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◆会報第69号より-08 茶くれん寺

京の街角にある「湯たく山茶くれん寺」

野間口 秀國 (会員)


 京阪電車の橋本駅の大阪方面改札口前に「湯澤山茶久蓮寺跡」と刻まれた三宅碑があることは既に多くの人たちに良く知られています。同じく道を挟んだ向かい側に西遊寺があり、これまたこの駅で日頃乗り降りする地元の人たちにはお馴染みの寺であり、八幡市の歴史に関心のある人たちには良く知られた寺であると思います。
 改札口を出て寺への石段を数段登り門をくぐると、けっして広いとは言えませんがきれいに手入れされた庭が目に入ります。そこには八幡市郷土史会による寺の起源が書かれた案内板が建てられてあり、案内の最後の部分に「湯澤山茶久蓮寺」についても書かれてありますのでその部分を以下に書いてみたいと思います。曰く“・・・ 秀吉公が天王山で明智光秀と戦った山崎合戦の折この地に立寄りお茶を所望したところ湯ばかり沢山出したので湯澤山茶久蓮寺といったと伝えられている。”と。
 
 ところで、先述の三宅碑に刻まれ、f0300125_22264577.jpg秀吉公に「湯澤山茶久蓮寺跡」と言われた寺は西遊寺では無くて常徳寺であることも知られていることです。他にも、“・・・豊臣秀吉の帰依を受け、ある日寺を訪れた秀吉が茶を所望したのに白湯(さゆ)を進上したので「湯沢山茶くれん寺」と言われたという伝説が残っている。”と書かれたものもあります。常徳寺は曹洞宗の禅寺であり、浄土宗のお寺である西遊寺の西隣にあったことも分かります。(*1)また、常徳寺の跡を印す三宅碑が現在では西遊寺の北東隣りに建てられていることが確認できます。

 ところで、表題に書きました京の街角にある「湯たく山茶くれん寺」について書きたいと思います。既に寺の存在を知っておられる皆様には特に新しいことでは無いと思いますが、私に取りましてはまさに今はやりの「びっくりポン」でした。この寺の近くに住む私の知人がこの秋に石清水八幡宮を訪れ、その際に橋本駅近くに「湯澤山茶久蓮寺跡」碑があることを知り、彼の住む所の近くにも同名の寺が今でもあることを教えてくれたのです。これは実際に足を運んで確認してみようと思い立ち、少し寒かったのも意に介さずに出向きました。京阪電車の出町柳駅からバスに乗って西に向かい、千本今出川で降ります。千本今出川の交差点の西北角にお茶屋さんがあり、そこを起点に今出川通りを西にわずかに歩を進めると二つ目の寺がそれです。バスを降りて注意して見ると、古くからの南北の大通りである千本通りには歩道に「史跡めぐり」と記したおしゃれな表示板を吊るした柱があり、そこにも「茶くれん寺 すぐ」と記されています。
 寺の名は浄土院(湯たく山茶くれん寺)で浄土宗の尼寺です。寺でいただいた案内の栞の表には「豊公ゆかりの史跡 浄土院 湯たく山茶くれん寺」とあり、その謂(いわ)れが裏面に書かれてありますので、そのまま以下に書いてみたいと思います。

秀吉公と湯たく山茶くれん寺

 天正十五年(1587)十月一日、秀吉公が九州征伐の勝利と聚楽第の完成を記念して北野天満宮内の松原で「北野大茶湯」を催されました。その折、秀吉公が北野に向かわれる途中、当院に立ち寄られ、お茶を所望されました。
 住職は一杯目のお茶をお出しした後、秀吉公が、二杯目を所望されたため、世に知られた茶人でもあるお方に、自分の未熟なお茶をお出し続けるのは失礼でもあり、恥ずかしいことであると考え、それならばお寺に湧き出る香ばしい銀水をそのまま味わっていただこうとの想いより、沸かしただけの白湯を出し続けたといいます。
 一方、秀吉公はお茶のお変わりを頼んでいるのに出てくるのは白湯ばかりと、初めのうちは驚かれましたが、そのうちに住職の思いを悟られてお笑いになりながら「この寺では、お茶を頼んでいるのに白湯ばかり出して、お茶をくれん。湯たくさん茶くれん。」と言われました。
このエピソード以降、「湯たく山茶くれん寺」と呼ばれるようになったと伝えられています。(*2)

既にお気づきと思いますが、この浄土院では「九州征伐の勝利と聚楽第の完成を記念した茶会」の際であり、常徳寺では「山崎合戦の折この地に・・」とあり、西遊寺では「ある日寺を訪れた秀吉が・・」とありました。いずれの史実が確かであるか、また実際にあったのかなどを知ることはできませんが、山崎合戦(*3)が天正十年(1582)のことですから、それぞれの寺で秀吉が茶を所望したことがあっても不思議ではありません。歴史に登場する偉い人には複数の場所でいろいろな伝説が語り継がれることを知る一例であると思いました。f0300125_223759100.jpg
 浄土院ではご説明いただいた方に「秀吉公にお出しした銀水を汲み上げた時に使用されていたと伝える井戸は、傷んでいるために覆われてあり今では使用されておりません」とのことや、「同名の寺は姫路にもあるそうですね」(*4)などと教えていただきました。ちなみに、浄土院の門の右側、木の枠で囲まれた石柱に「湯たく山茶くれん寺」と刻まれていることを確認できました。機会を見つけて姫路のお寺にも足を運んでみたいと思っています。親切にご説明いただきました浄土院の方に、また情報を提供してくれた知人にもありがたく感謝申し上げます。

参考資料;
(*1)2014年3月15日(土)歴探の歴史探訪ウオーク 橋本の歴史(1)「京街道を歩く」の配布資料・歴史探訪の見所①②
(*2)浄土院 湯たくさ山くれん寺の案内栞
(*3)『日本史年表・地図』児玉幸多編 吉川弘文館刊 
(*4)Wikipedia 法輪寺(姫路市)、他のブログ

by y-rekitan | 2015-12-28 05:00 | Comments(0)

◆会報第66号より-01 円福寺

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わが心の風景・・・(39)
円福寺
所在地 八幡福禄谷


f0300125_8393070.jpg 円福寺は、明智光秀と羽柴秀吉の山崎合戦で、筒井順慶が「日和見」をしたと伝えられる洞ヶ峠に近い八幡福禄谷にあります。
 山門、本堂、禅堂、有栖川宮家旧御殿などが甍を連ねる約三万坪の境内には、豊かな自然が残こり、静寂の世界が広がっています。
  寺は1783年(天明3年)、妙心寺の斯経和尚が八幡宮別当田中家から円福寺の寺号と達磨大師坐像を譲り受け、さらに同年、南山焼の祖、浅井周斎から幣原谷の土地の寄進を受けて、臨済宗最初の専門道場として建立されました。
 日本最古といわれる達磨像(鎌倉時代・重要文化財)は、法衣をまとい、両手を腹の上に重ねて唇を固く結び、目は大きく見開いており、何事にも惑わされることのない虚心坦懐の境地と気迫が漂っています。
 毎年4月20日と10月20日の年2回、「万人講」でこの達磨を拝し、赤膳で提供される精進料理を食べることで、開運、厄除け、中風除けになるといわれ、多くの信者が訪れます。 
  (絵と文: 小山嘉巳)
                                    


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by y-rekitan | 2015-09-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第64号より-01 講田寺

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わが心の風景・・・(37)
講田寺
所在地 橋本平野山


 f0300125_11541156.png橋本小学校から西へ百メートルほど行くと、橋本平野山という所に講田寺があります。
 古くは生津村(現伏見区)にありましたが、水害を避け、ここに移ったと言われています。
 本尊観世音菩薩を安置する曹洞宗の禅寺で、開山は明らかではありません。
 境内に地蔵堂があり、その中に安置されている「笑地蔵」には、次のような悲劇が伝えられています。
 その昔、淀川に架けられた橋が出水の度に流れるので、ついに人柱が立てられることになりました。人柱を誰にしようかと迷っている時、ある男が進言。その内容が男自らを選ぶことになってしまうのです。男の娘は深く嘆き、ものを言わない人になりました。
 やがて娘は尼となり、対岸の山崎に庵を結ぶのですが、歳月を重ねたある時、朽ちた橋の杭が水底から姿を現しました。娘はそれに地蔵尊を彫って供養。人々はこの地蔵を「笑地蔵」と呼び、水難除け、交通安全、安産などの御利益があるとして信仰を集めるところになりました。  (絵と文: 小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2015-07-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第58号より-01 水月庵

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わが心の風景・・・(31)
水 月 庵
所在地 八幡福禄谷


 f0300125_1651538.jpg水月庵は、八幡福禄谷、通称幣原(しでわら)という、弥生時代後期の遺跡が残る地域にあります。
門前を流れる谷川には、小さな石橋が架かっていて、その右側には庵の由緒が書かれた碑が見えます。
 それによると、元は阿弥陀堂と称し、天明初年(1781年)のころ、越前(現・福井県)から霊宗尼が二人の弟子とともにこの地にやって来て、近くにある円福寺の住職、海門禅師について修行。やがて、尼僧の禅道場を開き、これが全国に流布したことで、全盛時には50~60人もの雲水が集まったとあります。その後、尼僧の修行道場は京都・一乗寺の円光寺へと移され、水月庵はその役割に終止符を打ちました。
 水月庵には、将軍家茂に降嫁した皇女和宮の深い悩みを慮った側女の一人が、彼女の死後、この庵で出家してその菩提を弔ったというエピソードが残っています。側女が和宮から賜ったという愛用の打掛けが寺宝として今も大切に保管されています。        (絵と文小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2015-01-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第57号より-02 八幡古寺巡礼2

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《歴探ウォーク》
八幡の古寺巡礼
― 第2回 男山山麓の寺を巡る ―  

2014年12月 八幡市内 にて
高田 昌史 (会員)
 

 石清水八幡宮(八幡大神)が鎮座する男山の山麓には、多くの寺院があります。
今年の「第2回八幡の古寺巡礼」は、それらの寺を訪問すること(男山山麓の寺を巡る)を計画しました。当初はよく知られている泰勝寺と善法律寺の2寺院を訪問する予定でしたが、現在は無住ですが、鎌倉時代に開山された由緒ある法園寺(ほうおんじ)を追加し、3寺院を巡る計画とし、コース図を作り参加募集のチラシを作成しました。f0300125_18222845.jpg
 また、当日のガイドブックとして「しおり」を作成することとし、各寺院を訪問して、しおりに入れる写真を撮影したりご住職さんにお話を伺ったりしました。
 情報量の少ない法園寺については、善法律寺のご住職や地元の方から話をお聞きしました。また、昭和13年刊行の『八幡史跡』(京滋探遊會)に詳しく載っていることがわかり大変参考になりました。
 なお、以前の法園寺の境内は、道路際の観音堂と奥の収蔵庫のみで、草木が生い茂り荒れ放題の感じがしていましたが、最近は境内の整備が進んでおり大変気になっていました。
今回の事前調査でこのお寺は、奈良の律宗本山唐招提寺の末寺であり現在の住職は、京都壬生寺の「松浦俊海」貫主が兼務されている事を知りました。見学の約2週間前には収蔵庫に松浦住職が書かれた「釈迦如来」の額が掲げられました。

f0300125_1827438.jpg 「しおり」は前回と同様にウォーキング中でも立ち止って気軽に見ることができるA5サイズの携帯版とし、各寺院の説明は見開き2ページとさせていただきました。
 古寺巡礼の当日は八幡市駅前で受付をしてから、さざなみ公園の安居橋前に集合して例会幹事の紹介や歩行時の注意事項をお話した後に、受付で配布の「しおり」によりコースの概要説明をしてから、最初の訪問寺の泰勝寺に向かいました。参加者28名。途中から29名。
 見学の概要については、参加者である岡本さんの感想記にゆずります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
古寺巡礼 参加記
岡本 智子 (会員)

 
 京阪八幡市駅に午後1時に集合。まずは、八幡市平谷の松花堂泰勝寺へ。泰勝寺は、松花堂昭乗のお墓が男山山麓にひっそりと風雨にさらされて荒れているのを憂い、財界人の益田孝(ますだたかし)氏が墓地修築の賛同者を求めて奔走し、当時、円福寺の住職であった神月撤宗(こうづきてっしゅう)老師(後、妙心寺の管長)の発願で松花堂保存会を結成し建立されたとのことである。         
 松花堂昭乗は桃山時代に生まれ、石清水八幡宮の社僧として、瀧本坊(たきもとぼう)の住職を継いだ。和歌・書・画・茶道・作庭などの才に長じ、書では近衛信尹(このえのぶただ)・本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)とともに「寛永の三筆」として名高い。昭乗が自ら作った瀧本坊の茶席が庭内に復元されていた。f0300125_1859162.jpg
 住職さんが皆にお茶を煎れて下さり茶菓子をいただいた。そのお菓子は、茶席「閑雲軒(かんうんけん)」にちなんで「閑雲」と記されたお菓子であった。また、松花堂弁当とは、昭乗愛用の八寸四分のタバコ盆、または絵具箱を点心の器として使用され、当寺でも精進料理で使うとのことである。
 泰勝寺のお庭を住職さんが案内して下さった。南天(難転)招福の庭は、時の権力から逃れた昭乗が男山に入山し、難を転じて文化面で大成し悠々自適の生涯を送ったことにあやかり本堂の正面と南面には各種の南天が配されていた。石庭は、三途の川を渡って浄土へ船出する図が美しく、住職さんはお庭の説明をしながら、「そろそろ近い年令の方々で」と言ったので皆は笑ってしまった。f0300125_194648.jpg
 松花堂昭乗ゆかりの寺と知ってはいたが、外から見るだけだったこの寺の中に入らせてもらい、お庭を拝見し、昭乗のお墓に手を合わせ、住職さんのお話を伺いながら、お茶とお菓子もいただき、写経もさせていただき、よい経験をしたと清々しい気持ちになった。

 泰勝寺から歩いて数分。善法律寺へ着いた。
 善法律寺は、通称「もみじ寺」といわれている。f0300125_1994229.jpgこの寺は足利氏とゆかりがあり、特に石清水八幡宮の検校であった善法寺通清の娘、良子が足利義詮(あしかがよしあきら)に嫁ぎ三代将軍足利義満を産んだため義満は八幡宮を崇敬し、二十数回も八幡を訪れているという。義教(よしのり)・義政(よしまさ)もよく往来し、寺は将軍家の庇護を得て隆盛を極めた。良子は寺に多くの紅葉を寄進したとのことから別名「紅葉寺」と呼ばれたという。今年は雨がよく降り、紅葉はきれいにならないまま、すでに散ってしまったと住職さんはなげいておられました。
 f0300125_19152652.jpg本尊は八幡大菩薩。平安時代末の作。もとは、石清水八幡宮の本尊であったが、明治の神仏分離の際、この寺に安置された。八幡市指定の文化財である。その神々しさに感動した。ご本尊の八幡大菩薩のほかには、愛染明王像(あいぜんみょうおうぞう)、不動明王像があり、結髪、冠、胸飾りなど通常の阿弥陀如来とは異なる宝冠阿弥陀如来像、十一面千手観音像、地蔵菩薩像などが安置されている。

 続いて法園寺へ。
 以前、この前を通ると、木々が生い茂り荒れていたが、現在整備が進んでいる。現在は無住だが、鎌倉時代に建立された由緒ある寺院だそうだ。f0300125_19171619.jpg八幡宮の28代別当、田中勝清(田中家初代)が坊舎をつくり多年居住して園殿と号したことに始まる。八幡の法園寺が歴史上再び脚光を浴びるのは、南北朝時代の頃である。正平(しょうへい)7年(1352)、後村上天皇を擁する南朝軍が八幡に立て籠もって幕府軍と対峙する。その時、法園寺周辺が戦場になり、南朝軍の北畠顕能(きたばたけあきよし)がこの地に陣を取り戦ったと『太平記』に記されている。
 昭和9年、室戸台風で堂宇が倒壊して、堂の下敷きとなった本尊、釈迦如来像(しゃかにょらいぞう)の胎内より多くの経文が発見され仏像とともに国の重要文化財に指定されている。経文などは京都国立博物館に寄託されているが、釈迦如来像は法園寺境内の収蔵庫に安置されている。拝観できる日を楽しみにしたい。

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by y-rekitan | 2014-12-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第54号より-01 八角堂

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わが心の風景・・・(27)
八 角 堂
所在地 八幡大芝

f0300125_2051514.jpg 八角堂は松花堂庭園の西側、西軍塚古墳の円頂部にあります。元は男山西谷にありましたが、八幡宮境内から仏教関係の堂舎・仏像などが撤去された際、正法寺住職が堂宇・尊像とともに迎請し、ここに移されました。
 堂舎は順徳天皇の御願により、八幡宮検校善法寺祐清が建保年間(1213~1219)に建立、後に大破しましたが、慶長12年(1607)8月、豊臣秀頼の御願によって尾張国小出大和守吉政が再建したと堂上の桐紋を付した露盤に彫刻されています。また、京仏師康温が阿弥陀仏を修造して入仏したと棟木に見えます。以降、ほとんど手を加えなかったため破損転倒し、表六間、奥行二間の仮の板屋根で風雨を凌いだという記録があります。
 元禄11年(1698)7月、善法寺央清が勧進を募り、堂宇を再興。その奉加者名が堂内の垂木や瓦の裏に記されています。
 堂内にあった丈六阿弥陀仏(重要文化財)は鎌倉時代初期の作で、「一光千仏」と呼ばれ、今は正法寺法雲殿に安置されています。   (絵と文: 小山嘉巳)



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by y-rekitan | 2014-09-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第52号より-01 正法寺

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わが心の風景・・・(25)
正法寺
所在地 八幡清水井

f0300125_8373068.jpg 東高野街道沿いの八幡清水井の地にある正法寺(しょうぼうじ)は、建久2年(1191)に、清水(静岡県清水市)の高田蔵人忠国が源頼朝の幣礼使(へいれいし)としてこの地に居住、新清水と称したことに始まります。三代目宗久は、石清水の「清」を避けて「志水」と改め、嘉暦元年(1326)、本格的な堂舎、仏閣を営みました。第十一代伝誉上人の時、後奈良天皇から勅願寺に補せられ、「徳迎山(とっこうざん)正法寺」の勅額を賜りました。
 また、慶長年中(1595~1610)には、宗清の娘亀女(相応院)が徳川家康の側室となり、のちに尾張藩主となる義直(よしなお)を産み、また、宗清も八幡宮の神職を辞して尾張藩に仕えました。江戸時代を通して八幡領が検地を免除され、守護不入の特権を得られたのは、亀女の働きが大きかったようです。
 寛永7年(1630)に再建された七堂伽藍のなかで、本堂・大方丈・唐門が重要文化財に指定されています。特に本堂垂木の先の金色の飾りは「逆輪(さかわ)」といわれ、全国の寺院のなかで唯一となっています。     (絵と文:小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2014-07-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第51号より-01 善法律寺

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わが心の風景・・・(24)
善法律寺
所在地 八幡馬場


f0300125_10485.jpg 八幡馬場の善法律寺は律宗の寺で、石清水八幡宮検校であった善法寺宮清が正嘉年間に私邸を喜揺して創建し、奈良東大寺から実相主人を招き閉山したことに始まります。
 寺は、弘{女年間に石清水八幡宮の社殿を移した本堂を中心に、庫裡、阿部陀堂、聖天堂が配されています。本堂の柱、が中途で特殊な方法で接いであるのは、耐震の工夫と考えられています。当初の丹朱塗は剥落していますが、純然たる鎌怠穣式を舎に伝えています。
 室町時代、善法寺通清の娘良子が足利義詮に嫁ぎ、三代将軍となる義満を生みました。義満は八幡宮を崇破。二十数回ち八幡を訪れています。以後、義教、義政もよく往来し、寺は将軍家の庇護を得て隆盛を極めました。
 本尊の八幡菩薩は、明治元年まで石清水八幡宮の祭神だったもので、等身彩色の座像は、在手に宝珠、右手に錫校を持ち、脇仏は不動・愛染の二明王で、ともに鎌倉時代の作です。良子は寺に多くの紅葉を寄進したことから、別名「紅葉寺」と呼ばれ、たくさんの人々が訪れます。 (絵と文: 小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2014-06-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第49号より-01 本妙寺

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わが心の風景・・・(22)
本妙寺
所在地 八幡城ノ内

 f0300125_1159256.jpg大谷川に架かる飼屋橋から南へ少し行くと男山の麓を背にした本妙寺本堂が見えてきます。寺は法華宗眞門派に属する日蓮宗真門派本隆寺末寺で、山号は久遠山といいます。
 本妙寺は、普伝日門に帰依する竹内伊予守経孝によって永禄7年(1564)頃に創立されました。本堂前にある碑は、桃山時代前期、本山第二世の日門上人の殉教碑です。
 天正7年(1579)5月、安土でおこなわれた日蓮宗と浄土宗の論争「安土宗論」の際、日蓮宗の勢力拡大を喜ばなかった織田信長は、浄土宗側に荷担し、日蓮宗敗退の裁決を下しました。この時、犠牲として刑場の露となったのが本妙寺の日門上人でした。
 また、竹内伊予守経孝が織田信長に見いだされ、信長に仕えた後、再び男山に戻り、滝本坊の住職となって同坊で修行中の松花堂昭乗を養育しました。
 当寺に伝わる「雲版」は南北朝時代後期に青銅で作られた京都府内最古のもので、京都府指定文化財となっています。  (絵と文:小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2014-04-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第49号より-07 水月庵円福寺

水月庵 藪を抜ければ円福寺
―「自転車で巡る名所案内」下見見聞記―

八幡の歴史を探究する会  土井 三郎


 八幡の歴史カルタに、「探訪マップ」が付録としてついている。それを目当てに八幡の各所を自転車で巡ったある会員が、一人で訪れても何のことかよくわからないとこぼした。やはり「先達(せんだつ)が必要という事なのだろう。
 私たちに先達が務まるというものでもないが、少なくともカルタに取り上げられる名所案内であれば何とかできるのではないか。そんな思いで「自転車で巡る八幡の名所案内」という企画を立案した。市の観光協会からも後援を頂いて実施することになった。これまで八幡の名所案内と言えば男山東麓ないしは旧八幡町に偏っていたきらいがある。自転車を借りれば遠出も可能ではないか!
 そこで、大体のコースを策定し、4月1日に下見を実施した。
この日、京阪八幡市駅前は花見客でごった返していた。担当者である高田さん、村山さん、谷村さんと私の4名は、観光協会前を出発し、科手・橋本方面をめざした。
 椿で有名な常昌院、長宗我部盛親が潜んだとされる屋敷跡、二宮忠八が飛行機(器)製作に励んだ場所、橋本の旧街道と遊郭跡、そして先日の橋本歴史探訪で訪れた西遊寺。橋本のバスターミナル。それ等の「名所」を詠んだカルタの句は以下の通り。
    めじろ呼ぶ常昌院の紅椿
    橋本の街道沿いに渡し跡
    湯沢山で寺号茶久蓮寺
    鳥羽伏見橋本の街焼き戦い終わる

 久修園院の墓地に在る淀屋関連の墓標を確かめ、安居神事と関わりのある「鹽竃」の石碑脇を抜けて猿田彦神社へ。ここでは神社の来歴について考えたい。猿田彦が八幡神を先導したとの伝承があるが果たしてどうか。道祖神との関わりはどうなのか。そもそも猿田彦社は、村の鎮守なのではないのか?
 微笑み地蔵で知られる講田寺も謎が多い。そして、和気神社へ。足を切られた清麻呂の足がつながり立ったとされる伝承と史実についても考えたい。ここには豊蔵坊信海の墓がある。
 「ママチャリ」ではいささか登りがきつい坂道を登れば茶臼山古墳跡の碑が建つ男山三中の一角に出る。ここから出土した石棺は、高槻の今城塚古墳の石棺と材質が同じであるという。京大博物館に保存されているのを見学したことを思い出す。
 坂道を下ればさくら公園。花見客で溢れていたが、ほとんど顧みられることのない蕪村の句について考えたい。
 そして水月庵にたどり着いた。恥ずかしい話であるが、水月庵に来たのは初めてである。
    水月庵藪を抜ければ円福寺
 このカルタも、制作した側の立場なのに、何のことかよく分らなかったのである。だが百聞は一見に如かず。水月庵は鬱蒼とした竹藪に囲まれているのである。水子地蔵が祀られているということでも知られている。そのお地蔵さんに手を合わせて帰ろうとすると声をかけられた。見ると庵主様である。水月庵は尼寺である。
 親切な庵主様は、境内の隅にあるコンクリート製の建物の屋上に上がれば眺望がよいとおっしゃる。なるほど、男山の団地から枚方の街並みが一望できる。近くの古い民家は、旧幣原の村落に属していたとのこと。
 「折角のお見えだから円福寺まで案内しますよ」と声をかけられ喜んだことは言うまでもない。
 f0300125_1545113.jpg竹藪の中は、ひんやりとしてどこか異次元の世界に踏み込んだ印象を受ける。途中、浅井家の墓がある。浅井家といえば浅井周斎が知られる。周斎は円福寺に土地を寄贈した有徳人で、南山焼の創始者でも有名である。
 やがて円福寺にたどり着く。円福寺は、「万人講」で知られ、5年前に参加したことがある。お斎(おとき 精進料理)を頂き、普段は非公開の達磨像を拝んだ後、青い目の修行僧の案内で御殿に導かれ、妙心寺から来られた高僧の講話を聴いたことを憶えている。
 その円福寺の前を横切ろうとすると庵主さんの姿を認めたご住職が寺を案内させますよと声をかけて下さった。
 この上もない僥倖である。若く屈強そうな修行僧に案内され、本堂に安置される本尊「十六善神」や「釈迦十大弟子像」などを拝観。釈迦如来像の何と慈悲深いお貌であろうか。そして彫の深い弟子達の解脱を希求する姿に暫し圧倒されたものである。
 続いて檜木の香り漂う禅堂に案内される。堂内を支配するのは静寂と清澄感であった。しばらく座禅したい気にさせられる。但し、雑念ないしあらぬ妄想に襲われ一喝されること疑いない。
 円福寺を後にした私たちは国道一号線の洞ヶ峠まで出てそこから吉井のバス停を経て松花堂庭園に帰って来た。得ることの多い半日であった。
 自転車で巡る名所案内は、5月から隔月に、第一日曜日に実施される予定である。詳しくはチラシでご確認していただきたい。人数が制限されるので参加希望はお早めに!
by y-rekitan | 2014-04-28 06:00 | Comments(0)