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◆会報第108号より-01 石仏龕

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心に引き継ぐ風景・・・㊴


  奈良十輪院の石仏龕せきぶつがん
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 写真は奈良市の「ならまち界隈」にある「十輪院」で拝観した「石仏龕」です。訪問前に写真は見ていたが、等身大の石仏を眼の前にして思わず目を見張った。地蔵菩薩、釈迦如来、弥勒菩薩の浮彫と石龕世界を守護する四天王や金剛力士等の線刻の古仏は大分に初めて摩崖仏を訪ねた礼拝空間を思い起こし、齢を重ねてもなお感動の心を蘇(よみがえ)らせた。戦国時代、八幡橋本に橋本等安という連歌師が居たが、連歌界の第一人者「里村紹巴」の門人であった。
 等安の師である里村紹巴が歌人三条西公条(きんえだ・公卿)と歩いた『吉野詣記』(三条西公条著)の紀行文を辿(たど)ってみた、前年秋に妻を亡くした公条を紹巴が「名勝探訪」に誘ったようだ。天文廿二年(1553)二月廿三日に都を出発、八幡美豆、岩田を通り、奈良坂越て宿に入り、翌廿四日、春日大社参詣の後、十輪院に向う「けふは地蔵菩薩の縁日なれば弘法大師建立の寺十輪院にいたれり。石にきりつけられたる仏菩薩歴々として殊勝の霊地なり」とある。与願印の地蔵菩薩とその石仏龕をご本尊と祀る寺院は珍しく、「石仏龕」の前に数百年の時空を超えて二人と同じ立ち位置に在る有縁無縁の不思議を思った。桂離宮に感銘したドイツの建築家ブルーノ・タウトは“小さいが非常に見事な寺だ、初期の奈良建築の面影をとどめている”と日記に記し、本堂(礼堂・国宝)の中世邸宅風の建築を絶賛している。              
(文 谷村 勉)空白


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# by y-rekitan | 2022-03-28 12:00

◆会報第108号より-02 やわた道 その1

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《会員研究発表》
郷土史家、「やわた道」歩けば棒にあたるらし?

2022年2月 松花堂美術館講習室にて

谷村 勉 (会員)
 2月11日午後2時より八幡市立松花堂美術館講習室において表題の会員研究発表がありました。古来の「石清水八幡宮参詣道」を何度も歩かれ探究され、歩くたび、幾世代にも重なる悠久の歴史が宝物の様に輝いて見えるときがある状況を「いろはかるた」にたとえたユニークな演題での研究発表でした。
 研究発表会の参加者は23名で、講演の概要は発表者の谷村氏が纏められた。
                        (会報編集担当) 

 郷土史を研究する者は、八幡の道を橋本から男山東麓の道など古来石清水八幡宮参詣道として発展してきた「八幡宮道」の四方を何度も歩きます。
 また、人生の節目や季節の歳事には幾度となく男山の御本宮を往復する日常生活を繰り返して来ました。歩くたびに幾世代にも重なる悠久の歴史が宝物のように輝いて見える時があります。はたして「いろはかるた」のように歩けば災難の棒が飛んでくるのか、あるいは幸運の棒が見えてくるのか、皆さんと一緒にその周辺を尋ねて行きたいと思います。

八幡五水

 ◆会報第108号より-02 やわた道 その1_f0300125_09424269.jpg 正確な八幡五水の存在は判らない。享保十年 (1725)発行の『石清水尋源鈔』によると、「石清水、山の半腹に在り」、「藤井、高良の社の下に在」、「筒井、下院の北に在」、「赤井、西山赤井原に在」、「白井、今其所詳らかならず」と記載されている。面白いのは五水の一つに白井とあるが、当時から白井が何処にあるのか分らなかったようだ。赤井の傍には「閼伽井」と書かれた石碑が建っていた。石碑の存在は以前から知っていたので周辺を何度も探索したが、ついに発見できず、狩尾社周辺の無謀とも思える宅地開発によって「赤井」の本体と共になくなってしまった。

石清水について

 八幡宮が遷座する以前から石清水の存在は知られており、行教自身が貞観五年に書いた護国寺略記に、「可移座之處、石清水男山之峯也」云々とあり、石清水の名を男山に冠している。水源は御本宮東御門の邊より護国寺の南を流れ、今の石清水社のある所を過ぎて瀧本坊の南に落ち、駒返し橋より猪鼻坂を平谷町の方へ流れ出て、放生川に注ぎ入る。なお、泉殿は元和四年(1618)に修造。
 泉殿の装飾の鳳凰(祠)は聖天子が治める平和な世にのみ姿を現わすとされ、麒麟は聖人が出現する前兆として現れるれる瑞獣が表現されている。鳥居は寛永十三年丙子八月将軍家(家光)御祈祷の為に板倉重宗が寄進、昭乗が揮毫する。

往生礼讃道標

 数ある「八幡道標」の中で最高傑作といわれる「往生礼讃道標」は、圧倒的な存在感を放っています。場所は下奈良隅田の「井関墓地」の入口で、川口の南方面から1号線に抜ける途中にあります。
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 嘉永四年(1851)建立の道標正面には卓越した技量を持つ石工による「阿弥陀三尊来迎図」の陽刻が鮮やかに残り、その下部に法然上人と、師である善導大師が描かれています。右面には「願共諸衆生 往生安楽国」(願わくば、衆生と共に、安楽国(極楽浄土)に往生せん)とあります。善導大師の『往生礼讃』の中に繰り返し出てくる言葉です。三尊像は寺院や美術館で拝観、鑑賞することはありますが、道標に彫られた阿弥陀三尊像を見るのは初めてで、郷土史を研究する人々には文化財の豊富な八幡の底力を感じる瞬間です。        
 左面上部は「南無阿弥陀仏」、その下部に「右 うじ・左 よど 道」とあります。八幡は浄土宗が盛んな地で、江戸時代には浄土宗の寺院は九十六カ寺を数え、その内の三十六カ寺が御朱印寺で徳川家康から領知朱印状を給っています。墓地の西側男山方向には「獅子塚跡」の三宅安兵衛遺志碑が田畑の畦道に立っています。    
 なお「往生礼讃道標」は岡山大学名誉教授馬場俊介氏の学術情報データベース「近世以前の土木・産業遺産」の中で京都府下の道標では唯一Aランクに登録されました(歴探会報92号2019.07.24)。

相撲力士道標

 八幡市内里北ノ口に「俗名 若狭野政吉」(文化三丙寅(1806)九月晦日/世話人中)と名前の入った道標がある。名前の左右に「右 なら道」「左 よど京道」の道案内がある。一見すればこれが墓石(供養塔)であることはすぐ理解できるが、しかし後方には墓地があって、なぜかこの墓石のみ道路に面して建てられているのか? 考えてみれば、道標であれば奥の墓地内に在っては、道標の役目が果たせないことに気付く。道標の調査を始めた頃には判らなかったが、後日、「力士墓道標」と云われる「供養塔あるいは顕彰碑」の道標が多いことを知った。若狭野政吉とは四股名で恐らく上鳥羽方面に本拠を置く相撲取りであろう。
 『京都・滋賀の相撲/竹森 章』によると、「上鳥羽搭ノ森上河原の墓地」に「若狭野政吉」(文久二戌年三月建之・1862)の同名の四股名を刻む立派な力士墓があり、それとは別に「頭取若狹野碑」(明治廿八年七月五日建之)の存在も示されている。いずれも時代的に同一人物ではない。綴喜郡井手町「玉津岡神社」上の鳥居右横の絵馬殿に「相撲奉納額」や多くの「奉納板番付」が残っているが、その中に勧進元「若狭野三四郎」(文化十四年・1817)の四股名の板版付が懸かっている。又、井手町多賀「高神社」にも板番付や軍配が残る。村相撲が盛んな鳥羽、井手の往還中「若狭野政吉」は内里にて客死したものかも知れない。

枚方市上島町の「八幡大菩薩」道標

 牧野の船橋川堤にある八幡宮道標は「八幡宮」と大文字で書かれ、その下には「参詣道・橋本へ一里」とある。◆会報第108号より-02 やわた道 その1_f0300125_10454197.jpg上部にはご本尊「八幡大菩薩像」が彫られた唯一の道標で、江戸時代まで石清水八幡宮が「神仏習合」の神社であったことを伝え、また、楠葉、牧野地域は古来八幡宮の文化圏で、八幡宮を支えてきた地域であったことも伺える。
 この「八幡大菩薩道標」の隣に七名の名前が刻まれた道標が見える。「右 山城 志水」とあり八幡宮参詣道である「八幡志水大道(しみずおおみち)」を案内している。八幡住民が現在も「志水」と呼ぶ所です。船橋川周辺一帯がまだ葦の林に覆われていた昔、多くの人が「志水」へ買い物に通った。この道標、実は村相撲の力士達の供養塔です。七名の名前はすべて四股名であり、楠葉の「七ツ松山」に本拠を置く「七ツ松部屋」の力士達で、「鳥羽伏見の戦い」で幕府軍に力仕事で奉仕・世話をした力士達の供養塔と考えられ、この近辺で官軍の猛攻に巻き込まれたものと思われる。建立は「七ツ松門弟中」とあり、幕府軍の兵士ではないことが分かる。七ツ松の「力士墓道標」は他にも数点が今も残っている。

七ツ松の力士道標

 「七ツ松部屋」とは江戸時代、八幡金振郷と楠葉面取の境界辺にあった「七ツ松山」の名を取って、面取地域に本拠を置いた「相撲部屋」であった。
 「七ツ松山」は現時点で特定し難いが、江戸時代の「東海道分間延絵図」に「極楽寺」と「七ツ松山」の文字が見える。明治45年の大日本帝国陸地測量部発行の地図には面取は極楽寺付近とされている。(詳細は別項にて説明します)

東西南北の道標

 八幡の東西南北には江戸時代からの八幡道標があった。
東:淀際目町の「八まん宮ミち」道標 旦所青林院の「八幡宮道」道標
西:橋本中ノ町の「八まん宮道」道標 橋本北ノ町の「八まん宮山道」道標
南:八角堂の「すく八幡宮道」道標 大石塔横の「左八幡宮道」道標
北:旧常盤道の「是より八幡宮碑」は保護課により廃棄されてしまった。 
「石清水八幡宮鳥居通御幸道(みゆきみち)」道標

狩尾社とがのおしゃ

 祭神:天照大御神(国常立命・異本末社記)、大己貴命、天児屋根命
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 創立年代不詳、八幡宮遷座以前の社で、当山の地主神社という。明治10年に八幡宮摂社となる。男山西尾崎狩尾山に坐り、閼伽井(五水)在所より凡一町餘り西なり。今在は慶長年間の御造営の儘にて、猶寛永十九年に修理を加へ給へりし也。…常は橋本郷氏の氏神の如くに成て、落合橋本両氏の社士の預り祭る所近例也、…又毎年正月初旬に当社の西に的を掛て、落合橋本の士弓箭始の式を行ひ、古く正五九月連歌奉納奉楽等の事あり、…(男山考古録)
『日本書紀』…国常立尊(クニノトコタチノミコト)国土の守護神ですが『日本書紀』と『古事記』では登場の仕方が少し違います。『日本書紀』では一番最初に現れた神様として登場します。そのため一部の神道では、国之常立神は根源神として崇められているのです。
 名前の表記も『日本書紀』と『古事記』とでは少し違います。『古事記』…国之常立神(クニノトコタチノカミ)『古事記』では、神世七代(かみのよななよ)において最初に生まれた神様として登場します。神世七代は別天津神(ことあまつかみ)の次に登場する七代の神様たちの総称です。『古事記』では別天津神の次に登場したのが国之常立神です。  
  『日本書紀』…国常立尊  『古事記』…国之常立神
 呼び方は少し違いますが、名前に込められた意味は共通しています。国之常立神の名前の中の「国=国土」、「常=永久」を表しており、永久に国土が立ち続け、不変的であるように、という意味がある。   
大国主命〔大己貴命(おおなむちのみこと)〕
 名義は大いなる国主の意で,天津神(あまつかみ)(高天原の神々)の主神たる天照大神(あまてらすおおみかみ)に対して国津神(くにつかみ)(土着の神々)の頭領たる位置をあらわす。大国主には、なお大己貴命(おおなむちのみこと)、葦原醜男(あしはらのしこお),八千矛神(やちほこのかみ),顕国玉神(うつしくにたまのかみ)などの別名がある。これはこの神が多くの神格の集成・統合として成った事情にもとづいており,そこからオオクニヌシ神話はかなり多様な要素を含むものとなっている。
天児屋根命
 日本神話で、天照大神が天の岩屋に隠れたとき、祝詞(のりと)を奏した神。
天孫降臨に従った五伴緒神(いつとものおのかみ)の一。中臣氏・藤原氏の祖神。
〇比売御神(ひめみかみ)=天児屋命(あめのこやねのみこと)の妻の天美津玉照比売命
福岡の狩尾神社(かりおじんじゃ)(福岡県遠賀郡芦屋町大字山鹿865)
 祭神:大己貴命・国常立命・天児屋根命・天手力雄命。『五十一代平城天皇の大同元年(806)藤原不比等の子孫筑紫下向の際、都で霊験あらたかと評判の狩(とがの)尾(お)神社の御分霊を拝受、響灘に突出た景勝の岬を狩尾岬と命名し神社を建立。山鹿地域一帯の総社産土神として領主の崇敬も篤かった。「昨秋、狩尾岬の名に引かれて若しやと芦屋の港町を訪ねた。狩尾神社の存在を知り、波多野正敏宮司邸を訪問。藤原不比等を祖とし、下向以来二十七代も続いて宮司をされている。更に貝原楽軒自筆の「狩尾大明神縁起」を拝見。「そのかみ未だ石清水八幡宮の勧請なかりし時にかの石清水の地主神、狩尾神社を此所に勧請して斎祭り奉る」と明記されてるのを謹読した時の感動、言葉に表せない…‥。』
(「ふるさと」1997年(平成9年)11月発行/島田 稔氏)
天手力男命(アマノタヂカラオノミコト) 『日本大百科全書』守屋俊彦
 天岩戸(あめのいわと)神話のなかに出てくる神。須佐之男命(すさのおのみこと)の乱暴を恐れた天照大神(あまてらすおおみかみ)は、天岩戸にこもってしまった。困った神々は、天岩戸から出てもらうために神事を行い、また天鈿女(あめのうずめの)命(みこと)が特異な踊りをしたところ、神々が爆笑した。天照大神が不思議に思い、天岩戸を細めに開いたとき、この神が手をとって引き出した(『古事記』)。文字どおり手の力の強い神の意であろうが、この話のなかでつくられた神のようにも思われる。しかし、天孫降臨神話のところに、佐那那県(さなながた)に鎮座されるとあり、伊勢(いせ)国(三重県)多気(たけ)郡に佐那神社があるところからすると、伊勢地方の地方神かもしれない。

橋本の八幡宮道に象を見に行く『柏亭日記』(柏村直條)より

 江戸時代、8代将軍徳川吉宗の時にベトナムから日本に象がやってきました。大変珍しい象の一行は江戸に到着するまで、どこでも大人気で沢山の見物人であったと記録に残っています。長崎に着いた象の一行はその後大坂に到着し、京都に向けて京街道(東海道)を進みました。享保十四年(1729)4月25日枚方宿を出て、伏見宿に向かいますが、休憩地の淀宿に至る途中、八幡を通過します。
八幡宮の神人柏村直條(なおえだ)(八幡八景選定者)が残した『柏亭日記』の中に橋本の象見物の記事があります。
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「四月廿五日晴」 〇妻女孫共橋本へ象ヲ見物ニ罷ル 妻女孫達は森町の家から科手道を経て橋本に入ったと思われますが、象が通過した八幡の京街道は現在、橋本東部から美豆の間が木津川と宇治川の川底になって分断されています。
 5月に入ると中御門天皇が詠んだ歌も八幡に伝わってきたようです。
  「五月五日曇、晴」   象   御製
  時しあれハ 人の国なる けたものを けふ九重に みるかうれしき
 錦市場の青物商の長男に生まれた伊藤若冲も13歳の頃、都でこの象に出会ったと伝わっており、長じて象を巧みに描いた作品を残しました。

里村昌純しょうじゅん(柏村さなの夫)

 連歌師。里村南家。慶安二年(1649)~享保七年(1722)七十四歳。昌勃・安々庵・嘏(か)斎。昌程の子。昌築の父。寛文五年(1665)から享保四年(1719)まで、五十年以上にわたり柳営連歌に出仕、延宝八年(1680)から第三として勤務し続けた。『老の周諄(くりごと)』(1704年成)は「思い出づるは昔なりけり」の前句に百句の付句を試みて注を施したもので、付句の規範を示した書である。連歌再興に尽力し、享保四年退隠した。式目注釈『拾蛍抄』、編著『里村家連集』などがある。
 なお、柏村直條(連歌師・八幡八景選者)の妹真(さな)が昌純に嫁ぎ、昌築を生む(柏村家系譜)。 (里村南家)里村昌休→昌𠮟→昌琢→昌程→昌純→昌築
柏村直條関係者:霊元院(牡丹の献上)、有栖川宮幸仁(ゆきひと)親王(和歌集成の依頼)、里村南家(八幡八景連歌発句を依頼(昌陸))

山崎橋の造立

 橋本から楠葉を抜ける高野道が存在します。神亀二年(725)行基によって山崎橋が造立されるが、7 世紀後半に奈良元興寺の道昭が架橋した位置に掛けたものであったと云います。江戸時代の絵図から山崎橋が現橋本奥ノ町にあった橋本寺辺りに架橋されていたと推定されますが、何度も淀川に流され凡そ200年間程で無くなったようです。天正二十年(文禄元年・1592)秀吉によって山崎橋は再び掛けられるもその存続期間は短かったようです。石清水八幡宮全図の橋本の部分に橋本寺旧跡と書かれたところがあります。
 これは豊臣秀吉の御連衆の一人であった「橋本等安」によって建立された寺で、秀吉の「湯だくさん茶くれん寺」の故事で有名な「常徳寺」も江戸時代前期にはこの辺りにあったことが判ります。記録には文化十年(1813)西遊寺の隣の「常徳寺」が焼失とあり、寺が移動したことが判りますが、その場所には今も「常徳寺」の石碑が残っています。
 古くから大坂との行き来には淀川の水運が利用され、人や物資が大量に運ばれましたが、港としての機能を持った「橋本の津」は大いに賑わったようです。橋本で舟を降りた八幡宮詣りの人々は「八幡宮道」(京街道)を通り狩尾社を経由して石清水八幡宮を目指しました。

高野道

◆会報第108号より-02 やわた道 その1_f0300125_11574570.jpg 石清水八幡宮のご遷座(貞観元年・859)以前から淀川にかかる山崎橋(神亀二年(725))を渡り、橋本から南方向にポッコリ膨らんだ交野山を目印に進む高野道があった。橋本から楠葉中ノ芝、野田大師堂付近から細い畦道が続き、かすかに古道の雰囲気を残す道を、楠葉朝日町の「やわた・はし本道標」、「七ツ松石碑」、「だるま堂道標」を見て、少し南に行くと八幡金振方面に向かう「八幡道」に合流する。この八幡道をやや西方向から招提元町に入れば、整然とした招堤の屋敷街を通り抜け、招堤南町の「日置天神社」に到る。日置天神社由緒に「中世におけるこの付近は、高野街道筋に発達した集落として賑わい、社寺が甍を競ったという。しかし、南北朝の動乱に際し、たびたび戦禍に見舞われ、民家・堂塔ともに灰燼に帰したと伝えられる」とあって、古くは高野街道筋として繁栄した集落だった。出屋敷や津田の集落も日置天神社から穂谷川を越えると眼と鼻の先となる。
 弘法大師空海が高野山への道をとったという古い街道のことを高野街道と云うなら、八幡宮遷座以前から高野山を目指すこのルートこそ弘法大師空海が歩いた道だろう。

御幸道みゆきみち常磐道ときわみち

 ◆会報第108号より-02 やわた道 その1_f0300125_12043397.jpg木津川の付け替え工事(明治元年12月)以前、主に京の都から京街道を通って八幡に入る南北の道には常磐道と御幸道(みゆきみち)がありました。現在、御幸橋の南詰から一の鳥居までの御幸道は大部分が残り、御幸橋南詰の一角に「石清水八幡宮鳥居通御幸道(みゆきみち)」の道標も残っていますが、御幸橋付け替え工事により現在八幡宮頓宮内に保管されています。
 この道標は300年前の江戸時代、正徳三年(1713)に八幡宮検校新善法寺行清によって建立されたものです。しかし幹線道路であった常磐道は木津川付替え工事によって大部分がなくなりました。
 八幡宮一の鳥居手前を右へやや細い道を行くと神應寺の山門に至ります。八幡宮を勧請した行教が創建した由緒ある寺院です。山門を通り過ぎたところに巨大五輪塔が見え、五輪塔の真向い八幡宮頓宮の西出入口手前に「左 八幡宮道」と彫られた全長 280cm、正面幅 24 ㎝、横幅 24 ㎝の立派な道標が横たわっています。裏面には「是より北荷馬口付のもの乗へからず」と彫られています。京都市内に今も残る「是より洛中碑」と云われる石碑と同じ意味のもので、いわば「是より八幡宮碑」とでもいえましょう。「是より洛中碑」とは洛中へ入る際には、馬の背に乗らず馬の手綱を引いて 歩いて入る事、という意味です。京都町奉行より享保二年(1717)洛中の入口 30 カ所に石碑が建てられたもので、現在も12本残っているとの報告があります。「左 八幡宮道」の道標も恐らく同時代のものと思われます。

神応寺

 貞観元年(859)、奈良大安寺の僧行教が宇佐より八幡神を山城の男山に勧請し、その翌年の貞観二年に八幡宮社殿造営に伴い、神応寺も創建されたと伝える。
 ◆会報第108号より-02 やわた道 その1_f0300125_13104776.jpg応神天皇の位牌所として、始め応神寺と称したが、天皇のいみなを憚って神応寺に改めたと伝える。神応寺二十一世珪州伊璠が著した「神応寺記」によると、あるとき神光が杉の梢上に現れ、天皇が神に応じて、行教もまたそれに応じた。故に神応寺と名付けたという。神応寺十二世弓箴善僵(きゅうしんぜんきょう)は秀吉の正室北政所が深く帰依した禅僧で秀吉も同郷朋友の誼であった。秀吉の朝鮮出兵に際し八幡宮に参詣し神官に従軍を求めたが応ずるものがなく、秀吉の怒りをかったが、弓箴善僵は神功皇后の三韓征伐にあやかるのであれば、応神天皇を祀る神応寺への参詣を進言した。住職の饗応に満足した秀吉は寺領二百石を寄進したという(神応寺文化財調査報告書要約)。
 「和漢三才図会」(正徳二年・1712脱稿)には「豊臣秀吉公、朝鮮征伐の時、首途(かどで)の為に八幡宮に詣でて、当寺(神応寺)に入衛あり、寺領を賜う」とある。入衛とあるので秀吉は饗応の後、宿泊したと思われる。

泰勝寺

 松花堂昭乗の墓は男山の山麓の当所にひっそりと風雨にさらされていた。大正七年(1918)、禅の江湖道場・円福寺の住職で妙心寺の管長もされた神月徹宗老師が発願され、松花堂保存会を結成、当寺を建立された。九州熊本にあった細川公の菩提寺、泰勝寺の寺号を移転して、瀧本坊を改め泰勝寺とした。現在、本堂正面の方丈の額は九州より寺額と共に移されたもので、南宋随一の能筆とされている無準師範(佛鑑禅師)の真筆である。
 現在、臨済宗妙心寺派に属している(泰勝寺案内書)松花堂昭乗の墓所として知られる泰勝寺には、昭乗とその師実乗、弟子の萩坊乗圓が並んでそれぞれ一石五輪塔に祀られている。実乗の先師で瀧本坊繁栄の基礎を築いた乗祐の一石五輪塔は祠の横にある一群のお墓と共に祀られている。『権律師乗祐 天正十九年二月廿二日』とある。千利休とも親交のあった乗祐は利休自刃の六日前に没している。
 松花堂保存会の結成にあたっては益田鈍翁など多くの経済人や茶人が参加して泰勝寺において盛んに茶会が催された。

「泰勝寺茶室・閑雲軒について」◆会報第108号より-02 やわた道 その1_f0300125_13180176.jpg 大正11年(1922)木津聿斎(いっさい)により瀧本坊の古図を元に泰勝寺茶室・閑雲軒(四畳台目)が竣工した。その披露茶会を益田鈍翁が催している。当時、木津聿斎は茶室の設計者として広くその名が知れ渡っていたが、武者小路千家の家元預かりを引き継ぎ、十二代家元愈好斎の後見人になるなど、愈好斎を色んな側面から支えた人物でもあった。

善法律寺

 鎌倉時代の正嘉年間(1257~1259)に、石清水八幡宮の法務寺院として、八幡宮第27代検校善法寺宮清が自分の邸宅を僧房として喜捨、奈良東大寺より実相上人を招いて開山した。善法寺宮清の孫である通清の娘・良子が二代室町将軍足利義詮に嫁ぎ、三代将軍義満を生んだ。その為、義満をはじめ歴代将軍が何度も参詣している。善法律寺は奈良唐招提寺末の律宗である(善法律寺パンフレット)。◆会報第108号より-02 やわた道 その1_f0300125_13215491.jpg 現在のご本尊は「八幡大菩薩像」で神仏分離令により八幡宮から善法律寺に安置されたもの。昨今、もみじ寺として紅葉を愛でる人の訪問が多い。本堂では八幡大菩薩像をはじめ、愛染明王像、不動明王像、十一面観音像、宝冠阿弥陀如来像など優れた仏像群が迎えてくれる。中でも阿弥陀堂脇仏の地蔵菩薩像に大変興味を持った。左手に錫杖を持ち、右手は垂れ下して袈裟をたぐり持つめずらしい像容である。左手に錫杖は珍しく、他に1体(石仏)見たのみである。それぞれの造形や像容は八幡の仏像史上、極めて貴重な仏像群と云われる。

正法寺とお亀の方

 志水家の「お亀」は文禄三年(1594)、徳川家康の側室となり、近世の八幡を切り開く大きな足跡を残しました。関ケ原合戦の直前、慶長五年(1600)五月、徳川家康は石清水八幡宮を中心とする八幡郷に361通の「領知朱印状」を発給し、徳川政権構想に取込みました。◆会報第108号より-02 やわた道 その1_f0300125_13293095.jpg関ケ原の合戦(9月)で徳川方が勝利した直後の十二月には、豊臣政権になって10年間中断していた「安居神事のまつり」が復活し、「安居の頭役」を志水忠宗(後に尾張藩国家老)が担って、武運長久と天下泰平を祈願しています。
 後に徳川御三家筆頭になる尾張藩祖義直の母となった「お亀の方」は、家康から朱印地500石を給わる寺格に相応しい正法寺の伽藍整備に取り掛かった。現在の本堂、唐門、大方丈や書院、鐘楼などを寄進し、お亀の方(相応院)自身の菩提寺とした。これらの伽藍は寛永六年(1629)頃完成している。     
 正法寺の門前を走る男山東麓の「八幡宮道」はまさに寺社の参詣道として発展してきた歴史的経緯がある。この道は古くから現在まで八幡住民には「志水道」と呼称されて、「正法寺」、「志水道」の地理関係など、すぐ頭に思い浮かぶ。

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# by y-rekitan | 2022-03-28 11:00

◆会報第108号より-02 やわた道 その2

 
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研究発表 “郷土史家「やわた道」歩けば棒にあたるらし?” の続きです。

男山東麓の道の「八まん宮道」 

 御幸道(みゆきみち)の一の鳥居付近から南へ安居橋を左に見ながら奈良街道との分岐点である八幡橋を左に見て直進し、平谷町を左に曲がり松花堂昭乗の墓のある泰勝寺を過ぎると嘗ての幹線道路であった常磐道から南下する道と買屋橋辺りで合流し、「八まん宮道」となって、男山東麓の道を南下すれば洞ヶ峠まで凡そ 4km の道程となります。買屋橋から南下し八幡山本で図書館方面に左折し旧道を歩けば、外郎で知られる「じばん宗」の前を通り抜け、突き当りの中央図書館から道なりに南方向に進みます。途中天理教教会を過ぎたあたりで右折すれば紅葉で知られる善法律寺に出られますが、古来八幡の道は南北よりも東西の道から発展した面影が残っています。善法律寺の前を南北に走る道路は新しい道で「新道」と呼びます。昭和30年代頃、田圃や畑だらけでしたが、昭和54年にようやく「認定道路」となった経緯があります。この南北の道をいわゆる東高野街道とにわかに言い張るのは笑い草です。新道は直線的な道路なっていますが、近世までの道は戦略上必ずと言ってよいほど曲っています。
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 「旧道」と呼ばれている元来の道を南に進むと「走上り道」に突き当たり、すぐ右の神原交差点(近くに興正谷入口あり)を左へと進んでゆく。少し歩くと「正 法寺」が右に見えます。「八幡宮道」の志水道辺りを歩くときは正法寺惣門をくぐり南門から裏通りののどかな道を時々歩くが、車も殆んど出会うことなく松花堂庭園に辿り着きます。松花堂庭園の西には八角堂がありますが、この前の道が古くからの本来の道です。ここから中ノ山墓地の東入口の前を通り、洞ヶ峠を目指します。
 現在の松花堂庭園横のバスや車が走る南北の道は昭和40年前後に出来た「新道」と呼ぶものです。小高い丘の八角堂の前には役行者像が彫られた「すぐ八幡宮道」の道標があります。安居塚から右に折れて洞が峠に向かいます。今は右折して真直ぐの坂道ですが、以前は左から登る坂道が洞ヶ峠道でした。現在は分断されて通れません。いよいよ洞ヶ峠を越えると枚方市の本来の高野道に入ります。八幡の安居塚から南方向に直進すれば「山根道」に入り、長尾、藤阪、津田、倉治を通って私部(きさべ)で東高野街道に合流します

八角堂の役行者えんのぎょうじゃ道標

 役行者とは日本の山岳宗教である修験道の開祖として崇拝されているが、役小角(えんのおづぬ)が本名であると云われる。◆会報第108号より-02 やわた道 その2_f0300125_14012540.jpg役行者は7~8世紀に実在したようだが、詳しいことは不明です。道標正面には『大峯山九十度供養等』とあり、大峯山に九十度登山した記念碑である事が分かりますが、九十度登山は殆ど聞かない!
 三十三度登山記念碑はよく目にする、時に五十五度、六十六度登山記念碑も目にする事がある。登山回数による位では登山七回で小先達、十回で中先達、十一回以上で先達、三十三回登山すれば大先達の免許が授与されるそうだ。九十度の回数から見て相当の修験道の指導者だったとみられる。八角堂の「役行者(えんのぎょうじゃ)道標」が洞ヶ峠を越えて来て、八幡宮に向かう道で初めて出会う「すく八幡宮道」の道標となる。

指差し地蔵

 地蔵菩薩の信仰は他の仏や菩薩を圧倒して広く大衆の「ほとけ」として崇拝されている。その像は寺院境内、町の辻々、墓地、道路、山道、田畑などのいたる所に安置されている。平成29年(2017)当時、江戸時代の八幡道標を本格調査していた頃、地蔵菩薩が彫られた道標の数の多さに驚き、地蔵信仰の広がりにあらためて目を見張った。
◆会報第108号より-02 やわた道 その2_f0300125_14065159.jpg 八幡市美濃山井ノ元にめずらしい「指さし地蔵」があった。錫杖を持たずに、右手が「八はたへこれから」の文字を指で示すポーズを取っている。こんなお地蔵さんは滅多にあるものではないと思っていたら、奈良県大和郡山市の金剛山寺(本尊・地蔵菩薩)こと「矢田寺」にも「指さし地蔵」があると聞いて、飛んで行った。
 指は矢田寺の方向を示し「左 矢田道」と彫ってあった。京都寺町三条上ルに「矢田寺」があるのをご存知だろうか。平安時代の初め現大和郡山市の「矢田寺」の別院として創建されたらしい。高さ2mの地蔵菩薩は開山の満米(まんまい)上人が地獄で出会った地蔵菩薩の姿を彫らせたものと云われ、地獄にまでも亡者を救いに来る唯一の菩薩として信仰されて来た。
 小野篁(おののたかむら)伝説で知られる六道珍皇寺の「迎え鐘」に対し、冥土への「送り鐘」を突きに「矢田寺」に訪れる人は多い。

御本社道

 江戸時代に「御本社道」と呼ばれた古い道がある。文久元年(1861)刊行の『淀川両岸一覧』楠葉の項に「当村中より、男山八幡宮へ参詣の道あり」とある。町楠葉の京街道沿いに数年前まで「右八幡宮/是よりちか道/二十三丁(約2.5㎞)」の古い道標があった(今、少し離れた民家に大事に保存される)。
 「御本社道」とは現枚方市町楠葉から橋本の南西方面を通って八幡宮に至る大坂方面からの近道だった。江戸時代の石清水八幡宮全図の上部(西)に「御本社道」と記されている。町楠町葉から歩くと、途中、楠葉野田にある「右志みつ/左八幡宮道」の道標(「石清水八まん宮道」に誘う道標群参照)辺りから腰折坂までの道は、整然と区画された住宅街になって、古道の痕跡はまったく残っていない。
 だが幸いにも橋本小学校東方面から入る脇道が残っている。橋本西刈又の通りに面して「稲荷神社」が今も残り、神社前の坂を登るとやがて腰折坂の手前で本来の「御本社道」と合流し、腰折坂から竹林の谷を越えて八幡宮に至る。但し竹林の道は荒れ放題で歩くには少々難儀だ。
 西刈又の「稲荷神社」の先、T字路右の空き地奥に毘沙門天の石仏が見える。高さ70cm横43cm、甲冑を着て、右手に仏敵を打つ宝棒を、左手に宝塔を持ち、キョロ目の邪鬼を踏みつけている。

足立寺跡の豊蔵坊信海墓地

 大坂の細合半斎が覚え書きとして残した「男山栞」松花堂門人姓名小録の項に中村久越、法童坊孝以、豊蔵坊孝雄(信海)、藤田友閑らの略伝を記している。
 豊蔵坊は家康の三河時代からの祈祷所であった為、大層裕福な坊で、徳川家康の治世に闕所(けっしょ)となった八幡宮社士片岡道二と落合忠右衛門の朱印地を含め百七石の朱印寺領があり、さらに代官小堀家より三百石を支給されていた。
 豊蔵坊信海は徳川家祈祷所の坊として、毎年正月には江戸城へ登城し将軍に年頭御礼と共に祈祷札を献上している。信海は年に3度、正月、五月、九月に江戸へ下向し、江戸でも活躍していた。神應寺と縁の深い大奥総取締「右衛門佐(えもんのすけ)」の推挙を受け、後に幕府歌学方となった北村季吟(きたむらきぎん)(松永貞徳門下)とは晩年まで交流が続いた。
 書画や狂歌にその名を残す信海の墓石は先年足立寺跡地公園にて特定したが、大坂の狂歌中興の祖と云われる由縁斎貞柳(ゆえんさいていりゅう)が信海三十三回忌に神宮寺(廃寺)の墓に詣でた記録がある。
 6年前だったか、豊蔵坊の墓石群が全て倒されるといういたずらが発生した。一度は公園課によって復旧され、文化財保護を訴える看板が立ったが、2回目の被害が発生した。次々と墓碑を転倒させる行為は犯罪でしょう、まことに穏やかではありません。結局、市の文化財保護課に仮置きとなったが、信海墓石の存在を知る多くの人々の再設置の願いは叶っていない。
 文化財は公開が大原則と思うが、倉庫にそのままだとカビの発生や劣化が進む、されば文化財ではないと判断し、知らない間に廃棄されないか心配している。以前木津川堤から掘り出された明和六年(1769)の「常盤道の道標」が文化財保護課にあったが、現在は保存されず、無くなってしまった経緯がある。道標写真が残されているので実在したことは証明できる(歴探道標冊子№08に記載)。7年ほど前、信海の師である豊蔵坊孝仍墓石から孝仍の部分がはがれていた為、文化財保護課に持参し保全してもらったが、これも現在行方不明になっている。専用の接着剤はあると聞いたが、ついに補修もされないまま墓石は倉庫に入っているとの事。足立寺跡「豊蔵坊信海墓」の三宅安兵衛遺志碑95年前の想いを次々に、はかなく消してもよいとは誰も思わないだろう! かなり広範囲に地方の墓石を巡る機会があるが、時々周りをフェンスで囲って保全しているケースを目にする。やはり不敬の輩から保全するための手当かも知れない。
(以上) 一一
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『一口感想』より

2月6日の京都新聞の記事を読んで楽しみにしていた。現在の状況もあわせての話はわかりやすく興味深いものでした。八幡さんの道標から昔の人々の生活に近い存在であったと感じました。八幡さんの信仰が根づいていた証しと思います。 (E・T)
道標を通して八幡の歴史探訪、楽しかったです。谷村様の博識、歴史への深い思いが伝わって参りました。誰がどのように道標を建てられたのか興味津々です。 (I・K)
八幡に住んで36年。棒にあたるように、歩いてみたいと思います。 (K・I)
情報も多かったので、ついていくことが難しかった。もう少しテーマを分割して時間をとって頂いた方がわかりやすくよいです。いろいろ貴重なことを知ることが出来ました。ありがとうございました。 (S・M)
盛りだくさんの内容で色々と興味深い事ばかりだったが、中でも一番驚いたのは京街道を象が通ったという話だった。私は淀(美豆町)に現在住んでおり、画面で示して下さった道は散歩でよく通っているが、現在は寂れており到底象が通ったとは思えない。他の話も実際現地で見てみたい石碑etcが多かったが、八幡の地理や地名に疎いので、なかなか場所がイメージできなかったのが残念な気がした。充実した内容の講演ありがとうございました。 (T・M)
”どんな棒にあたるのかな”と楽しみに参加させてもらいました。古地図がおもしろくぜひ歩いてみようと思います。また、三宅碑も見ていない場所は、行こうと思います。力士道標もおもしろい! (F・N)
 

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# by y-rekitan | 2022-03-28 10:30

◆会報第108号より-03 八幡の花木④


八幡さんの花木
―その4(二ノ鳥居~表参道・大扉稲荷社~三の鳥居~本殿)―

  家村 輝男(会員) 


はじめに

 毎日眺め、散策している身近な男山。しかし、石段横の植物、巨木の木肌や木についた緑の葉っぱをじっくり見たり、嗅いだりさわったりしたことは少ないと思います。鎮守の杜の自然観察をしながら散策を楽しみました。
 八幡さんの鎮守の杜の自然観察は次のコースで3日間に分けて観察しました。第1回調査は会報105号と106号の2回に分けて報告、第2回調査は前号の会報107号で報告しました。今号は最後の第3回調査結果を報告します。

第1回調査(4月3日)
(一の鳥居~頓宮~髙良神社~裏参道(太子坂)~展望台~(清峯殿)青少年文化体育研修センター
第2回調査(8月7日)
航海記念塔~神応寺~鳩ケ峰~男山レクリエーションセンター
第3回調査(9月4日)
二ノ鳥居~表参道・大扉稲荷社~三の鳥居~本殿

表参道(二の鳥居~大扉神社)

 自然観察シリーズの最後は、表参道です。昭和56年(1981年)11月10日、表参道に都道府県の県木が植栽された。その現状を含めて観察して行きます。二の鳥居からスタートです。◆会報第108号より-03 八幡の花木④_f0300125_07561793.jpg 鳥居の脇にヤブツバキ。イロハカエデ(山梨、滋賀、広島)イロハモミジとも。単にモミジ、カエデとも略称する。男山には大木が多く見られる。カエデと云うのは蛙手の意味で掌状に5~7裂するのでイロハニホヘトと数えたのでしょう。紅葉が美しくモミジの代表。秋の紅葉には、イロハカエデ、ヤマモミジ、ミネカエデ、ハゼ、ヌルデ、ドウダンツツジ、ナナカマド、サクラ、ツタなど。黄葉には、イチョウ、ザクロ、ムクロジ、イタヤカエデなどがある。
(古今和歌集・百人一首)
  おく山に紅葉ふみわけなくしかの
      こゑきく時ぞ秋はかなしき
         ―源氏物語・紅葉賀の巻-
 春宮は源氏の紅葉の賀の舞を思し出られ、挿頭の花を下し置かれて、切に御所望遊ばしますので、云々。
 カエデの文字が源氏物語では、紅葉、倭名類聚抄では鶏冠木、新撰六帖では、かえで、和漢三才図会では、蝦蟇手木となっている。
 (万葉集・二二〇一)
   妹許と馬に鞍置きて射駒山 
      うち越え来れば紅葉ちりつつ
 (万葉集・三六九三)
   黄葉の散りなむ山に宿りぬる 
      君を待つらむ人し悲しも
 ヤブツバキは、山地に自生する常緑の高木。京都はツバキ文化の発祥地であり鑑賞用に品種改良したものが多くある。椿は和名で、漢名は山茶。社寺が多い京都には茶花とつながって名木が多い。園芸種の中でもわび助、日光椿、月光椿、白玉椿、百合椿、散り椿が有名である。
 (万葉集・坂門人足)
   巨勢山のつらつら椿つらつらに 
      見つつ思はな巨勢の春野を

 参道山側に、アラカシ、アオキ、スダジイの大木、カナメモチ、ナンテン、フェニックス(ソテツシュロ・宮崎)林縁につる植物アオツヅラフジ生える。小枝には淡黄褐色の毛があり、葉は丸く浅く三つに裂ける。果実は濃紺で、種子は化石のアンモナイトのようで毒がある。ツルは篭を作るのに使われる。
 法面に同定が難しいベニシダが普通に見られる。男山にシダ類は、140種類あると云われている。◆会報第108号より-03 八幡の花木④_f0300125_08133478.jpgカラスウリの一夜花(図32)が参道に落ちていた。ひと夜だけ咲く白いひげに包まれたとても美しい花です。冬になると枯れたツルに赤く熟しウリ状果が目立つ。
 キカラスウリとの見分け方は葉っぱの毛が多くざらつく、花弁の切れ込みが激しい。キカラスウリの根はあせも用の天瓜粉(てんかふん)である。
 谷側には、ヌルデ、キリ(岩手)タンスや下駄はじめ素材が柔らかく軽い。キリを切ると切り株からすぐに新芽を出し成長が早いのでキリ(切り)である。
 石橋あたりから山側の砂防の壁に奔放に生育しているテイカカズラの群落が目立つ。花期5~6月には白い5弁花から芳醇な香りがします。鎌倉初期の歌人、藤原定家にちなんでつけられたと云われている。「和漢三才図会」(1713年)には、定家の墓石に生えていたからとも、愛人の墓に絡みつているとも。葉っぱの形や弓状に垂れ下がった果実など観察が楽しい。
 ◆会報第108号より-03 八幡の花木④_f0300125_08194661.jpg相槌神社から登ってくる踊り場にアカメガシワ(図33)の花が咲いている。
 上を見あげるとムクノキ(図34)の大木。雌雄同株で春に開花し、秋に黒く熟した実はとても美味しい。葉は、側脈が7~8対あり、全縁に鋭鋸歯がある。ザラザラしていて物を磨くのに使う。
◆会報第108号より-03 八幡の花木④_f0300125_08303976.jpg 参道の谷側には、ケヤキ(宮城・福島・埼玉)社寺の境内に最も多い落葉高木です。幹は直立して枝を傘のように、箒のように広げる。材は堅く狂いがない、清水寺の舞台、比叡山根本中堂、東・西本願寺の主建材です。
 イヌビワ(図35)も多く見られる。◆会報第108号より-03 八幡の花木④_f0300125_08370773.jpgクワ科イチジク属の落葉低木で、メスの木が熟した小さなイチジクのような実をつけている。食べるととても美味しい。オスの木に出来る実は共生するイヌビワコバチの巣になっており食べられない。イシガキ(イシガケ)チョウの食樹。枝や葉柄を切ると白い液がでる。葉柄の付け根には葉痕が線状に残る。
 山側には、ミツデウラボシ(図36)、葉裏に丸いソーラスが一面につく三つに分岐する場合も、しない物もある。イタビカズラ(図37)は、枝から気根を出し崖に絡む。イタビはイヌビワの一名で、つる状のイヌビワのような物という意味。葉柄を切ると白い液がでる。
 カニクサがぶらさがっている。葉は長く伸びつるとなって巻き付く表参道には冬でも枯れ残り緑葉をつける。イズセンリョウが生えている。
◆会報第108号より-03 八幡の花木④_f0300125_08543391.jpg
 踊り場に大きなカキノキ。ヤマザクラは多く見られる。サクラといえば、古代は近畿地方の山地に多いヤマザクラでした。万葉集、文学に登場するのはヤマザクラがモデルでした。ヤマザクラは、葉の展葉と同時に咲き、淡紅色の花と紅紫色の若葉とのコントラストが美しい。
京都の名所は、嵐山、善峯寺などです。
  敷島の大和心を人間はば
     朝日に匂ふ山桜かな(本居宣長)
 (伊勢物語)
   世の中にたえて桜なかりせば
        春の心はのどけからまし
 大扉稲荷社の手前の切り株にアリドウシ。社前の景清塚にあったコナラの大木は枯れ、木の名札だけが残っている。アラカシ、カナメモチ、サカキ、カギカツラが生えている。

駒返りの橋を渡り、中参道を泉坊跡へ

◆会報第108号より-03 八幡の花木④_f0300125_09032917.jpg 少し行った石垣に地下茎がながく伸びて、細長い葉が根元からでているキチジョウソウ(図38)、家において花が咲くと縁起が良いと言われるので吉祥草、花は秋に咲く、根元にヤブランに似た穂状花序を出し茎は紫色、花は白い筒状。
 泉坊跡の、奥まったところにムクノキの大木、アラカシ、ケヤキ、タラヨウ、イロハモミジがある。岩清水社へ参るとエノキ、スギ、ヤブツバキ、クスノキ、ノグルミが観察できる。前にマダケの林。

表参道へ戻って三の鳥居へ

 表参道の谷側で多いのが、ニレ科のムクノキ、ケヤキです。他には、クスノキ、ヤブツバキ、アラカシ、イチイガシ、タラヨウが植栽されている。◆会報第108号より-03 八幡の花木④_f0300125_09170880.jpg タラヨウとケヤキの間から谷を見ると森の木々に絡み数十メートルはい上がったカギカズラの群落が見られた。
 山側、中坊と椿坊跡にスギ(秋田、富山、京都)豊蔵坊跡の近くにアスナロ(ヒバ・青森)(図39)明日はヒノキのなろうと希望的な意義を持つ。日本特産の樹木で小枝を互生羽状にだし、葉の裏は雪のように白となり美しい。
 (枕草子・春曙抄)
    あすはひの木 明日桧にや、世俗にあすならふといふ木なり、
         桧の木に似て 材木につかふ物也

三の鳥居~本殿へ

◆会報第108号より-03 八幡の花木④_f0300125_10014203.jpg 三の鳥居のそばにアカマツ、テーダーマツ、アセビ。灯籠の下、囲いのなかに絶滅危惧種のコヒロハハナヤスリ(図40)
 林下や原野の路傍などの群生する夏緑性のシダ植物。胞子の穂がヤスリに似ていることからこの名がついた。
 反対側にミヤギノハギの変種といわれるシロバナハギ(図41)が咲いている。
 カリンが沢山実をつけている。社務所付近の木々には、クスノキ少年団が名札をつけている。
 社務所の手前裏にみえる先が三角の木は、メタセコイヤ(図42)。この木を発見したのは、大阪市大の三木茂博士。昭和16年、岐阜県土岐市の粘土層からセコイヤ、ヌマスギに似た化石を発見。2枚対の葉の付き方や球果のウロコの並び方が違うため「メタセコイヤ」(メタは後のという意味)と名付け発表した。
◆会報第108号より-03 八幡の花木④_f0300125_10092579.jpg
4年後、昭和20年その植物が中国四川省で見つかった。「日本人が化石で発見した樹が 生きていた」世界のニュースになった。
 中国現地を調査した米国チェイニー博士が種子を採取、市大の三木博士に苗木100本が贈られた。全国の研究所に配布され挿し木で苗木を増やし全国に広まった。交野市の市大付属植物園に一本、導入木がある。新緑、紅葉と樹形が美しく、昭和天皇もこよなく愛された。昭和62年歌会始での御製。
  わが国のたちなほり来し年々に
     あけぼのすぎの木はのびにけり
 麓から男山を見ると△に見える樹冠はこの木です。エジソン記念碑の裏、茶園近くにも3本の大木が並んでいます。

南総門前東側にカヤ(図43)のご神木

 雌株で開花結実している。樹齢700年、根回り7m樹高約20m、樹冠約30mで京都府下でも有数の巨樹。種子は炒って食べると香ばしく美味しい。油はてんぷら油として最高で灯油にも使われた。現在、石清水祭の神饌として使われる。材は、きれいな木目をもち、碁盤や将棋盤は高価だ。
 昔、小野小町にいいよる男はたくさんいた。その中の一人、深草の少将があまりにも熱心だったので「百夜通ったら思いを叶えてあげよう」それを真に受けた少将、毎夜、深草から通ったが九十九夜目に突然亡くなった。少将の通った日数をカヤの実に糸を通して数えていた小町は少将を哀れんで、そのカヤの実を通い道に播いた。今もいくつかは残っている。
◆会報第108号より-03 八幡の花木④_f0300125_11043445.jpg
 本殿左側にナギ(図44)の高木がある。葉は、竹の葉に似て主脈がなく縦の平行脈のみで、古くから鏡の裏やお守り袋に入れ災難よけにした。引いてもちぎれにくいのでセンニンリキ、ベンケイキラズと呼ばれ、夫婦のちぎり、恋の結びに使われた。雌雄異株。日陰に強く、耐久性に優れ建築、器具、彫刻材になる。油もとれて春日大社では神燈に用いた。

神楽殿北側の信長塀前のクスノキ(図45)
◆会報第108号より-03 八幡の花木④_f0300125_11131604.jpg 根回り12.4m男山で2番目の大木。葉に3本の主脈がありその分岐点にダニ部屋がありダニが寄生している。クスノキには全部にある。樟脳の製法は、クスノキの幹、枝、根を細かくしたものを水蒸気とともに蒸留して水中を通せば結晶した樟脳が出来る。セルロイドは、木綿を硝酸と硫酸に浸した物をアルコールとエーテルの混合液につける(コロジオン)これに樟脳を混ぜて圧縮すればセルロイドになる。
 本殿西側には、サカキの大木が並ぶ。


北総門の左にスギ(図46)の大木

◆会報第108号より-03 八幡の花木④_f0300125_11310772.jpg 誰もが知っている常緑高木。クスノキとともにどこの社寺にもある。木造建築材、家具、桶、樽など日本文化を支えた樹木。スギは青森から屋久島まで分布しますが、日本海側のものと太平洋側とではその形態が違う。日本海側は、積雪に対応して耐陰性が強く枝葉が垂れ下がり針葉が湾曲しているのでさわっても痛くない。
 スギは日本特産とされるが中国にはシナスギがある。
 東総門の内側、鬼門封じの近くにご神木、招霊の木、オガタマノキがそびえる。
 イヌビワ、サザンカがあり東勤番所を通ってエジソン碑西のマダケ(図47)林へ。  
 エジソンが、フィラメントに使った竹の産地として有名な八幡ですが、モウソウチクに比べそれほど多くはない。節の環は2個で葉が大きく桿(かん)は緑が強い。モウソウチク、ハチクは、粉白色で淡い色をしている。タケノコもモウソウチクが3~4月。ハチクが4~5月。マダケが5月から6月の順である。◆会報第108号より-03 八幡の花木④_f0300125_11355474.jpgマダケの竹の皮は、長く、毛がなくしなやかで長いので鯖寿司や肉などの包装、ぞうりや履き物の表に利用される。
 八幡のマダケは良質で、伊丹、伏見の酒樽のたがに使われ高値で売れました。竹の繊維も柔軟で強靭で用途は広範囲で建築材料、棚や釣り竿、傘や箒の柄、玩具に利用された。八幡からは「八木の浜」から筏流しで大阪の八軒屋に運んだと伝わっている。昭和19年8月、陸軍造兵廠枚方製造所から八幡町へ竹槍五万本の供出指令が来ると記録がある。また、竹取物語の竹林はこのマダケ林です。
 今回の男山の観察は「八幡の歴史を探究する会」谷村代表の助言で実施しましたが、改めて鎮守の杜の大切さを感じた機会になりました。  (完)

〔参考資料〕
 1.京都男山の植物(石清水八幡宮)
 2.男山で学ぶ人と森の歴史(八幡市教育委員会)
 3.八幡の町の小さな仲間たち2016(八幡市環境保全課)


この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>



# by y-rekitan | 2022-03-28 10:00

◆会報第108号より-04 墓石をたどる⑫


シリーズ「墓石をたどる」・・・⑫
七ツ松部屋の力士墓道標について

谷村 勉  (会員)


 「八幡宮道」の道標調査では実に100基以上の八幡道標を確認したが、その過程で「力士墓道標」とでも云うべき道標が相次いで見つかった。「力士墓道標」といっても墓石があり供養塔あり顕彰碑ありと、形態は様々である。力士墓の存在は既に中ノ山墓地などで数件を確認していたが、道標として意識することは全くなかった。
 「七ツ松部屋」とは江戸時代、八幡金振郷と楠葉面取の境界辺にあった「七ツ松山」の名を取って、面取地域に本拠を置いた「相撲部屋」であったと思われる。「七ツ松山」は現時点で特定し難いが、江戸時代の「東海道分間延絵図」に「極楽寺」と「七ツ松山」の文字が見える。明治45年の陸軍測量部発行の地図には面取は極楽寺付近とされている。◆会報第108号より-04 墓石をたどる⑫_f0300125_12015634.jpg また昭和29年頃の枚方市の面取付近を含む部分図に、面取の四つ辻南側に極楽寺が記載されており、「東海道分間延絵図」の「極楽寺」の位置については明確になった。楠葉朝日一丁目の「楠葉朝日・美咲自治会集会所」横の旧極楽寺跡に「七ツ松の墓石」がある。墓石の側面には森本利八とあり、それが七ツ松の本名と見ている。「極楽寺跡」には現在も石仏の集団が集会所周辺一帯に残っている。

八幡街道の楠葉面取・極楽寺跡

 八幡街道のほぼ中央に位置する「面取」と、その周辺地域の位置関係を明治45年の大日本帝国陸地測量部発行の地図を参照すると、八幡街道は左下の牧野・養父・船橋から右上の八幡(男山泉)までの道で表すことになるが、もう一つの楠葉・橋本から右下の円福寺までの道も道標をたどると重要な道であったことが分かってくる。
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浅尾山茂兵衛力士墓道標(歴探発行冊子№56)の側面に刻された銘文には、右 たるまとう(だるまどう)/左 八はた/道 とある。現在この墓石の立つ場所(船橋・養父共同墓地)は面取の八幡街道からは少し離れているが、案内の方向から考えると、この墓石が八幡街道の交差点である面取の四ツ辻に立ち、通行人に道案内していたことが判る。そして同じ墓地内には道標機能を持たないが、「七ツ松」部屋の相撲力士(勇崎文蔵)の墓石が存在する。
 改めて「面取」の四ツ辻付近(現在では楠葉朝日一丁目17-1 朝日美咲自治会集会所付近)の標石をみると、角柱型の道標が2基(歴探発行冊子№54・56)、
舟形光背地蔵道標1基、のほかに大きな相撲力士の墓石「七ツ松[利八]」の1基が立っている。面取の四ツ辻では「七ツ松部屋」の関係する墓石が2基あったことになり、すぐ近くの船橋・養父共同墓地のもう1基(力士名 勇崎文蔵)を加えると3基もあったことになる。

1.七ツ松利八の力士墓

◆会報第108号より-04 墓石をたどる⑫_f0300125_13152576.jpg 楠葉朝日1丁目の「楠葉朝日美咲自治会集会所横の旧極楽寺境内に「七ツ松利八の墓石」(写真)が立っている。明治廿三年建立とあり、比較的新しい。台石には世話人・消防方・門弟中とある。手前の「だるま堂」とある道標は八幡の円福寺を指す。現枚方市牧野黄金野の旧京街道から分岐し、牧野片埜神社・養父・船橋を経由して石清水八幡宮や円福寺に向かう「八幡街道」に繋がっている。枚方市との合併前の旧牧野村の道に「大正3年改修」と彫られた「八幡街道」の道標も眠っている。

「八幡街道」の道標
 大阪と京都を結ぶ枚方市黄金野の旧京街道沿いの工事現場で「八幡街道」と刻まれた道標が見つかった。大正時代、八幡方面への近道が整備された際に立てられ、枚方市教委文化財課は旅人の石清水八幡宮への道案内も務めていた、としている。昭和35年頃から始まった宅地開発でアスファルトの下に捨てられた。
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 当時、同志社大嘱託講師だった中村武生氏は「高度成長期は、日本史の中でも特に遺跡や文化財を粗末に扱った時代。開発の波の中で、歴史的価値のある建物が随分破壊された」と語っている。(2009年1月マイライフ新聞から要約)

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2.浅尾山茂兵衛の力士墓道標

枚方市楠葉面取町の船橋・養父共同墓地の中に在る。
 棹石:(正面)超誉厳運禅定門、  
    (裏面)安政五年戌午年二月
            (1858)
    (左面)浅尾山茂兵衛、
    (右面)右 だるまとう
        左 八はた道
 台石:七ツ松門弟中 世話人 若中



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3.七人力士供養塔

枚方市上島町の船橋川堤
棹石:(正面)若線清兵衛 線松惣七 浪介小八    
       吉野川藤蔵 靏川新兵衛 駒若乙松   
       生駒山惣吉 十方施主二世安楽
   (右面)右 山城志水 すぐ下京道 
   (左面)すく大坂道 七ツ松門弟中
 左面に七ツ松門弟中とある事から河内相撲の力士達の供養塔であることが分かる。
 「山城志水」とは八幡宮参詣道の志水道をさす。
 「十方施主安楽」とはこの世とあの世を含め、十方とはあらゆる方向の意味で、何処にいても安楽に、往生できますようにと祈る、ことでしょう。
 「鳥羽伏見の戦い」で敗れた兵士の墓ではなく、幕府軍に協力して働いた力士達が官軍の猛攻に巻き込まれたものと思われます。

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4.七松半右衛門の力士墓道標

枚方市楠葉中ノ芝の久親恩寺境内に在る
棹石:(正面)徹誉勇道禅定門 
   (右面)天保四年巳年四月十八日(1833) 
   (裏面)七松半右衛門  
   (左面)右やわた道 すく京みち
 久親恩寺境内には道標群を一角に集積して石碑を文化財として保全している姿が嬉しい。

 七つ松半右衛門の墓碑道標も以前は京街道沿いにあって、旅人に道案内をしていたが、現在は墓地内にて保全されている。



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5.鬼勝定吉力士墓道標

島本町常春寺境内
所在地:三島郡島本町高浜字垣内
棹石:(正面)鬼勝定吉
   (右面)右 やはた うし/左 京 山さ記
   (左面)安政四年二月建立
台石:七ツ枩/門弟中
淀川を挟んで川向の島本町にも七ツ門弟の力士が存在し、誠に興味深い。






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6.更科寅吉の墓石

久御山町観音寺境内墓地
所在地:久御山町坊之池坊村中
棹石:(正面)寂住静生信士
   (右面)文化十二亥九月十日
   (左面)更科寅吉塚
   (裏面)当村若中
台石:(正面)七ツ松門弟中 (左面)当村若中
 道標ではないが、久御山での唯一の七ツ松門弟中の力士墓である。先般、観音寺に更科寅吉の墓石を久し振りに確認に行ったが、墓石が見当たらず、住職に確認したところ、新しい墓石に代わっていた。
新しい墓石にも確かに更科寅吉と没年月日の文字が刻されていて安心した。

# by y-rekitan | 2022-03-28 09:00