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◆会報第89号より-05 歴史散歩

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シリーズ「私の歴史さんぽ」・・・③


「継体ウォーク」と「楠葉台場跡」

村山 勉 (会員)


 私は読書が趣味です。好きな作家のひとり、「浅田 次郎」氏の著作「中原の虹」の中に、東三省(満州地方)総督・趙爾巽の言葉に、「生きとし生きる者すべて、歴史を知らねばならぬ。なるべく正しく、なるべく深く。・・・
 では、いったい何ゆえ歴史を知らねばならぬのか。おのれの歴史的な座標を常に認識する必要があるからである。おのれがいったいどのような経緯をたどって、ここにかくあるのか。父の時代、祖父の時代を正確に知らねば、おのれがかくある幸福や不幸の、その原因も経緯もわからぬであろう。・・・人々がかくある幸福に心から謝することが叶うように、人々がかくある不幸を覆し、幸福を得ることが叶うように」とあります。
 私は他所から、この八幡市に転居してきました。全く八幡市の事を知りませんでした。65歳で定年退職し、「さてどうしよう、何をしたら」。妻から「読書ばかりで、ボケますよ」と言われましたが、外に趣味はありませんでした。
 歴史へのきっかけは「継体ウオーク」でした。淀川の大王「継体天皇」の「楠葉宮伝承地(貴船神社)」から「くすのき近隣公園」「円福寺」「洞ヶ峠碑」「欽明公園」「月読神社」「報酬庵(一休寺)」「酒屋神社」を経て京田辺市の同志社大学キャンパス内にある「筒城宮碑」へ至るものでした。
 なんと身近に歴史があるものだと感じました。私は三重県津市の出身で、伊勢に「伊勢神宮」があり、八幡市には、第二の宗廟といわれる「石清水八幡宮」があります。又、平野山の自宅裏に、枚方市楠葉「国史跡・楠葉台場跡」があります。f0300125_11351759.jpg
 津・藤堂藩(藤堂高虎)が鳥羽伏見の戦いで、川向うから幕府を裏切り銃撃を加え、戦いを終結させた所でした。なんの気も無く転居してきた所が、このように身近な歴史を持つ所として、がぜん八幡市の歴史に関して興味を持つに至りました。幸い「八幡の歴史を探究する会」に入会させて頂き、いろんな講演や催し物、会報記事等により八幡市を知る事が出来ました。
「知らなかったことを知る」「新しい事を学ぶ」、大変に面白く楽しいことです。
 地元、橋本にも「行基菩薩の山崎橋」「大谷川樋門」「橋本遊郭」「狩尾神社」「二宮忠八飛行器工作所跡」「橋本陣屋跡」「西遊寺」「常徳寺(湯沢山・茶久蓮寺)」「塩釜」「猿田彦神社・別峯での八幡合戦」「淀屋と講田寺」「平野山瓦窯跡」「和気清麻呂・西山廃寺」「茶臼山古墳」等々、沢山ありました。
 まだまだ勉強中で、詳しい事は理解できておりませんが、これからも八幡市の歴史を楽しみに進んでゆきたいとおもっております。



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by y-rekitan | 2019-01-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第88号より-06 狩尾神社

狩尾とがのお 神社のお祭り

野間口 秀國(会員)


狩尾神社のその日の様子

 祭りの当日、2018年10月25日はTVの天気予報でも「日本全国殆ど晴れマーク」の晴天に恵まれました。その日の午前中、男山の西端に位置する橋本狩尾にある狩尾神社で地元の人達や関係者が集まり例祭が催されました。今年は大阪北部地震が発生し、震源からそう遠くないこの橋本地区もかなりの揺れが発生しました。そして秋には立て続けに近畿地方を襲った台風、21・24・25号によって神社の杜でも一部の樹木が倒れたり枝が折れたりと、他の多くの神社仏閣でも見られたように被害から逃れることは出来なかったようです。そんな自然の猛威にも長年耐えてきた、決して大きいとは言えない社殿もひと頃に比べると傷みが目を見張るばかりです。

 社殿の建つ場所は小さな山の頂上部分にあたり、そこからは淀川を挟んで天王山などが展望できます。社殿へと登る階段のある場所には大きな石の鳥居が建っており、その右側の柱には奉納者のお名前が、左側の柱には「紀元二千六百年建之」と刻まれています。また、この鳥居は以前この地より少し離れた、かつての京街道から石清水八幡宮への参詣道を少し入ったところに建っていたものが、昭和40年代以降の住宅地開発によって現在の地に移されたようです。鳥居の前(正確には下)に立つと、目の前にかなり急な傾斜の石段が、まるで登ることを阻む壁のように迎えてくれます。この階段を休みなく33段登ると踊り場にたどり着きます。少し息を整えて引き続き後半の33段を登ると頂上部に到達し、そこが神社の入り口です。振り向くと少し怖いほどの急な階段であることが登ってみると実感できますが、神社へは南東側に階段ではない坂道がありますのでそちらから登られることがお勧めです。社殿に続く短い参道の左右には二対の石燈篭がありますが、この秋のいずれかの台風のせいでしょうか、灯籠の最上部を失ったり、また上部の三分の一が落下していたり、破損したものがあったりと、台風の被害の様子がここでも確認できます。

湯立神事は祭りの見もの

 さて社殿に目を向けると、奥の神殿との間には東屋風の舞台があります。その舞台の近くに直径五六十センチほどの釜がしつらえてあり、お湯が沸かされて白い湯気がたっているのが分かります。舞台には、神殿に向かって左右2組の神饌が準備されており、それらは季節の果物や野菜、お神酒徳利、昆布、米などなどです。進行役のご発声にて祭りが始まり、全員低頭してお祓いが行われ、引き続き神饌が奉献されました。神職さんたちによって、準備された2組の神饌が手渡しで次々と神殿に運ばれ、引き続き祭主の祝詞が奏上され、巫女による神楽が奉納されました。
 祭りの見ものである湯立神事がこの後に続きます。氏子さんと思われる男性が、八幡宮から切り出された竹から、笹の付いた枝を三四十センチほどの長さに切りそろえて束にされたものが釜の近くの台に置かれました。最初に巫女が鈴と御幣をかざして湯の沸いた釜の前で舞を舞います。舞が終わると釜の湯を櫂で混ぜ、塩を掴んで撒き、四方にかざしたのち塩を釜に入れます。続いて米を撒き、米を四方にかざして釜に入れます。同様にお酒を撒いて釜に入れます。これらの物を釜に入れた後、今度はお湯を手桶にくみ取って舞台上の神官に渡し、神官は受け取ったお湯を神殿に奉納します。f0300125_911885.jpgこの後、巫女は既に準備された笹の束を沸き立つ釜にしたし四方にかざします。お湯で濡れた笹を、巫女は左右に振り回すように祭りに集う関係者や地元住人の皆さんにお湯を数回にわたって撒きかけます。最後に巫女は鈴と御幣で皆さんをお祓いします。この後、祭主が玉串を奉納し拝礼、続いて宮総代会長、町内会などの各代表が拝礼されます。最後に神棚が整えられ、祭主が一拝して祭りは終わりとなります。

狩尾神社に関わることなど

 ところで、橋本地区には「橋本塩釜」という町名があります。この町名の由来は、先に書きました巫女が笹の葉で参集者に湯を振りかける神事にちなんでおり、その湯が塩釜あたりまで飛び散ったことから「塩釜」という伝承となったと言われております。「そうなのか」と素直に思う一方、「そこまでは届かないだろう」とも思える内容ではあります。
 ちなみに神社から塩釜までは直線距離でも800m近くはあろうかと思われるからです(*1)。塩釜にある「塩釜」バス停近くの駐車場の一角には「鹽竈」と刻された石柱が建っており、隣には「塩竈古跡」と刻まれた三宅碑を見ることができます。f0300125_973169.jpgこのシオガマの地名について、長濵尚次は『男山考古録』第十二巻で「鹽(しお)ゴリバの言転訛して、鹽ガマと称せしならむ、又當山に鹽を焼たる事有へくもあらす、又古代山崎津迄潮さしのほるという説も信しかたし」と、彼自身は信じがたいことと述べております。また尚次は同書で「安居神事、其年の祭主の地より最西に當る所にて鹽をかかりて。其式を行ふ」とも述べて、ここで「鹽垢離」がなされていたと述べております。(*2)
 そして、今一つ狩尾神社に関わる近年のできごとがあります。それは、この神社がNHK BSの番組で取り上げられて一時的とは言え全国に知られたと思えることです(放送日は2013年5月14日でした)(*3)。番組は視聴者よりの「心に残る場所」の便りをもとに、筆者と同年生まれの俳優、火野正平さんと彼のチームが自転車でその地を訪れる「にっぽん縦断こころ旅」です。橋本地区にお住まいのご婦人の要望がまさにこの狩尾神社であり、枚方大橋傍の公園から自転車を走らせて橋本へ。京阪電車橋本駅近くの急坂を(ここでは自転車を降り、押して)上り、神社へと向かいました。神社は山の頂上にありますが、これは住宅開発によって神社の周囲が円錐状に近い形で削り取られた結果なのです。見た目にはプリンを容器から取り出して皿に置いたような形となっており、誰が名付けたのかは定かではありませんが地元の人達には「プリン山」と呼ばれています。しかし、この名前には、形だけでは無く、開発によってこのような形になってしまったことに対する非難の意味も少なからず込められているようです。近くで見るとなぜかそう見えるのですから面白い名前がついたものだとは思いますが・・。
 祭りの最後に祭主は挨拶にて、「この狩尾神社は石清水八幡宮の本殿建立よりもっと昔に、当時の天皇がこの地を訪れて狩りをされた時にこの神社に参られた古い歴史を有する神社であること、狩尾神社がこの地の鎮守の神、産土の神、であると共に地政学的にも重要な位置である」ことなどを話されました。祭りを見学して地元に住む者として狩尾神社への愛着を深めると共に学びの一日となりました。
(2018.10.28)

参考文献等;
(*1)『都市地図 八幡市久御山町』 昭文社刊
(*2)『石清水八幡宮叢書一 男山考古録 巻第十二』 石清水八幡宮刊
(*3)NHKふれあいセンター(放送)「にっぽん縦断 こころ旅」担当に確認

by y-rekitan | 2018-11-30 07:00 | Comments(0)

◆会報第84号より-05 台場跡

「台場跡講座から学んだこと」

野間口 秀國(会員)


 人は何歳になっても新しい知見を得ることで、驚いたり、嬉しくなったり、「まさに目から鱗が落ちるとは・・」などと思うのは私だけではないだろうと考えております。日本近世史研究家の髙島幸次氏が 『月刊島民 中之島』(*1)にて私にとってとても興味あることを書かれていたので、そのまま引用させていただきます。曰く; 講義でも講演会でも、いつも「WAO」という話をしたいと思っているんです。「W=わかりやすい / A=新しい知見がある / O=おもしろい」。わかりやすくて面白いだけでなく、何か新しい知見を持って帰ってもらうことが大事じゃないかなと。= 引用終わり =

 今年の1月20日、高槻市立しろあと歴史館館長の中西裕樹氏による 「大阪周辺の台場と楠葉台場」 と題する講座に参加しました。 昨年の7月、9月、11月、そして今回と4回にわたり開催された “楠葉のお台場 – 激動の幕末と枚方 –“ シリーズの最終回でした。この回は私の日々の生活の場に近い楠葉台場跡に関する内容で、私にとっては前述の「WAO」のある講座でした。既に受講した3回の講座は、それぞれ、初回の家近良樹氏による “幕末維新期とはどういう時代であったか ~ペリー来航から西南戦争までを視野に入れて~ ”、続く第2回は笹部昌利氏より “勝海舟の政治抗争と「台場」の意義 ” を、更に第3回は冨川武史氏の “江戸湾防備から大阪湾防備へ ~台場築造にみる幕末の海防体制~” と題したお話しであり、台場の築造に関連する時代背景や政治的な動向と関わった人々、さらに幕末の海防体制など、台場に関しての多くの歴史的な事象や人との関わりなどを学べました。 従って第4回目は、そのような時代背景の中で造られた楠葉台場築造の目的や経過、存在意義、そして梶原台場との関連が良く理解できる「W=わかりやすい」講座でした。

 講座の中で、幕末の時代に京都を護るため、外国船の打ち払いを目的として、大阪湾岸に沿って、南は和歌山から西は明石にいたっておよそ26カ所の台場が存在したことが話されました。それらの台場跡で、和歌山の友ヶ島の砲台跡、大阪・堺市の堺南台場跡、兵庫県明石市の砲台跡、和田山の砲台跡など、既に以前に足を運んだことはありましたが、いずれの場合も今回の一連の講座で学んだことに関係なく訪れたこともあり今思い返すととても残念な思いでありました。それらの中で興味深く思えた一つは堺南台場跡のことでした。昨年5月に訪れたこの堺港台場跡一帯は広い公園となっており、テニスコートや相撲場などもあります。話は少し脱線しますが、公園の一角に「蘇鉄(そてつ)山」 と呼ばれる山があります。山に興味のある方はお気づきかも知れませんが、この山は一等三角点のある標高6.96mの日本一低い山として国内でも有名な低山なのです。山登り好きの私は、この低い山に登ったあと、近くのお寺で志納金を納めてはがきほどの大きさの “「蘇鉄山」登山認定証” をいただいておりました。認定証にも書かれてあるように蘇鉄山山頂には一等三角点があることからも、改めてこの山(場所)が台場としての適地であっただろうことも素直に頷けるものでした。このことに気づかされたのも正に「A=新しい知見がある」講座となったのです。

 さて大阪湾から離れ、淀川を遡り、川の左岸の京都の入り口(現在の枚方市楠葉の地)に攘夷派や長州藩の入京を取り締まる目的で、文久3(1863)年、松平容保(かたもり)によって八幡への台場の設置が建白されました(*2)。八幡には設置に適した場所の確保が困難なことより、現在その跡の残る楠葉に台場は設置されました。楠葉台場は、前述の大阪湾沿岸の台場などとは設置目的が少し異なる事も興味のある点ではないかと思いました。今日では国指定史跡として整備されており、現地に建つ石碑や説明板を訪れる人の姿にふれることが以前に比べて増えたようです。この楠葉台場と目的を同じにして、同時期に川向かい(淀川右岸)の地に今一つの台場である梶原台場も建白され設置されました。f0300125_20535544.jpg建白時の設置予定地は山崎だったのが、(左岸の八幡と似たような理由で)狭い範囲に多くの家屋が並んでいた事や、地元の神社を避けて現・高槻市神内(こうない)の地に場所を移して設置されたのです。講義で「この台場跡は平成19年(2007)に構造と立地が判明したものである」とのことが話されましたが、現在ではこの地は「文化財包蔵地」となっており、残念ながら楠葉台場跡のようなものを見ることはできません。しかし現地に足を運ぶと、そのわずかな痕跡から当時を偲ぶことができます。

 ところで、私たちが今日理解している多くの歴史的出来事は、石文や古文書など、何らかの形で文字として残るものに準拠していること、もしくは発掘等によって発見された遺物などに依ってその根拠が明らかであることが求められます。私の手許には平成18年(2006)3月発行の 『史跡をたずねて 改訂版』(*3)があり、その中には、楠葉台場跡と淀川を隔てた島本町高浜の地に設置された「高浜砲台跡」(碑本体の地名表記は高濱)碑の説明が記載されています。f0300125_2103814.jpgそしてこの碑が昭和55年(1980)に建てられたことも分ります。また、実際には 「これより北東六五〇米のところ」の河川敷にあったことも碑の右側面に併せて書かれております。しかしながら、梶原台場の研究によってこの「高濱砲台跡」は『ヒストリア 第217号』 に掲載の地図(同紙の51頁)にも見られますように、実際には「高浜船番所」であった場所であり、地図には「高浜台場伝承地」と書かれております。

 私は昨年の8月5日に、三川合流の地にて開催された夏祭り行事の一環で、祭り会場近くの宇治川に架かる御幸橋付近の乗り場から、ゴムボートで島本町に渡るイベントを体験しました。ボートは岸を離れ、宇治川を背割提に沿って下るとほどなく木津川の流れと合流します。さらに下ると進行方向右からの桂川と合流して三川が一本(淀川)となります。ボートを右岸に漕ぎ寄せて島本町の高浜渡し場跡あたりに接岸し、振り向けば橋本の地が望めました。上陸して、かつてはゴルフ場のあった河川敷を横切り、阪急電鉄京都線の水無瀬駅に向かう途中の堤防近くに「高浜砲台跡」碑は建てられています。

 前述のように「高浜砲台跡」碑が建てられたのは昭和55年(1980)です。手許の本(*3)の巻頭には、初版本は昭和63年(1988)3月に発行されたことも書かれてあります。そののち、時を経た平成18年(2006)に改訂版が発行されており、梶原台場跡の構造と立地の判明がなされたのはその翌年、平成19年(2007)です。このように、改訂版が刊行された1年後に新事実が明らかになっており歴史の不思議さを感じずにはおれません。講座では「楠葉台場跡の研究に続く梶原台場跡の研究が従来の歴史の記述の一部を改めた」とのことが語られ、私にとってまさに「A=新しい知見がある」講座となりました。

 講座が終わっての帰り道、改めて樟葉駅で列車を降りて楠葉台場跡を訪ね、現場にある説明板や石碑を読み直してみました。f0300125_21145086.jpg説明板には、平成23年(2011)に国の史跡になったこと、また「陣屋のあった橋本集落の南方にあったことから橋本台場とも呼ばれていた」などについても書かれてあります。また説明板にある台場の図面には “河州交野郡楠葉村関門絵図一分計”(全体を10に分割した絵図の1つ)との説明もあります。以前から石碑を何回ともなく見ており分かってはいたのですが、現場に建てられた三宅碑には「戊辰役橋本砲臺塲跡」と刻まれています。「何故、橋本なのだろう」と私なりに改めて考えてみたのですが、その第1の理由は、松平容保(かたもり)によってなされた台場設置建白の地が「八幡」であったこと、第2に、関門絵図に「交野郡楠葉村」と書かれていた事実が、碑が建立された昭和3年(1928)の時点で公表されていなかったのではないだろうか、そして第3には、戊辰役は鳥羽、伏見、淀、八幡、そして橋本と戦いの場所が南へ移り、京都方から見ると戦いは河州交野郡楠葉では無くて城州域内の橋本(前述のように橋本陣屋あたり)で終えた、との理解で石碑は刻まれたのではないのか、などと勝手に思いながら家路につきました。歴史に関する事柄について探究することはとても楽しくて、かつ「O=おもしろい」ことと改めて思っています。この原稿をまとめるにあたり貴重な助言をいただきました中西裕樹高槻市立しろあと歴史館館長に紙面より感謝申し上げます。
(2018.2.6)


参考文献等:
(*1)『月刊島民 中之島』 Vol.114 2018 1/1 月刊島民プレス刊
(*2)『ヒストリア 第216~218号(2009年)』 大阪歴史学会刊
(*3)『史跡を訪ねて 改訂版』 島本町教育委員会刊
(その他)枚方市教育委員会・公益財団法人枚方市文化財研究調査会の共催による平成29年度 文化財連続講座 “楠葉の「お台場」--激動の幕末と枚方—” の第1~4回の配布資料を参照

by y-rekitan | 2018-03-26 07:00 | Comments(0)

◆会報第82号より-01 柏亭日記

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心に引き継ぐ風景・・・⑬

橋本へ象を見に行く・『柏亭日記』
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 江戸時代、8代将軍徳川吉宗の時にベトナムから日本に象がやってきました。大変珍しい象の一行は江戸に到着するまで、どこでも大人気で沢山の見物人であったと記録に残っています。長崎に着いた象の一行はその後大阪に到着し、京都に向けて京街道(東海道)を進みました。享保14年(1729)4月25日枚方宿を出て、伏見宿に向かいますが、休憩地の淀宿に至る途中、八幡を通過します。
 八幡宮の神人柏村直條(八幡八景選定者)が残した「柏亭日記」の中に橋本の象見物の記事がありました。
  「四月廿五日晴」 〇妻女孫共橋本へ象ヲ見物ニ罷ル
 妻女孫達は森町の家から科手道を経て橋本に入ったと思われますが、象が通過した八幡の京街道は現在、橋本東部から美豆の間が木津川と宇治川の川底になって分断されています。
 5月に入ると中御門天皇が詠んだ歌も伝わってきたようです。
  「五月五日曇、晴」   象   御製
    時しあれハ 人の国なる けたものを
    けふ九重に みるかうれしき
               
 錦市場の青物商の長男に生まれた伊藤若冲も13歳の頃、都でこの象に出会ったと伝わっており、長じて象を巧みに描いた作品が残っています。
(文と図 谷村 勉)空白


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by y-rekitan | 2017-11-27 12:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-06 踏切道

消えた踏切道を思う

野間口 秀國 (会員)


 朝夕の散歩道を歩いている時や、いつもの道で車を運転している時に、「あれ??」と思った経験をお持ちの方は少なからずおられるのではないでしょうか。「いつもと何か違うな」そう思って改めて確認すると、つい最近まであったお店や建物や道が無くなったり、新しくなっていたりと、その変化に気づくことがあります。いつもお世話になっている京阪電車の橋本駅近く、淀屋橋方面に3つあった踏切道のうち最も淀屋橋側の1つがこの3月末に消えてしまいましたのでそのことを記しておきたいと思います。

 拙稿「大谷川散策余話⑫」(会報「八幡の歴史を探る 第49号」2014年4月28日刊)にて、“平成26年(2014)4月10日時点で橋本樋門と小金川樋門近辺で京阪電車の線路と大谷川を一跨ぎする新しい道路橋工事の真只中である”と書き、引き続き翌月の「同第50号」にて“樋門の隣で眠る洪水の足跡”の写真も掲載させていただきました。それから3年を経過して周辺の様子はかなり変わって、同じ場所に立っても当時の様子を正確には思い起こせないほどです。今でも周辺工事は続いておりこの秋ごろまでかかるようですが、前述の「線路と川を一跨ぎする新しい橋」は既に完成して供用され、踏切道もその役目を終えて消えてしまったのです。
f0300125_20552893.jpg 歴史上の出来事などを語る時に「文字や図面などで記されたモノ(文書や地図など)」が最重要視されることは多くの方々に知られておりますが、今年6月の京都新聞の報道だけでも、国内関連では「龍馬最長の手紙あった」(16日・夕刊)、「戊辰の目安箱訴状」(9日、16日)、「東寺百合秘話」(23日)など、また国外関連では「世界最古のシリア古文書・オーロラ観察記」(16日)など枚挙にいとまがありません。
 このように新聞等の報道で取り上げられる事柄と同列に論じられないとは思いますが、橋本の町中に今でも残る「橋本の渡し場道標碑」のある場所の道を挟んだおうちの壁には、かつての町の賑わいを描くかのごとく、お店などが描かれた地図を確認できます。歳月を経て読みづらくなった文字を追うと、先に書きました橋の工事が始まってからこれまでにも、お風呂屋さんが、お医者さんが、そして理髪店さんが店を閉じられました。三店のいずれも地図にはその名は残されたままですが、いずれは町の歴史を物語るこの地図さえも消えてしまうのだろうと思うと複雑な気持ちにはなります。

 ところで、役目を終えた踏切道のことについてもう少し書いてみたいと思います。ご存知のように京阪電車は明治43(1910)年4月に天満橋・京都五条間が開通いたしましたので、既に100年以上を経過しています。開通後42年目の昭和27(1952)年3月にこの「小金川踏切道」は新設されていますので、鉄道を横切る道路がこの年に開通したのであろうことも分ります。幾多の列車を初め、歩行者や自動車などの通行の無事を見届けた「小金川踏切道」は、この平成29(2017)年3月末に65年間(ちなみに筆者はこの7月で68歳ですが・・)の役目を終えて閉鎖されました。「小金川踏切道」の役目は新しく完成した、線路上を横切る橋「橋本高架橋(はしもとこうかきょう)」に引き継がれています。またこの高架橋は線路にほぼ並行して流れる大谷川をも跨いでおり、川を跨ぐ部分は「橋本大谷川橋(はしもとおおたにがわばし)」と名付けられ、男山方面から塩釜を経由して走る多くの自動車などを淀川左岸の道路へと導いています。

 工事が始まってからおよそ3年の後に、京都・大阪府境の橋本のはずれで、役目を終えて閉鎖された踏切道のことはおそらく文章で残されて多くの人の目に触れることはないでしょう。だからこそ、せめて歴探の会報にはこの小さなできごとを書き留めておく意味はあるのではないでしょうか。掲載しました写真を撮っていると、踏切道の閉鎖を知らずに来た1台の車がその場でターンして新しい橋へ向かうのにも気づきました。 最後に「小金川踏切道」の歴史についてご教示いただきました京阪電鉄のご担当者の方には紙面より感謝申し上げます。
(2017.6.30)--
                             
by y-rekitan | 2017-07-24 07:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-02 三川合流

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《講演会》
三川合流の変遷と周辺都市

2017年4月 
さくらであい館(イベント広場)にて
福島 克彦(城郭懇話会会員)

 
 4月23日(日)午後1時半より、淀川三川合流域“さくらであい館イベント広場(淀)”を会場に、年次総会と例会を開催しました。新しくオープンした”さくらであい館”の会場には、多数の方々にお越しいただきました。総会の後、同じ会場で「淀川・三川合流の歴史とその周辺」の講演が行われました。なお講演の概要は、講師の福島克彦氏がご多忙中にも拘わらず新たに本会会報掲載用に首記のタイトルで新たに執筆していただきました。会報編集者として厚く御礼を申し上げます。 当日の参加者58名でした。

はじめに

 馬車が発達しなかった日本の歴史にとって、舟運は物流の歴史を語る上で不可欠な要素である。年貢、物資の運搬には、大小多様な船舶が使われ、生産地と消費地を結びつけていた。特に、淀川は、古代、中世最大の消費都市であった京都と西日本を結びつける重要な物流の幹線となっていた。16世紀以降は、大坂が発達し、その地で集積された物資が運搬され、京都へと届けられた。山崎や淀は、そうした物資を京都へ運ぶ際、中継地点となった都市であった。したがって、三川合流周辺の都市である、山崎、淀、八幡は京都の発展を常に支えていた存在であった。こうした中継地点は17世紀には河川沿岸の渡し場や問屋として展開し、淀川舟運と地域社会を結びつける重要な結節点となっていた。
 しかし、一方で淀川は洪水など、自然災害の元凶にも変わっていく。そのため、この地域の堤防普請や治水対策とも常に大きく関わっていた。ここでは、三川合流周辺の都市の歴史と、治水と河川の付け替えについて取り上げてみたい。

1 三川合流の様相

 淀川の三川合流といえば、桂川、宇治川、木津川の三つの河川の合流を指す。現在、三つの河川は山崎地峡で背割堤を挟んで並走している。左岸は八幡市・枚方市、右岸は大山崎町、島本町が接しており、今も雄大な景観となっている。f0300125_2047308.jpgしかし、これらは自然によって形成された景観ではなく、あくまでも近代以降において人工的に築かれたものであった。では、近代以前の景観はどのような雰囲気であったのだろうか。近世絵図や絵画が描くように、幕末までの三川は淀の町で合流していた。そして、山崎地峡部分は、合流した後の一本の大河が流れる景観となっていた。つまり、幕末まで淀川沿岸を見る場合、現在の地形で判断するのではなく、かつての景観を遡及的に考察して検討する必要がある。
 淀の上流は、16世紀中葉まで、宇治川が直接巨椋池に流れ込んでいた。この池の水がオーバーフローして、淀、そして下流の淀川へと流れていた。後述するように、豊臣秀吉の伏見城下町建設に際して、宇治川が巨椋池と分離することになった。
 以下、合流地点の都市について概観しておきたい。

2 周辺都市の展開

(1)山崎・大山崎

 神亀2年(725)、行基による山崎橋架橋があり、橋のたもとには集落が形成されていたものと推定される。以後、8世紀後半の長岡京、平安京の時代にかけて、山崎橋、山陽道、関所に加え、山崎津、山崎駅、国府、官営瓦窯などが設置されていく。平安中期になると、橋が消滅し、津は史料上登場しなくなる。一方で中世前期からは地縁的共同体たる「保」が街道沿いに配置され、街村状の都市へと生まれ変わった。保には八幡宮の神人が住んでおり、彼らは灯明油を八幡宮へ奉納していた。これを契機に荏胡麻油の製造が認められ、特権商人として君臨するようになる。原料たる荏胡麻も莫大な量が西日本各地から船舶によって運搬された。淀川交通は、こうした原料荏胡麻を運搬する重要なルートとなった。以後、大山崎は荏胡麻油の代名詞となり、中世商業に名を残すことになった。ただし、14世紀には新しい塩商売に手を出そうとしたが、既得権を持っていた淀の抵抗によって、その権限は結果的に返上している。これによって、大山崎は多角的な産業への発展への道が途絶えてしまう。以後、産業の多角化への転換は、うまくいかなかったようである。
 一方、都市の自治権は、朝廷や武家との交渉のなかで、着実に獲得していった。戦国期からは大山崎惣中という自治組織が形成され、近世期にも神人が社家へと転換して「守護不入」権を維持していた。

(2)淀
 古代の淀は「与等津」(延暦23年 804『日本後紀』)という港として登場してくる。永承3年(1048)には 山崎・淀の刀祢、散所が屋形船11艘を建造しており(『宇治関白高野山御参詣記』)、やはり船舶との関わりが見える。中世は、材木の備蓄、塩・塩合物を取り扱う「魚市庭」、 兵庫津と結びつく「淀十一艘」などが見られた。こうした点からわかるように、中世期淀は京都の外港的な役割を果たしていた。f0300125_20501948.jpg
 一方、永徳3年(1383)8月、大山崎が新市開設によって塩商売を進めようとするが、これは淀の強い抗議によって白紙にさせている。つまり、この当時から塩や塩合物に関する既得権を守る立場になっていた。「淀ハ皆以八幡領也、千間(軒)在所也云々、近来減少」(『大乗院寺社雑事記』延徳2年)と記されるごとく、八幡宮領であった。千軒の家があり「淀六郷」と呼ばれる六つの集落が形成された。これらは、桂川、宇治川沿岸の集落であり、やはり港と船舶で、外とつながっていた。
 一方、京都とは陸上交通でつながっており、淀の中心である島之内には納所から淀小橋が架けられ、京都との間を運送業者が中継していた。こうしたルートは、秀吉の時代に太閤堤が成立して、その堤防上に造られた。17世紀に淀城下町が成立すると、この街道は東側に張り出すように移転されていく。

(3)八幡
 石清水八幡宮膝下の都市である。貞観2年(860)、行教が八幡神を勧請した後、石清水八幡宮が成立していく。以後、その周囲に院坊、集落が形成され、発展を遂げていく。中世都市の空間構造としては、山上・山下、宿院、内四郷、外四郷と区分される。内四郷と呼ばれる山麓の町場は東高野街道(常盤大路、志水大道)が南北に走り、やはり街村状になっていた。
 石清水八幡宮寺の組織としては祀官中、山上衆、神官神人中、四郷中などがあり、祠官家(田中・善法寺など)が力を保持していた。
 八幡は直接は河川と接していなかったが、独自の外港橋本を通して舟運が西日本とつながっていた。延文5年(1360)大山崎神人井尻助吉が「橋本津」で八幡宮領播磨国松原荘の年貢を陸揚げしており(『井尻文書』)、対岸の大山崎とも強く関係していた。預物慣行、土倉の存在、徳政免除などの特徴があり、多くの金融業が発展していた。近世期も「守護不入」を存続していたことが知られている。
 このように、三川合流周辺には、大山崎、淀、八幡と、石清水八幡宮と関わりを持つ都市が成立していた。これらは河川交通ともつながる一方で、街村状の町場が続き、陸上交通とも深い関わりを持っていた。特に京都と陸上交通でつながり、運送業者とも関わっていた点は強調されてよい。また、淀川沿岸ともつながっており、古い時代から瀬戸内海の舟運を媒介にして、物資運送のルートとなっていた。

3 三川合流工事の要因

 16世紀後半より、豊臣秀吉の京都改造が進められ、宇治川と巨椋池の分離、それに伴う伏見城下町の建設、太閤堤の普請などが敢行された。この秀吉の改造は、近世期の交通体系と治水方針をほぼ決定づけている。特に堤防と街道が軌を一にしている姿勢は注目される。以後も京都開発は進められたため、流域における大量の樹木伐採も行なわれた。そのため、森林の保水能力が低下し、土砂が河川に流出して、山崎地峡の手前で土砂が川底に堆積した。これによって洪水が起こりやすくなり、江戸時代以降は、山崎地峡周辺はたびたび水害に見舞われた。三川合流地点における逆流現象もたびたび起こったため、地域としては合流地点の変更を求めるようになった。すなわち、洪水対策のため、合流地点を少しでも下流へ求めようと、寛永14年(1637)の木津川付け替え工事、さらに18世紀以降の小泉川、水無瀬川、放生川の付け替えが実施された。なかには、木津川を河内や大和へ付け替えようとする計画も見られたが、近世期段階では実行に移せなかった。

4 淀川改良工事

 明治元年(1868)5月に淀川の大洪水があり、同年12月~3年(1870)正月にようやく木津川付け替え工事が敢行された。これに伴い、周辺も近代における小泉川の付け替えなども行なわれた。以後、土砂堆積の問題を克服するため、オランダ人ヨハネス・デレーケなどの調査、計画による、淀川改良工事が進められ、砂防ダムの設置、水制による低水路の維持が図られた。当時水制には粗朶沈床も設置され、水の浄化作用に意識されていた。明治29~43年頃(1896~1910)の淀川改良工事では、桂川、宇治川の付け替え工事が進められた。このうち、桂川の付け替えでは、大山崎の淀川沿岸部の敷地を喪失した。そのため、当時の大山崎村長松田孝秀は「凡ソ大利ヲ起サントスレハ、小害ノ之ニ伴フハ数ノ免レサル所ニ付、府下公益ノ為メニ犠牲トナルハ甘ンスル所ニ候得共、之ヲ以テ大ニ利益ヲ享クルモノトシ、不均一ノ賦課セラルゝニ至リテハ黙止難致」と京都府に意見を述べている(『役場旧蔵文書』「上司進達綴」明治29年7月)。後に淀川改良増補工事(大正7~昭和5年 1918~1930)によって背割堤が拡張し、現在の景観に至っている。
 当時の村長の言葉のなかに、大山崎村が「府下公益ノ為メニ犠牲トナルハ甘ンスル所ニ候得共」と言っている点は、私たちは噛み締めたいと思う。

おわりに

 平成29年(2017)3月、三川合流の地にさくらであい館が完成した。今後、三川合流地点を考える重要な発信基地になると思われる。それは前述してきたような、周辺にある都市のあり方などを比較検討することを通して、各々の町の特徴を追究することができる。さらに淀川・三川合流を媒介とした自治体・地域の交流もさまざまな形で実施することができると考える。それは、言うまでもなく、淀川の歴史を考えることでもある。現代のように、大型河川を境界と考えるのではなく、物資を運ぶ舟運ルート、あるいは対岸を結ぶ渡し舟などの存在から、むしろ対岸は近い存在だったということを改めて認識すべきだろう。
 その意味でも八幡の歴史を探究する会の役割も大きいと思われる。皆さんの活動に期待したいと思う。

[参考文献]
西川幸治編『淀の歴史と文化』淀観光協会 1994
大山崎町歴史資料館『はるかなる淀川』2000
大山崎町歴史資料館『淀川と水辺の風景』2012
藤本史子「中世八幡境内町の空間復原と都市構造」『年報 都市史研究』7 1999
鍛代敏雄『戦国期の石清水と本願寺』法蔵館2008
福島克彦「近世前期における西国街道と淀川問屋」『山城国大山崎荘の総合的研究』2005
福島克彦「中世大山崎の都市空間と『保』」仁木宏編『日本古代・中世都市論』2016
 

『一口感想』より
三川合流の歴史や推移が、わかりやすく説明されていましたので、よく理解がすすみました。資料もよくまとまっており、大変よかったと思います。(O.S.)
三川合流の歴史を学んで、益々貴重な地域であると思った。八幡市はもっと、もっと三川合流を取り上げてほしいと思う。(I.J.)
八幡市に住んで50年、三川合流の歴史を初めて聞き興味を持ちました。有り難うございました。(K.T.)
三川の様子がよくわかりました。(T.K.)
八幡の土地一部が分断され(美豆、生津)ていたことは聞いていましたが、三川合流の改良工事により、山崎が多くの土地を失ったこと、はじめてお聞きしました。 改良工事の歴史を学ぶことの大切さがわかり、よい機会となりました。(F.N.)
興味ある内容の講座でした。本年も八幡にかかわるテーマでお願いします。昔はどうであったか、昔のものは残っているのか、痕跡、遺品・・(K.S.)
最初会場の天井が高いためか、講師のマイクが聞こえづらかった。しかし、途中からよく聞こえるように配慮していただき、よく聞こえるようになりました。(謝謝)
 講師の方は一生懸命大きな声で講演されました。受講者の一員として深く感謝申し上げます。本当に有り難うございました。受講者も静かに熱心に一心で聞く思いで受講、大へん有意義な講演であり、参加して大へんよく有り難かったです。(H.M.)
本日の講演、大変参考になりまいた。普段、三川合流の話は滅多に聞きませんでしたので、大山崎も八幡も大きな影響を受けていたことを知りました。
 江戸時代の資料の図に八幡の中に東高野街道の名称があって、東高野街道とは最近観光用に俄に言い出したことで、江戸時代の資料に適用するのはどうなのかな?と一つだけ疑問が残りました。(T.S.)

  
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by y-rekitan | 2017-05-20 11:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-01 高野道

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心に引き継ぐ風景・・・⑨
橋本から交野山を目指した高野道
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 石清水八幡宮の遷座(貞観元年・859)以前から淀川にかかる山崎橋 (神亀二年・725)を渡り、橋本から南方向にポッコリ膨らんだ交野山を目印に進む高野道があった。
 橋本から楠葉中ノ芝、野田大師堂付近から細い畦道が続き、かすかに古道の雰囲気を残す道を、楠葉朝日町の「やわた・はし本道標」、「七ツ松石碑」、「だるま堂道標」を見て、少し南に行くと八幡金振方面に向かう「八幡道」に合流する。この八幡道をやや西方向から招提元町に入れば、整然とした招堤の屋敷街を通り抜け、招堤南町の「日置天神社」に到る。
 日置天神社由緒に「中世におけるこの付近は、高野街道筋に発達した集落として賑わい、社寺が甍(いらか)を競ったという。しかし、南北朝の動乱に際し、たびたび戦禍に見舞われ、民家・堂塔ともに灰燼(かいじん)に帰したと伝えられる」とあって、古くは高野街道筋として繁栄した集落だったようだ。出屋敷や津田の集落も日置天神社から穂谷川を越えると眼と鼻の先となる。弘法大師空海が高野山への道をとったという古い街道のことを高野街道と云うなら、八幡宮遷座以前から高野山を目指すこのルートこそ弘法大師空海が歩いた道であろう。
(写真と文 谷村 勉) 空白
  
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by y-rekitan | 2017-03-22 12:00 | Comments(0)

◆会報第73号より-04 詩歌と八幡の歴史①

シリーズ「詩歌に彩られた八幡の歴史」・・・第1回
淀川べりの俳諧二句

 土井 三郎 (会員) 


 八幡は、その歴史と文化の豊かさから、古来より数多くの詩歌が詠まれてきました。和歌あり、俳諧あり、漢詩、狂歌、ざれ歌の類もあります。近代に入ってからも短歌や歌謡が見られます。それらの詩歌の文学的な味わいもさることながら、詩歌を通して八幡とその周辺の歴史の断面が見えてくることがあります。ジャンルや時代を超えて、具体的な作品をもとにそれらについて考察してみたいと思います。
 内容として、一応以下の項目を考えてみました。
淀川沿いの俳諧二句、歌枕-美豆、橋本-蕪村の思い、豊蔵坊信海と狂歌、庶民の俳諧三昧-『奉納八幡谷不動 京知石撰』より、名所図会にみる名歌、松花堂昭乗と和漢連句、吉井勇と八幡残夢

 第一回は、淀川べりの俳諧二句を取り上げました。出典は『淀川両岸一覧』です。『淀川両岸一覧』は、文久年間(1861~63)に、文章を暁晴翁が著し、絵を松川半山が描いて、江戸や京都、大坂で出版されました。淀川の上り船、下り船からみた沿岸の景観を描き、名所・旧跡を紹介しています。当時の淀川の風情を今に伝えるとともに、掲載される俳諧や和歌・漢詩は味わい深いものがあります。大坂の八軒家(現在の天満橋)から京都三条に至る両岸の名所案内記ですが、八幡にちなんだ俳諧二句とその挿画を紹介します。

新月やいつを昔のおとこやま  其角

 f0300125_1464078.jpg右の挿画(※1)は、橋本の夜景を描いたもので、谷崎潤一郎の小説「蘆刈」に登場する絵画としてよく知られています。小説では、水無瀬にやってきた「わたし」が渡し船で対岸の橋本に向かう最中(さなか)に、「淀川両岸の絵本に出てくる橋本の図」つまりこの挿画を見ながら目の前に広がる橋本の実景を眺めるのです。作品が成立した昭和初期の橋本と江戸末期の橋本の風景に、鉄道の開設以外にさほどの違いはなかったのかもしれません。
 宿場町橋本の夜の風情がかもしだされ、三味線や鼓の音、酔客のだみ声や女の嬌声が聞こえてくるようです。ひときわ大きく描かれる甍(いらか)は西遊寺のお堂でしょうか。背後の男山にも堂塔の影が見えます。石清水八幡宮の大塔もしくは琴塔のようにも見えますが定かではありません。
 さて、挿画の左上に掲載されるのは景樹の和歌と其角(きかく)の発句です。
 和歌は、「をとこ山峯さし登る月影にあらはれわたるよどの河ふね」とあります。作者である香川景樹は江戸時代後期の歌人とのこと。月影に淀の川舟が現われたという通り、夜間にも航行する船があったのです。挿図をよく見ると、右側の船のマストから張られた綱を堤の上から引っ張っている人影が見えます。大坂から淀川をさかのぼる場合、このように堤から綱で引きながら航行することがあったのです。大坂の八軒家と伏見を結ぶ旅客船の内、人々に親しまれたのは三十石船です。長さ約15mで定員は28名とのこと。昼船・夜船と間断なく運行されていました。
 さて、其角の句について吟味してみましょう。
 「今見るこの月は、いつも昔からこのように光輝いているのだ」と訳すこともできますが、『古今和歌集』にあるよみ人しらずの「今こそあれ我も昔はおとこ山さかゆく時もありこしものを」の一首が思い出されます。つまり、月を眺めながら、若かりし時代を思いだし、懐旧の念に耽っているかのようです。
 其角(1661~1707)は、父が江戸に住む医師で本多氏に仕えたとのこと。14、5歳のころに芭蕉に師事し、やがて大名・旗本や紀国屋文左衛門らの豪商と交流をするなどして蕉門の高弟としての位置を占めるようになりました。但し、「師芭蕉の枯淡に倣わず、生来の資質と才気によって作意をこらし(中略)独自の表現をめざした」(※2)と評価される一面をもっています。「いつを昔」というフレーズが気にいったものか、元禄期に『いつを昔』と題する俳諧撰集を編集しています。

五月雨何と茶にくむ淀の人  鞭石

 鞭石(べんせき)(1650~1728)は、其角より生まれが早く、其角よりも長寿の俳諧師でした。京都の人で、八幡の谷不動(神応寺から徒歩5分)に奉納する俳諧集の選者である知石(ちせき)は鞭石の弟子に当たります。
 鞭石の句は、五月雨(さつきあめ)を淀の人が何と茶にくむとは!と驚いたというものです。
 「五月雨(さみだれ)を集めてはやし最上川」と詠んだのは芭蕉です。五月雨(梅雨)が降り続けば最上川は増水し流れも速くなります。芭蕉は、梅雨の長雨で水かさが増し、岸辺いっぱいにどっと流れる最上川の情景を瞬時にとらえました。船上から詠んだ句だとすれば、乗客の緊張感も伝わってくるというものです。一方、長雨が降り注げば川水は濁ります。鞭石の句は、そんな濁り水を茶に汲むとは、淀の人はなんと酔狂なことをするものか、というものです。芭蕉の句と比べて調子ものどかです。f0300125_1430023.jpg
 ここでいう「淀の人」とは淀川べりの人のことではなく、八幡に接した淀の住人という意味です。淀の住人はなぜ酔狂なことをするのでしょうか。淀は八幡と接しています。八幡といえば石清水八幡宮のご当地。石清水がこんこんと湧きでる地なのですから梅雨の時期でも川水は濁らないと洒落ているのです。ちなみに、橋に向かって左岸が淀、右岸が八幡の美豆(みず)です。
 挿画の背景にある淀大橋はどっしりとしたもので、大名行列の場面が描かれているようです。
 淀はかつて木津川・宇治川・桂川の三川合流地点であり、巨椋池(おぐらいけ)の下流とも連なり、淀川の起点でした。中世の頃より軍事的な拠点として、納所(のうそ)の辺りに城がありましたが、秀吉は淀城を茶々の産所にあてるために天正16年(1588)から修築にとりかかります。やがて生まれたのが鶴松。まもなく茶々も鶴松も大坂城に移り淀城は衰退し、文禄3年(1594)伏見城建設が決められ、淀城の機能はすべて伏見城に移されてしまいました。
 徳川の世となった元和9年(1623)、今度は伏見城が廃され、江戸幕府は京都守護のために新淀城再建を決定します。同年閏8月に松平定綱に築城と淀への入封が命じられました。城地は納所から宇治川を隔てた対岸の島に移されます。その松平定綱が寛永10年(1633)に転封となり、永井尚政が入部して、特に城内町の拡大と河川整備が進められます。
 永井尚政の木津川改修で、淀城と城内町は、宇治川と木津川の間の三角州におかれることになり、納所との間の宇治川に淀小橋が架けられ、八幡の美豆村との間の木津川に淀大橋が、全面的な幕府の負担による公儀橋として架けられたのです。淀大橋・小橋の架橋は寛永16年(1639)のこととされます(※3)。
 淀大橋は幅4間2尺(約8m)・長さ137間(約250m)とありますから実に立派なものです。幕末、孝明天皇が石清水八幡宮に参詣するためにこの橋を渡り、鳥羽・伏見の戦いを描いた瓦版には、新政府軍がこの大橋を渡って、八幡方面に逃げようとする旧幕府軍を追撃する場面が描かれています(※4)。
 その淀大橋も明治初年の新政府による木津川の改修によってなくなりました。しかし、京都市に編入されたかつての八幡美豆は京都市伏見区淀美豆町としてその名を残しており、淀大橋のあった辺りは、旧淀川の窪地としてかすかにその面影を残しています。その地に住み、醤油業を営むKさんの菩提寺は八幡市内にあり、八幡との縁は切れていないとのことです(※5)。

※1 『淀川両岸一覧』(個人蔵)、見開2枚の挿画を1枚に合成(次の図も)
※2 『俳文学大辞典』
※3 平凡社『京都市の地名』
※4 八幡の歴史を探究する会発行『歴史たんけん八幡』65頁
※5 会報「八幡の歴史を探る」第53号所収「ひょっこり訪問記」


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by y-rekitan | 2016-05-30 09:00 | Comments(0)

◆会報第67号より-04 狐渡口

旅人は何故片手を挙げているのか

野間口 秀國 (会員)


 9月27日に行われた “「歴史たんけん八幡」出版記念の集い” にお寄せいただきました多くのメッセージは、作成に携わった一人として嬉しい限りでありました。それらの言葉の中には祝いやお褒めのみならず、今後の活動への叱咤激励もあったように思います。歴探の会報66号(2015年9月28日発行)に掲載されました、“「狐渡口」の絵図(第10章3項、51頁に掲載の図番97)についての、「狐渡口に描かれた旅人は何故片手を挙げているのでしょうか」” との疑問もその一つと受け取り、ありがたく読ませていただきました。f0300125_2103794.jpg
 答えの一つは51頁に、「・・・旅人が岸をはなれた櫓こぎ船を見送っているよう・・・」と書かれてあります。しかしながら「更なる答え探しが求められているのであろう」、そう考えて答え探しを試みてみました。
 そのために最初に取り組んだことは、初稿を書く時に参考にさせてもらった、谷崎潤一郎によって書かれた『蘆刈』(*1)を改めて読んでみることでした。そこには、「(略)上流に狐の渡しといふ渡船場があった事を記して長さ百十間(*2)と書いているから(略)」とあり、初稿当時、狐の渡しのあった場所やその大きさの理解に役立ったことを思い起こしていました。
 次は、何と言っても描かれたその現場に身を置くことでした。狐の渡し跡は小泉川の河口にあったとされていますが、現地(*3)には別の目的でも一度ならず足を運んだこともあるとは言え、描かれてから長い年月が経っており、その名残は見つかりません。f0300125_218596.jpgそんな時には大山崎町教育委員会によって建てられた説明板は大きな手助けになってくれました。その場に立ち、前方の男山を見る時、百十間の長さや渡る風も体感でき、答えに近づけたような気がしました。 しかし、ここでは見つかりませんでした。
 次なる試みは、改めて描かれた絵を見ることでした。すると、そこには絵と共に文字が書かれていることに気づきました。そこで、ここに何が書かれているのかを考えてみました。書かれた内容が何なのかと、無い知恵を絞っていると、ふと『蘆刈』に書かれた文章を書き留めたメモに、「(略)長いこと想ひ出すをりもなかった耳ざわりのいい漢文のことばがおのずから朗々たるひびきを以て唇にのぼって来る。」とあることに気づきました。絵に書かれた漢字は七言絶句の漢詩であるとの思いに至り、即刻先輩会員のAさんに書かれた文章についてご教示いただきました。
 遥天中断一川浮 白水青空日夜流 
 風急扁帆追去鳥 何人千里向滄洲

ようてんちゅうだんして いっせんうかぶ 
はくすいせいくう にちやながる 
かぜきゅうにして へんほきょちょうをおふ 
なんぴとかせんり そうしゅうにむかう 
 『歴史たんけん八幡』に掲載された『淀川両岸一覧』の「狐渡口」絵図を改めて見ながら、先にあったものは、絵なのか、それとも漢詩なのかと考えながら前述の漢詩を何回も読み返してみました。ここで言う漢詩の「何人」は絵の中にある「旅人」であり、「去鳥」は左上に描かれた(渡り鳥のような・・)鳥なのだろう、などと。旅人が左手を挙げているのは、「飛んでゆく鳥を明るい光を避けながら眼で追っている動作」ではないでしょうか。旅人の目指す滄洲と鳥の向かう方向が同じ(なのだろう?)ことをこの絵と詩で表現しているのでしょうか。いただいた小さな疑問、「旅人は何故、片手を挙げているのでしょうか」に対する私なりの答えです。
 9月下旬に京都東山の将軍塚青龍殿へタカの渡りを観察に出かけました。その日は生憎の曇天で上昇気流も起きずに目的を達することはかないませんでしたが、私たちの頭上を滑るように飛翔するトンビを眺める人たちの動作は、旅人のそれと似ていたことがとても印象的でした。

(*1)『蘆刈』 谷崎潤一郎集(一) 現代日本文学大系30 筑摩書房
(*2)百十間: 1間を1.818mとして計算するとほぼ200m
(*3)大山崎町の桂川河川敷公園(小泉川河口付近)
by y-rekitan | 2015-10-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第59号より-05 橋本

平野山・西山地区はミステリーゾーン?!

土井 三郎 (会員)


 3月16日(月)に予定される歴史探訪ウオーク「橋本の歴史(Ⅱ)平野山・西山を歩く」の実施に向けて、しおりを作成したり下見を試みたりなど準備が進んでいます。平野山・西山地区は古代より、実に謎につつまれたゾーンだといえます。どんな謎が秘められているのか。概略紹介してみます。

(1)塩釜の地名の由来 

 バス停にもなっている「塩釜」の地名について、どんな由来があるかのでしょうか。
 昔、大阪平野の内陸部が、河内湾と称する湾にずい分えぐられていた時代、この地で海水を干して塩を精製していたのだとか。或いは、狩尾(とがのお)神社で行われる湯かけ神事の釜で沸かした塩湯が、この辺りまで飛散してきたのだとか。もっと信憑性の高いもので、淀川を上り下りする参詣者が、橋本から石清水八幡宮をめざして登ろうとする前に身を清めるために塩を身にふりかけて出発したというものです。ところが、身を清めることは当たっているのですが、石清水への一般的な参詣とは目的が違うようです。そのことを、バス停「塩釜」近くに立つ石碑を見て確かめてみましょう!

(2)猿田彦神社創建のいわれ

 橋本小学校の北西に、こんもりとした姿を現す猿田彦神社の杜(もり)。その本殿に、当社の創建のいわれを書いた説明書きがあります。読むと、対岸の大山崎にいったん鎮座した八幡神を男山にお連れしたのが猿田彦の神で、それを祀ったものであると。確かに、猿田彦神は、ニニギノミコトが高千穂の峰にくだったときの道案内をした神として古来説明されています。ところが、男山に鎮座する石清水八幡宮の来歴を記した文献にそのような記載はありません。大事なことは、近代以前において、この社(やしろ)がどのような信仰の対象になったのかということです。
 実は、この神社、平野山村の鎮守であったのです。なぜ、社が村の中央部ではなくて外れにあるのか。その理由を考えてみたいと思います。また、石清水とは何の関係もないのかといえばそうでもありません。宇佐の八幡神を男山に勧請したのは奈良大安寺の僧、行教です。その行教と関連するものがこの境内にあったのです。

(3)講田寺(こうでんじ)にまつわる逸話

 講田寺は、もともと付け替える前の木津川のほとり、生津村に建っていましたが、水害の難を避けてこの地に移されたといいます。門前に、「長柄人柱地蔵尊講田寺」の石柱があります。長柄人柱地蔵とは何のことでしょうか。これにまつわる伝承も面白いのですが、この寺の再建に淀屋辰五郎の娘いほの婿である下村左仲なる人物が関与しているのです。
 「享保15年(1730)下村は、平野山村の別峰を寺地に選び自ら土を運び建築に尽力した。東厳和尚を中興開山として招き、淀下津町の小林忠左衛門尉信政を工匠として、翌享保16年に本堂造立となった」との記録が残されているのです。ところが、この下村左仲という人物、どうも謎めいたところがあります。江戸時代に書かれた『翁草』という書物に「城州八幡妻敵討」と題した話があり、そこに、淀屋が欠所後八幡に移住し改名した経過や、下村家が断絶するに至るまでが著述されているのです。その中で、左仲は元来行跡が悪く、田地・財産をつぎ込んで博打放蕩にふけり出奔したとあります。その後、いほに別の婿養子が入ることとなり、それを聞きつけた佐中は深夜家に忍び込み、いほとその婿を討ち果たしたというのです。これは歌舞伎の題材にもなりました。
 講田寺を再建した徳の深そうな人物が、何ゆえ博打放蕩して逐電することになったのか。そもそも二人は同一人物なのか。謎が残るというものです。(参考文献;「木村家文書の淀屋関係史料と近世石清水神領」竹中友里代、『京都府立大学文化遺産叢書第4集』所収)

(4)楠葉平野山瓦窯はいずこに

 「楠葉の御牧の土器造り、土器は造れど娘の貌(かお)ぞよき。あな美しやな」
 これは、2013年の11月、ふるさと学習館を会場に小森俊寛さんが「八幡の歴史と土器」と題して講演された際に、楠葉平野山瓦窯(がよう)に触れ、その中で紹介した歌です。後白河法皇が編著した『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』にある一節です。
 楠葉の御牧は、北楠葉の青葉幼稚園あたりに比定されています。しかし、その形跡が全く見られません。なぜ、この地が瓦窯の地になったのか。良質の土がとれたこともあるでしょう。四天王寺の伽藍の屋根を葺いた瓦が楠葉平野山瓦窯で焼かれたとありますから、淀川の水運が利用されたのでしょう。そういう意味では地の利があったともいえそうです。

(5)和気神社のなぞ

 八幡の歴史カルタに「足が立ち神社を建てた和気清麻呂」という読み札があります。ところが、ある方から神社ではなく寺を建てたのではないかという質問を受けました。その時は、神仏習合の時代ですから、寺も建てたし、神社も建てたのではないでしょうか、と答えましたが、『男山考古録』の第12巻に足立寺(そくりゅうじ)の項目があり、次の記述が見られます。
 「男山の西尾崎、往昔の所、今小社二宇これ有り、(中略)小社一宇は八幡宮を祭る、南の小社は、和気清麿を勧請と云伝う、土俗は稲荷と申す」。
 足立寺の境内に小さい二つの社があって、一つは八幡神を祭り、もう一つは和気清麻呂を神として祭っていると読み取れます。従って、足立寺には和気神社があったということになります。但し、土地の者は稲荷と呼んでいたようです。
 この足立寺もずい分謎の多い寺です。道鏡によって斬られ宇佐八幡神の加護で清麻呂の足が立ったという伝承はともかく、なぜこの地に和気氏とかかわりのある寺が建ったのか。皇位をねらった道鏡の野望を宇佐の八幡神の判断を仰ぐ目的で清麻呂は奈良から宇佐に派遣されますが、その道中(山陽道?)に建てたということなのか。もともとこの地が和気氏と関わりが深かったのか。
 和気氏と関わりの深い寺に、京都高雄の神護寺があります。北畠親房が著した『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』に神護寺の記載があって、「清麿神威を尊い申して、河内国に寺を立て、(この地河内交野郡との境にて、今、山城)神願寺といふ、後に高雄の山にうつし立、今の神護寺これなり」と記述されています。河内交野郡と山城の境にあることから、この神願寺は足立寺のことを指すとみなせます。すると、足立寺は、神護寺の前身ということなのでしょうか?
 また、和気神社と隣り合う足立寺史跡公園には豊蔵坊信海((ほうぞうぼうしんかい)の墓があります。男山四十八坊の一つであり、徳川家の御願寺とされる豊蔵坊の住職である信海の墓がなぜここにあるのか。豊蔵坊と足立寺をつなぐどんな糸があるのでしょうか。なお、この墓のことについては、会報49号に、谷村勉さんが「足立寺史跡公園(豊蔵坊)の墓をたどる」と題する論考があります。ご参照ください。

(6)継体天皇楠葉宮伝承地にされた根拠

 今回の歴史探訪では「継体天皇楠葉宮跡伝承地」にも足を伸ばします。なぜ、交野天神社(かたのてんじんじゃ)の杜(もり)の一角に楠葉宮伝承地が指定されたのか。そもそも交野天神社とはどんな神社なのか。会報58号に大田友紀子さんが論考していますが、その説もふまえながら交野天神社の来歴や継体天皇の樟葉宮について考えてみましょう。
by y-rekitan | 2015-02-28 08:00 | Comments(0)