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◆会報第45号より-02 八幡古寺巡礼1

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《歴探ウォーク》
八幡の古寺巡礼
― 第1回 浄土宗の寺を巡る ―  

2013年12月 八幡市内 にて
高田 昌史 (会員)
                                     

 石清水八幡宮は、江戸時代まで神仏習合の寺社として「石清水八幡宮寺」と呼ばれ、明治以前の八幡には山上だけでなく山下にもたくさんの寺院がありました。
 そのなかでも浄土宗は、正法寺志水氏の娘お亀が徳川家康の側室となり尾張藩祖徳川義直の生母になったことにより幕府から手厚い保護を受け多くの寺院がありました。今回は今に残る浄土宗の三寺院を巡る歴史探訪ウォーク「浄土宗の寺を巡る」を12月12日に実施しましたが、当日はこの冬最初の寒波にも拘わらず43名の参加がありました。

浄土宗の古寺巡礼コース

 今回の巡礼は浄土宗の三寺院を徒歩で巡回する歩行距離約4.5kmのコースでした。f0300125_19154238.jpg訪問する各寺院ではご住職の講話と仏像等の拝観時間を合わせて30分の予定としておりましたが、三つの寺院ともにご住職には全面的なご協力・バックアップを頂き、当日はその講話拝聴のみならずさらに由緒あるご本尊等も拝観させて頂くことができました。

 参加者には事前に下調べした情報をもとに「しおり」を用意させて頂きましたが、まずは見てのお楽しみということで本文はできるだけ簡単にし、仏像の用語解説、仏像の印相、仏教宗派や浄土宗の系図といった付属属資料をいれて、ウォーキング中でも立ち止って気軽に見ることができるA5サイズの携帯版とさせていただきました。

歴史探訪ウォーク
「浄土宗の寺院を巡る」の報告

 12月12日は京阪八幡市駅に13時集合。「しおり」の説明と歩行時の注意事項等をお話した後出発しましたが、まずは安居橋を渡り15分後に最初の訪問先の「念仏寺」に到着しました。
❶念仏寺:ねんぶつじ(八幡旦所)

 男山考古録に、「旧は観音堂と号して空也上人暫く当寺に住居する」と記されています。f0300125_19462930.jpg 本尊は阿弥陀如来座像で、本堂に安置の釈迦如来座像は八幡市指定文化財に指定されています。
 念仏寺到着後、山門横の「戊辰史跡の石碑(三宅碑)」を説明して本堂には入り、福井住職のご講話を拝聴しました。
講話の最初に、八幡には江戸時代に浄土宗の寺院が九十六寺もあったとお聞きし驚きました。その内の念仏寺を始め三十六ヵ寺が御朱印寺であったとのことです。 f0300125_19331510.jpg また、鎌倉時代末期に西園寺家八代目公衡の末男が出家して当山を再建し、朝廷から「天照山光明院念仏寺」の公称を拝受したとのことです。
戊辰戦争時に念仏寺は幕府方の桑名・大垣藩の陣地になり、官軍の砲撃で大垣藩士9名が戦死。その内4名がこの寺に葬られたが、本堂横の墓地に二十四才で亡くなった「名波常蔵」の墓が残っており、大垣には名波常蔵の墓はないとのことです。ご講話の後に本尊や釈迦如来像などを拝観させていただきました。



❷世音寺:せおんじ(八幡神原)
                  
  念仏寺から徒歩約25分で世音寺に到着です。
この寺は、長禄2年(1458)世音大徳が阿弥陀如来を本尊として開基されました。もとは禅宗でしたが、江戸時代に浄土宗となり、浄土宗御朱印三十六ヵ寺組になっています。
 同寺の地蔵菩薩立像は鎌倉初期の作で、昭和61年に八幡市指定文化財の第1号です。f0300125_19365523.jpg世音寺は、高野街道に面した比較的小さなお寺です。先代のご住職がお亡くなりになってから無住になり、檀家の方が管理されておりその方々のお世話になりました。江戸時代までは念仏寺の末寺であった縁で、現在のご住職は念仏寺の福井住職が兼務されています。 ご本尊の前で福井住職のご講話を拝聴しました。             
 しおりでは引用の資料から朱印地高は7石あまりと記載していましたが、福井住職からは13石であり念仏寺よりかなり多いとの説明がありました。本堂脇の地蔵堂の八幡市指定文化財の地蔵菩薩立像は「ぞうり」を履いているとのご説明でしたが、残念ながら足下は隠れて見えませんでした。なお、世音寺は戊辰戦争の時には被害がなかったとも伺いました。
続いて訪れた本日最後の巡礼先の安心院までは、徒歩約10分でした。

❸安心院:あんじんいん(八幡清水井)

  正法寺の塔頭(たっちゅう)で、山門は正法寺参道の左側の東高野街道筋にあります。早速、本堂で本庄住職の講話を拝聴させていただきました。f0300125_10112595.jpg 安心院は慶長5年(1600)に建立され、本庄住職は十八代目のご住職で、同じ正法寺末寺の宝寿庵、地蔵院、華光院等が合併または無住になったことにより、これらの寺院の本尊等が本堂に安置されています。それらは平成18年に関西大学が調査をしており、講話を拝聴する前にその時の調査資料「安心院美術工芸品調査報告」が配付されました。それには彫刻7点、絵画4点(講話時に1点追加された)の調査結果が纏められており、それぞれについてのご説明をお伺いしました。その後に多くの仏像や掛け軸を拝観させて頂きました。
 以上の三か所で今回の古寺巡礼ウォークは一旦解散としましたが、後は自由参加で安心院のご住職の講話で説明があった中ノ山墓地を見学するグループや八幡市駅までご一緒して駅周辺の史跡にもご案内するグループに別れてのお開きとなりました。

おわりに

 新企画の「八幡の古寺巡礼」の(第1回:浄土宗の寺院を巡る)は、多く参加者があり皆様からはご好評をいただきました。
 これは巡礼先のご住職の御尽力の賜(たまもの)で、厚く御礼申し上げます。また、ほぼ当初計画したタイムスケジュールで進行することが出来たことは参加の皆様のご協力のお陰です。
 なお、来年度には第2回「古寺巡礼」の歴史探訪ウォークを実施する予定です。


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by y-rekitan | 2013-12-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第43号より-02 八幡浄土信仰

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《講 演 会》
八幡における浄土信仰
― 宝寿院阿弥陀如来立像をめぐって ―

2013年10月 松花堂美術館講習室にて
浄土宗安心院住職  本庄 良文  


 10月10日、松花堂美術館にて頭書のタイトルで講演と交流の集いが開催されました。八幡の寺院のご住職による初めての講演会です。講演の概要をレジュメにそって簡単に紹介します。参加者64名。

(1) 浄土信仰の基礎としての源信『往生要集』

  浄土教の起源はインドに求められるが、浄土三部経のひとつである『無量寿経』にその基礎となる教えが説かれている。――久遠の昔、もと国王であった法蔵菩薩という僧が、世自在王如来の指導により、自分の打ち立てるべき理想の世界(浄土)の見取り図を四十八箇条(四十八願)にまとめ上げ、「もしこれらが叶わなければ仏にはならない」と誓った(これを過去の誓願という意味で本願という。)法蔵菩薩は長い年月の間、生まれ変わり死に変わりしつつ修行を積み、阿弥陀仏となって西方極楽浄土に住まっている。この世で善行を積む者はそこに生まれ変わって、楽々と修行を積み、仏となってこの世に還って人々を救うことができる――との教えである。
 日本において、最初に浄土教を体系的にまとめあげ、信仰の上だけでなく、後代の文学や美術の分野にも決定的な影響を与えたのは源信(942~1017)である。『往生要集』を著し、この世の厭い離れるべきありさまと対比して極楽の極楽たるゆえんを「十楽」にまとめ、往生極楽のためには「念仏」が肝要であると説いた。ただし、後代の浄土宗の念仏の解釈とは異なって、念仏には仏をありありと見る観仏といった困難な修行が含まれるし、念仏以外にも様々な善行が勧められている。

(2) 浄土宗宗祖法然と専修念仏

  法然(1133-1212)が唐の善導(613~681)の解釈に基づいて浄土宗を立てるまで、宗派としての浄土宗は存在しなかった。法然は、「善人も極悪人も分け隔てなく、念仏すれば極楽往生できる」と主張した。法然は念仏の意味を、口に南無阿弥陀仏と称える称名念仏に限定し、念仏こそが阿弥陀仏をはじめとするすべての仏たちによって選択された、比類なき価値をもつ行法であると説き、念仏以外の行法を差し置いて、念仏に専念することを勧めた。この「専修念仏」の考え方は、称名念仏以外の修行の価値を否定し、仏教を滅ぼすものであるとして、当時の仏教界からの猛烈な反発を招き、国家権力による弾圧を受けた(建永の法難、嘉禄の法難など)。

(3) 石清水八幡宮と浄土信仰

 石清水八幡宮を中心とする八幡地域と、浄土教との深い関係を示す事例を、知る限り幾つか挙げてみたい。(本格的に調べたわけではないのでその点お断りしておきたい。)それは八幡地域に浄土宗寺院が突出して多いことの根拠にもなるだろう。
第一に、八幡神の本地(本源たる仏・菩薩)が阿弥陀如来であるということである。つまり八幡神への帰依はそのまま阿弥陀仏への帰依なのである。石清水八幡宮の本殿近くの阿弥陀堂(八角堂)に鎮座していた阿弥陀如来座像が、明治になって、西車塚頂上に遷座し、つい最近、正法寺の法雲殿に納められたのは周知の通りである。
 第二に、「男山四十八坊」と称されるように、石清水本殿の周辺には四十八の僧坊があるとされた。実際の数は定かではないが、ほかならぬ四十八という数が選ばれたのは、阿弥陀如来の前身である法蔵菩薩の「四十八願」に由来すると考えられる。
  第三に、石清水八幡宮の社務家である紀氏と法然の直弟子とに血縁関係があった事実を挙げたい。法然の有力な直弟子の一人に源智がいた。信楽の玉桂寺の阿弥陀如来像(現在は浄土宗の所有)を造立したことでも知られるが、造立願文の分析により彼の母方が紀氏に連なることが判明している。
  第四に、時宗との関わりを指摘したい。時宗は、一遍(1239~1289)によって開創された浄土教の一門である。『一遍聖人絵伝』の中に、一遍が石清水に参詣した絵図がある。中世の石清水の社殿とその周辺の様子を伝えるものとして資料価値が高いものであるが、一遍の石清水への帰依を語るものでもある。一遍の高弟に聖戒がいた。一遍の諸国行脚に随伴したといわれるが、正応4年(1291)、聖戒は八幡に善導寺を創建した。現在、京都の山科にある歓喜光寺の前身といえる。
 第五として、これは時代が下るが、今の頓宮近くにあった極楽寺(この寺号こそが浄土教的である)に安置されていた阿弥陀如来座像についてである。京都の新京極にある誓願寺(浄土宗西山深草派)の本尊である阿弥陀如来座像は度重なる火災で焼失し、現在の本尊は、神仏分離に際し、八幡の極楽寺から移されたものであるとされる。f0300125_21412454.jpg
 最後に、正法寺の存在がある。室町時代の後期に浄土宗に改めた正法寺は、お亀の方(相応院)の菩提寺となるなど、尾張徳川家から厚い庇護を受けた。そのことで寺勢が隆盛となり、塔頭や末寺も多く、八幡の浄土宗全体としての隆盛につながったといえる。

(4) 宝寿院の歴史

  「宝寿院(庵)」は、もともと正法寺の末寺として清水井にあった寺の名である。檀家は60-70軒。1822-32年頃の中ノ山墓地の整備はこの寺の第5世良秀による。だが、明治初期に無住となり、後に安心庵と合併された。その本尊は、現在、安心院に安置されている。その庵号が明治期に美濃山地区の寺に移されることになった。
美濃山地区のうち60-70軒はもと八幡市戸津、寿覚山無量院の檀家であった。位置も、無住となった後堂宇が廃絶した時期もよくわからない。戸津の浄土宗寺院が兼務していた。明治期以来、美濃山宝寿庵の住職を清水井安心庵の住職が兼務するようになった。本尊である阿弥陀如来立像は戸津無量院の本尊であったと考えざるを得ない。

(5) 宝寿院阿弥陀如来立像胎内墨書発見の経緯

  平成18年(2006)8月、八幡市教育委員会によって清水井安心院、美濃山宝寿院の現地調査があり、関西大学の山岡泰三名誉教授・長谷洋一教授が立ち会った。その時、美濃山宝寿院の阿弥陀如来立像は、長谷教授により「快慶より一代後の作」であろうと鑑定された。痛んでいたので修復を施すことが予定されていたが「出来るだけ手を加えないように」と助言された。同年末に京都市内の仏具商に修復を依頼したところ、胎内に墨書が発見されたと伝えられた。平成19年1月8日のことである。すぐに八幡市教委に通知し、仏像は安心院に移された。長谷洋一教授を招き、再度調査することになった。
その後、京都府文化財保護課専門員と八幡市教委の竹中友里代さん(当時)から「文化財としての修復をしてはどうか」との助言を得て、美術院で修復することとなった。その際、京都府と八幡市からの、文化財に対する補助金制度を利用することができた。平成19年4月に美術院に移送され、20年(2008)3月に修復が成り、当面は安心院に安置されることになった。そして、文化財の保全という観点から翌年5月に京都府立山城郷土資料館へ寄託されることになった。美濃山宝寿院には、4年に一度の法要の際にお迎えすることにしている。

(6) 阿弥陀如来立像および墨書をめぐって

胎内から発見された墨書に記載されていることは以下の通りである。仏師は、これまで知られている三名の定慶とは別人であろうと推測されている。願主の行範についてはわからない。
    奉造立阿弥陀如来像
 右為志者一切衆生成仏也致向後破壊
 見及人奉加修鋪可令遂一仏浄土素懐給也
       歳次    癸巳時正
 文暦二年 二月丗日 始之 願主僧行範
   乙未 第二日 泉州別当定慶造也

          
 「右為志者」以下を簡単に現代語訳すれば、次のようになる。
 「阿弥陀仏を造るのは、一切の衆生が仏の覚りを得るためです。将来、この像が壊れたら、寄付を募り修復してください。そうすれば、この仏様は私たちを導いて、皆一同に極楽浄土に往生するという私たちの宿願を叶えて下さることでしょう。」

「一口感想」より

◎余命いくらもない高齢者で、平素不勉強のため有難いお話を十分我がものにすることが出来ませんが、命ある限り学んで参りたいと思いました。(関通夫94才)

◎私も安心院さまには、仏事等でお世話ななっています。八幡宮と浄土宗の関係が解りました。ご住職のお人柄も一段と分りよかったです。(S)

◎八幡の歴史の深みを再確認しました。まだまだ埋もれた貴重な歴史があると思います。これからも期待します。(I)

◎8 0 0 年代からの古い山城国八幡の多岐にわたる歴史には興味があるが、中でも庶民の生活により一層関心がある。講話としてはなかなか難しいことでしょうが。(I)

◎興味深い歴史的なお話に心打たれました。 浄土宗門徒として、もっと勉強したいと思います。ありがとうございます。(T)


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by y-rekitan | 2013-10-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第39号より-01 落書き寺

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わが心の風景・・・(12)
落書き寺
所在地 八幡吉野


 f0300125_15385447.jpg淀屋辰五郎旧邸跡前の「ドンド辻」を東に行くと、その突きあたりに通称「落書き寺」と呼ばれ親しまれている単伝庵があります。その門前に建つ三宅安兵衛遺志建立による碑は、古字によって刻まれ、その歴史を一層感じさせられるちので、数多くある三宅碑の中 でも特に趣があります。
 単伝庵の山門をくぐると正面に大黒堂が見えます。この大黒堂の白い内壁は、訪れた人々がペンを使って書いた願い事がびっしり。「落書さ寺」の異名はここから生まれました。祈りの空間での落書きは、参拝者の心に強烈な印象を刻み込むものとなっています。
 単伝庵の開山は不明ですが、古くは神原町にあったといいます。一時中絶の後、男山中腹にあった法童坊に預かり置かれていました。江戸時代後期に禅宗となり、現在の場所仁移されました。妙心寺知勝院の法類で、豊後国臼杵城主稲葉家の菩提寺であった月桂寺の僧瑞応が移り住み、中興の祖となりました。(給と文:小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2013-06-28 12:59 | Comments(0)

◆会報第38号より-02 天下人と八幡

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《講 演 会》
天下人の時代と八幡
― 正法寺や石清水神人の立場から ―

2013年5月 松花堂美術館講習室にて
京都府立山城郷土資料館 : 資料課長 田中 淳一郎


  5月19日(日)午後1時半より探究する会の5月例会(「講演と交流の集い」)が、松花堂美術館にて開催されました。講演の概要は、田中さんご自身がメモとしたものを送ってくださったので、それをもとに作成しました。

はじめに

 八幡市については、正法寺文書の調査をしたり、竹中友里代さんと一緒に市内の調査をしたりしたことがある。京都府の文化財保護課の時代には、石清水八幡宮文書の修理を担当して、新善法寺家の文書の指定調査を行った。そのときから、市内の旧社家や神人の方のお宅に、徳川三代の朱印状がたくさん残っていることが気になっていた。正法寺文書調査のなかでも、4代家綱の朱印状の問題が気になっていた。
 今回、この場を与えられたことで少し事情を考えてみた。重い課題であるし、土井さんのメールで皆さんの求められている水準が非常に高いようなので、充分な話ができるか不安であるが、よろしくお願いしたい。
 まず、「天下人」であるが、信長、秀吉、家康のことを普通想定されている。彼らは、「天下」統一を目指していた。天下とは、日本国(北海道、沖縄は除く)の国土と住民と政権を指し、そして政権のトップに立つ者が天下人である。歴史的な表現をとれば、すべての大名を軍事動員できることと、全国土の所有者として大名以下に知行として分け与えることができること、とまとめられるだろう。
 織田信長は、入京する前年、永禄10年(1567)から「天下布武」の印章を使い始める。これは天下を自らの武力で平定することの表明で、将軍足利義昭に対しても、「天下のことは信長に任せ置かるるの上は」とした。個別戦国大名の領主権を越える権力を表明したのである。残るは天皇だけであるが、その地位をも左右したのである。
 豊臣秀吉は、関白になると「てんか」と自称した。関白「殿下」という意味とともに、「天下」を意識した称である。秀吉の政策のなかでは、いわゆる太閤検地が重要で、全国を統一尺度で検地し、田畑を一筆ごとにその所持者・耕作者まで把握したのである。そして石高制知行体系の頂点に立ち、大名、公家、寺社に領知を分け与えたのである。また、刀狩令のように、全国百姓に同一の命令を出すことができたのである。
 徳川家康については、慶長3年(1598)8月18日に秀吉が伏見城で死去したが、それは慶長4年に公表され秀頼が正月の年賀を受けたあと大阪城に移り、続いて閏3月3日に前田利家が没すると、翌日石田三成が追われて佐和山に移る一件があり、家康は13日に伏見城西丸に入った。これを聞いた興福寺の多聞院英俊は、「天下殿」になられたと日記に書いた。そして「目出」ているのである。同じことは、当時の公家を代表する人物、近衛信尹(このえのぶただ)も日記に「家康が伏見西の丸に移られた、諸人が大慶」と記している。秀吉と違い、家康は世間が認める「天下人」であったのである。それが寺院や公家をはじめ皆に歓迎されていたのである。その後の経過は、よく御存じの通りである。
 では、この時代の天下人と石清水八幡宮や八幡との関係について、とくに領知と朱印状の問題を中心に、さまざまな資料から見ていきたい。

1 石清水八幡宮神領の構造

 まず前提として石清水八幡宮の領地について確認しておきたい。いわゆる八幡八郷と呼ばれるところが神領である。四郷と呼ばれる神社の膝下にある門前町的なところが、南から金振(かなふり)、山路(やまじ)、常盤(ときわ)、科手(しなで)である。まとめて八幡荘とか言われている。
 その外側に、美豆(みず)、際目(さいめ)、川口、生津(なまつ)の四村がある。これらの村であるが、村高が不明である。あとで述べるが、神領であるが故に検地が行われなかったようだ。
 江戸時代には、下奈良村と戸津村(一部)も石清水領であるが、こちらは村高があるので、全体としては神領ではなかったのだろう。これは河内の星田村も中世からの石清水領であるが、江戸時代にも引き続き石清水領である。

2 中世までの石清水八幡宮

 石清水八幡宮の創建とか、神仏習合した信仰形態については、今日は触れない。荘園領主としては、狭山郷(現久御山町)や薪(たきぎ)荘、稲屋妻荘など近隣の地以外に、宇佐八幡宮の神宮寺である弥勒寺は本家職を石清水に寄進したことから九州にも多くの荘園を有したことをはじめ、多くの神社や寺院が寄進したことから、平安時代以来多くの荘園・領地を全国に有していた。しかし、その多くは室町・戦国時代までに他に取られた。狭山郷のみが膝下(しっか)荘園(しょうえん)として維持されていたようである。
 また、淀六郷も石清水領であったようで、それに関連するのか、木津川水運も石清水が支配していたとの主張がみられるがよくわからない。
 私が重要だと思っているのは、石清水の神人制度である。周辺村々に、放生会など神役を勤める人たちを配しているのである。八幡八郷にもたくさんの神人が居住し、安居祭りの頭役(とうやく)をはじめ大工、鍛冶等の技能で奉仕している者たちがいる。室町時代後半には整備され、それは江戸時代にも継続される。
 このようなことを踏まえながら、石清水八幡宮の領地が、天下人の時代を通してどのように変容していくのかみていきたい。

3 織田信長と石清水八幡宮

 織田信長は、永禄12年(1569)、元亀2年(1570)、天正3年(1575)と狭山郷が神領であることを認め、領知を安堵(あんど)しており、直務(じきむ)であることを認めている。信長には、中世以来の石清水領をどうこうする意図はなかったようである。
 また社殿の修復を行い、本殿の内殿と外殿の間にある樋を木樋から青銅に替えた。その樋は現在も「黄金樋」と称されて残っている。これには、写真で見ただけであるが、「天正八年五月」の銘文がある。
 宮中の天皇のお側近くに仕える女房たちの記録には、信長がこの年の8月15日に参詣したことを伝えている。本来なら放生会が行われる日であるが、戦国以降、実施されていない。御存知のとおり、文明年間(1469~87)以降、延宝7年(1679)まで中断される。

4 豊臣秀吉の時代の八幡

 豊臣秀吉は、本能寺の変(1582年)後、明智光秀を討ち、10月15日に大徳寺で信長の葬儀を主催することで、後継者としての地位を固めた。天正13年(1585)7月11日に関白に任じられた。これ以降、秀吉は「てんか」と署名し、自称したと言われている。秀吉の天下人は、関白という律令制以来の国家体制に基づくものであり、朝廷・公家や全国の農民等一般にも浸透できたと考えられている。
 秀吉は、征服地に検地を実施した。いわゆる太閤検地である。これは、全国に石高制で統一するというものである。石清水関係では、天正12年10月17日に狭山郷の検地帳が作成された。この後、狭山郷が石清水領であったという文書が見当たらないので、この検地によって、狭山郷は石清水から収公されたものと思われる。信長との違いである。
 秀吉は、大政所の病気平癒を祈願して造営料1万石を石清水に寄進し、翌年までに回廊を再興している。一方では、天正16年(1588)から17年ころに長束正家(なつかまさいえ)を奉行として山城国検地を実施している。石清水領については、慶長5年の記述になるが、このときの検地は、当知行を指し出したいわゆる指出(さしだし)検地(けんち)であったことが明らかになる。これは、武家政権側の役人が、実際に竿をいれて土地を測量し耕作人を把握したのではなく、当知行、すなわち現在知行、支配している田畑を、それぞれが書き上げて提出したものである。それを踏まえて、秀吉は、社務以下に朱印状で領知を宛(あて)がった。あるいは分け与えたのである。つまり、検地帳を指し出したことは、土地を指し出したのと同意であり、一端は領地を天下にお返しして、改めて分け与えられたという形式になった。信長は安堵し、知行を認めたのだが、秀吉は寄進し与えたのである。天下人の天下であることを表明したのである。社務だけでなく、正法寺にも出されている。神人以下はよくわからない。
 石清水八幡宮としては、諸荘園が領地から没収されていくわけではあるが、それに抵抗するだけの武力もないからか、受け入れざるを得ないのである。慶長元年(1596)ころから秀吉は病気がちとなり、石清水ではその平癒の祈祷をしている。しかし、慶長3年8月18日に秀吉は伏見城に没した。死は年明けまで秘されていたが、慶長4年(1599)3月5日になって、前田玄以は朝廷に秀吉の遺言を伝え、秀吉の望んだ「新八幡」神号の勅許を願い出たが、勅許はなく、17日になって「豊国大明神」が受贈された。
 「新八幡」号を望んだというのは、朝廷と武家との双方の守護神である八幡になろうとしたということだろうか。天下人にはなれても、八幡神にはなれないのか。

5 徳川家康と八幡

  秀吉の死後、慶長4年正月、豊臣秀頼が伏見城で諸大名から年賀を受けたが、まもなく大坂城に移った。閏3月3日に前田利家が死去すると、翌日には加藤清正や黒田長政らが石田三成を襲撃するという事件が起きた。三成は大阪から佐和山へ逃れたものの、政権中枢からは外れた。閏3月13日になり、家康は伏見城西丸に移り、これを聞いた興福寺多聞院英俊は、「天下殿」になられたと記しており、世間は家康を天下人と認めたのである。ここが信長、秀吉とは違うところである。f0300125_20595491.jpg
 石清水との関係では、慶長4年から5年にかけて、天正17年の検地帳の再度の提出を求めたようである。だが、八幡惣中は検地の赦免を願い出ており、当知行指出帳の写しが石清水八幡宮文書や正法寺文書に数多く残されている。そして5月25日付けで家康朱印状が発給された。これらからみると、石清水領に限ってではあるが、改めて竿を入れる検地は実施されず、天正段階での当知行を認める形での知行宛がいが実施されたとみられる。
社務家や正法寺等は秀吉と同じ知行高が安堵されている。また、当知行を指し出したものには、すべてそれが領知として認められ、朱印状が発給されたのである。それは百姓中であっても、わずか一石程度の「知行」であっても認めたのである。実際は知行というよりも所持地なのだろうが、指し出された以上は、知行地として認めなければならなかった。
 同じ日付で、家康は、石清水八幡宮社務の廻職についても、順番を裁許している。これは、室町時代から、将軍代替わりごとに石清水社務家も替わることになっていたのが、秩序が乱れてきていたのを家康が裁許し順番を定めたのである。このことで、石清水に対しては、家康が社務の支配もするし、領知の支配もしていることを同日付けで明らかにしたのである。
 ところで、この慶長5年(1600)5月25日付けの朱印状は、いずれも家康単独の署名で発給されている。まだ関ヶ原の合戦以前であるし、なぜ単独で可能であったのかよくわかっていない。家康は、実は将軍になっても外様大名には領知朱印状は発給していない。一部の大名にとどまっており、石清水の特異性は際立っている。
 家康は、関ヶ原の合戦に勝利し、征夷大将軍となり、名実ともに武家の棟梁天下人となった。家康は、慶長7年の幕府領検地のように、たびたび検地を実施している。八幡近辺でも慶長15、6年ころに検地の動きがあったが、慶長15年(1610)9月、家康は朱印条目を出して八幡八郷の検地免許と「守護不入」を認めた。守護とは武家権力と言っていいだろう。これで江戸時代を通して八幡八郷には検地が行われず、万事石清水八幡宮社務による支配が行われたのである。ただ、その支配の実態は、ほとんど研究されていない。いずれにせよ、家康によって江戸時代の石清水八幡宮と八幡の体制は形成されたといってよいだろう。
 徳川家康は、慶長10年に将軍職を秀忠に譲ったあとも「大御所」として政治をみたが、元和2年(1616)4月17日に駿府城で死去した。
 秀忠は、元和3年6月14日に諸大名を従えて上洛した。上洛により、秀忠は諸大名に対する軍事動員、指揮権が自分にあることを示し、さらに上洛前後に諸大名、旗本、公家、寺社に領知朱印状を交付した。公家・寺社のものは、家康時代のものを確認したものである。大名に一斉に交付した意味が大きく、この上洛により秀忠は「天下人」足り得たことになる。また、秀忠以降の将軍を「天下人」とはあまり言わないが、実質としてはまさに天下人であった。なお、秀忠朱印状では、法花宗関係は3か寺が一通になる、百姓は96人が一通になるなど、整理された形跡がみられる。これは4代家綱のときに一層徹底されるのである。

6 石清水八幡宮と八幡に関する諸問題

 徳川将軍の領知朱印状が、実にたくさん交付され残されている八幡について、徳川家綱の朱印状の問題をみていこう。ちなみに、八幡地域の人びとに対して、家康朱印状は360通、秀忠と家光は184通が交付されているが、家綱はわずか30通にとどまる。いかに実態に合わせて整理されたかがよくわかる。
 家綱は、慶安4年(1651)4月の家光の死をうけて、8月に将軍職に就く。ところが、このときわずか11歳であった。実権は将軍輔佐役の保科正之(ほしなまさゆき)や酒井忠勝、松平信綱らが握り、彼らによる協議政治がうまく機能し、政情は安定していた。寛文4年、5年(1664、1665)に領知朱印状を発給するが、これは前代までの朱印状を提出させ、それに基づいて新規に交付したもので、その内容は、「寛文印知集」として良く知られている。それによると、家綱朱印状は寛文4年4月5日付けで全大名に対して一斉に交付された。一斉に出されたのは初めてのことで、家綱が将軍として全大名を把握していることを物語る。
また、寺社には寛文5年7月11日付けで交付されるが、石清水関係に限り8月15日付けである。理由はよくわからないが、家康の朱印状日付の件といい、石清水が特別であったことがうかがえる。なお、家康と秀忠は伏見城で、家光は二条城で交付したが、家綱は江戸で発給しており、この点にも幕府支配が確立していることが示されている。
 以後は将軍代替わりごとに、前代の朱印を提出し、新しく交付されるという朱印改めの制度が確立した。これは幕初以来異動の多かった大名の配置が安定したことを示している。このことは、寛文3年の殉死の禁止寛文5年の人質の廃止にも示される。家綱というと家光と綱吉の間で影が薄いが、江戸時代前期の幕藩体制の確立期として重要である。
 八幡にとって重要なのは、家綱の朱印状からは、冒頭に「石清水八幡宮領内」の文言が付くようになったことである。そして、一人一通宛て発給されていた朱印状が、諸役ごととか神人単位とか百姓一括とか、まとまって交付されるようになった。
 これは、慶長以来60年が経過し、家康朱印と実態が合わなくなっていたためである。本来ならば許されない朱印地の売買が行われたりしたようである。たとえば百姓の場合を考えると、死去した者もいるであろうし、あるいは一石以下の知行高のものもいるが全員そのまま所持しているとは考えにくいので、おそらく整理したものであろう。
 逆に、3代家光までの朱印を伝えられている家が多いのは、このとき提出したものがそのまま保管されてきたのであろう。
 正法寺との関係で云えば、正法寺は特別の寺格であり、石清水領内ではないとして争論になる。最終的には、社務の下知や諸法度は守るものの、神社のための社役は勤めないこととした。ただし公儀御用に準じるものは受けるとした。なお、正法寺には、家綱の朱印状正本が残らず、写しとなっている。争論にともなって幕府に提出したものだろうか。また、石清水の田中家にも家綱朱印状がないようである。同じく幕府に提出したものなのか。善法寺家、新善法寺家には残っている。
 宮大工である長濵家の文書には、家綱朱印原本が残されているが、それを見ると、慶長時点では、宮大工畳刺しと別々であったのが、徳川家綱のときには、五座組役人として一括して渡されているのである。たぶん長濵氏に交付されたのであろう。「五座組」として獅子大夫、童子、宮鍛冶、宮大工、畳刺で一通となった。また、現在、宮鍛冶や畳刺の職人の分も長濵家に伝わっていることから、いずれかの時点で、朱印状及び土地が集積されたものと考えられる。このようにして、家康時点では、わずかの知行地でも認めて、各人に交付された朱印状も、家綱までに整理され、実態に近づけられたのであろう。

おわりに

 石清水八幡宮領について、以下の点を強調し、課題を明記したい。
① 江戸時代においても、石清水八幡宮の神領では、「守護不入」が認められた。
② 検地赦免と当知行の安堵により、それ以前の関係が継続している。
③ 神領支配の実態の研究については今後の課題としたい。
                               【文責=土井三郎】

 講演の後、いくつかの点で質問がなされましたが、紙面の関係で割愛致します。参加者は59名。

「一口感想」より

◎ 信長、秀吉、家康と天下人が変わるも、石清水八幡宮に対する扱いは、他の領地とは異なったものだったようで、八幡がいかに重要な場であった事が改めて理解出来た。(N)

◎ 淀際目町に25年前から住んでいますが、石清水八幡宮の神領だったとは、はじめて知りました。木津川の改修等で今では全く関係がなくなった歴史に、時の流れを感じました。ありがとうございました。(S)

◎ 実に面白かった。朱印状の意味がよくわかった。江戸中期以後の変化・移り変わりを知りたい。(K)

◎ 以前から、徳川家康が関ヶ原の合戦の前に、つまり征夷大将軍に任ぜられる前に、なぜ石清水の社務職の廻職を定めたり、石清水社務以下に朱印状を発給したりすることができたのか、そんな権限が家康のどこにあったのか疑問であった。今日の講演を聞いて、慶長5年5月段階で、家康が公家達から実質上「天下人」と認められていたというのは、その謎を解決する一つのヒントになると思った。同時に、家康が石清水八幡宮に関与したり、八幡の社務以下神人の領地を安堵したりすることを通して、八幡神・八幡大菩薩から加護されることを期待するとともに、家康が石清水に関与したという事実を近畿一円の公家や大名に知らしめたのではないか。つまり、そのような政治的パフォーマンスを演じてみせたということではないか。この辺りは、為政者と神仏の関係をさらに深めることを通して明らかにしたいと思った。(D)


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by y-rekitan | 2013-05-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第34号より-01 神應寺と秀吉

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わが心の風景・・・(7)
神應寺と秀吉
所在地 八幡西高坊


 f0300125_16182529.jpg航海記念大石塔の左側にある重厚な表門をくぐり、急な石段を上がると台地上に伽藍群が目に飛び込んできます。現禅堂は元禄2年(1689)、鐘楼は同5年(1692)の建立で、本堂は寛政7年(1795)に再建されたものです。
 神應寺は、八幡神を勧請した僧行教が貞観2年(860年)の石清水八幡宮社殿造営にあわせ、應神天皇の霊を奉安して建立したと伝えられています。そのため、始め應神寺と称しましたが、その後、天皇の諡をはばかって神應寺と改められました。
 『雍州府志』によると、征韓の役にあって豊臣秀吉は、石清水八幡宮に詣で、軍の先鋒に神官を望むと、神社側は恐れて服さず、秀吉の怒りをかいました。このとき、神應寺住僧の機転で「神功皇后の三韓征伐にあやかるのであれば、應神天皇を祀る神應寺に参詣を」と進言。神應寺を訪れた秀吉に住職は一献を供し、羽織衣服を献じたことで、秀吉は大いに満足。寺領二百石を寄進したと伝えられています。(絵と文:小山嘉巳)

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by y-rekitan | 2013-01-28 12:57 | Comments(0)

◆会報第33号より-02 男山参詣路2

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《12月例会 歴探ウォーク》
男山参詣路を歩く
― 2012年12月  男山周辺にて ―



 12月16日(日)午後1時より、探究する会の12月例会として「男山参詣路を歩く」と題した歴史探訪ウオークが実施されました。

 八幡市が発行する冊子類に「男山参詣路」と称する観光ルートはありません。あるのは、「ひだまりコース」「こもれびコース」というハイキングコースです。男山参詣路は、この「ひだまり」と「こもれび」のコースをたどります。なぜ、「参詣路」と称するのか。それは、神原から石清水八幡宮に通じる旧道が「興正谷(こうしょうだに)道」と呼ばれたことに由来します。

 興正菩薩=叡尊(えいそん:1201~1290)は、弘安4年(1281)7月、蒙古襲来に際し石清水八幡宮で異国退散の祈祷を行い、石清水の上空から放たれた矢が神風をもたらし元の軍船を難破せしめたとの伝承を生みました。その後、叡尊は浄土ヶ原の草庵に居住し、周囲の人々の帰依を受けたのです。以後、「興正谷道」は参詣路となりました。

 石瀬さんをガイドに、男山参詣路へ出発しました。

f0300125_1558962.jpg 最初に訪れたのが神原の清水井古墓(しみずいこぼ)。 数十基の墓石が建ち並ぶ中の一番大きな法篋印塔(ほうきょういんとう)には「元禄十五年権僧正晃清(こうせい)大和尚」の文字が刻まれています。石清水八幡宮社務であった新善法寺晃清のお墓です。施主は晃清の養子の行清(ぎょうせい)で、行清は加賀前田家の筆頭家老本多政長の六男甚之助として生まれ、八幡宮の社務として迎えられるのです。武家出身の社務は大変にめずらしく、自分を新善法寺家の後継者として迎えてくれた義父晃清の恩に報いるために大きな墓塔を建てたといわれます。

 次に訪れたのが巣林庵(そうりんあん)跡。今でこそ、石塔が集められた狭いエリアでしかありませんが、室町時代には、出火で炎上した石清水八幡宮の造営の出納役(すいとうやく)を果たした祖峻(そしゅん)和尚が住持したことで知られます。f0300125_1615350.jpg 1526年、造営なった八幡宮の祝賀行事に参列するために、12代将軍義晴が八幡にやってきます。その際、巣林庵に投宿した社家奉行は、神人達の訴訟を聞いています。いずれにせよ巣林庵は、幕府との関わりが深い政治的な寺院だったのです。もっとも、室町時代の巣林庵は家田町にあり、18世紀後半に、水害を避けるために神原に移転しました。

 続いて、昌玉庵忍澂寺(しょうぎょくあんにんちょうじ)を訪れました。同寺は、叡尊が創建と伝えられますが、京都の法然院を再興したことで知られる忍澂が中興したお寺です。今は、弁天堂しか残されていませんが、忍澂は南三昧堂を再建し、太子坂の朽壊した地蔵菩薩像を補修し本尊としたとのことです。

 谷深い山道を上ってきますと、道辺に山藍(やまあい)が見られます。山藍は、石清水臨時祭などで文武百官が着る小忌衣(おみころも)の染料として使われました。

 興正谷不動尊に到着。  石不動の別称があるように、本尊は不動明王です。
f0300125_1645275.jpg永年管理する者がなく荒れていましたが、近頃管理者が現れ整備されています。

 レクレーションセンターにて休憩。こもれびルートに入ります。展望台からは、京都府から「歴史的自然環境保全地域」に指定された天然照葉樹林が見渡せます。

 男山山頂である鳩ヶ嶺に到着。男山を鳩ヶ嶺ともいいますが、山頂に宝塔が埋めてあったことから「ほうとうがみね」から「はとがみね」になまったとの説があります。

 落ち葉を踏みしめながら神應寺の墓地を横目に杉山谷不動尊に行きました。あいにく堂の扉は閉められ、不動明王とその脇仏である衿羯羅童子(こんがらどうじ)、制多迦童子(せいたかどうじ)を拝することができませんでした。観音堂には浪切不動明王や地蔵菩薩、十一面観音菩薩像などが鎮座しています。

 続いて石清水八幡宮五輪塔(航海記念塔)を見て頓宮へ。頓宮は、9月15日の石清水祭(放生会)の際、山上のご神体が本殿から遷座される社で、都名所図会には「御旅所」と称されています。また、1月18日には「青山祭」が行われる地でもあります。「青山祭」とは、悪霊・疫病の侵入を防ぐための祭事を指します。石清水は摂津・河内・山城の境界にある神社です。異国からの疫病・厄災が都に入って来ぬよう重要な役割を果たしていたとのことです。

f0300125_21512051.jpg 頓宮南にあるのが高良(こうら)神社です。八幡の産土社(うぶすなしゃ)として太鼓祭りが毎年の7月に行われていることで有名な神社ですが、『徒然草』52段でも有名です。仁和寺の法師がこの高良神社にやってきて石清水に参拝したと思いこみ都に帰ってしまった話です。ここで、注目されることは、「そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん」と法師がつぶやくことです。叡尊が石清水八幡宮で異国退散の祈祷を行ったと前に記しましたが、叡尊の祈祷によって蒙古軍が暴風に遭ったことを当時の人々が信じ込み、故に八幡大菩薩への信仰が高まったのです。

最後に、相槌稲荷社(あいづちいなりしゃ)に行って散会しました。参加者31名。 (D)


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by y-rekitan | 2012-12-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第32号より-03 泰勝寺の起源

シリーズ「八幡の歴史スポット」・・・③
泰勝寺の起源とお茶会

丹波 紀美子 (会員)


松花堂昭乗と実乗・乗圓の墓

f0300125_13303579.jpg  泰勝寺には松花堂昭乗を中心に向って右に実乗(昭乗の師)、左には萩坊乗圓(昭乗の弟子)の墓が建っています。この3人の社僧のことを少しだけ記してみましょう。
 松花堂昭乗は、後世、寛永の三筆の一人といわれた能筆家であり、絵、お茶、お花、和歌、作庭にも秀でていた文化人でした
 実乗は、昭乗の師にあたり、伊予大洲城主小川土佐守宗武の次男といわれています。⇒① 萩坊乗圓(玄々翁)は、豪商淀屋二代言当の甥に当たり、絵・書に秀でていて、書では松花堂流を受け継いだ人です。
 
この3人の墓は、つい十数年前までは風雨にさらされていましたが、今は下の写真のように屋根が付き、付近も整えられました。この場所は里坊といって、山上にあった寺(坊)の墓所といわれていました。

 昭和13年発行の佐藤虎雄著「松花堂昭乗」では次の様な記述があります。
「病中には親友の佐川田昌俊や姻戚の小堀遠州が世話をし、近衛信尋公や東信門主も見舞はれた。終に九月十八日、五十八歳にして眠れるが如く入定した。遺骸は當夜男山の麓に還し同月廿一日に山下の御里坊裏地に葬った。今の平谷町なる泰勝寺の墓地である。」

泰勝寺のこと

f0300125_1242135.jpg 昭乗たちの墓所がお寺として整ったのは、大正7年です。そのきっかけは次の通りです。
 「松花堂昭乗の墓所が余りにも荒れ果てていたのを、明治の末に東西の数寄屋者達が相寄って、松花堂昭乗と彼の師の実乗と弟子の乗圓の墓所を改修したのであった。墓所の改修は出来たが、八幡山にあったといわれる滝本坊を偲ぶ建築までは手がまわらなかったのである。それが大阪の篤志家、中尾かつ子の尽力によって方丈、庫裏の他青松居(せいしょうきょ)という茶室、閑雲軒という数寄屋が新築されたのである。」⇒②
青松居の茶室は、現在他方に行き、ありません。数寄屋というのは茶席・勝手・水屋が一棟に備わっているものを指します。
滝本坊閑雲軒の古図を木津宗泉(武者小路千家九世愈好斎(ゆこうさい)の家元預りで茶人、茶室、茶庭の設計士)が所持していて、再建の参考になったといいます。
「泰勝寺」の礎を築きその準備をしたのは、宗般玄芳(そうはんげんぽう、見性宗般)と彼の弟子 神月徹宗(こうげつてつしゅう)で、彼らの努力の賜物だったと思われます。
大徳寺486世、5代管長の寺歴をもつ宗般玄芳 が、熊本の細川侯菩提寺の「泰勝寺」が廃寺となっていたのを寺号及び字額、方丈の額を頂く準備をして神月徹宗に伝え、神月撤宗が貰いうけて来て、八幡の「泰勝寺」としたのではないでしょうか。
 熊本県庁文化企画課に、誰が寺号や字額を貰いうけに行ったのか問い合わせてみました。結果は次の通りでした。
 「お尋ねの件について調査しましたが、誰が寺号を頂いたかは明治初期の泰勝寺に関する記録等がなく、分かりませんでした。各ホームページの泰勝寺の情報は、熊本の歴史に関する文献をもとに記載されているようですが、これらの文献も調査しましたが、記載されている情報以上のことは残念ながらありませんでした。」
 以上の結果、 確かな証拠は出てきませんでしたが、八幡泰勝寺の栞と宗般玄芳と神月撤宗の寺歴を元に上 記のように推察してみました。なお、「方丈」の額は、南宋随一の能筆家とされる無準師範(佛鑑禅師)の真筆であるとのことです。⇒③
 宗般玄芳(1848~1922)は加賀の人で、金澤の高巌寺で出家、明治13年円福寺に入寺、その後熊本の見性寺に住山、明治31年に請われ円福寺住職に就任、明治41年に大徳寺管長に上った人です。
 大正7年は、泰勝寺が創建された年で、神月徹宗和尚(1883~1941)が円福寺の住職に就任した年でもあり、彼の師の宗般玄芳が泰勝寺の発展を彼に託した年でもありました。神月徹宗は、昭和3年6月に妙心寺606世、16代管長になった人です。なお、泰勝寺・円福寺ともに臨済宗妙心寺派に属しています。
 熊本細川侯は、明治初年に神道に宗旨替えをし、細川家の泰勝寺は明治の神仏分離、廃仏毀釈により明治2年には住職もいなくなり廃寺となりました。細川候の菩提寺の泰勝寺は、細川藤孝(幽斎)麝香(じゃこう)夫妻と忠興(三斎)玉子夫妻や10代斉茲(なりしげ)、13代韶邦(よしくに)、14代護久(もりひさ)の廟でした。宮本武蔵の供養塔も有ります。
 熊本の泰勝寺を造ったのは、忠興の三男、熊本初代藩主忠利ですが、忠利は父の忠興よりも早く亡くなり忠利の子の光利(光尚)が祖父の忠興が亡くなった後、祖母の玉子(ガラシャ)の隣に忠興の墓を造りました。そして光利は藤孝(幽斎)の法名の泰勝院から泰勝寺と改名しました。(なお、熊本の泰勝寺跡は、立田自然公園となっています。)

泰勝寺での茶会のこと

 その後、八幡の泰勝寺では「松花堂会」が組織され、松花堂の忌日である十八日を期して茶会が催されるようになりました。
 「松花堂会」の発足は大正11年5月18日で、この会には当時の財界の茶の湯を好む人(数寄者)、美術商など多彩な顔ぶれであったといいます。益田鈍翁(孝、三井財閥を支えた人)、高橋箒庵(そうあん、義雄、三井系実業家)、林楽庵(新助、美術商)、野村得庵(得七、野村証券)、戸田露朝(大阪の美術商) また、松花堂や泉坊の持ち主であった西村芳次郎なども参加しました。⇒④
 その後、この「松花堂会」に吉兆創立者湯木貞一も来ています。泰勝寺の「松花堂会」が、今日の松花堂庭園美術館での「松花堂月釜会」に発展し、毎月、市内外の大勢のお茶好きな人たちで賑わっています。「月釜会」の発足は昭和54年9月9日で、それから2年後の昭和56年9月13日に第1回「松花堂忌茶会」が催されました。この「松花堂忌茶会」は今年の平成24年10月14日で30回を数えました。なお、「松花堂月釜会」は1月、8月、10月を除く毎月第2日曜日に市内外の先生方が釜をかけておられます。

   ⇒① 『松花堂昭乗』佐藤虎雄著(昭和13年)
    ② 「近代茶人達の茶会」鈴木皓詞著
    ③ 泰勝寺の栞
    ④ 前掲②

この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

by y-rekitan | 2012-11-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第28号より-03 茶久蓮寺

シリーズ「八幡に残る昔話と伝承」・・・③
湯濁山茶久蓮寺(ゆだくさんちゃくれんじ)

丹波 紀美子 (会員) 


 今は橋本駅の軌道の中にすっぽりと入ってしまって電車の通過音と発着音が狭い構内に轟いているが、ここには文化10年(1813)正月7日の火事に遭うまでは「常徳寺別名湯澤山茶久蓮寺」というお寺がありました。現在は西遊寺の前に「三宅碑」が建っていて、寺のあったことを伝えています。

 天正10年(1582)6月2日早朝、明智光秀は主君である織田信長を本能寺で討ち果たす、いわゆる「本能寺の変」がありました。羽柴秀吉は毛利攻めで備中高松城の清水宗冶を攻めていたが、その知らせを受け、宗冶には切腹をさせ、中国大返しという機敏さで山崎へ帰って来ました。12日、13日と戦は続いたが光秀は援軍の少なさと士気の低下と脱走者の多さに敗戦を悟り、密かに夜に乗じて勝竜寺城を脱出し坂本に向かって逃げる途中に小栗栖で農民の落ち武者狩りにあって亡くなりました。これが「山崎の戦い」です。

 戦に勝った羽柴秀吉は家来数人を連れて「石清水八幡宮に詣でて戦勝報告をして来る」と渡し船に乗った。川の流れに揺られながら橋の無い不便さを考えていたであろうか?そのうちに橋本に着いた。
 「おお!ここに常徳寺がある。常徳寺なる寺は、昔、足利義尚(よしひさ)公の陣僧〈室町幕府は出陣の際、僧侶を連れて行く。死者の弔い、軍師として敵方へも派遣〉であった春庭が開基した寺である。義尚公は茶人である義政公の息子故、茶にも通じていたであろう。陣僧であった春庭も中々の茶人だったと聞く、この寺は代々茶が盛んであろうかのう?茶を所望しよう」お茶に眼の無い秀吉は早速、寺に入って行った。家来が「茶を一服頂きたい」出てきた住職はびっくり……。
目の前に立派な大将が立っている。その大将はついこの間まで川向こうで戦争していた羽柴秀吉様と聞く。
 「はい!ただいま」と言いながら、奥に行き、「どうしよう!茶をよくご存知で造詣の深い羽柴様に差し上げるような茶が点てられない。困った!どうしよう!ええっい!暑いので喉も乾いていらっしゃることだろうから白湯を差し上げよう」と、ぬるめの白湯を茶碗に一杯入れて秀吉に差し出した。秀吉は「喉が渇いているので丁度よい」と、うまそうに一気に飲み干した。「今度は茶を所望したい」また持って出たのは白湯であった。何度、茶を頼んでも白湯ばかり出てくるので、そのうち秀吉も相手が茶人である自分のお茶に敬意を示しているのだと分かり、突然、大声で笑い出した「ワッハッハハ!分かった、分かった、そちの寺は湯を澤山くれて茶をくれん寺である故、湯澤山茶久蓮寺にするがよい」
 f0300125_18172100.jpg秀吉の奇知に富んだ寛大な措置に寺一同感激をして後世まで秀吉様を祀ろうとその後、木像の秀吉像を造った。秀吉が天下をとった後、20石の寺領も頂いた。また秀吉は天正20年には山崎橋の架橋にも着手した。秀吉と常徳寺との関係はこんな出会いだったのでしょうか???
 

 「秀吉と湯澤山茶久蓮寺」の話は橋本だけではなく、京都の「浄土院」や姫路の「法輪寺」にもあります。いずれも白湯が出てお茶が出ない話です。
 浄土院は北野大茶会の準備の時に名水が湧く寺だと立ち寄って白湯ばかり出た話。法輪寺は英賀城を攻めるときに立ち寄って秀吉が軽装のため間違えられて白湯しか出て来なかった話です。どれも秀吉が大笑いをして付けた名前といわれています・・・・・・。


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by y-rekitan | 2012-07-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第26号より-03 講田寺の地蔵

シリーズ「八幡に残る昔話と伝承」・・・①
講田寺(こうでんじ)の笑い地蔵さん

 丹波 紀美子(会員) 


 昔、難波の地を流れていた淀川は幾つもの流れとなって海に注ぎ、入り江は八十島といわれたほど島が多く、そこに架けられた橋は幾度となく流されていた。
 嵯峨天皇の勅命で北長柄から垂水庄の間に橋を再び架けることになった。「造るからには堅固な橋でなければならない。それには人を柱にして水底に沈めるのが一番ではなかろうか」と一人の翁の進言で、垂水近くに関所を設けて人柱にする者を探しておった。人々はこのことを伝え聞き、誰もここを通るものがいなくなり、ただ月日が経つばかりであった。
 ある日、垂水庄の岩氏(いわじ)長者が関所にやって来て「袴のまちに継ぎのある者を人柱にすればよいではないか」と教えてくれた。ところが言い出した長者自身が袴のまちに継ぎがあったため人柱にされてしまった。
 この岩氏には一人の娘があり、見目うるわしく朝日に輝くようだと「光照前」(てるひのまえ)と呼ばれておった。河内国の禁野の里へ嫁いでいたが、父が人柱になったショックで口がきけなくなってしまい、夫が「光照前」と呼んでも目だけで応えて返事はない。「ああ!かわいそうに何とか口がきけるようにしてやらなくては」と夫は神様や仏様にもすがってみたが何の効き目もなく、仕方なしに母の許に帰すことにした。
 夫と共に垂水に向かう途中一羽の雉子が声高く鳴き、飛び立ったので夫は透かさず雉子を射止めてしまった。その様子を見た光照前は「ものいわじ父は長柄の人柱鳴かずば雉子も射られざらまし」と美しい声で詠みあげた。「あっ!妻が和歌を詠んだ。口がきける!」夫はどんなに喜んだことか。「光照前、光照前」と妻の名を呼びながら、元来た道を河内に向かって帰って行った。
 でも世の虚しさ、悲しさを悟った妻は、夫の反対を押し切って父の菩提を弔うため髪を剃り、山城国山崎の里に草庵を結んで仏の道に入ってしまった。「称名山不言寺(ふごんじ)」という。
 f0300125_17244123.jpgそれからおよそ二百年ほどの後、後一条天皇のとき、かつて人柱を立てた長柄の朽ちた橋杭が水底から見つかったので、天皇にお見せしたところ、天皇はその一片に身の丈二寸六分七厘の、今でいえば九センチにも満たない小さなお地蔵様を彫って、「これを不言寺に持って行き岩氏の追善菩提の法要をするが良い」と勅使に四条大納言公任を遣わされた。
 公任はそのお地蔵様を拝見して「長柄江や藻に埋もれし橋柱また道かえて人渡すらん」と詠んだところ、不思議なことにそのお地蔵様がほほ笑んだという。それからは「橋杭の笑い地蔵尊」といい、水難除けや安産など不思議に御利益があると広まって遠い所からもわざわざお参りに来る人が多くなり、人々の信仰を集めることとなった。
 しかし長い年月の間に不言寺は荒れ果ててお地蔵様もいつしか忘れ去られていった。

 明治三七年、講田寺のお坊様が山崎の不言寺が廃寺になって久しく、お地蔵様は不言寺の本山である宇治の興聖寺に引き取られているのを嘆かれて、同じ曹洞宗の講田寺は興聖寺の末寺でもあることから、「淀川を見渡すこの平野山の地でお祀りすれば、お地蔵様もお喜びになる」と思い、お堂を建ててお迎えした。
 長柄の橋杭から彫られた地蔵尊は今では淀川を見下ろす安住の地を得て、ほほ笑みながら皆の幸福を見守っておられる。


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by y-rekitan | 2012-05-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第25号より-01 男山参詣路1

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《歴探ウォーク》
歴史探訪「男山参詣路を歩く」
― 2012年4月  男山周辺にて ―



f0300125_1445918.jpg3月31日(土)は、「男山参詣路を歩く」と題する例会日でしたが、朝からあいにくの雨。雨模様の場合は会場を神応寺にして、住職の話や御仏の拝観を予定していたのでその連絡を参加希望者にしましたところ40名の皆様に集まっていただきました。
 住職による神応寺の来歴の話、そして国の重要文化財に指定されている行教律師坐像をはじめとして豊臣秀吉木像や障壁画、襖絵などを拝観した後本堂にもどり、ガイド3名(石瀬さん・丹波さん・土井)によって男山参詣路の名所案内をガイダンスしました。
 石瀬さんは、清水井古墓と昌玉庵忍澂(にんちょう)寺、石不動などを、丹波さんは金明孟宗竹や男山に自生する「山藍(やまあい)」の話、また神応寺の墓地にある墓の話をしました。ちなみに神応寺の墓地にある主な墓は以下の通りです。
 淀屋道雲、箇斎、言当、辰五郎(廣当)、二宮忠八、永井家先祖供養塔、長沢蘆雪(ろせつ)、山本官助孫正之、右衛門佐局、行教律師。
なお、3月24日から4月8日まで石清水八幡宮社務所書院にて「春の文化財特別公開展」が催されましたが、臨時祭などで着用される青摺袍が展示されていました。それは山藍(やまあい)で染めたものだとのことです。 

 土井は、巣林庵(そうりんあん)の往時の隆盛ぶりを『石清水八幡宮史』第1輯にあった古文書をもとに説明しました。大永三年(1523)四月三日幕府奉行奉書(ほうしょ)と称する文書で、内容は以下の通り。
「石清水八幡宮造営事、守先例於奉行者、被仰付善法寺興清、至納下(のうげ)者、有子細、巣林庵祖俊(そしゅん)首座令存知之、既過半造立之條、可有遷宮云々、早任御内書之旨、可被致奉加(ほうが)之由、所被仰下也、仍執達如件、    大永三年四月三日
近江前司(飯尾貞運)(花押)
       丹後 守 (松田秀俊)(花押)
伊達左京太夫(稙宗(たねむね))殿」
 要するに、1507年に社殿が炎上した石清水八幡宮の再建のために、室町幕府が善法寺興清を奉行(指揮者)に、巣林庵(そうりんあん)の祖峻首座を納下(出納)役にして、全国の守護クラスの者に「奉加金」を提出するよう命じたものです。宛先の「伊達稙宗」とは独眼竜で知られる政宗の曽祖父で、当時陸奥の守護をしていました。まさに、中世の八幡山下にあった寺院の性格を垣間見る思いです。
 「しおり」を制作してもらった石瀬さんに、今回の男山参詣路にとりくんだ思いを寄稿していただきました。

忍澂の取材から思ったこと
          
 石瀬 謙三 
私の生業が「美術」だった習性からか「見える物」にしか「リアル」を感知できない単純人間にとって、歴史という「時間軸」は「見えない物」という抽象的なものでした。それに具体性を与える歴史的事実をどんな文脈で読み込み、構成していけばいいのか。その手法を知らない私の今回の取材は不毛の連続でした。
しおりを読み返して、①から⑯までそれぞれに自分なりの「リアル」を盛り込む意気込みが、記事に濃淡・強弱・温度差の「ばらつき」と「ごった煮感」を露呈し、読まれた方にはその乱文に辟易されたことと平身低頭お詫び申し上げます。
素人の言い訳をお許し願えれば、男山周辺の魅力的な歴史的事跡の豊富さに溺れ、歴史探究2年生の私には「目移り、執着」の連続で「しおり」を纏めるのに荷が重すぎ、心潰れたと言う実感です。丹波さんや土井さんの助けがなかったら、「時間切れ」の体たらくで、どうなっていたことかと思うと恐ろしい経験、修羅場でした。
忍澂(にんちょう)上人が、どんな人だったのか「惹きつけられる」もの多く、思い入れの割にはしおりに表現できていないと今、反省します。過去の文献や伝承を読んでそれぞれの文脈に翻弄され、なにが事実か解らなくなり、それが歴史探究の醍醐味、迷宮と勝手に思い込んで、解らないことは「どうでもいいこと」と逃げてしまい後味の悪い「雨の日の結果発表」になったのかと自戒しています。
取材の感想として残ることは、法然院中興の祖「忍澂上人」にとって八幡が隠遁の地として生涯、「信仰の個性化・内在化」?に真剣に取り組まれた気概の地になったのでは、という思いです。
『男山考古録』、『忍澂上人行状記』、『行業記』ほかの材料の信憑性を判断する能力は私にはありませんが、温度差のあるそれらの表現、文意を通読して、上人の八幡の地に掛ける篤い思いを感じます。
これまで忍澂上人と言えば法然の浄土宗を引き継ぎ京都獅子が谷に法然院を再興し、今に伝わる浄土宗の各々の規律を立てた人くらいにしか記憶していませんでした。もちろんそれは大きな事績ですがそれを進めたバックボーンが隠遁の地この八幡にあったという事実を感知したとき、私の忍澂感は高揚しました。
男山の山上に薬師信仰の護国寺仮堂が再興され、長く行われなかった放生会が再興され神仏同体の八幡山が現世利益へと新たな一歩を踏みだした延宝年間、それを予見していたかのように若き忍澂は男山の麓、神原に残る弁天堂を隠遁の地と決めます。
f0300125_1395578.jpg後に山上の地蔵の頭部を貰い受け、補修した地蔵尊を昌玉庵本尊とします。「せいたか、こんがら童子」を脇に配し、四囲を四天王に護らせる本堂を再建。宗派にこだわらない寺、忍澂寺は布施の集まる寺だったようです。
また「山上の放生会」を補完する「月放生会」を立案し、御馬所神人「今橋安貞」に放生田を開かせ放生亭を営むよう勧め、放生会の民間化を図ります。
思いは死の床に伏して尚、放生会の進め方を気遣い、思いつく事を筆に認めてから涅槃に入ったとか。私の感じた忍澂上人は江戸時代の檀家制度が進める回向寺の堕落を感知して、一度は「律宗」にあこがれながらも阿弥陀に回帰し、阿弥陀信仰をより具体化、個性化して大衆化。地蔵・弁天信仰を振興し、庶民の信仰深化に多彩な展開を図った希有な宗教経営僧だったのではという思いです。
不断念仏の始祖と崇められる一方、膨大な印施出版活動や寺院経営の新機軸は枚挙に暇なく、その心は平成の法然院が芸術の癒しを仏心と捉え芸術振興に積極的で若い芸術家や志あるものにその発表の場を与え、宗教・観光都市京都の都市景観計画にその斬新な提案をされるなど、現代宗教の可能性を切り拓こうとするユニークさと共通すると思えます。
現代法然院の積極性は忍澂上人の気概が伝わっているからでは!と得心します。なにより、その法然院再興を推し進めた精神力がここ、八幡の地「インキュベーター昌玉庵忍澂寺」で充電されたのではと思うとなおさらです。
    ※ 写真は神原にある昌玉忍澂寺跡(弁天堂)


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by y-rekitan | 2012-04-28 12:00 | Comments(0)