 ※尚、籤将軍といわれた足利義教が、石清水八幡宮に初めて社参したのは永享元年(1429)8月17日で将軍に成った翌年で、不慮の死を遂げるまでに13回社参している。最後の社参は亡くなる3ケ月程前の1441年3月10日である。
紀良子のDNAが覇権争いをしながらも足利15代まで善法寺家の血は続いた。
   (添付資料 足利将軍家系図 参照)

― 石清水八幡宮と鳥居本八幡宮の関係 ―

 紀良子の法号は洪恩院殿月海如光禅定尼と言い、塔所は洪恩院である。(満詮の妻であった藤原誠子(ともこ)も洪恩院にある。)
 この洪恩院は良子が住んでいた「小川殿」を禅寺に改めたものという。寺は室町時代後期に衰退し金剛院内へ移る。12代将軍足利義晴(1511~1550)の命により鹿王院に移された。◆会報第118号より-04 紀良子_f0300125_15531381.jpg 洪恩院の鎮守として鳥居本八幡宮が創建された。
 1413年良子が亡くなり、その志願によって洪恩院の鎮守社として八幡宮を祀ったという。(鳥居本八幡宮由緒略記)鳥居本八幡宮が独立の神社になるまでは仏式の法要が行われていたことから8月16日に良子の生家である石清水八幡宮へ送り火をしていた行事が、現在伝わる。
 それが鳥居形の送り火の起源になったのではと考えられている。今では五山の送り火の一つである。
◆会報第118号より-04 紀良子_f0300125_20025627.jpg

【参考資料】
  〇 足利義満  臼井信義  日本歴史学会編集  吉川弘文館
  〇 足利義持  伊藤喜良  日本歴史学会編集  吉川弘文館
  〇 寺社のH,P
  〇『石清水八幡宮の崇敬について』  田中君於
  〇 Wikipedia

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# by y-rekitan | 2023-11-27 09:00

◆会報第118号より-05 歴史散歩⑪

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シリーズ「私の歴史さんぽ」・・・⑪

石清水八幡宮の永仁の石灯籠

           岡村 松雄 (会員) 


 石清水八幡宮の表参道三ノ鳥居からの南総門への馬場前本道と呼ぶ道の左右には、208基の多くの灯籠が立ち並んでいる。これは元々は宿坊にあったもので 明治初年の廃仏毀釈の惨禍から逃れた残ったものである。◆会報第118号より-05 歴史散歩⑪_f0300125_08425494.jpg 八幡宮には450基余の灯籠があり、社務所の南の庭(書院前庭)にある石灯籠が「永仁の石灯籠」である。元は本殿東側階段下の伊勢神宮遥拝所に立っていたものである。昭和13年(1938)に現在の地に移設された。『男山考古録』によると「古物であり名作である」と価値は認められていた。

 この石灯籠には「永仁三年乙未三月日」と刻まれてあり、八幡宮の数ある灯籠はいうに及ばず、日本でも有数の古い灯籠として需要文化財に指定されている。宝珠を除いた部分が鎌倉時代の作である。形は六角形・円筒の竿であり、基礎の側面に格狭間(こうざま=横長の方形部を飾った特殊なくり型)を彫り、宝珠は単弁の蓮華反花(れんげかえりばな=蓮華の花弁が下に垂れているもの)。古代インドでは、蓮が清純なものとされていたので、仏教美術では蓮の花びらを意匠化したものを盛んに装飾に用いてその形を作り出している 

写真の番号はその右の灯籠の部品を示しています。
◆会報第118号より-05 歴史散歩⑪_f0300125_08504251.jpg① 宝珠 傘の頂上に乗せる玉ネギ状の物(仏教用語)。
② 笠 火袋の屋根になる部分。
③ 火袋  灯火が入る部分で灯籠の主要部分。
④ 中台(請台) 火袋を支える部分最下部の基礎  と対照的な形をとる。
⑤ 柱  最も長い柱の部分、雪見型のような低い灯籠では省略。
⑥ 基礎(台座) 最下部の足となる部分。

 灯籠の原型は古代インドの僧坊で読書の時の明かりとして使われたという。日本、中国、朝鮮半島、ベトナムなどの東南アジでの伝統的照明器具の一種。元々の意味は灯(明かり)、籠(かご)であり、行灯、提灯と分化していった。
 日本には飛鳥時代に仏教が伝来したのと同時に灯籠が伝来した。初期はその多くが「献灯」と呼ばれ、古くは仏門や神殿の正面に建てられるようになった。形式としては八角形、六角形、四角形がある。
庭園文化の発展と共に園内には鑑賞目的で石灯籠が設置されるようになった。
代表的な種類として
 春日灯籠型    永仁の灯籠のような形で一般的にみられる。
 雪見灯篭型    庭園に用いられるのが多い。

社務所書院の前庭(七五三の枯山水)
 灯籠のある社務所の書院前庭は参道から直接入れるが、この庭は 昭和26年(1951)に以前の社務所が火災で焼失、鉄筋コンクリート型の新社務所が造営された四階の屋上にあたるところにある。八幡宮全体を巡ってみないと気づきにくい。
 作庭した重森三玲の写真集「庭、神々へのアプローチ」によると 昭和27年(1952)に策定したもので、この地は当時 庭石等の運搬は全く不可能であったから、付近に散在していた石だけを用いて作庭したとある。
 永仁の石灯籠があって、この保全を目的とし、この庭園のあった場所に運び込まれた関係から、本庭を「七五三の枯山水」として、その数の中に加えて用いた。この七五三の石組を海島的表現とした。
 それは八幡宮はヤワタの神社であり、太平洋戦争当時の日本戦没学生の手記である「きけわだつみのこえ」にも登場する「ワタ」の発音は元々【海】の表現であり 海に面した古代の宇佐という所は、瀬戸内海方面と大陸に向かう航路の中継地として重んじられていた。そこに宇佐氏という有力な航海民の首長がいて 祖先神として海神をまつていた。その神が八幡神と呼ばれるようになった。
 『八幡』とは、船に多くの大漁旗が建てられた様子であった。『幡』とは「旗」を意味し、「幡」の「巾」は布、織物、「番」は放射状に広がるさまを表すと言われている。
 いずれにしても「ヤワタ」と発音した時の「ワタ」「幡」が共に「海」を表現している。八幡の「八」は「八百八橋」のように「数多く」を意味している。
◆会報第118号より-05 歴史散歩⑪_f0300125_08564913.jpg 七五三の石組みは15個の石を七,五、三と配置させるものです。日本では昔から奇数は陰陽の陽を表す数字で、生命の永続性を示す数として大切にされてきた。子供の「七五三の祝い」はご存じの通り。
 あるインターネットの記事にこの庭が古事記、日本書紀の「国生み神話」の おのころ島(沼島)、淡路島、四国、沖ノ島、九州・・・・・・等を表現されてある 石灯籠 その他の14個の石との説があったが、令和5年(2023)5月 石清水八幡宮春の文化財展に尋ねた折、説明頂いた学芸員の方に そのことをお聞きしたが「確かに神々の庭として作られているが そのような話は聞いたことはない」とのことだった。
 ただ海島的表現であるのは正しく先記のインターネットの説も全く出鱈目でなく 「記紀」の世界の神々が入り 楽しく思うことが出来るなーと思った
作庭者も観る人が自分なりに想定、解釈するのも織り込み済みかもしれない。

 石庭で有名な細川勝元が宝永2年(1450)に自分の屋敷の敷地内に建立した 世界文化遺産「龍安寺の庭」も「七五三の枯山水」で、「都林泉名所図」によると 細川勝元は清和源氏の一族で石清水八幡宮を崇拝しており毎朝男山八幡宮を遥拝するため 庭の背景に 樹木を植えなかったと記されてある。当時は庭の先には木々がなく男山が見通せたようです。
 石庭の石は全部の石の数は15個あるがどの位置から見ても14個しか見えず 中国の故事によると1個見えないのが願いを叶う作りであるそうである。
 東洋では15夜(満月)にあたる15数字を「完全」を表す数字としてとらえる思想があり、15に1つ足りない14は「不完全さ」を表すとされている。また日本には日光東照宮の陽明門に見られるように「物事は完成した時から崩壊が始まる」という思想があり、建造物をわざと不完全なままにしておくことがある。

【参考資料・書籍等】
 〇神社の見方        外山晴彦          小学館
 〇庭、神々へのアプローチ  重森三玲          誠文堂新光社
 〇日本の神様③ 八幡神   田中恒清(監修)      戒光祥出版
 〇漢語林          鎌田 正  米山 寅太郎  大修館書店
 〇やわたものしり博士検定  八幡市シルバー人材センター
 〇謎深き庭 龍安寺石庭   細野 透          淡交社
 〇「石清水八幡宮 石灯籠の調査研究」 
    2010年3月31日発行  龍谷大学文化財学実習講座


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# by y-rekitan | 2023-11-27 08:00