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◆会報第90号より-05 御本社道①

御本社道を探る
―その1―

 谷村 勉 (会員) 


御本社道を歩く

 平成22年(2010)、枚方市教育委員会が発行した「楠葉台場跡」の報告書は専門家のみならず郷土史家や歴史好きの人々にも大きなインパクトを与えた。読み進んでゆくと「かつて楠葉方面から石清水八幡宮へと通じる『御本社道』という登山道が男山南西斜面にあった」と記載されている(資料編p315)。
 聞いたこともない「道」の名前だった。江戸中期作成の「石清水八幡宮全図(中井家文書)」を調べると、絵図上部の橋本地区に「御本社道」とはっきり記載されていた。楠葉から橋本南西部にかけて、今ではすっかり開発されたこの地域に、その面影がどれ程残っているものか、八幡宮に通じる「御本社道」を中心に足で追いかけてみた。その結果を数回に分けて報告します。

まず橋本の戊辰の役2題から

1.腰折坂の警衛
 上記の「楠葉台場跡」資料編p185に腰折坂の記述が出てくる。
明治元年(1868)一月二五日、小泉藩(注1)が八幡腰折の警衛を命じられている。
『「片岡貞篤家記」正月二十五日 
一、太政官ヨリ御召出ニ付留守居罷出候処、穂波三位殿ヲ以テ御達左之通 
腰折地蔵辺見繕警衛可有之旨 御沙汰候事』
 八幡、橋本、洞ヶ峠の警衛の意味は分かるが、なぜ腰折坂の警衛が必要なのか、それは腰折坂が男山東麓の「八幡宮道」(注2)である志水道から楠葉へ通じる為であった。「薩摩兵が八幡山の山道を越えて橋本台場の後ろに向かう時、賊兵三十余人山中に番兵たるを見、これを急襲した」との記述がある(資料編p180)。橋本台場後方へは狩尾社経由ではなく腰折坂経由で向かう必要があった。対岸の藤堂藩からの砲撃と橋本台場の背後からの攻撃などによって、幕府軍はついに敗走した。
「八幡市誌第三巻」(p52)に腰折の警衛について、軍務官から西山腰折の見張番所での警固を社士が命ぜられた、との記載がある。警固社士が侍身分ではあるが、大名家以外に警衛を命じられるのは異例だった。これに対応する記事が「楠葉台場跡」資料編p201にある。「明治元年九月一四日八幡社司の八幡腰折の警衛が免じられ、代わりに柏原藩(かいばらはん)(注3)が命じられる。」

・腰折地蔵の事
 上記の「片岡貞篤家記」に「腰折地蔵辺見繕警衛可有乃旨…」とあるが、
腰折坂の解説は「男山考古録の腰折坂」p446に詳しい。「足立寺村より御本宮へ参る道の半途にて、東より西の方へ下る坂有、其坂の近辺に民家三軒計ありて、村名にも号せり、此所に在る石地蔵、道の少し北に小高き所にあり、…」ここ腰折坂に「石地蔵」のあったことを記している。周辺を実際に調査すると、北側の斜面は削られ、地肌がむき出しの形状に気がつく。配水地造成工事等により斜面が削られて直線道路になっている。結局あちこち探し回った結果、斜面上部に「石地蔵」こそなかったものの、記述の所に礎石跡を発見した。
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2.橋本北ノ町、久留米藩士の墓石
 京阪電車橋本駅東側に竹林が残り、中腹には橋本家墓所がある。更に上段に墓地があって、戊辰の頃、橋本警衛に当たった久留米藩士の墓石が残っている。
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【碑文】南筑米府之臣松原要定通称弥三郎為 其人温淳□行頗秀武枝矣干時慶応三丁卯歳八月属隊長吉田尋長諸 京師而衛今出川闕門同戊辰歳三月轉守 城州橋本関門而勉強其際俄抱病焉 父太平要通亦在隊中夙夜雖勞心医薬無寸驗矣 嗚呼人生之無常也夫無奈之何 遂其六月六日三十八歳而没 因葬於導壽山本祥寺片岡氏之塋側 謚曰誠心院日壽居士
【意訳】久留米藩の臣、松原弥三郎要定は慶応三年八月に京都御所今出川関門 の警衛についたが、慶応四年三月、橋本関門に転じて守りについた。しかし俄かに病に倒れ、薬石功無く遂に六月六日三十八才にして没す。因って導壽山本祥寺に於いて片岡氏の塋域(えいいき)の側に葬る。

「楠葉台場跡」資料編p192に 明治元年三月一九日、「金沢藩が橋本警衛を免じられ、代わりに久留米藩が命じられる」とある。
 なお、現在の寺院は法華宗「感応寺」であるが、当時は「本祥寺」であった。今も入口に法華宗「本祥寺」の大きな石碑【元禄三年(1690)建立】が残っている。また、片岡氏の塋域(えいいき)とは八幡宮巡検勾当「正四位紀正敬朝臣之墓」などの墓石が同所に残ることからその塋域であったことが分かる。
(つづく) 一一

(注1)小泉藩は現大和郡山市小泉町に在った一万一千石の大名、四代将軍家綱の茶道師範片桐石州の子孫が代々藩主として幕末まで続く。松花堂庭園には「片桐灯籠」と呼ばれる道導形石灯籠(四角柱)が今も残り、慶長、片桐などと彫られた文字が残る(凡そ40年前に筆者確認済)。
(注2)「八幡宮道」八幡宮遷座以来八幡宮参詣道として発展してきた男山東麓の道は「八幡宮道」と呼ばれ、江戸時代の「八幡宮道標」も数多く残ります。今、俄かに観光客向けにいわゆる「東高野街道」と呼んでいますが、地元住民は他の宗教施設を連想するような呼称は古来使用しませんでした。ここでは「八幡宮道」、「志水道」の本来の名称を使用しています。
(注3)柏原藩(かいばらはん)は現在の兵庫県丹波市柏原に在った。元禄八年(1695)、大和宇陀藩の織田信休が、2万石で柏原に入部したことに始まる。その祖先は信長の次男、織田信雄五男の織田高長に繋がる。 



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by y-rekitan | 2019-03-26 08:00 | Comments(0)

◆会報第86号より-06 歴史さんぽ①

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シリーズ「私の歴史さんぽ」・・・①


洞ヶ峠


倉田 美博 (会員)

 リタイヤしてから久しい。健康のために散歩を兼ねて家の近くでウオーキングをすることが日課になった。何も考えず、まわりの景色に四季を感じながら歩くのは楽しい。
私はいつごろから思い出せないが歴史に興味を持っている。現職のころは仕事に、子育てにと、なかなか好きなことに没頭することができなかった。
 一昨年、ひょんなことから「八幡の歴史を探求する会(八幡歴探)」というわが町八幡の歴史をいろいろと勉強されておられるアマチュアの歴史愛好家に出会った。
そのことが私の心に火を灯してくれた。その方の勧めもあり、その会のお仲間に入れいただいた。元々、歴史には興味もあり、その時代、時代に生きた人々の生きざまやロマンにますます引かれていく自分を感じている。

 わが家から数分のところに、あの筒井順慶で有名な洞ヶ峠がある。洞ヶ峠は山城の国と河内の国の国別けの峠。昔の峠は今ではわからなくなっているようだが、現在は国道1号線(通称・枚方バイパス)が走り、重要な幹線道路。f0300125_20314088.jpgその国道と八幡と奈良方面を結ぶ府道(通称・山手幹線)が交わる交差点の南西角に2枚の大きな看板には挟まれて遠慮がちに立っている1本の碑がある。
 表面には《筒井順慶陣所跡》とある。あの日和見主義の代名詞になった『洞ヶ峠の順慶』、『洞ヶ峠を決め込む』の有名な洞ヶ峠の碑。

 史実とはどうも違うようだ。
洞ヶ峠には筒井順慶は出陣していない。明智光秀が、順慶の到来を待つために自ら陣を張ったのだ。
 しかし、順慶は光秀に助勢を乞われたにもかかわらず、郡山城から一歩も動かず、山崎の合戦には参戦していない。
 順慶が大和一国を治められるように助成してもらったのは光秀。光秀には足をむけて寝られないほどの大恩人。当然恩に報いなければならないはず。だが、動かなかった。また、娘婿の細川忠興にも体良く断られた。多くの傘下の武将にも見放された光秀。 
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 光秀が本能寺の変を起こしたのには、歴史の表面には出てこないが、羽柴秀吉、徳川家康たちの何か陰謀、策略があったのではないだろうか、と勘繰りたくなる。
 事件後、秀吉にしろ、家康にしろ、なぜ、あれだけ素早く行動出たのだろうか。
 光秀には自分が動けばみんながついてくるとの判断があったからの行動だったのではないだろうか。しかし、その判断は間違っていた。主人殺しの汚名を着せられてしまった。
主だった武将たちは誰も協力、支持、支援されなかった。
 その時、光秀は何を考え、心中はいかがだっただろう。誰もがうかがい知ることはできないが、さみしかっただろう。おそらくその時点で心の中では敗北していたのではないだろうかと思う。
 推測にしか過ぎないが、信長は新たに勢力下に納めた山陰、山陽を政治家として有能な光秀に目を光らせてもらうために、丹波、丹後から転封させたのではないだろうか。
だが、二人の心の中までは歴史の表面では教えてくれない。
 その人々の表に出てこないことを推測する。それが歴史に駆り立ててくれる私のロマンだ。

 自己保身はいつの時代にも通じる世の習い。
 私も現職のころはそのような世界に生きてきた。
 山あり谷あり、現在でもビジネスの世界で生き抜いて行くためには策略、場合によっては欺くことも必要ではないか。「洞ヶ峠を決め込む」と言うことわざは「日和見だ」、「付和雷同」などとあまり良い意味には使われないが、ひょっとしたら「機転が利いている・時勢を読むのが上手い」という称賛され現在に通じることわざになりうるのではでないだろうか。f0300125_20375427.jpg

 ことわざ「洞ヶ峠・・・」も、もしかしたら冗句好きの秀吉が順慶をからかい半分に言ったとも聞く。
 秀吉が自らを揶揄して言ったのではないだろうか。

 私はそんなロマンに出会いたい。だから、歴史の話からは離れられない。



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by y-rekitan | 2018-07-28 07:00 | Comments(0)

◆会報第84号より-02  八幡の道

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《会員研究発表》
八幡の道の歴史 
―江戸時代の道標調査を終えて―


2018年2月  八幡市文化センターにて

谷村 勉(会員)

 2月22日午後1時30分より、八幡市文化センター第3会議室で表題の会員研究発表がありました。八幡宮勧請以前の道はどうであったか、勧請以後はどの様に発展して、現在に至っているのかなど、八幡の道の歴史および江戸時代の「八幡道標」の調査結果の発表でした。
  当日の参加者は52名。(会報編集担当)

八幡の道

 八幡には凡そ以下のような道があります。
京街道(大坂街道)が走りますが「東海道57次」とほぼ同じ道です。
八まん宮道、具体的には御幸道、常盤道、科手道、志水道など。
奈良道 〇河内道 〇山根道などがありますが、
主に京街道、八まん宮道、東高野街道、八幡道標について述べます。
 
八幡市内の東麓を走る「道」の名称?

 八幡宮遷座以来、八幡の道には八幡宮参詣道としての歴史があります。
 近世、江戸時代には守護不入・検地免除の神領自治組織が確立していましたので、八幡の地に他の宗教施設を連想させる街道名は存在しませんでした。
八幡における高野街道とは洞ヶ峠が起点の歴史的認識があります。八幡に入れば「やわた道」・「八まん宮道」と呼ばれ、大勢の八幡宮参詣者が行き来する道との歴史的感覚もあります。
 今回、江戸時代の「やわた道標」の調査から近隣自治体を含め76基もの道標が発見されていることからも「八まん宮道」の歴史的事実が証明されていると思います。八幡の道が「八幡宮参詣道」として発展してきた歴史を正しく伝えてゆきたいという想いがあります。

山崎橋の造立

 橋本から楠葉を抜ける高野道が存在します。神亀2年(725)行基によって山崎橋が造立されるが、7世紀後半に奈良元興寺の道昭が架橋した位置に掛けたものであったと云います。江戸時代の絵図から山崎橋が現橋本奥ノ町にあった橋本寺辺りに架橋されていたと推定されるものの、何度も淀川に流され凡そ200年間程で無くなったようです。天正20年(文禄元年・1592)秀吉によって山崎橋は再び掛けられたがその存続期間は短かったようです。
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 石清水八幡宮全図の橋本の部分に橋本寺旧跡と書かれたところがあります。これは豊臣秀吉の御連衆の一人であった「橋本等安」によって建立された寺で、秀吉の「湯だくさん茶くれん寺」の故事で有名な「常徳寺」も江戸時代の中頃にはこの辺りにあったことが判ります。記録には文化10年(1813)西遊寺の隣の「常徳寺」が焼失とあり、寺が移動したことが判りますが、その場所には今も「常徳寺」の石碑が残っています。
 古くから大阪との行き来には淀川の水運が利用され、人や物資が大量に運ばれましたが、港としての機能を持った「橋本の津」は大いに賑わったようです。橋本で舟を降りた八幡宮詣りの人々は「八幡宮道」(京街道)を通り狩尾社を経由して石清水八幡宮を目指しました。

橋本の高野道

 山陽道(西国街道)から山崎橋を渡り橋本から楠葉に続く高野道があります。南の方向に烏帽子を置いたような特長のある交野山をめざして歩きました。弘法大師空海も歩いた道と考えています。今回、江戸時代の道標調査でも「高野道」の存在を証明する「地蔵道標」が発見されました。地蔵菩薩立像を挟んで左右に「すく八まん宮・右かうや 左はし本道」とありました。紛れもなく高野道を案内しています。“すく”とは“まっすぐ行けば”の意味になります。
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写真(上)の道標2基はどちらも久親恩寺内(楠葉中ノ芝)にあります。
中ノ芝から北楠葉を通過し、野田1丁目辺りに来ると野田大師堂があります。
 大師堂から少し離れた野田1丁目の「左八まん宮道・右志みつ道」の道標も元々この大師堂付近にありました。(写真下)
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 大師堂からさらに南方向に進み僅かに古道の面影を残す畦道等を通り、f0300125_1618531.jpg楠葉朝日自治会館を抜けて招堤の町を目指します。整然とした招堤屋敷街を過ぎると「日置天神社」です。この辺りは古くから高野道に沿って大変賑わった所ですが、一帯は南北朝の動乱に巻き込まれて灰燼に帰した歴史があります。日置天神社から近くの穂谷川を越えるとすぐ出屋敷の高野道へと続きます。

京街道

 京街道は文禄堤ともいい、文禄年間に豊臣秀吉が諸大名に命じて建設した淀川左岸の堤防道で比較的新しい街道です。文禄3年(1594)に淀川の改修工事を命じて建設、慶長元年(1596)に完成しました。この文禄堤は淀川が氾濫するのを防ぎ、大坂と京都を結ぶ最短の道として重要な街道となりました。また、秀吉の伏見城築城も文禄3年正月から始まり、文禄4年3月に竣工しました。
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 この時現在の下鳥羽・納所間の大坂街道が開通し、同時に淀・伏見間にも淀堤を築き、巨椋池は横大路沼と南北に分離しました。江戸時代、2代将軍徳川秀忠の時に京街道は「東海道57次」に編入され、伏見、淀、枚方、守口を宿場としました。
 大坂からの京街道に初めて八幡道標が現れるのは枚方市「宗左の辻」道標です。次は京阪牧野駅近くの「前島街道の道標」(明治時代の参考道標)で、八幡道標ではありませんが、これは高槻からの道で淀川を舟で渡って牧野から京街道に入るルートを示しています。f0300125_16303455.jpg牧野から楠葉方向に進み上島町の船橋川堤に当たれば「八幡宮参詣道の道標」が目に入ります。2mの道標の上部の地蔵像をよく見ると、かつて石清水八幡宮の祭神であった「八幡大菩薩像」が彫られた貴重な道標です!楠葉に入ると長福寺の美しい地蔵道標を経て久親恩寺に枚方市最後の道標群を見ると、橋本に入ります。
 小金川の境界を越えて橋本に入り、道なりに進んでゆくと中ノ町のT字路にある「八まん宮道」道標を左に進めば、北ノ町の「八まん宮山道」の道標に到達します。この道標を右折し、狩尾社から八幡宮に向かうルートが橋本からの参詣道です。
「八まん宮山道」の道標を右折せずに、さらにまっすぐ進めばかつての京街道と科手道の分岐点の大楠木辺り(楠木は現在、他の場所への移植準備中)に出ますが、ここから現在、美豆に向かう京街道はありません。木津川、宇治川の付け替え工事で分断されましたので、科手道を進むしかありません。
 分断された京街道は現在、伏見区淀美豆町の松ケ崎記念病院辺りから淀の方面に向けて進む道が残っていて、かつての八幡神領内京街道の面影を残す道となっています。
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御幸道と常磐道
    
 木津川の付け替え工事以前、主に京都から京街道を通って八幡に入る南北の道には常磐道と御幸道がありました。現在、御幸橋の南詰から一の鳥居までの御幸道は大部分が残り、御幸橋南詰の一角に「石清水八幡宮鳥居通御幸道」の道標も残っていますが、御幸橋付け替え工事により八幡宮頓宮内に保管されています。この道標は300年前の江戸時代、正徳3年(1713)に八幡宮検校新善法寺行清によって建立されたものです。しかし幹線道路であった常磐道は付替え工事によって大部分がなくなりました。
 八幡宮一の鳥居手前を右へやや細い道を行くと神應寺の山門に至ります。八幡宮を勧請した行教が創建した由緒ある寺院です。山門を過ぎたところに巨大五輪塔が見え、五輪塔の真向い八幡宮頓宮の西出入口手前に「左 八幡宮道」と彫られた全長280cm、正面幅24㎝、横幅24㎝の立派な道標が横たわっています。
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裏面には「是より北荷馬口付のもの乗へからず」と彫られているようです。一人ではこの道標は動かず、一部の文字しか確認できませんでしたが、京都市内に今も残る「是より洛中碑」と同じ意味のもので、いわば「是より八幡宮碑」とでもいえましょう。
 「是より洛中碑」とは洛中へ入る際には、馬の背に乗らず馬の手綱を引いて歩いて入る事、という意味です。京都町奉行より享保2年(1717)洛中の入口30カ所に石碑が建てられたもので、現在も11本残っているとの報告があります。「左 八幡宮道」の道標も恐らく同時代のものと見て間違いなさそうです。

男山東麓の道の「八まん宮道」
 
 御幸道の一の鳥居付近から南へ安居橋を左に見ながら奈良街道との分岐点である八幡橋を過ぎ、平谷町を左に曲がり松花堂昭乗の墓のある泰勝寺を過ぎると嘗ての幹線道路であった常磐道から南下する道と買屋橋辺りで合流し、「八まん宮道」となって男山東麓の道を南下すれば洞ヶ峠まで凡そ4kmの道程となります。買屋橋から南下し八幡山本で図書館方面に左折し旧道を歩けば、外郎(ういろう)で知られる「じばん宗」の前を通り抜け、突き当りの中央図書館から道なりに南方向に進みます。途中天理教教会を過ぎたあたりで右折すれば紅葉で知られる善法律寺に出られますが、古来八幡の道は南北よりも東西の道から発展した面影が残っています。善法律寺の前を南北に走る道路は新しい道で「新道」と呼びます。昭和30年代頃、田圃や畑だらけでしたが、昭和54年にようやく「認定道路」となった歴史があります。新道は直線的な道路なっていますが、近世までの道は戦略上、必ずと言ってよいほど曲っています。
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「旧道」と呼ばれている元来の道を南に進むと「走上り道」に突き当たり、すぐ右の神原交差点(近くに興正谷入口あり)を左へと進んでゆく。少し歩くと「正法寺」が右に見えます。鎌倉時代に正法寺は開創されたが、現在の伽藍は相応院(お亀)によって寄進されたものです。正法寺はもちろん近世八幡に大きな足跡を残した「お亀」は文禄3年(1594)徳川家康の側室となり、御三家尾張藩祖の徳川義直を生みます。八幡に361通の「領知朱印状」の発給を家康に促し「安居神事」を復活、「検地免除」・「守護不入」の地と確定しました。「検地免除」とは要するに年貢を納めなくてよい訳で、石清水八幡宮を中心とした自治組織体が確立しました。『奈良、大坂からの石清水八幡宮参詣道沿いの正法寺が都名所図会に紹介されるなど門前市をなすほどの賑わいであった』(正法寺栞より)。「八幡宮道」の志水道辺りを歩くときは正法寺惣門をくぐり南門から裏通りののどかな道を時々歩くと、車も殆んど出会うことなく松花堂庭園に辿り着きます。松花堂庭園の東に八角堂がありますが、この前の道が本来の道です。ここから中ノ山墓地の東入口の前を通り、洞ヶ峠を目指します。現在の松花堂庭園横のバスや車が走る南北の道は昭和40年前後に出来た「新道」と呼ぶものです。小高い丘 (西車塚古墳)の八角堂の前には役行者像が彫られた「すく八幡宮」の道標があります。
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安居塚から右に折れると洞ヶ峠に向かいます。今は右折して真直ぐの坂道ですが、以前は左から登る坂道が洞ヶ峠道でしたが、現在は分断されて通れません。いよいよ洞ヶ峠を越えると枚方市の高野道に入ります。
 また、八幡の安居塚のT字路から南に直進すれば「山根道」に入り、長尾、藤阪、津田、倉治を通って私部で東高野街道に合流します。

大阪府下・東高野街道の「やわた道標」

 八幡の道に江戸時代の「やわた道標」は22基存在します。江戸時代以前の高野道の道標を見たことは在りません。見るのは最近建てた新しい道標?ばかりです。そこで大阪府の東高野街道に八幡道標の存在を何度も訪問して確認しましたところ、東大阪市の2基を始め枚方市との間に何と12基の「八幡道標」がありました。奈良、大坂の八幡宮参詣者を八幡宮に導く道標群です。指差し道標や地蔵道標、観音菩薩道標、相撲取りの大井川万吉道標など個性的な道標ばかりです。如何に八幡宮への参詣者が多く河内の高野道を利用したかを物語るものですが、交野や星田の住民にとっては「やわた道」・「京やわた道」であったのです。枚方市出屋敷に明治33年建立の東高野街道碑がありますが、洞ヶ峠から一里の距離を現わしています。なお枚方市全体に存在する「八幡道標」は26基もあり、八幡よりも多くの道標が存在しました。

奈良時代の古道

 八幡の道は石清水八幡宮が貞観元年(859)に勧請されてから整備されてきたと考えます。f0300125_20402647.jpgそれ以前に官道として整備されていた道とは、まず山陰道と山陽道で、奈良から現在の京田辺市大住を通り、手原川に架かる関谷橋で別れて、淀方面へ向かう山陰道と美濃山廃寺、志水廃寺、足立寺、楠葉中之芝を通り八幡の橋本から山崎橋を渡って対岸の山崎へと入る山陽道でした。図は平城京時代、長岡京時代、平安京時代の男山周辺の古代官道図です。石清水八幡宮の創建以前の人の居住は、当然山陰道沿いや山陽道沿いに集中し、古墳や古跡も概ね古代官道沿いにあります。現在の常磐道や志水道など八幡宮創建以前に南北を縦貫する「八幡宮道」は整備されず、むしろ山陽・山陰道から派生した東西の道が中心であったと思われます。

「やわた道標」はまだまだ存在する

 江戸時代のものと思われる「八幡道標」は京都市、長岡京市、大山崎町、高槻市、茨木市、交野市、寝屋川市、四條畷市、大東市、東大阪市、枚方市におよび、八幡市の22基を含めて総計76基に至りました。その後、冊子を刊行することができ、読者から沢山の情報を頂き、未だ我々が知らない「八幡道標」がある事も解りました。例えば大阪府松原市に2基の「八幡道標」を発見しました。
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松原市には中高野街道が走ります。守口市から松原市を経て河内長野市に入るルートです。淀川を越えた島本町にも道標が見つかりましたし、先般刊行した冊子の読者から京都市内北野天満宮近くに建つ道標の紹介がありました。

八幡東麓の街道名の経緯

八幡の道をいわゆる東高野街道などと最近まで呼んだことはなく、八幡の道は八幡宮の遷座(859年)以来八幡宮参詣道として整備されてきたものであって、高野山参詣道として整備されたことはないと思います。
東寺や高野山に通じるというだけで、高野街道と云うのはおかしな話で全国の道が高野山に通じていたらすべて高野道になる訳でもないと思います。弘法大師が歩かれた道は奈良時代の官道である古山陽道、あるいは南海道と呼ばれる橋本から楠葉を経由して枚方の招堤を抜け交野の道を目指した道だと思います。八幡宮が遷座(859年)され、南北の道が整備される以前に弘法大師は入定(825年)されています。
「男山考古録」には、志水町から南半里許、万称寺在所より五町許南を俗に高野道と云う、と記載されています。山上山下惣絵図等にもその通り図示されています。八幡神領には男山独自の歴史や文化が溢れており、高野道に八幡宮や神應寺や正法寺が建立された訳では決してありません。
明治14年(1881)頃の「京都府地誌 荘誌(八幡荘)」に初めて“高野街道”の名称がでてきます。その後明治18年頃の陸軍仮製図には現在の松花堂庭園前の八幡城陽線交差点あたりから“自京都至和歌山道”とあり、明治42年(1909)頃の陸軍地図に洞ヶ峠付近に“東高野街道”とあります。これらの名称は行政や国防上の区分で、一般住民には周知されてないと思います。
 
歴史街道運動

平成になってからの歴史街道運動により、ルートを決めて、現在の「いわゆる東高野街道」の道標が多く設置されてしまいました。単に観光集客目的のための名称であることは明らかです。
 しかし、なぜ八幡固有の歴史的名称を生かそうとしないのでしょう、そうでなければ、八幡の正しい歴史が後世に伝わるものかどうか大変な危惧を持ってしまいます。他の自治体が血眼になって江戸時代の歴史を捜して何とか観光客誘致をと頑張っている姿よく目にしますが、八幡は一体何をやっているのでしょうか?何度も繰り返しますが八幡の道は八幡宮参詣道として機能していることが重要な歴史的事実で、それを示す八幡周辺の道には江戸時代の「京やわた道」の道標や八幡宮に近くなれば「八幡宮道」と刻まれた道標が沢山確認できます。大層重要な文化財としての道標群だと思います。
河内の星田や交野地方では高野道ではなく、「京やわた道」と呼び多くの住民が八幡宮を目指しました。
高野道だという人々は八幡の歴史を探究したでしょうか、歴史を知れば高野道沿いに八幡の町が発展してきたかのように言ったり、松花堂昭乗が男山東麓の東高野街道を歩いたなどとは言えません。小説の世界ならまだしも、歴史を語る場合は当時の仕組み、スタンダードで語るのが筋で、仮に現在のスタンダードで語れば歴史はいくらでも捏造されると思います。男山の東麓に当時「八まん宮道」はありましたが「東高野街道」はなかったはずです。
 歴史を知るうえで綿密な調査も行なわず、八幡の歴史を知らない官僚がまず地元の住民の意識を全く考慮せず勝手に名付けてしまった感があります。

八幡にある新しい「東高野街道碑」とは!?

 なぜ今「東高野街道」なのか、いつ「東高野街道」になったのか詳しい方があれば是非一度原稿に書いて教へて欲しいと思っています。昭和2年から4年頃には「三宅安兵衛遺志碑」が八幡の地に凡そ100基程建立されたと聞いていますが、現在、実際に八幡で確認されているのは91基だったと思います。
 「三宅安兵衛遺志碑」建立の歴史は中村武生氏(京都女子大学非常勤講師)の論文によってよく知られるところですが、松花堂の所有者であった西村芳次郎の進言や協力が大であった事を知りました。その西村芳次郎が進言して建てたとも思われる「高野街道碑」が松花堂庭園近くの月夜田交差点にあります。西村芳次郎は男山東麓の道を「高野道」にして八幡観光につなげたいとの思いもあって建碑を思い立ったものの洞ヶ峠から志水の離れ「中ノ山墓地」の近くに立てるのが精一杯の様でした。以前90歳を超えた古老に高野道の所在を聞いたところ、“志水の離れでしょ”と即座に返ってきました。洞ヶ峠が志水の離れにあるとの感覚だったと思えてなりません。一般に志水の離れに当たる「中ノ山墓地」のように、墓地は大概が地区の離れや境界の地に多く存在します。
 さて、男山東麓の道に「東高野街道」と称する石碑が13基も建立されて一種の異様さを感じます。昭和30年代後半か40年頃に開通した「新道」にも数基建立されています。丁寧さも限度を超えている感があります。近年俄かに建立された「東高野街道」の道標をよく観察すれば、建立年月日や建立主体が記されていません。常識では考えにくいことですが、そこには何か意図があるのでしょうか、考えが及ばなかったのでしょうか?f0300125_19194589.jpg
 石碑・道標に興味を持ってから、いつもその意味について思い出す文章があります。=歴史的な石碑や道標が指し示す「史蹟」は、『あたかもその地域の唯一の歴史のように、旅行者のみならず、住民にさえ認識され出すのである。石碑が後世にこのような影響を与えるものである以上、その建設過程は追及されなくてはならない』(中村武生『花園史学』2001.11) 建設過程とは個々の石碑
がいつ、誰によって、何の目的によって建立されたか等を石碑に銘記する事であります。それによって現在の我々にとって郷土の文化財研究の貴重な遺産となっています。また石碑や道標が観光客に役立つのも表だけでなく裏や側面に書かれた意味を理解し、設置の背景をも読み取ろうとするからです(中村武生監修『中村武生とあるく洛中洛外』2010.10・京都新聞出版センター)=
以上一一
 
     
『一口感想』より

道標について、大変研究(調査)されていて、八幡について正しく伝えていくことが大切だと思います。谷村さんの研究姿勢に感動しました。大変勉強になりました。色々とお尋ねすることがあると思いますが、今後共に宜しくご指導くださいませ。(S.Y.)
現場を観ての説明で非常に説得力があり、よく分かりました。(G.K.)
本日はありがとうございました。東高野街道が、まったく別のものであるという事実を知り、びっくりしました。精密な調査の中、わかりやすく説明していただきとても勉強になりました。(M.Y.)
各地の道標を現地で確認され、江戸時代以前の八幡の及び八幡へ向かう道が人々にどの様に呼ばれ見られていたかが判りました。また、お地蔵さんが道標にもなっていたことを初めて知りました。(T.Y.)
大変ていねいに説明されており、おどろきました。(S.K.)
古道や道標が整備され、話題性のある様なものがつくりだせたらいいなぁと思いました。(T.M.)
大変多くの資料を準備され、詳しく分析されており感心いたしました。(K.K.)
 
                                
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by y-rekitan | 2018-03-26 11:00 | Comments(0)

◆会報第84号より-04 高野街道

八幡市誌の高野街道

田中美博(会員)


1.はじめに

 昭和55年に発行された「八幡市誌」(※1)は戦後に編集された八幡地域の歴史を表す本である。しかしながらその第二巻に疑問のある箇所があり調査したので報告したい。それは、第二巻p13~14の高野街道の項にある記述である。その文章は「建久六年(1195)十月二十九日・・・大炊殿に集まった公卿達は、暁の鐘が鳴ると同時に、唐車と騎馬で奈良春日社へ参詣のため出発した。・・・九条から伏見を通り、宇治津から船に乗り、巨椋池を渡って、美豆辺に上陸し、八幡宮に参拝して後、高野街道を経て南都佐保殿へ着いたのは己始刻(午前十時頃)であった。明月記(めいげつき)」との記述である。これは鎌倉時代の公家で歌人であった藤原定家の日記である明月記からの引用とされている。

2.最初の疑問

 八幡市誌の上記の記述を読んで最初に不思議に思ったのは、f0300125_21501745.jpg➀所要時間が不足ではないか、また、②八幡から奈良へ行くのになぜ高野街道を利用したのか、の2点でした。
 佐保殿の場所は明確ではないが、南都奈良の市中にあったとされている。八幡市誌では京都中心部を出て宇治津から巨椋池を船で渡り美豆辺りに上陸して八幡宮に参拝し、そのあと高野街道を経由して奈良まで行ったとしている。たとえ八幡からは最短の田辺、木津を経由しても、京都中心部-宇治-八幡-奈良までの全行程はおよそ58kmある(地図参照)。さらに八幡宮に登山し参拝する時間も必要である。唐車と舟に騎馬も合わせて時速6km出たとし、暁の鐘がたとえ午前0時だったとしても午前10時頃に佐保殿に着くのはまず無理ではないか。
 もう一点は、八幡宮に参拝ののち奈良へ行くのに高野街道を通ったとしていること。添付の地図を見てわかる通り、八幡から奈良へ行くなら田辺、木津を経由するのが最短で、洞ヶ峠を越え河内の側へ遠回りした理由がわからない。

3.原本の記述

  では明月記の原本の翻刻版を見てみよう。明月記の翻刻は国書刊行会発行(※2)が一般的であるが、建久六年分はほとんどが欠本で、建久六年十月二十九日分は記載がない。十月二十九日分は彰孝館所蔵を底本に補遺として群書類従完成会が翻刻を発行(昭和46年・1971)していた(※3、添付資料参照)。添付翻刻のとおり、宇治から佐保殿までの記述は「於宇治乗御御船、(源)顕兼拝儲北辺、即御車於八幡伏拝下御如例、献御沓、巳始剋着佐保殿、大将殿別御宿所・・」となっている。すなわち、宇治で船に乗りまた車に乗っている。
 さてここで大切なことは、八幡市誌にある、「巨椋池を渡って美豆辺に上陸」、「高野街道を経て」を意味する言葉が明月記に無いことである。これは市誌執筆者による根拠のない飛躍ではないか。
 では「八幡宮に参拝」はどうか?この根拠になっているらしい「於八幡伏拝下御如例」という言葉があるがこれは何を意味するのだろうか、次の項で述べる。


 
4.於八幡伏拝

 明月記の他の日に「於八幡伏拝下御如例」と同様の記述がないか調べた。
先ほどの時から30年以内に3つの例があった(※2)。これらはいずれも京都から南都奈良へ向かった時の記述である。
於宇治橋下馬渡之、於八幡伏礼下馬、入丈六堂休息、・・、於泉木津乗船渡之、」
正治元年(1199)2月22日
儲宇治船津・・下船騎馬於八幡伏礼、又候御沓、自是前陣於贄野池乗輿、」
建仁3年(1203)7月16日
宇治橋以西、建久元久之往時如浮眼、奉礼八幡、伏拝過贄野池、」
寛喜3年(1231)8月19日

 原文には読点はなかったことを考えれば、これらはすなわち、宇治川を渡って奈良へ向かう途中に八幡伏拝あるいは八幡伏礼という場所があり、そこで乗物から降りて八幡宮に向かって拝む、というのが通例だったことを示している。また、➀では木津で川を渡った、②と③では井手町多賀にあったといわれる贄野池のそばを通ったことから木津川の東側を奈良に向かったことに間違いがない。もし石清水八幡宮に来て参拝したなら、建仁三年八月十五日の放生会へ参列のように詳細な記述があるはずで、「於八幡伏拝下御如例」など短い言葉で済ませる事柄ではない。f0300125_21414647.jpg
 今でも宇治市と城陽市の境界にあたるところの道の西側に伏拝八幡宮(別名御拝(おがみ)茶屋八幡宮)という小さな神祠がある(写真参照)。ここは小高く、石清水八幡宮のある男山を望見できたので、旅人はここから八幡宮を遥拝していた。このあたりを古くから「伏拝(ふしおがみ)」と呼んでいたと宇治市史巻6に記されている(※4)。
 以上のことから、京都からまっすぐ南都奈良へ行く途中で八幡宮をおがんだことは明らかである。なお、前述の行列の速度や所要時間についてはさらに研究が必要であろう。

5.公衡公記きんひらこうき

 八幡市誌には西園寺公衡の書いた公衡公記の記事が引用されている。そこでは、「三日(弘安十一年=1288=正月)今日還御也、家君・予(西園寺実兼と筆者西園寺公衡父子)等申暇、直可参春日社 自生津乗舟、可着木津、自木津可乗車、之支度也」とあることで、前項の明月記と共に八幡が京―八幡―奈良の参詣コースの要点となりつつあるとの説の補強に使われている。
 まず、この日は弘安十一年正月三日としているが、翻刻(※5)では二月三日が正しい。
この記事は院政を行っていた後深草上皇の石清水八幡宮行幸のとき、参詣行事が終わったあと公衡達2人が別行動しようと計画した話である。八幡から奈良へ行くには美豆に近い生津から舟で木津川をさかのぼるルートがあったことを示しているのみである。京都―八幡―奈良の定例コースがあったとするにはこの例だけでは不足である。また高野街道はルートに入っていないのに「高野街道」の項の補強資料としている点にも疑問がある。

6.まとめ

 高野街道の項にある「巨椋池を渡って美豆辺に上陸」、「八幡宮に参拝して後」、「高野街道を経て」という記述は、引用された明月記の箇所には根拠がなかった。また、引用された公衡公記の記事も高野街道に関係のないものであった。

引用資料
(※1) 八幡市誌 第二巻 p13~14 発行 八幡市 昭和55年6月25日
(※2) 明月記 発行 国書刊行会 第一巻 明治44年9月30日、第三巻 明治45年2月29日
(※3)史料簒集〔期外〕明月記 第一 発行 ㈱続群書類従完成会 昭和46年8月25日
(※4)宇治市史6 宇治川西部の生活と環境  p713 発行 宇治市役所 昭和56年3月1日
(※5)史料簒集〔第一期〕公衡公記  第一 p101  発行 ㈱続群書類従完成会 昭和43年6月30日
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by y-rekitan | 2018-03-26 09:00 | Comments(0)

◆会報第82号より-06 文化祭発表

第45回八幡市民文化祭での展示発表報告

八幡の歴史を探究する会「八幡の道探究部会」


 2017年10月28日、29日の二日間の八幡市民文化祭において、八幡市文化センター3階ロビーで展示発表をしました。
 会場では専門部会「八幡の道探究部会」の会員が、2年間かけて現地に出向き調査した江戸時代の八幡市内(22基)及び市外(54基)の八幡道標(みちしるべ)と設置場所を示した地図をパネルに掲示しました。f0300125_11175696.jpg
 また、古地図や古道地図もパネルに掲示しました。文化祭の両日共に台風接近の影響で生憎の雨天となり例年より来場者は減少しましたが、来場の皆様は熱心に道標写真や地図で設置場所を確認されていました。会場では道部会員や歴探の幹事が中心となって説明にあたりました。

1.江戸時代の八幡道標(みちしるべ)

 『「石清水八まん宮道」に誘う道標群(江戸時代の八幡道標)』のタイトルで展示パネル5枚に京都市南区から南は東大阪までを10地域に区分した拡大地図には八幡道標設置位置を矢印で示し、各地図の周囲には道標写真を掲示しました。道標写真から、①行先のみ標示の道標、②地蔵道標、③指差道標、④墓碑道標等々の形態がある事が判り、特にお地蔵さんが彫られた道標が多く設置されている事が確認されます。設置場所は一番北の八幡道標は京都東寺近くの「矢取地蔵堂前の道標」で、南は東大阪市の「喜里川町の道標」(下図)です。
「地域別の八幡道標数」は次の通りです。f0300125_1222057.jpg
①八幡市内:22基
②京都市南区:1基
③京都市伏見区:7基
④長岡京市:1基
⑤大山崎町:1基
⑥高槻市:3基
⑦茨木市:1基
⑧枚方市:26基
⑨交野市:2基
⑩寝屋川市:2基
⑪四條畷市:3基
⑫大東市:2基
⑬東大阪市:5基
以上、合計76基が今回の調査で確認され今回展示発表をしました。

 また、今回の調査結果を「昔と今を結ぶ掛替えのない歴史遺産として保護する」とともに「後世に引き継ぎたい」との願いから、冊子『「石清水八まん宮道」に誘う道標群』に取りまとめて発刊しました。冊子は会場で販売しましたが、2日間で50名越の多くの方にお買い求めいただきました。

2.古地図、古道地図の展示

 ロビーの向かい側の展示パネル3枚には八幡市の代表的な古地図と「中世~近世の男山周辺の道」を現在の地図上に記載した地図を掲示しました。来場の皆様は、石清水八幡宮参詣道や山麓の道を現在も使用されている道や廃道になった道を地図上で確認されていました。

これからの部会活動について

 「八幡の道探究部会」は八幡市文化祭では昨年に引き続き2回目の展示発表でしたが、来場者の方々には掲示の道標や地図を熱心に見ていただいたことを感謝いたします。これからも部会は自分の足で現地に出向いて調査確認をする地道な活動を続けて行く所存です。
by y-rekitan | 2017-11-27 06:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-06 八まん宮道

「石清水八まん宮道」に悠久の歴史がある


 谷村 勉(会員)


【八幡の道と空海】


 高野街道とは嘗て空海が高野山への道をとったという古い街道を指しました。
空海が実際に高野山へと足を運んだと思われる八幡の道は橋本にあります。
大山崎・橋本間の淀川に架かる「山崎橋」(神亀2年・725架橋)を大山崎から橋本に渡り、楠葉、招堤南町の「日置天神社」を通って出屋敷、津田の集落に入る道です。橋本の近く楠葉中之芝の「久親恩寺」に古い地蔵道標がありました。

f0300125_1422085.jpg 鎌倉期の道標でしょうか、両手で宝珠を持つ「地蔵菩薩立像」の崩れた光背の左に「すく 八まん宮」、右には「右 かうや 左 はし本道」と彫られて、橋本から楠葉を通る旧高野道の存在を証明する貴重な地蔵道標だと確認できました。
 空海は石清水八幡宮遷座の25年前に入定しています。八幡宮遷座後、八幡の北の限りである橋本町や科手町は淀川水運と共に早くから道や町々が整備され、その後に男山東麓の南北の道が整備されていきますので、空海が洞ヶ峠に至る男山東麓の道を歩くことはありませんでした。八幡宮が遷座される以前の道路は現京田辺市大住の府道22号関屋橋から内里を通り木津川に沿って伏見区淀美豆(旧八幡神領内)に至る「旧山陰道」と府道22号関屋橋から分岐して志水廃寺跡(八幡月夜田)周辺を通り、丘陵を越え足立寺跡付近から楠葉に入り橋本へ向かう「旧山陽道」の二つの古代官道を中心に発展して行く経緯があります。

【八幡の宝物】


 江戸時代の中頃に描かれた「石清水八幡宮全図」をご存知の方も多いと思いますが、八幡にとりましては「宝物」と云えるような絵図で、八幡の歴史の底力を感じさせる作品です。
八幡市民図書館(八幡菖蒲池)の入口のロビーやふるさと学習館1階展示室(八幡東浦)にも同様の実物大の絵図が展示してあります。ゆっくり見て行くと色んな事が読めてきて楽しくなります。当時の地形や神社仏閣、建物などと共に、幸いにも今も沢山残る各町名や歴史上に出てくる史蹟名勝など八幡の歴史を確認する手引きとしても貴重な絵図で、江戸時代の町の様子を伝えるこの絵図こそ我々の「宝物」といえます。いつかこの絵図から読み取れる数々の物語を解説できる機会があればと思う程です。絵図の北側に「御幸道」と「京街道」が交差する地点に「御幸道立石」と書かれた箇所があります。これが「男山考古録」に記されている「正徳3年(1713)」に「石清水八幡宮検校新善法寺行清」が建立した「石清水八幡宮鳥居通御幸道」の石碑で一の鳥居までの「御幸道」(行幸大路)を指しています。この石碑は現在も残り、御幸橋の付け替え工事で八幡宮の頓宮の中庭に一時保管されていることが分りました。
 明治になって、木津川、宇治川の流域が現在のように変わった為に、「御幸道の石碑」の位置も変わりましたが、年度内には御幸橋の南詰に再び建つと「市の担当者」から聞きましたので、300年前の江戸時代に建立された歴史的文化財として、じっくりこの石碑をご覧ください。
f0300125_158512.jpg

【やわた道標の調査】


 一昨年から凡そ2年をかけて八幡市内はもちろん近隣自治体を含め、江戸時代の道標調査を行いました。「やわた」の文字や里程が彫られた道標を「やわた道標」と捉えて、その写真撮影とともに自治体別に「やわた道標」の本数を確認しました。総数で76基ありました(八幡の22基を含む)。詳しい内容は別の機会に報告しますが、それぞれが歴史的価値のある重厚な道標群でした。
 京都市内では南区唐橋羅城門の矢取地蔵堂前に「左 やわた八幡宮」と彫られた道標を含めて8基がありましたが、八幡に近い伏見区に7基が残り、長岡京市に1基、大山崎町に1基ありました。
大阪府には枚方市に26基もの道標があって「八まん宮道」、「八まん道」、「八幡街道」などと彫られた見事な道標が残っています。高槻市には3基、茨木市は1基、交野市に2基、寝屋川市に2基、四條畷市に3基、大東市に2基、東大阪市には5基があり「やはた」、「京 やわた」、「やハたみちすじ」などの文字が強く印象に残りました。このように今でも近隣自治体には多くの「やわた道標」が残り、自治体や住民にとって江戸時代の道標は大切な文化財であると自覚して、できる限り現場保存に努力し、大事に扱われている様子がひしひしと伝わってきました。
          
【八幡の道は八まん宮道】


f0300125_14533014.jpg 「八幡」へ案内する道標の数々は主に江戸時代に入って街道が本格的に整備されるに従い、往来する人々も飛躍的に増大しました。それに伴って道標もその地方の住人や有徳人、信仰心のあつい人々によって建立されたようです。「地蔵菩薩像」の道標が大変多く目につきますが、墓石に道案内を刻んだ道標も有りました。
道標には「京・やわた」をセットで案内するケースも目立ちます。現代の様な案内地図や電話もない時代ですから“やわた道 石の地蔵に 聞いて行く”と多くの地蔵道標に道を教えられては、ほっとするような息遣いが感じられ、「京やわた」の文字を見ては、都に近く何となく「みやび」な雰囲気を感じ取っていたかもしれません。
 八幡以外に54基もの道標群が「八幡道標」として現存します。如何に多くの人々が八幡宮参詣道としての「八幡の道」を歩いたものでしょうか。特に河内や大和、摂津の人々の往来が多く、放生会や安居神事の祭には沢山の人々がその役割を担ったり、多くの参詣人で賑わう様子が古文書からも読み取れます。
 「やわた道」あるいは「京やはた道」の道標に導かれた人々が実際に八幡宮の神領に入れば「八幡宮道」と書かれた道標が多く目につき、いよいよ「石清水八幡宮」も間近に迫っているのだ、と実感したものでしょう。
 「京・やわた道」「やはた道」「八まん宮道」の道標は八幡に数多くありますが、これだけの「やわた道標」の数の多さは一体何を物語っているのかはすでに明らかです!それに比べて男山東麓の南北の道に「東高野街道」と書かれた道標は1基もありません。これらからも八幡では決して「東高野街道」と呼ぶような道はなかったことが誰でもすぐ理解できます。江戸時代に、さも「高野道」や「東高野街道」が男山東麓を走っていたとするような文章があればこれは間違いです。歴史を解説する場合はその当時の常識や規範(スタンダード)で語らねばなりません。現在の規範をあてはめて解説するのは間違いのもとになります。ここは歴史を語る者が一番気を付けるところです。
 八幡では「八幡の道」の名称を他の宗教施設を連想するような名称に置き換えるようなことは決してありませんでした。「男山考古録」でも洞ヶ峠辺りから大阪寄りの道を「高野道」と呼んでいたことが明らかです。古来八幡に「東高野街道」という名称の道は無かったという真実を知って「ビックリする人」がなんと多いことでしょうか!
 凡そ90年前、昭和初期に八幡のあちらこちらに「三宅碑」(京都の三宅安兵衛遺志碑)が建てられました。その三宅碑の建立場所については「西村芳次郎」(当時の松花堂所有者)が大きく関わって、男山東麓の南北の道も「高野道」としたかったような気配が感じられますが、住民から受け入れられるものではなく、仕方なく西村芳次郎をしても、現在の月夜田交差点にある「右 高野街道」(昭和2年建立)の三宅碑を建てるのが精一杯だったようです。但し元々この「三宅碑」はここに建ってはいません。現在の「宝青庵」(もみじ寺)と中ノ山墓地の間の旧道(本来の古道)にありました。右に行けば洞が峠の高野道に至るという意味です。志水町(道)のはずれがすぐ洞ヶ峠という認識が当時は在ったのかも知れません。なお、この三宅碑には「文学博士 西田直二郎書」とあって、何とも含蓄のある石碑に見えます。
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【借物では「宝物」になり得ない】


 楠葉中之芝の「久親恩寺」にある両手で宝珠を持つ「地蔵道標」が橋本から楠葉を通る旧高野道の存在を証明する「地蔵道標」であることが判り、これは楠葉はもちろん、八幡の橋本にとっても「宝物」の発見になりました。
 また江戸時代から伝わる「石清水八幡宮全図」も「宝物」です。これ程の絵図を他の地域ではあまり見かけません。しかも江戸時代から繋がる町名や道筋がそのまま残り、いろんな歴史の舞台となった物語がこの絵図から次から次へと浮かび上がります。
f0300125_14584216.jpg 八幡や近隣自治体の「やわた道標」の調査では総数76基もの道標が残っていました。その殆んどが江戸時代に建立されたもので、歴史の重みを感じさせるほどの重量感がありました。京都市内ではやはり八幡の近くの伏見区に集中しており7基が残っていました。一つの自治体では概ね1基あるいは2~3基程度でありましたが、近隣の枚方市では牧野、楠葉を中心に何と26基もの道標があり、昔から同じ八幡宮文化圏であったことが窺い知れます。八幡には22基の江戸時代の「やわた道標」が残っています。「すぐ八幡宮」「やわた道」「八まん宮道」と書かれた道標群はこれらも我々のかけがいのない「宝物」です。
 さて、最近になって「石清水八幡宮参詣道」として「やわた道」、「八幡宮道」などはるか昔から八幡信仰の道として、その役割を果たしてきた男山東麓の道を「東高野街道」などと言い出して、誰が何時建てたか解らない薄っぺらな道標が僅か3kmの距離に13基も建ってしまいました。常識的に2,3基もあれば十分の処に、13基もの道標を建てないと信用してもらえない、との思いからでしょうか、これでもか、これでもかと建つ姿を見て、段々見苦しくなりました。この道標に歴史観を彷彿させるものがあるのでしょうか。
 自ら歴史的な調査も実施せずに、何処かの学者の意見を鵜呑みにするだけで建てたようですから間違いだらけで、理屈に合わない無駄な道標が沢山あるように思われてなりません。聞けば平成に入って、大阪から発信された歴史街道運動に乗っかって、観光集客を目的に建立したようです。我々八幡の住民に殆ど馴染みのない「高野街道」がなぜ八幡に突然に出現するのか?驚きです。この様な高野山ブームに乗っかったような借物の名称では八幡の「宝物」にはなり得ません。先般、八幡のとある協会のネット記事を見ていると、八幡は「東高野街道の宿場町」であったという誤った引用記事を掲載していました。何をかいわんや!事実誤認を誘引させるネットの引用記事は安易に掲載しないのが鉄則です。
       
【男山東麓の道は「石清水八まん宮道」がふさわしい!】


 我々の世代が受け継いできた八幡の歴史は次の世代にもしっかり引き繋いでゆくことこそ歴史や伝統が繋がりをもって活きてきます。男山の東麓を南北に走る道の名称は八幡の住民にとっては歴史的にも、江戸時代の道標の数々の存在を見ても「石清水八まん宮道」とあってこそ本物でネイティブな名称であり、通称「八まん宮道」だとすれば、近隣の八幡道標や八幡市内の道標と結びついて、一気に歴史が繋がり、ここに悠久の歴史を感じるとることができるはずです。現在、日本で一番多い神社は八幡神社で、いたる所に「八幡宮道」や「八まん道」があると想像されますが、「石清水八まん宮道」の名称であれば、ここ八幡にしかない固有の道になります。
 八幡に男山あって高野山なし、八幡に「八まん宮道の道標」あって「高野道の道標」なし、八幡に「石清水八幡宮」あって「八まん宮道」あり、八幡に「石清水八幡宮」あって「宝物」あり。
 八幡の歴史を調べてゆくと、幸いにも八幡にしかない「宝物」が続々とでてきます。一般には殆ど知られていない歴史的事実や文化財などを含めて驚くほどですが、残念なことに自治体には発信力が期待できそうにありません。市井の郷土史家の活躍こそが期待されるところです。八幡の歴史を探究し、自分の目で確かめ、信頼される確かな情報を共に発信してゆきたいと願うところです。  
以上  

by y-rekitan | 2017-09-26 07:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-07 本の発刊

『石清水八まん宮道』にいざな道標みちしるべ
―江戸時代の八幡道標―
の発刊にむけて

「八幡の道探究部会」編集委員会


 2015年10月に古道の調査を目的として本会の専門部会「八幡の道探究部会」を立上げて活動しています。その一環として編集委員会を設けて約2年間の道標調査結果を取りまとめて題記の冊子を発刊する準備を進めていましたが、このたび予定通り発刊する運びとなりましたので概要をお知らせします。

出版の趣旨

 八幡の古道を歩いてみると、当時の人々が生活する上で必要、かつ現在も貴重な道標(みちしるべ)が多く残されています。しかし残念ながら壊されたり、倒されたり、あるいは他所に移されたり、意味のない形で放置されているものも見受けられます。一方で八幡市に通じる市外の古道には、石清水八幡宮や八幡を目指す多くの道標が残り、現在も大切に保護されています。 
 本書は150年以上前の「江戸時代」に建立された八幡市内及び市外の「八幡道標」ともいうべき道標群を「昔と今を結ぶ掛替えのない歴史遺産として保護し」、「後世に引き継ぎたい」との強い願いから、現状を会員が自分の足で調査した結果をまとめて出版を企画・実施したものです。

本の主な記事

f0300125_9283025.jpg1.刊行にあたって
2.江戸時代の八まん宮道 エリア
  区分地図
3.道標群の紹介―以下の合計76基
  ・八 幡 市 :22基
  ・京都市内:8基
  ・長岡京市:1基
  ・大山崎町:1基
  ・高 槻 市 :3基
  ・茨 木 市 :1基
  ・枚 方 市 :26基
  ・交 野 市 :2基
  ・寝屋川市:2基
  ・四條畷市:3基
  ・大 東 市 :2基
  ・東大阪市:5基
4,八幡道標の調査を終えて
5.編集後記


お願い(2017年10月12日発行)

 是非、一人でも多くの方が冊子を片手に各地の江戸時代と現在を結ぶ八幡道標を訪ねられる事を願っています。道標に関心をもっていただくことが、道標の保護にもつながると確信し、最後の仕上げをしています。 
掲載している地図は、現地で迷わないように道標設置の場所をピンポイントで示しています。
 本書はA5版フルカラーで96ページになる予定です。本書は“本会で自家編集し、それをそのままネット印刷で本にする”ことで極力廉価で皆様にご提供できることを目指しています。
 発行日は10月12日の予定で、10月例会(講演と交流の集い)会場でもお求めいただけますように準備中です。

※)本書の刊行に関する事前問合せは、編集委員会 高田昌史 宛にお願いします。
  電話 090-2011-7503 または メールtakata@cd6.so-net.ne.jp

by y-rekitan | 2017-09-26 06:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-05 京街道

八幡の「京街道」は川底に沈んだ

谷村 勉(会員)



不適切な表現の八幡の「京街道」

 八幡市観光協会が発行している観光散策マップなるものを見て愕然とした。
 「科手道」と古くから呼ばれて来た道を「京街道」と書いてあった。これは大間違いである。歴史的無知もいい加減にしろというような代物である。
 八幡の京街道は大雑把に言って、橋本奥ノ町の楠木、現在、この楠木を伐る、伐らないと物議を醸している「ふるさとの木第1号」の大きな楠木辺りから宇治川に架かる「御幸橋」を結んだ線上にあった道が「京街道」であって、線上の伏見区淀美豆(旧八幡神領)には京街道が今でも残り、淀市街へと続いて、往時の街道の姿を偲ぶことができる。現在は明治初年から始まる木津川付け替え工事等によって、木津川と宇治川の川底を「京街道」が走っていることになる。
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今の三川合流の姿に落ち着いたのは昭和5年になってからで、明治になるまでは木津川、宇治川(淀川)、桂川は淀城付近で合流していた。上記、江戸時代作成の「石清水八幡宮全図」から旧京街道の位置が判る。現在の木津川は「科手道」の直ぐ北側を流れ、府道13号道路が走り、「科手道」の南側を京阪電車(明治43年開通)が走っている。

歴史を刻んだ「科手道」

 「科手道」のシナデ(科手)とは古代より“水辺にあってその目印になるべき処”という意味らしい、桂川、宇治川、木津川が合流して淀川となる、まさにその喉仏に当たる重要地点であった。古くから科手郷に住む住民にとっては特に八幡宮遷座以来、「八幡宮参詣道」として、あるいは「生活道」として「科手道」の歴史を刻んできたのである。秀吉によって「京街道」が整備される遙か以前から「科手道」は存在してきた。観光集客のためと言って、八幡の道を歩いてもらうように仕向けるのは大いに結構であるが、「科手道」と「旧京街道」の名称や位置を記入して、きちっと説明しなければならないのではないか。
なぜ地元本来の名称を堂々と使用しないのか首をかしげる!
 八幡の歴史、「科手道」の歴史を知らない者が八幡の歴史を知らない観光者に間違った案内をするようでは、真の歴史を到底後世に伝えられない。これでは「科手道」の歴史的存在さえ危うくなりかねない。八幡は歴史の「宝庫」と愛着を持つ住民にとって、こういった軽率さには腹立たしく、憂えざるを得ない。八幡の歴史に誇りや愛着がなければ次世代の人は八幡から去るであろう。歴史や文化財を大切にと言うフレーズだけは耳にするが、実態はズレてしまっている。f0300125_20332170.jpg
 戊辰戦争の最終局面で八幡の表玄関の町々が焼かれ、新選組・幕府軍が敗走する道が「科手道」であり、その「科手道」を追走したのが官軍であった。幕府軍の兵士が斃れていった「科手道」の身近な歴史の一例がある。
 ボランティアのガイドが「観光散策マップ」から俄か仕立ての作文を言われるままに説明し、はたして本当の歴史を語れるものか心配である。石清水八幡宮参詣道を「東高野街道」と称して、僅か3kmの間に13基に及ぶ無駄な建碑を行った二の舞の感性や発想の繰り返しはお断りしたい!

「歩く人」増えたが

 石清水八幡宮の国宝指定によって八幡さんにお参りする人は、見た目にも増えている。ケーブル乗り場も以前よりにぎやかだ。しかし一度八幡を歩いた人がリピーターとして来るだろうか。八幡市にリピーターに足を向けさせるような環境整備が進んでいるだろうか。多くの人々に聞いても、疲れた足を休めるところもないと、落胆して帰る人が多いと聞く。
 さて、「京街道」と名がつけば5m前後の道幅が普通だが、橋本奥ノ町の幅2mギリギリの道を街道とは言えない。たまに通りかかった時、ここは「京街道」でしょうか、と聞かれることがある。ここは古来、科手郷の「科手道」であり、「京街道」は川の下ですと、説明する。歩く人も怪しいと感じるのでしょう。
 旧京阪国道(府道13号)である堤防道や河川敷のサイクリングロード?を「京街道」と言った方がむしろ納得できるが、「科手道」を指して歴史上一度も呼称したこともない「京街道」との表示は全く理解不能で、このように実際になかったことを事実のようにでっちあげることを一般に捏造と言う。八幡の歴史を知っている周辺自治体住民からも八幡の歴史や文化財に対する感覚は少し疑問?という噂を耳にするが、まさに肯定せざるを得ない一場面だ。
 最後に狭い道の「科手道」を歩く人にはマナーを守って欲しい。子供の頃に“人は右、車は左”と習った。今は学校では教えないらしいが、右側通行を実施して、道一杯に広がって歩かず、車や自転車が徐行して走れるように願いたい。また、個人の住宅に無断でズカズカ入る人もいるらしいが、これは論外である

主な参考文献
  『男山考古録』 長濵尚次 石清水八幡宮社務所
  『戊申役戦史』 大山 柏 時事通信社
  『京都滋賀 古代地名を歩く』 吉田金彦 京都新聞社 
  『巨椋池干拓誌 池本甚四郎』 巨椋池土地改良区
  『男山で学ぶ人と森の歴史』 八幡市教育委員会
by y-rekitan | 2017-07-24 08:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-01 高野道

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心に引き継ぐ風景・・・⑨
橋本から交野山を目指した高野道
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 石清水八幡宮の遷座(貞観元年・859)以前から淀川にかかる山崎橋 (神亀二年・725)を渡り、橋本から南方向にポッコリ膨らんだ交野山を目印に進む高野道があった。
 橋本から楠葉中ノ芝、野田大師堂付近から細い畦道が続き、かすかに古道の雰囲気を残す道を、楠葉朝日町の「やわた・はし本道標」、「七ツ松石碑」、「だるま堂道標」を見て、少し南に行くと八幡金振方面に向かう「八幡道」に合流する。この八幡道をやや西方向から招提元町に入れば、整然とした招堤の屋敷街を通り抜け、招堤南町の「日置天神社」に到る。
 日置天神社由緒に「中世におけるこの付近は、高野街道筋に発達した集落として賑わい、社寺が甍(いらか)を競ったという。しかし、南北朝の動乱に際し、たびたび戦禍に見舞われ、民家・堂塔ともに灰燼(かいじん)に帰したと伝えられる」とあって、古くは高野街道筋として繁栄した集落だったようだ。出屋敷や津田の集落も日置天神社から穂谷川を越えると眼と鼻の先となる。弘法大師空海が高野山への道をとったという古い街道のことを高野街道と云うなら、八幡宮遷座以前から高野山を目指すこのルートこそ弘法大師空海が歩いた道であろう。
(写真と文 谷村 勉) 空白
  
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by y-rekitan | 2017-03-22 12:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-07 東高野街道

大阪府下の東高野街道に「やわた道」の
道標を訪ねて


谷村 勉 (会員)


 近年、東高野街道という道の名称が八幡市内に聞かれるようになり、八幡市に住む住民にとっては大変な違和感を持ちました。八幡市内の道を今までに「東高野街道」などと呼んだ記憶がないからです。八幡の道を「東高野街道」と呼ぶのは可笑しい?という立場から以下報告致します。・

 八幡は周知の如く平安時代(貞観元年・859 年)の八幡宮遷座以来、石清水八幡宮を中心に発展し、周辺の街道も八幡宮参詣道として凡そ 1,100 年以上の歴史を紡いできた経緯があります。特に近世江戸時代にはどの大名の支配も受けず、なおかつ検地免除(税金免除)の町として整備され、裕福な蔵の町と称されるほど神領自治組織の地として繁栄してきました。その八幡に他の宗教施設を連想するような街道名が存在するはずもなかったのです。

 なぜ最近「東高野街道」などと言い出したのかと問いますと、観光戦略として観光客を誘致するために言い出したようです。観光客や八幡に越してきた人々や八幡の道を散策する人々が、昔から八幡の道を「東高野街道」と呼んで来たかのように錯覚している現状を見ると、歴史街道と言いながら、歴史を顧みることもなく、八幡の歴史を知らない人々が多すぎて、このような事態になった様です。観光の集客目的に道の名称を付けるなら、固有の歴史的名称である「八幡宮道」で良かったはずですが、八幡の道の歴史調査を怠り、八幡に住んだこともなく、歴史も知らない学者や役人の言葉を借りて、何処かのブームにおもねるかのように、いわゆる「東高野街道」と名付けてしまった感があります。八幡宮参詣道を「東高野街道」と言い換えれば、八幡固有の歴史が歪曲されてしまう事態に繋がらないかと大変な懸念を持ちます。我々が八幡に云う処の高野街道とは洞が峠を起点として、大阪府下に向かう道が歴史としての高野街道です。八幡宮を目指して八幡に入れば「やわた道」、「八幡宮道」となって、大勢の八幡宮参詣者が往来する道でありました。私にとって大阪府下の東高野街道沿いの交野、村野、星田、茄子作などは昔から馴染みの町々でありました。今回、従来気にもしなかった大阪府下の東高野街道を歩き、街道筋に一体どのような「道標」があるのか興味が湧きましたので、「やわた」と記入された道標を中心に踏査しました。東大阪市に初めて「やわた」と記入された道標があり、結局、東大阪市から八幡市に向かって合計 12 基の道標が確認できましたので、現存する道標を紹介し、いかに「やわた道」として認識されてきたかを伝えることができればと思います。いわゆる「東高野街道」が在って「国宝の石清水八幡宮」が存在するのでは本末転倒の話になります。実に固有の歴史が八幡には溢れていますが、やはり現場を歩き、八幡の道の歴史を自分の目で確かめる作業が不可欠だと思いました。

*東大阪市喜里川町の道標

最初の東大阪市喜里川町での「やわた道標」は 2 基あります。

 1基目は近鉄瓢箪山駅から北に向かい「喜里川町南」の信号右側の「瓢箪山安全安心ステーション」横に在りました。
 2基目は 1 基目の道標から斜め北へ凡そ 200m 程の地点にありました。
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*東大阪市箱殿の道標

 暗峠越奈良街道との五叉路の交差点、開業医の銀杏の木が目印。
 大師堂の横に観音像の道標がある。また奈良街道を東にとればやがて小さな公園が右に見え、大坂夏の陣で家康が陣を張った所に出会う。
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*東大阪市日下町の道標

 街道沿いの孔舎衙(くさか)小学校の敷地内にある。
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*大東市中垣内の道標

 阪奈道路を横切って暫く行くと古堤街道交差点の郵便ポストの横に「龍間山不動尊」の道標が目に入る、東に少し入れば「右 大峯山上道」の大きな道標がある。
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*四条畷市中野の道標

 清滝街道との交差点には 3 基の道標が並んでいるが、地蔵道標が「やわた道」の道標である。
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*寝屋川市の道標

 寝屋川市には打上と寝屋に 2 基の道標があり、JR 東寝屋川駅近くの打上の辻に道標が 1 基あり、秋葉山の燈籠もある。さらに北へ進めば傍示川手前に弘法大師像を見て川を越えると、寝屋の大井川万吉の自然石道標があり、JR 星田駅へと向かう。なお江戸時代、星田村は石清水八幡宮の他領神領(148 石余)でした。
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*交野市私部(きさべ)西の道標と本尊掛松

 東高野街道と山根街道の合流点にある「京八幡道」道標、左の道が東高野街道で、坂を下ったところに、本尊掛松の立派な地蔵像がある。南北朝時代、石清水八幡宮神職小川伊高が法明上人と予期せず出会った所で、共に霊夢を受けて融通念仏宗の本尊「十一尊天得如来画像」を小川伊高からここで授かった法明上人は歓喜のあまり、松の木に本尊をかけて踊りだした。融通念仏中興の祖と言われる法明上人と小川伊高はその夜茄子作北の犬井甚兵衛屋敷に泊まり、その後、小川伊高は法明上人に帰依し、大坂平野郷に住んだと伝わっています。
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*交野市松塚の道標

 こちらも地蔵道標、中央の地蔵尊。普通の角柱道標と思いこみ探し回った。
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 なお、交野市は江戸時代まで石清水八幡宮の他領神人が多く住んだところで、石清水放生会の祭祀には「火長」「火燈」「御前払」の役を担いました。

*枚方市郡津の道標

 枚方市村野浄水場南側の郡津墓地内にある。
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*枚方市大嶺の道標

 春日街道と交差する所から 100m 程外れた所に道標がある。
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*枚方市出屋敷の道標

 街道の雰囲気を残す枚方市出屋敷の町筋。
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「京 やわた道」の道標について

 大阪府下の東高野街道を東大阪市から枚方市まで踏査して「やわた道標」ともいうべき江戸時代の道標を見るにつけ、その土地の人々の道標に巡らす思いや、その変化に富んだ形態には豊かな創造性を発見した思いです。ここに報告しました道標は殆ど江戸時代のもので、これらは歴史街道にふさわしいものでありました。枚方市出屋敷の「東高野街道 壱里」の石碑は「洞ヶ峠から壱里」を示す明治の道標です。道標の形態には角柱が圧倒的に多いのですが、江戸時代にはめずらしい「指矢印」の道標を東大阪市喜里川町で見ました。また東大阪市箱殿に在る「観音像」を彫った角柱は見応えのある道標に仕上がっています。四条畷市中野の舟形光背の地蔵道標は他の二つの道標と並んで特異の存在感でありました。交野市松塚の地蔵道標も周辺の地蔵尊が集められて四体とし  一石五輪塔の一基を加えた中央のやや大きな地蔵の舟形光背に「京やわた道」と彫られていました。寝屋川市寝屋の「大井川万吉」の道標には自然石が使用され、力士の力強さが表現されています。比較的八幡に近いこれら周辺地域の人々がこの街道を「京道」、「京街道」とも呼んでいたようです。それは道標群とともに、古文書調査でも報告されています。ともあれ、多くの人々には名所、旧跡に加えて是非「道標」の持つ魅力にも目を止めて欲しいと思います。

八幡宮を目指す歴史としての道標

f0300125_2152265.jpg 「京 やわた道」あるいは「やはた道」の道標に導かれて洞ヶ峠に付いた人々は、ここに来てやっと「やはた道」に入ったと実感し、ほっとしたことでしょう。峠を下れば八幡の風景が眼前に広がります。道は「八まん宮道」となって、石清水八幡宮を目指します。現在、八幡あるいはごく近くの周辺を含めて 7 基の「八幡宮道」と1基の「やわたみち」と彫られた江戸時代の道標を確認しています。古い「高野街道」の道標は道の南北に 1 基もありません。八幡の道は八幡宮参詣道であって、高野道ではないと認識していますから。当然と言えば当然です。

f0300125_22111226.jpg 洞ヶ峠から中ノ山墓地前の旧道を通り過ぎ、八角院に入れば「すく八幡宮」の道標が残っています。 慶応三年丁卯八月(1867)の建立で「役行者像」が彫ってあります。       
 大阪府下の高野街道で見た風格ある道標の形態と同じで、以前は八角院近くの旧道に建っていたものと思われます。
 道標によく書かれている「すく」あるいは「すぐ」、「春具」の意味は「真っすぐ行くと」と云う意味になります。

(左の写真は神戸市/故荒木勉氏の撮影です)




最近建ったばかりの八幡のいわゆる「東高野街道」の道標
 
f0300125_22295142.jpg右は最近俄かに建った八幡のいわゆる「東高野街道」の道標です。大阪府下の一連の個性的な道標を見た後に、この道標を見ると、如何にも俄か仕立てで現代風の薄っぺらな、歴史観の乏しい道標に見えてしまいます。
 道標には建立年月日や建立主体も彫られていません。平成××年建立と彫らない理由は何でしょう。しかも凡そ3km程の間に13基の道標が建つ始末です。
  13 基という数には必ず無駄と間違いがあります。観光集客の目的とはいえ、異様な風景に見えてしまいます。
 八幡には「石清水八幡宮参詣道」としての歴史街道はありますが、いわゆる「東高野街道」と銘打って歴史とするような本末転倒の歴史街道はないと思います。
*次回、現在も八幡周辺に残る歴史的道標群について、詳しく報告します。
by y-rekitan | 2017-01-20 06:00 | Comments(0)