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事務局だより
四方山草紙 ~研究の背景より綴る片隅の記~ 本日は、連歌という不思議な文芸について、少しお話させていただこうと思います。「連歌と盗人は夜が良い」という古いことわざがあります。なぜ連歌は夜に詠むのが良いとされたのでしょうか。そこには、この文芸の持つ深い秘密が隠されているように思えます。 連歌という文芸は、ただの言葉遊びではありませんでした。和歌から生まれながらも、独自の発展を遂げ、後には政治外交の場としても使われるようになっていきました。 特に注目したいのは、連歌が持つ多層的な意味です。表面には美しい季節の風景や情景を詠みながら、その奥には漢籍の故事や政治的な意味を隠し込んでいます。実際、連歌を詠むには、和歌の伝統だけでなく、『史記』『文選』といった中国の古典や、『論語』『孟子』などの儒教の経典にも通じている必要がありました。 具体的な例を二つ見てみましょう。まず、二条良基邸での連歌会で詠まれた救済(ぐさい)の「名はたかく声はうへなし郭公」という句です。一見すると、郭公(ほととぎす)の鳴き声を褒めた素直な句のように見えます。しかし実は、「郭公」に身分を超えて実力を重んじた望帝の故事、「名高し」という表現に「実際の声の方が名声より優れている」(身分より実力)という逆説的な意味が込められ、さらに「上なし」という言葉には「この上ない」という意味と「空高く」という意味の掛詞が隠されていました。 もう一つ、明智光秀の「時は今 あめが下しる 五月かな」という句を見てみましょう。一見、初夏の雨を詠んだ素直な句に見えますが、実は毛利征伐の戦勝祈願の出陣連歌として披露され「天が下(天下)を知る(治める)」という意味が込められていました。当時の連歌会では信長の天下を寿ぐ句として解釈されていたようです。後に豊臣秀吉に近侍した大村由己の『天正記』で初めて自身の野望説も加えられました。このような表現方法は、当時の教養人たちの間で広く共有されていたのです。 連歌の場が持つ社会的な役割も興味深いものでした。連歌会は文芸を楽しむ場であると同時に、身分や立場を超えた交流の場としても機能していました。貴族や武将、連歌師、僧侶たちが、連歌を通じて心を通わせ、時には重要な情報交換の場ともなっていたのです。 また、連歌における和と漢の融合も見逃せません。日本の伝統的な和歌の技法に、中国の古典や詩文の教養を織り交ぜていきました。この高度な文芸は、東アジアの文化交流を物語る貴重な証となっていました。 特に室町時代には「和漢聯句」という新しい形式も生まれ、和歌と漢詩を交互に詠むという画期的な試みも行われていました。 連歌師たちは、日本の四季や風物を詠みながら、そこに中国の古典世界を重ね合わせることで、より深い精神世界を表現しようと試みたのです。このような和漢の融合は、当時の日本文化の成熟度の高さを示す証でもありました。 連歌は、文学と実用、芸術と政治が見事に調和した、とても珍しい文化遺産なのです。現代を生きる私たちも、その深い知恵から学べることがたくさんありそうです。 冒頭で触れた「連歌と盗人は夜が良い」ということわざも、実は連歌の本質を巧みに表現していました。静かな夜という表向きの意味と、密かに真意を隠すという深い意味。このような二重性こそが、連歌という文芸の奥深さなのでしょう。 また、このような高度な文芸がどのように生まれ、発展していったのか。平安時代の「短連歌」から、なぜここまで深い表現力を持つ芸術へと進化を遂げたのでしょうか。江戸時代に入ってからは、どのような新しい展開を見せていったのでしょうか。 その物語は、いずれ稿を改めてお話できればと思います。 本日の四方山草紙は、これにて巻を閉じさせていただきます。 片隅生 記 ![]() #
by y-rekitan
| 2025-03-28 20:00
| 事務局だより
心に引き継ぐ風景
![]() 昨年末、京都国立博物館の特別展「法然と極楽浄土」に足を運んだ。阿弥陀来迎図のオンパレードであった。「八まん宮道」道標の中で、最高傑作と称される「往生礼讃道標」は、まさに『阿弥陀三尊来迎図』の浮彫であり、石工の技術と信仰の結晶として輝きを放っている。 道標は下奈良隅田の「隅田墓地」入口に位置し、近くに佐川急便の大きな建物が見える。嘉永四年(1851)建立の道標の正面には、卓越した技量を持つ石工による『阿弥陀三尊来迎図』が鮮やかに表現され、その下には法然上人と師である善導大師の姿も描かれている。 これらは浄土信仰の深い歴史を物語っている。右面には「願共諸衆生 往生安楽国」(願わくば衆生と共に、極楽浄土に往生せん)という善導大師の『往生礼讃』からの言葉が刻まれ、道行く人々に深い精神的慰めを与えた。 左面上部に「南無阿弥陀仏」の文字があり、その下に「右 うじ・左 よど 道」と記され、旅人を正しい方向に導いてくれる。道標機能を持つ石碑に『阿弥陀三尊像』が彫られた例は極めて珍しく、この「往生礼讃道標」は恐らく唯一無二の存在である。 この事実は八幡市の文化財の豊かさと地域の歴史的深みを如実に物語るもので、地域の誇りとして末永く保存されるべき貴重な文化的遺産といえる。単なる道しるべを超えた芸術作品であり、歴史遺産として、その存在は八幡市の文化的豊かさを象徴し、訪れる人々に深い感銘をもたらす。 (文と写真 谷村 勉)空白 #
by y-rekitan
| 2025-01-27 23:00
| 心に引き継ぐ風景
吉野詣記
谷村 勉 (会員) (※最終回、水無瀬神宮・石清水八幡宮に参る) 十二日のけふ みなせまてまかるへき程とをしとていそきけるに。此の寺の舎利毎日巳の刻に出させ給へとも彼別当御使たる人ことわり申て朝のほとにいたし奉る。頂戴随喜かぎりなし。僧物語して云やう此舎利は七仏の毘婆尸仏(びばしぶつ)の双眼なり。普広院の御時都へめしのぼせられしかは。その間亀井の水とまりて御帰の程より本のことく出ける事。又本尊ちかき乱にくだけ給ひしを続奉るに。 御足いささかふみちかへてつぎしを一夜の間居なをらせ給ふ事なと。近き世にもかやうのふしぎ有よしかたりけり。秋野と云人道まて送りにとて。楼のきしわたなべ大江まて酒をもたせてきけり。川のほとりにて数盃をかたふけ。こしにて夕つかた山さきみなせに着にけり。いまた日も残れり和漢一折すべきと有しかは 雲やいづれやまさきかくす花さくら 迎客燕談春 水無瀬三位 雨の日やゆうへの空もをそからむ 十三日早朝に御影堂に参れり。男山八幡にまいり帰るさ釈迦のおはします堂にて。ある人酒すゝめてかへりぬ。此程の旅のつかれゆへ心ちあしくてけふはふしくらしけり。 ![]() 『訳文』 十二日。今日は水無瀬までの予定で、その道のりは遠いというので出発を急いだのだが、四天王寺の仏舎利は、毎日午前十時ころにお出しなさるのに、あの別当の御使者である人が事情を説明して、朝の間に出し奉り、おし頂いた。その喜びは限りがない。寺僧が物語って言うには、この舎利は七仏の中の毘婆尸仏(びばしぶつ)の両眼である。普広院足利義教の御時に、京都へ召し上せられたので、その間は亀井の水が出なくなって、仏舎利が寺にお帰りの時から元のように水が出たこと、また、ご本尊が最近の戦乱で砕けなさったのを接ぎ申し上げる時に御足を少しばかり踏み違う姿で接いだところ、一夜の間に坐り直られたことなど、近い世でもこうした不思議のあることを思った。 秋野という人が水無瀬への道筋まで見送りにと付いてきて、楼の岸、そして渡辺・大江の辺りまで供に酒を持たせてきて、川の岸辺で数杯を傾け飲んで、そこからは輿に乗って、夕方に山崎の水無瀬に到着した。まだ夕日は西の空に残っていた。和漢連歌を一折興行しようとの誘いがあったので、 雲はいづれに行ったのだろう。山崎の山を隠すように咲く桜の花よ 遠来の客人を迎え、燕のようにむつまじく春の情趣を語り合おう 水無瀬三位 春雨の日でも春の永日なので夕暮れの空は遅い、主客ゆっくり語り合おう 紹巴 十三日。早朝に後鳥羽院の御影堂(現在の水無瀬神宮)にお参りした。その後、水無瀬からは対岸の男山石清水八幡宮にお参りして帰るその帰り道に、八幡宮の、お釈迦様がおられる岩屋堂で、ある人が酒を進めてくれ、それを飲んで水無瀬へ戻った。これまでの長旅の疲れから、具合が悪くて、今日はそのまま横になって日を暮らした。 ![]() ![]() 水無瀬三位とは水無瀬親氏の事で、後、兼成(永正十一年(1514)~慶長七年(1603))。『公卿補任』天文十六年条に「藤 親氏 前三木従二位英兼卿男。実入道前右大臣藤公条公二男。母同権大納言実澄卿」とある。即ち、公条は水無瀬家を継いだ実子親氏を尋ね、旅の最後の日をくつろいだのである。 室町時代に活躍した連歌師の宗祇は三条西公条の父、三条西実隆と親しかった。その飯尾宗祇と牡丹花肖伯、柴屋軒宗長の水無瀬三吟百韻連歌が水無瀬神宮に納められている。水無瀬親氏こと水無瀬兼成は能筆家で駒の銘を書き、水無瀬駒を制作している。この駒は美術的価値が高く重宝された。 なお、水無瀬氏は、信成、親成父子の代に、後鳥羽上皇の遺領として水無瀬離宮を賜り、御影堂を設け、以来ここを住居とした。 後水尾院から下賜されたと伝わる書院風の茶室「燈心亭」がある。江戸初期の公家好みの代表的な茶室とされている。茶室内部は三畳台目席で天井は格式の高い格天井となっている。美味しい水で点てるお茶の味は格別であるが、神社内では頻りに茶会が行われている。境内には大阪府で唯一の「全国名水百選」に選ばれた「離宮ノ水」が湧いていて、水汲み場には、連日早朝から多くの人々が取水に訪れている。 ![]() 茶室「燈心亭」 R2.11.8撮影 ◎男山八幡(石清水八幡宮) (八幡市八幡高坊30) 石清水八幡宮は、応神天皇・神功皇后・比咩大神を祭神として祀る神社で、貞観元年(859)宇佐八幡宮の神託を受け、大安寺の僧行教によって勧進された。朝廷や幕府の厚い崇敬を集め、公家や武将たちが頻繁に参詣した歴史がある。水無瀬からは淀川を越えた対岸の男山山上にある。 ![]() ![]() 連歌に関連し、もう一度おさらいすると 連歌は和歌から問答対話の形を踏まえて、平安時代に登場し、室町時代から戦国時代にかけて最盛期を迎えた。普通、短連歌と長連歌に分れ、短連歌は短歌の長句(五七五)と短句(七七)の二句で終わり、長連歌とは長句、短句にまた長句、短句を繰返しながら最後の句(挙句・あげく)は七七でおわる詩形をとる。何句続けて終わるか明らかではないが、後鳥羽院の頃に百句で終わる様になり、これを「百韻」と言う。百韻とは百句からなる連歌の形式で、特に明智光秀の「愛宕百韻」が世に有名である。 連歌最盛期の第一人者「里村紹巴」の弟子に八幡宮神人の「橋本等安」がいた。『八幡市誌』第二巻に「かの里村紹巴に連歌を学び、豊臣秀吉の御連(ごれん)衆(じゅ)として活躍した」と紹介され、「等安連歌巻」から引用した発句も並んでいる。橋本等安の「等安連歌巻」には細川幽斎、里村紹巴の評点や紹巴の手紙が出てくる。 また、天理図書館に細川幽斎自筆の連歌巻『賦何人連歌百韻』が残る。その下絵には雲間の満月や帰雁、桜花などが金銀泥で描かれた豪華な巻子本であるが、そこには里村紹巴、細川藤孝、里村昌𠮟、蘆中心前、歓喜光寺の文閑、堺豪商の津田宗及などと交じって橋本等安も集っている。 (参照『八幡の歴史を探究する会』会報102号・近世八幡の歴史に興味はつきない) ![]() 岩屋堂跡 本殿北側若宮社の東側にあった ○慈尊院或いは岩屋堂と号す 『男山考古録』には次のように記されている。「縁事抄曰、大御神男山にご鎮座以前の堂也云々、岩屋堂と号るは、側に石もて造れる堂形の物在りて此称あり、前条にいふ、御本宮艮(うしとら)隅に在て、今其趾所を岩屋堂蹟といふ、慶長四年敷地図(尚次家伝来)に、五間四方と記せり、後漸(ぜん)(しだいに)小堂なりしか、…‥又寛延二年(1749)九月、其所を検地せる記に、東御門石階の所より北へ入事八間と記せり、本尊釈迦如来、」…。 ○同釈迦堂 同じく『男山考古録』より抜粋すると、「慈尊院略名同所歟、此地方に別に在事無之、本尊釈迦如来安置あれハ斯号せるならむ、吉野詣記称名院曰、男山八幡宮に参り帰るさ、釈迦のおはします堂にて或人酒すすめて帰りぬ」云々…。 十四日 水無瀬から輿にて帰りけり。はつかしの森のほとりにてこしをたてたる所にて。 此あたりの名所も大方爰をかきりなりとて 紹巴 たひ衣たちかくればややつれこし身をはずかしのもりの小かけに 返しに かりそめとおもふ日数もつもりつゝはやはつかしのかけに来にけり 都出し日数廿日になりにけり。かくて東寺 南大門まて 都よりむかへに人々来り。是より乗物を返しうちつれ帰にけり。道すから障礙(しょうがい)なく帰りし事など申て野宮の寺より出立しかは。此に帰りつきていつしか余波おしげにてみな別にけり。やがて立帰りても独すみの床もあれて道すがらの物かたりすへきたよりもなければ かたるへき事はかずゝゝなみだのみふるき軒端のつまなしのはな ぞかひなきや 老いの坂のほりくだるもこのたひをかきりとおもふにふかきやまみち 今生の宿望来世の結縁満足するものそ 天文廿二年三月十四日 ![]() 『訳文』 十四日。水無瀬から輿に乗って京へと帰った。羽束師の森の近く、輿を置きとどめた所で、この近辺の名所どもも、おおよそここが最後であるといって、 旅衣の身は、その名も羽束師の森の木陰に立ち隠れたいものだ。 長旅にやつれてきてみすぼらしい姿なので 紹巴 返歌として、 思いがけずに日数も積り重なって、早くもこの羽束師の森の 木陰に戻ってきてしまったよ 都を出てからの日数は、二十日にもなってしまった。こうして東寺の南大門まで都から迎えの人々がやって来た。 ![]() それでここから乗物を返し、乗り換えて都に帰り着いた。その道すがら、無事に帰った幸せを言って、行く時は野宮の寺から出発したので、まずはここに帰り着いて、やがては、名残惜しそうにしてみな別れ別れになってしまった。そのまま家にたち帰ってみても、独り住みの床も荒れて、道中の出来事を物語るような相手もいないので、 古い軒端には妻梨の花が咲き、土産話は数々あるが、 聞いてくれる妻はいなくて、涙が落ちるばかりだよ と詠んでみてもかいのないことだ。 老いた身で道中の山坂を上がり下がりしてきたが、 これが最後だと思うと、深く心に残る奥深い山道の旅だった。 現世における宿望も、来世における結縁も、この旅で成就するものと思い、心から満足するものである。 あとがき 連載は最終回となった。 石清水八幡宮警固社士、橋本等安の連歌の師である里村紹巴と公家の三条西公条の旅した『吉野詣記』(天文廿二年(1553))を追ったものであった。 三条西公条は「吉野詣記」の最終章で、この旅の終わりに対して深い感慨と満足感を抱いていた。67歳という高齢にもかかわらず、困難な山道を踏破したことに対して大きな達成感を感じている。「老いた身で道中の山坂を上がり下がりしてきたが、これが最後だと思うと、深く心に残る奥深い山道の旅だった」と詠んでいることから、この旅が人生最後の大旅行になるかもしれないという思いが、旅の思い出をより一層深く心に刻ませた。 公条はこの旅に深い精神的・宗教的意義を見出している。「現世における宿望も、来世における結縁も、この旅で成就するものと思い、心から満足するものである」という言葉は、この旅が単なる物見遊山ではなく、現世と来世の両方に関わる重要な意味を持っていた。公条は前年に妻を亡くしており、この旅には妻の冥福を祈るという目的も含まれ、帰宅後の寂しさを詠んだ和歌「古い軒端には妻梨の花が咲き、土産話は数々あるが、聞いてくれる妻はいなくて、涙が落ちるばかりだよ」からは、旅の終わりと共に再び妻の不在を痛感する公条の心情が読み取れる。 先年、柿衛文庫の『松花堂昭乗奈良吉野紀行』を読んだ。この吉野紀行で、松花堂昭乗は寛永15年(1638)3月、主に吉野の花見を目的として、大徳寺江月宗玩(こうげつそうがん)和尚と10日間にわたり、春日大社、二月堂、内山永久寺、石上神宮、吉野蔵王堂、後醍醐天皇陵など凡そ18か所の神社仏閣や史蹟などを訪ねている(歴探会報第94号・会員研究発表)。なお、この時代は戦国乱世の時代は終わり徳川3代将軍家光の治世であり、島原の乱はあったが、比較的平和な時代であった。 三条西公条の『吉野詣記』は戦国大名が群雄割拠する時代背景の最中で、天文22年(1553)2月23日に出発し、22日間で35か所という、多くの名所旧蹟を廻っている。主な目的は妻の冥福を祈り、太子信仰の巡礼や父(三条西実(さね)隆(たか))の足跡を辿るなどの目的があった。 二つの旅行記を読み終えて、互いを比べると、新たな気付や知見があり、思考が深まるなどの効果にもつながった。春夏秋冬、四季折々に変化する風景や雰囲気を再び現場で味わいたい、との強い思いをもった。 ![]() 東大寺周辺や二月堂のお水取り、三月堂の不空羂索観音や耐震化工事が終わった戒壇院内の四天王立像などを拝観し、すぐ近くの写真家入江泰吉住居跡も訪問し、奈良公園では広い芝生の中で鹿を眺めながら、古代から連綿と続く日本文化や歴史を体感したい。さらに昆虫好きにはたまらない瑠璃色に輝く宝石、糞虫ルリセンチコガネとの出会も楽しい。幸い奈良ならいつでも行けるところである。 ―おわり- 空白 主な参考文献 『吉野詣記』鶴崎裕雄他 翻刻・校注 (相愛女子短大研究論集三三) 『中世日記紀行集』新編日本古典文学全集 小学館 『古今和歌集』日本古典文学全集 小学館 『神社の古代史』岡田清司 大阪書房 『等安連歌巻』 橋本等安 個人蔵 #
by y-rekitan
| 2025-01-27 22:00
| 吉野詣記
隣の芝生
野間口 秀國(会員) 昨年夏、当会会報第116号(‘23.7.24)で、京田辺市観光ボランティアガイド協会主催の「家康公の伊賀越えハイキング」への参加体験を本シリーズ初回として報告させていただきました。ハイキング終盤に木津川左岸に建つ「草内の渡し跡」に着いた時、川向の城陽市奈島の「十六の渡し跡」(同第83号・’18.1.15)に思いを致しておりました。ハイキングから約1年を経たこの6月下旬、城陽市歴史民俗資料館にて開催中の「古墳へ行こう!2024+発掘調査速報展」に足を運び「隣の芝生⑥城陽市」に着手しました。 会報第121号にて久御山町の町名変遷について触れましたが、本号では隣の「淀のあたり」(現:伏見区淀)について書きたいと思います。 『京都府地誌久世郡村誌』の「山城國久世郡淀 新町下津町池上町」の項には、(原文のまま) “此地本郡ノ西北ニ位シ旧時一小村ニ過キス天正以後城郭ヲ築キ従テ街市ヲ成ス (略) 東ハ同郡御牧村ト悪水溝ヲ以テ堺シ西ハ淀川中央ヲ以テ紀伊郡納所・水垂・大下津ノ三村ニ面シ南ハ綴喜郡美豆村ニ對ス (略) ” とあります。小村だった淀は後述します豊臣政権の城の築城後に栄えてきたようです。 時代は下り、町村制公布の翌年、明治22年(1889)当時は久世郡淀町でしたが、昭和10年(1935)に綴喜郡美豆村と合併、翌昭和11年(1936)に乙訓郡淀村と合併の後、昭和32年(1957)に京都市伏見区に合併編入しました。このように、現在の淀のあたりは久世、綴喜、乙訓、紀伊のいずれかの郡に属していたか隣接していたことが見て取れます。 近年の京都市埋蔵文化財研究所の発掘調査でも、古くは弥生時代から明治時代まで、各時代の遺物発見が報告されています。現在、淀のあたりは京都市伏見区の一部で、単独の町名としての「淀」は存在していませんが、「八幡市の隣」ですので取り上げない訳にはと思い、古くから歴史に残る「淀(のあたり・界隈)」を取り上げました。 なお、「よど」の表記は資料・書籍・史料等により、淀、與等、与等、與杼、与杼、予度などがありますので、本稿では一部を除き「淀」に統一させていただきます。 古くから「淀」地区は桂川、宇治川、木津川の流れが集まり、加えて大池(巨椋池)と繋がり、水に囲まれ、低湿地なども多く、いくつかの地名は水とのかかわりが感じられますが、「淀水垂町」もその一つと思われます。豊富な水の恵みを受ける一方、その被害からも逃れられない地区だったのでしょう。 昨年の春、「淀の水害鎮める秘仏初公開」と題した記事(京都新聞・’24.4.25)に誘われて、淀駅から北西へおよそ1Km、桂川に架かる宮前橋を渡って常念寺を訪れました。 記事には「水害の多い地域で守り伝えられてきた像」との同寺ご住職の言葉があり、また、元は桂川左岸の納所地区にあった寺が、豊臣秀吉による淀城整備で右岸の水垂地区に移されたことや、2022年から行われた像の修復に伴い、製作年代が14世紀と裏付けられたことなども分かります。 修復が完了して公開された「郡分(こおりわけ)十一面観音菩薩像」(高さ42cm)は小ぶりながらみごとな彩色に輝いていました。今後公開の機会がございましたら、訪ねられることも「淀のあたり」を理解する一助になるのではないでしょうか。 「納所」をどう読むのか? 広辞苑(第三版)には「なっしょ」とあり、年貢などを納める所、納めること、またそれをつかさどる役人、などとあります。淀の納所交差点傍に立つ「納所」を説明する駒札には、「皇室に納める穀類の重要な倉庫があったため」とあり、フリガナは「のうそ」とあります。 上記のように、淀の「納所(なっしょ)」は長岡京・平安京の時代より、山陰・山陽・南海・西海の諸国から、水運によって都へ運ばれる年貢がこの地(淀津)で陸揚げされ保管された場所でした。また同時に保管された物がここから街道を利用して朝廷に納められ、それらを取り仕切る役所であったのです。昔の役所の部門名であった「なっしょ」が、呼び方を「のうそ」と変えて定着した地名と思われます。最近では地名表記板にアルファベット併記が増えましたので、「納所」を「NOUSO」と読むことも解ります。郵便番号簿を開くと、かつての納所区域には「納所町」の他に納所北城堀、納所南城堀など、10の「納所○○」の地名が確認できます。 ![]() さて、淀の初見はいつ頃なのでしょうか? (お断り:この部分は原文に従い、與等および与等と書きます。) 『淀の歴史と文化』 P20、には次のように書かれてありますので参考までに転記いたします。 曰く、 “淀が初めて平安時代の文献に見えているものは、延暦23年(804)7月23日条の『日本後紀』にある「丙申。幸與等津。」とわずか四字の史料である。 (略) 淀はこの段階で港であった。 (略) 淀が港としての役割を果たしたのは、長岡京・平安京以前からと考えて良い。” と。 また、平安時代の与等津に関しては、令和6年12月5日に京都学・歴彩館にて「与等津と平安京」と題する「館長特別ミニ講座」で金田館長より、“平安時代の与等津は、桂川の東岸(左岸)及び西岸(右岸)にあった津の総称” とのお話がありました。 城の重要な機能の一つは、その地を護る防衛施設でした。城は戦いの拠点であるとともに、食料・武器・資金などの備蓄場所であり、為政者や指揮官の住居であり、政治や情報の拠点でもあったのです(ウイキペディア百科事典「城」より)。このように淀は古くから水運の要衝(津)であり、街道の要衝(宿・役所)であり、防衛基地(城)でもあったのです。古い時代の城には、今日私たちが大阪城や姫路城などに見るような、石垣や櫓(やぐら)や天守はありませんし、形態・規模・機能も千差万別で、「納所(なっしょ)」はまさに「淀の城」の始まりだったことが想像できます。 城その1: 戦国時代の城(山城国の守護所では) 淀の城の初見について、小林大祐氏の資料(資料等一覧を参照)には、“文明10年(1478)、東院年中行事に「山城守護代遊佐弾正の代 (略) 神保与三左衛門淀へ入部する」とあり、さらに 「畠山政長が応仁の乱にあわせて守護所を勝竜寺城から淀に移したのではないかと考えられている」” と書かれています。 以降、明応2年(1493)に細川氏の支配となり、永禄6年(1563)に三好氏の支配、永禄11年(1568)、織田信長の上洛に伴い落城、天正10年(1582)、本能寺の変の後に明智光秀が修理、等々の歴史を有しています。 城その2: 豊臣政権の淀城(側室淀殿の城) 豊臣秀吉の時代になると、天正12年(1584)頃より秀吉は淀城を頻繁に利用しており、天正17年(1589)に側室淀殿のために、豊臣秀長に命じて築城を命じました。城は現在の納所の妙教寺(寺へは入れませんでしたが、境内には淀古城跡の碑も・・・)周辺で、納所小学校の北側あたり、といわれますが詳細な位置は不明のようです。城は、先に “側室淀殿のため” と書きましたが、決して淀殿とその長子鶴松の為のみに築かれたものでは無く、豊臣政権の城として築かれました。大坂城と聚楽第を結んだ戦略上の要点として重視された城も、伏見城の造営に伴い役目を終え、数年後の文禄3年(1594)には破却されました。 城その3: 徳川幕府の淀城(西の防御拠点) 徳川幕府が開かれて後、二代将軍秀忠は元和5年(1619)の伏見城廃城に伴い、松平定綱に水陸の要衝である淀の地に築城を命じました。新しい城は秀吉の淀古城の推定地から南に600mくらい離れた地に、淀藩立藩の年、元和9年(1623)に着工、寛永2年(1625)に京都守護の城として竣工しました。複数の譜代大名が城主を勤め、およそ百年後の享保8年(1723)に下総佐倉から稲葉丹後守正知が城主を勤めてからは、稲葉家の居城として明治維新まで存続しました。京都守護の城として、また西国諸国の反乱の可能性に備えて幕府を護る西の防御拠点として重要な役割を与えられた城だったのです。 城跡は昭和43年(1968)に「淀城跡公園」として開園して市民に親しまれており、昨秋放映のNHKのTV番組「ブラタモリ」で石清水八幡宮と共に取り上げられましたので記憶に新しい方もおられるのではないでしょうか。 ![]() 写真2: 淀城跡公園の濠と石垣と京阪電車(右奥) 江戸時代、日本と世界との交流は、殆ど閉じられた状態ではありましたが、琉球(現在の沖縄県)、長崎(出島と対馬)、蝦夷(現在の北海道)などでの限定的な交流窓口はあったようです。それら窓口での交流とは少し異なると思いますが、唯一の対朝鮮王国(李氏朝鮮)との交流の痕跡が淀には残されています。本項表題の「朝鮮通信使(正式名称を朝鮮聘礼使(ちょうせんへいれいし)と言う」とは、江戸時代に朝鮮王国から日本に派遣された外交使節であり、初回の慶長12年(1607)(徳川秀忠の時代)から、文化8年(1811)(徳川家斉の時代)までの約200年間に合計12回を数えます。なお、「朝鮮通信使」の名称が使われたのは第4回目からであり、初回から第3回目までは「回答兼刷還使(かいとうけんさつかんし)」の名称で呼ばれています。 時代は少し戻りますが、全国統一を見た秀吉はその2年後、明征服を目指して朝鮮に軍を派遣しました。文禄元年(1592)に始まった「文禄の役」です。翌文禄2年(1593)には一度和解しますが、慶長2年(1597)に再度朝鮮へ出兵しました。 「慶長の役」です。しかし朝鮮は明と協力して抵抗を続け、日本側は次第に撤退、「文禄・慶長の役」による二度の戦いは慶長3年(1598)、秀吉の死によって終わりを迎えました。 朝鮮通信使の名称を「回答兼刷還使」と書きましたが、派遣の当初の主目的は、まさに「文禄・慶長の役」の「戦後処理と敵情探索」であったのです。 豊臣政権を引き継いだ徳川政権とは? 朝鮮王国側は、新政権の状況把握、戦後処理の窓口、捕虜の返還や、講和への条件確認や対応などが必要だったのです。一方、徳川幕府の都度の対応は前向きであり、2回目、3回目へと進展しました。結果、4回目以降は名称も「朝鮮通信使」が使われるようになりました。ちなみに「朝鮮通信使」とは、室町時代から江戸時代にかけて朝鮮王朝から日本へ派遣された外交使節団の名称なのです。 ![]() 写真3: 納所に建つ「唐人雁木旧跡」の碑 ところで、なぜ「淀」が関係するのかですが、使節団一行の船は、朝鮮(釜山)を出て、対馬を経由、瀬戸内海を東進し、大坂(大坂港の川口、中津川と尻無川)へ着きます(『朝鮮通信使と同時代の知識人』 小田弘史著 P163)。ここから陸路を進んだと思われるでしょうが、船はそのまま淀川を上ります。飯沼雅行氏(資料等一覧を参照)はその理由を、“豪華な御座船での旅行が一行への「馳走」でもあったこと、加えて、淀川を通行する様子を民衆に見せる幕府の思惑もあった” と書かれています。 納所交差点近くに建てられた碑には「唐人雁木旧跡」と刻まれています。「雁木(がんぎ)」とは階段状の船着き場ですので、使節団一行はここ「淀津」にて御座船を降りて陸路を取り、京都そして江戸へと向かいました。また碑に刻まれた「唐人」は明国の人では無く朝鮮の通信使と思われます。なお一行の対馬から江戸までの各寄港地や宿での様子などは本稿では割愛させていただきます。 少し硬い話が続きましたので、ここで少し「淀」で楽しんでいただきたいと思います。ここ淀のあたりに競馬場があることは多くの人がご存知と思いますが、正式名称は「京都競馬場」です。東京競馬場が「府中」と呼ばれるように、京都競馬場はファンには親しみを込めて「淀」の競馬場と呼ばれています。なお京阪電車の淀駅に隣接してはいますが、正確な所在地名は「伏見区葭島渡場島(よしじま わたしばじま)町」です。 京都市考古資料館の「リーフレット京都No. 412」には、京都の競馬場の歴史が概略次のようにありました。 曰く “明治40年(1907)に京都市下京区島原に「島原競馬場」が建設されました。大正元年(1912)、施設の焼失などによって、翌大正2年、船井郡須知町(現京丹波町蒲生)へ移転。その後、大正14年(1925)に現在の場所(当時の紀伊郡向島村大字葭島新田)に移転いたしました。” と。 約4年余り前、2020年10月10日の京都新聞に「京都競馬場は2020年11月1日をもって、2023年3月まで競馬開催を休止します。」と16・17面の見開き公告が載りました。幸か不幸か、この休止期間は殆どがコロナウイルス感染拡大防止期間と重なりましたので、この間に観覧席やパドックなどが一新され、予定通り2023年の春から再開されました。 ![]() 写真4: 第4コーナーから望む「淀の坂」 最後に常念寺で、淀古城近くで、また京都競馬場に関してご教示頂きました皆様に紙面を借りて御礼申し上げ、まだ書くことはございますがここまでとさせていただきます。 (令和6年12月19日) 一一 参考書籍及び資料等: 「鍵屋のにぎわいを今につたえて」 鍵屋資料館開館二〇周年記念誌編集委員会編(飯沼雅行氏、他) 名著出版刊 「第337回 京都市考古資料館文化財講座(’23・7・22)」の配布資料 『淀の歴史と文化』 西川幸治編 淀観光協会刊 「近世の淀城下町の成立と展開(宇治市民大学’21.3.27)」小林大祐氏の資料 「淀城の歴史と構造(アスニーセミナー’22.7.22)」中井均氏の資料 『朝鮮通信使』 仲尾宏著 岩波新書刊 『京都の渡来文化と朝鮮通信使』 仲尾宏著 阿吽社刊 「京都新聞記事」’20.10.10刊、’24.4.25刊 #
by y-rekitan
| 2025-01-27 21:00
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