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◆会報第64号より-01 講田寺

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わが心の風景・・・(37)
講田寺
所在地 橋本平野山


 f0300125_11541156.png橋本小学校から西へ百メートルほど行くと、橋本平野山という所に講田寺があります。
 古くは生津村(現伏見区)にありましたが、水害を避け、ここに移ったと言われています。
 本尊観世音菩薩を安置する曹洞宗の禅寺で、開山は明らかではありません。
 境内に地蔵堂があり、その中に安置されている「笑地蔵」には、次のような悲劇が伝えられています。
 その昔、淀川に架けられた橋が出水の度に流れるので、ついに人柱が立てられることになりました。人柱を誰にしようかと迷っている時、ある男が進言。その内容が男自らを選ぶことになってしまうのです。男の娘は深く嘆き、ものを言わない人になりました。
 やがて娘は尼となり、対岸の山崎に庵を結ぶのですが、歳月を重ねたある時、朽ちた橋の杭が水底から姿を現しました。娘はそれに地蔵尊を彫って供養。人々はこの地蔵を「笑地蔵」と呼び、水難除け、交通安全、安産などの御利益があるとして信仰を集めるところになりました。  (絵と文: 小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2015-07-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第58号より-01 水月庵

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わが心の風景・・・(31)
水 月 庵
所在地 八幡福禄谷


 f0300125_1651538.jpg水月庵は、八幡福禄谷、通称幣原(しでわら)という、弥生時代後期の遺跡が残る地域にあります。
門前を流れる谷川には、小さな石橋が架かっていて、その右側には庵の由緒が書かれた碑が見えます。
 それによると、元は阿弥陀堂と称し、天明初年(1781年)のころ、越前(現・福井県)から霊宗尼が二人の弟子とともにこの地にやって来て、近くにある円福寺の住職、海門禅師について修行。やがて、尼僧の禅道場を開き、これが全国に流布したことで、全盛時には50~60人もの雲水が集まったとあります。その後、尼僧の修行道場は京都・一乗寺の円光寺へと移され、水月庵はその役割に終止符を打ちました。
 水月庵には、将軍家茂に降嫁した皇女和宮の深い悩みを慮った側女の一人が、彼女の死後、この庵で出家してその菩提を弔ったというエピソードが残っています。側女が和宮から賜ったという愛用の打掛けが寺宝として今も大切に保管されています。        (絵と文小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2015-01-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第57号より-02 八幡古寺巡礼2

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《歴探ウォーク》
八幡の古寺巡礼
― 第2回 男山山麓の寺を巡る ―  

2014年12月 八幡市内 にて
高田 昌史 (会員)
 

 石清水八幡宮(八幡大神)が鎮座する男山の山麓には、多くの寺院があります。
今年の「第2回八幡の古寺巡礼」は、それらの寺を訪問すること(男山山麓の寺を巡る)を計画しました。当初はよく知られている泰勝寺と善法律寺の2寺院を訪問する予定でしたが、現在は無住ですが、鎌倉時代に開山された由緒ある法園寺(ほうおんじ)を追加し、3寺院を巡る計画とし、コース図を作り参加募集のチラシを作成しました。f0300125_18222845.jpg
 また、当日のガイドブックとして「しおり」を作成することとし、各寺院を訪問して、しおりに入れる写真を撮影したりご住職さんにお話を伺ったりしました。
 情報量の少ない法園寺については、善法律寺のご住職や地元の方から話をお聞きしました。また、昭和13年刊行の『八幡史跡』(京滋探遊會)に詳しく載っていることがわかり大変参考になりました。
 なお、以前の法園寺の境内は、道路際の観音堂と奥の収蔵庫のみで、草木が生い茂り荒れ放題の感じがしていましたが、最近は境内の整備が進んでおり大変気になっていました。
今回の事前調査でこのお寺は、奈良の律宗本山唐招提寺の末寺であり現在の住職は、京都壬生寺の「松浦俊海」貫主が兼務されている事を知りました。見学の約2週間前には収蔵庫に松浦住職が書かれた「釈迦如来」の額が掲げられました。

f0300125_1827438.jpg 「しおり」は前回と同様にウォーキング中でも立ち止って気軽に見ることができるA5サイズの携帯版とし、各寺院の説明は見開き2ページとさせていただきました。
 古寺巡礼の当日は八幡市駅前で受付をしてから、さざなみ公園の安居橋前に集合して例会幹事の紹介や歩行時の注意事項をお話した後に、受付で配布の「しおり」によりコースの概要説明をしてから、最初の訪問寺の泰勝寺に向かいました。参加者28名。途中から29名。
 見学の概要については、参加者である岡本さんの感想記にゆずります。

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古寺巡礼 参加記
岡本 智子 (会員)

 
 京阪八幡市駅に午後1時に集合。まずは、八幡市平谷の松花堂泰勝寺へ。泰勝寺は、松花堂昭乗のお墓が男山山麓にひっそりと風雨にさらされて荒れているのを憂い、財界人の益田孝(ますだたかし)氏が墓地修築の賛同者を求めて奔走し、当時、円福寺の住職であった神月撤宗(こうづきてっしゅう)老師(後、妙心寺の管長)の発願で松花堂保存会を結成し建立されたとのことである。         
 松花堂昭乗は桃山時代に生まれ、石清水八幡宮の社僧として、瀧本坊(たきもとぼう)の住職を継いだ。和歌・書・画・茶道・作庭などの才に長じ、書では近衛信尹(このえのぶただ)・本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)とともに「寛永の三筆」として名高い。昭乗が自ら作った瀧本坊の茶席が庭内に復元されていた。f0300125_1859162.jpg
 住職さんが皆にお茶を煎れて下さり茶菓子をいただいた。そのお菓子は、茶席「閑雲軒(かんうんけん)」にちなんで「閑雲」と記されたお菓子であった。また、松花堂弁当とは、昭乗愛用の八寸四分のタバコ盆、または絵具箱を点心の器として使用され、当寺でも精進料理で使うとのことである。
 泰勝寺のお庭を住職さんが案内して下さった。南天(難転)招福の庭は、時の権力から逃れた昭乗が男山に入山し、難を転じて文化面で大成し悠々自適の生涯を送ったことにあやかり本堂の正面と南面には各種の南天が配されていた。石庭は、三途の川を渡って浄土へ船出する図が美しく、住職さんはお庭の説明をしながら、「そろそろ近い年令の方々で」と言ったので皆は笑ってしまった。f0300125_194648.jpg
 松花堂昭乗ゆかりの寺と知ってはいたが、外から見るだけだったこの寺の中に入らせてもらい、お庭を拝見し、昭乗のお墓に手を合わせ、住職さんのお話を伺いながら、お茶とお菓子もいただき、写経もさせていただき、よい経験をしたと清々しい気持ちになった。

 泰勝寺から歩いて数分。善法律寺へ着いた。
 善法律寺は、通称「もみじ寺」といわれている。f0300125_1994229.jpgこの寺は足利氏とゆかりがあり、特に石清水八幡宮の検校であった善法寺通清の娘、良子が足利義詮(あしかがよしあきら)に嫁ぎ三代将軍足利義満を産んだため義満は八幡宮を崇敬し、二十数回も八幡を訪れているという。義教(よしのり)・義政(よしまさ)もよく往来し、寺は将軍家の庇護を得て隆盛を極めた。良子は寺に多くの紅葉を寄進したとのことから別名「紅葉寺」と呼ばれたという。今年は雨がよく降り、紅葉はきれいにならないまま、すでに散ってしまったと住職さんはなげいておられました。
 f0300125_19152652.jpg本尊は八幡大菩薩。平安時代末の作。もとは、石清水八幡宮の本尊であったが、明治の神仏分離の際、この寺に安置された。八幡市指定の文化財である。その神々しさに感動した。ご本尊の八幡大菩薩のほかには、愛染明王像(あいぜんみょうおうぞう)、不動明王像があり、結髪、冠、胸飾りなど通常の阿弥陀如来とは異なる宝冠阿弥陀如来像、十一面千手観音像、地蔵菩薩像などが安置されている。

 続いて法園寺へ。
 以前、この前を通ると、木々が生い茂り荒れていたが、現在整備が進んでいる。現在は無住だが、鎌倉時代に建立された由緒ある寺院だそうだ。f0300125_19171619.jpg八幡宮の28代別当、田中勝清(田中家初代)が坊舎をつくり多年居住して園殿と号したことに始まる。八幡の法園寺が歴史上再び脚光を浴びるのは、南北朝時代の頃である。正平(しょうへい)7年(1352)、後村上天皇を擁する南朝軍が八幡に立て籠もって幕府軍と対峙する。その時、法園寺周辺が戦場になり、南朝軍の北畠顕能(きたばたけあきよし)がこの地に陣を取り戦ったと『太平記』に記されている。
 昭和9年、室戸台風で堂宇が倒壊して、堂の下敷きとなった本尊、釈迦如来像(しゃかにょらいぞう)の胎内より多くの経文が発見され仏像とともに国の重要文化財に指定されている。経文などは京都国立博物館に寄託されているが、釈迦如来像は法園寺境内の収蔵庫に安置されている。拝観できる日を楽しみにしたい。

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by y-rekitan | 2014-12-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第54号より-01 八角堂

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わが心の風景・・・(27)
八 角 堂
所在地 八幡大芝

f0300125_2051514.jpg 八角堂は松花堂庭園の西側、西軍塚古墳の円頂部にあります。元は男山西谷にありましたが、八幡宮境内から仏教関係の堂舎・仏像などが撤去された際、正法寺住職が堂宇・尊像とともに迎請し、ここに移されました。
 堂舎は順徳天皇の御願により、八幡宮検校善法寺祐清が建保年間(1213~1219)に建立、後に大破しましたが、慶長12年(1607)8月、豊臣秀頼の御願によって尾張国小出大和守吉政が再建したと堂上の桐紋を付した露盤に彫刻されています。また、京仏師康温が阿弥陀仏を修造して入仏したと棟木に見えます。以降、ほとんど手を加えなかったため破損転倒し、表六間、奥行二間の仮の板屋根で風雨を凌いだという記録があります。
 元禄11年(1698)7月、善法寺央清が勧進を募り、堂宇を再興。その奉加者名が堂内の垂木や瓦の裏に記されています。
 堂内にあった丈六阿弥陀仏(重要文化財)は鎌倉時代初期の作で、「一光千仏」と呼ばれ、今は正法寺法雲殿に安置されています。   (絵と文: 小山嘉巳)



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by y-rekitan | 2014-09-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第52号より-01 正法寺

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わが心の風景・・・(25)
正法寺
所在地 八幡清水井

f0300125_8373068.jpg 東高野街道沿いの八幡清水井の地にある正法寺(しょうぼうじ)は、建久2年(1191)に、清水(静岡県清水市)の高田蔵人忠国が源頼朝の幣礼使(へいれいし)としてこの地に居住、新清水と称したことに始まります。三代目宗久は、石清水の「清」を避けて「志水」と改め、嘉暦元年(1326)、本格的な堂舎、仏閣を営みました。第十一代伝誉上人の時、後奈良天皇から勅願寺に補せられ、「徳迎山(とっこうざん)正法寺」の勅額を賜りました。
 また、慶長年中(1595~1610)には、宗清の娘亀女(相応院)が徳川家康の側室となり、のちに尾張藩主となる義直(よしなお)を産み、また、宗清も八幡宮の神職を辞して尾張藩に仕えました。江戸時代を通して八幡領が検地を免除され、守護不入の特権を得られたのは、亀女の働きが大きかったようです。
 寛永7年(1630)に再建された七堂伽藍のなかで、本堂・大方丈・唐門が重要文化財に指定されています。特に本堂垂木の先の金色の飾りは「逆輪(さかわ)」といわれ、全国の寺院のなかで唯一となっています。     (絵と文:小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2014-07-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第51号より-01 善法律寺

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わが心の風景・・・(24)
善法律寺
所在地 八幡馬場


f0300125_10485.jpg 八幡馬場の善法律寺は律宗の寺で、石清水八幡宮検校であった善法寺宮清が正嘉年間に私邸を喜揺して創建し、奈良東大寺から実相主人を招き閉山したことに始まります。
 寺は、弘{女年間に石清水八幡宮の社殿を移した本堂を中心に、庫裡、阿部陀堂、聖天堂が配されています。本堂の柱、が中途で特殊な方法で接いであるのは、耐震の工夫と考えられています。当初の丹朱塗は剥落していますが、純然たる鎌怠穣式を舎に伝えています。
 室町時代、善法寺通清の娘良子が足利義詮に嫁ぎ、三代将軍となる義満を生みました。義満は八幡宮を崇破。二十数回ち八幡を訪れています。以後、義教、義政もよく往来し、寺は将軍家の庇護を得て隆盛を極めました。
 本尊の八幡菩薩は、明治元年まで石清水八幡宮の祭神だったもので、等身彩色の座像は、在手に宝珠、右手に錫校を持ち、脇仏は不動・愛染の二明王で、ともに鎌倉時代の作です。良子は寺に多くの紅葉を寄進したことから、別名「紅葉寺」と呼ばれ、たくさんの人々が訪れます。 (絵と文: 小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2014-06-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第49号より-01 本妙寺

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わが心の風景・・・(22)
本妙寺
所在地 八幡城ノ内

 f0300125_1159256.jpg大谷川に架かる飼屋橋から南へ少し行くと男山の麓を背にした本妙寺本堂が見えてきます。寺は法華宗眞門派に属する日蓮宗真門派本隆寺末寺で、山号は久遠山といいます。
 本妙寺は、普伝日門に帰依する竹内伊予守経孝によって永禄7年(1564)頃に創立されました。本堂前にある碑は、桃山時代前期、本山第二世の日門上人の殉教碑です。
 天正7年(1579)5月、安土でおこなわれた日蓮宗と浄土宗の論争「安土宗論」の際、日蓮宗の勢力拡大を喜ばなかった織田信長は、浄土宗側に荷担し、日蓮宗敗退の裁決を下しました。この時、犠牲として刑場の露となったのが本妙寺の日門上人でした。
 また、竹内伊予守経孝が織田信長に見いだされ、信長に仕えた後、再び男山に戻り、滝本坊の住職となって同坊で修行中の松花堂昭乗を養育しました。
 当寺に伝わる「雲版」は南北朝時代後期に青銅で作られた京都府内最古のもので、京都府指定文化財となっています。  (絵と文:小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2014-04-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第49号より-07 水月庵円福寺

水月庵 藪を抜ければ円福寺
―「自転車で巡る名所案内」下見見聞記―

八幡の歴史を探究する会  土井 三郎


 八幡の歴史カルタに、「探訪マップ」が付録としてついている。それを目当てに八幡の各所を自転車で巡ったある会員が、一人で訪れても何のことかよくわからないとこぼした。やはり「先達(せんだつ)が必要という事なのだろう。
 私たちに先達が務まるというものでもないが、少なくともカルタに取り上げられる名所案内であれば何とかできるのではないか。そんな思いで「自転車で巡る八幡の名所案内」という企画を立案した。市の観光協会からも後援を頂いて実施することになった。これまで八幡の名所案内と言えば男山東麓ないしは旧八幡町に偏っていたきらいがある。自転車を借りれば遠出も可能ではないか!
 そこで、大体のコースを策定し、4月1日に下見を実施した。
この日、京阪八幡市駅前は花見客でごった返していた。担当者である高田さん、村山さん、谷村さんと私の4名は、観光協会前を出発し、科手・橋本方面をめざした。
 椿で有名な常昌院、長宗我部盛親が潜んだとされる屋敷跡、二宮忠八が飛行機(器)製作に励んだ場所、橋本の旧街道と遊郭跡、そして先日の橋本歴史探訪で訪れた西遊寺。橋本のバスターミナル。それ等の「名所」を詠んだカルタの句は以下の通り。
    めじろ呼ぶ常昌院の紅椿
    橋本の街道沿いに渡し跡
    湯沢山で寺号茶久蓮寺
    鳥羽伏見橋本の街焼き戦い終わる

 久修園院の墓地に在る淀屋関連の墓標を確かめ、安居神事と関わりのある「鹽竃」の石碑脇を抜けて猿田彦神社へ。ここでは神社の来歴について考えたい。猿田彦が八幡神を先導したとの伝承があるが果たしてどうか。道祖神との関わりはどうなのか。そもそも猿田彦社は、村の鎮守なのではないのか?
 微笑み地蔵で知られる講田寺も謎が多い。そして、和気神社へ。足を切られた清麻呂の足がつながり立ったとされる伝承と史実についても考えたい。ここには豊蔵坊信海の墓がある。
 「ママチャリ」ではいささか登りがきつい坂道を登れば茶臼山古墳跡の碑が建つ男山三中の一角に出る。ここから出土した石棺は、高槻の今城塚古墳の石棺と材質が同じであるという。京大博物館に保存されているのを見学したことを思い出す。
 坂道を下ればさくら公園。花見客で溢れていたが、ほとんど顧みられることのない蕪村の句について考えたい。
 そして水月庵にたどり着いた。恥ずかしい話であるが、水月庵に来たのは初めてである。
    水月庵藪を抜ければ円福寺
 このカルタも、制作した側の立場なのに、何のことかよく分らなかったのである。だが百聞は一見に如かず。水月庵は鬱蒼とした竹藪に囲まれているのである。水子地蔵が祀られているということでも知られている。そのお地蔵さんに手を合わせて帰ろうとすると声をかけられた。見ると庵主様である。水月庵は尼寺である。
 親切な庵主様は、境内の隅にあるコンクリート製の建物の屋上に上がれば眺望がよいとおっしゃる。なるほど、男山の団地から枚方の街並みが一望できる。近くの古い民家は、旧幣原の村落に属していたとのこと。
 「折角のお見えだから円福寺まで案内しますよ」と声をかけられ喜んだことは言うまでもない。
 f0300125_1545113.jpg竹藪の中は、ひんやりとしてどこか異次元の世界に踏み込んだ印象を受ける。途中、浅井家の墓がある。浅井家といえば浅井周斎が知られる。周斎は円福寺に土地を寄贈した有徳人で、南山焼の創始者でも有名である。
 やがて円福寺にたどり着く。円福寺は、「万人講」で知られ、5年前に参加したことがある。お斎(おとき 精進料理)を頂き、普段は非公開の達磨像を拝んだ後、青い目の修行僧の案内で御殿に導かれ、妙心寺から来られた高僧の講話を聴いたことを憶えている。
 その円福寺の前を横切ろうとすると庵主さんの姿を認めたご住職が寺を案内させますよと声をかけて下さった。
 この上もない僥倖である。若く屈強そうな修行僧に案内され、本堂に安置される本尊「十六善神」や「釈迦十大弟子像」などを拝観。釈迦如来像の何と慈悲深いお貌であろうか。そして彫の深い弟子達の解脱を希求する姿に暫し圧倒されたものである。
 続いて檜木の香り漂う禅堂に案内される。堂内を支配するのは静寂と清澄感であった。しばらく座禅したい気にさせられる。但し、雑念ないしあらぬ妄想に襲われ一喝されること疑いない。
 円福寺を後にした私たちは国道一号線の洞ヶ峠まで出てそこから吉井のバス停を経て松花堂庭園に帰って来た。得ることの多い半日であった。
 自転車で巡る名所案内は、5月から隔月に、第一日曜日に実施される予定である。詳しくはチラシでご確認していただきたい。人数が制限されるので参加希望はお早めに!
by y-rekitan | 2014-04-28 06:00 | Comments(0)

◆会報第48号より-02 橋本ウォーク1

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《歴探ウォーク》
橋本の歴史(Ⅰ)「京街道を歩く」
― 2014年3月  八幡市橋本地区にて ―

村山 勉 (会員)


 2014年3月15日(土)、「橋本の歴史(Ⅰ)京街道を歩く」と題して歴史探訪ウオークを実施しました。
歴史探訪ウオークの概略

 肌寒さは少し残るもの、時折春の日差しが射すなか、何と73名の参加者が集まりました。当初定員50名にしていたのですが、多数の参加者が見込まれ、2グループに分かれての歴史探訪となりました。Aグループは私村山と土井さんが、Bグループは田坂さんと石野さんがガイドを務めます。
 午後1時に、橋本駅前の西遊寺さんに集合。受付を済ませた後、石野さんによる橋本遊郭・元歌舞練場の話から始まりました。続いて、西遊寺の本堂に入り、住職さんからお寺の来歴や本尊である本尊阿弥陀如来像についてのお話がありました。徳川家康からの朱印状も見せていただき感激しました。その後、境内にある観音堂の諸仏を拝観しました。f0300125_10421145.jpg
 観音堂には、明治維新に際し狩尾神社から移されてきた帝釈天像等があります。帝釈天は、八幡市内最古の仏像だといわれているものです。
 その後、橋本駅前バスロータリーに移動し、橋本陣屋跡・八幡初の工場跡の話をしました。次に、隣接の枚方市楠葉中之芝にある久修園院に案内しました。行基四十九院の一つといわれているものです。本堂に入り山﨑橋と橋本の地名由来のお話をさせていただき、中興の僧宗覚律師が作ったといわれる地球儀や渾天儀(天球儀)を見せてもらいました。続いて、高さ2mに達する愛染明王像を拝観しました。憤怒の形相は迫力のあるものでした。
 次に、史跡公園造営中の楠葉台場に移動し、台場と鳥羽伏見の戦いについて説明しました。
そして、いよいよ橋本樋門から京街道へ入りました。凝った建具のある遊郭の家屋を見ながら、橋本渡しの道標のある地点に移動。そこで、渡し船の話や谷崎の「蘆刈」に登場する「澱川両岸一覧」にある橋本の絵図について語りました。そして、橋本の社士である山田邸から狩尾神社への参道に至る岐路まで歩き、プリン山と称される狩尾神社や二宮忠八の飛行器工作場跡地、橋本の住宅開発の話などをしました。
 終了したのは午後4時ごろでした。

様々に議論した橋本の見どころ

 準備は昨年の秋から始まりました。2013年9月と10月、歴探幹事会で橋本を歴史探訪することが決まり、そのコースなどが話し合われました。田坂さんは、それまで集めてきた資料をもとに、ガイドブック作りに励んでゆきます。
 担当者による打合せを進め、日程やコース、拝観する寺とその申し込み、ガイドブックの作成や参加人数、参加費、雨天の場合の対応と、実に多くのことがらを処理することになりました。
 一番の懸案事項は、「案内チラシ」に「橋本遊郭」を入れるかどうかです。遊郭やそれに対する地元の感情をどう見てどう対処するのか。そんなことで喧々諤々の議論が続きました。結局、「京街道の宿場町、石清水八幡宮の門前町として発展する中で遊郭も形成されるようになった」との記述に収まり、案内チラシに「橋本遊郭跡」を記載する事で決着がつきました。f0300125_1047641.jpg
 ガイドブックの説明文や添付の図録についても、長すぎるのではないか、この図は必要なのかなど様々に議論が展開され、結局24ページにわたるガイドブックにおさまりました。
 但し、実際の案内では、説明はできるだけ簡単にして、目の前に広がる風景や建物などを見てもらい、ガイドブックの詳細な内容に立ち入らないようにすることが申し合われました。
 八幡は、男山山上とその東側にある八幡宮や東高野街道、善法律寺、正法寺、松花堂の名所ばかりが注目されますが、私の地元である橋本にも、こんなに豊かな歴史があるということを実感し、また大勢の方々に知っていただくことができました。そんな意味で、良い機会を与えてもらったと本当に嬉しく思います。
 ご協力いただいた西遊寺と久修園院のご住職および関係者の皆様、参加者の皆様に御礼を申しあげます。

ガイドブックの主な内容

《橋本の歴史(概要)》
1、橋本は、古くから水運や陸路の要衝で、 人やもの、情報が行き交った。
  山崎橋と橋本という地名、古代の官道「山 陰道」と山陽道、八幡・石清水八幡宮の外 港、河川交通の中  継地
2、橋本は、石清水八幡宮の参詣口であった。
3、橋本の街を「京街道」が貫き、宿場町・ 門前町としてにぎわった。
4、橋本は、「鳥羽伏見の戦い」の最後の戦 闘の場になった。
5、橋本から八幡の住宅開発が始まり、橋本の街はベットタウン化した。

《歴史探訪の見どころ》
西遊寺、常徳寺(湯沢山茶久蓮寺)、元橋本歌舞練場、橋本陣屋跡、紡績工場・津田電線工場跡、小金川、久修園院、楠葉台場跡、橋本樋門と小金川樋門、三国の渡し、京街道・橋本の街並み、小金川地蔵尊、橋本の渡しと橋本の津、石清水八幡宮参詣道の道標、橋本等安一族の墓石群、橋本の社士山田家、岩ケ鼻、北ノ町の道標と常夜灯、狩尾神社と希望ヶ丘の住宅開発、一里松の常夜灯、二宮忠八の飛行器工作所跡、奥ノ町の楠の大木


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by y-rekitan | 2014-03-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第47号より-01 泰勝寺

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わが心の風景・・・(20)
昭乗の墓所 泰勝寺
所在地 八幡城之内


 f0300125_20391183.jpg『八幡町誌』によると、明治維新時の神仏分離令によって廃寺となった男山中腹の滝本坊を、山下の平谷にあった瀧本里坊の地に復興改称した寺と紹介しています。
 瀧本坊は、寛永14年まで松花堂昭乗がいた坊で、昭乗はその2年後の9月18日に没し、同月21日に瀧本里坊の位牌堂傍に葬られました。大正2年に至って昭乗の墓石が民家から見つかったといいますから、墓所は相当荒廃していたことが伺えます。
 この昭乗の墓石発見の報を聞いた松方正義公爵によって遺蹟碑が建てられ、これが話題となり、大正3年に昭乗の遺風を顕彰する「松花堂会」が結成されました。同5年、昭乗翁の墓所及び菩提寺として起工。5年の歳月をかけ大正9年4月、落慶法要が営まれました。
 寺は、臨済宗、円福寺末寺の「滝本坊」と称し、寺号の「泰勝寺」は熊本の細川家菩提寺・泰勝寺の名をもらったといわれています。
 墓は、五輪卒塔婆の形をし、昭乗を中央に、右に師の實乗、左に弟子乗圓の墓の三基が石の台の上にあります。(絵と文:小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2014-02-28 12:00 | Comments(0)