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◆会報第90号より-05 御本社道①

御本社道を探る
―その1―

 谷村 勉 (会員) 


御本社道を歩く

 平成22年(2010)、枚方市教育委員会が発行した「楠葉台場跡」の報告書は専門家のみならず郷土史家や歴史好きの人々にも大きなインパクトを与えた。読み進んでゆくと「かつて楠葉方面から石清水八幡宮へと通じる『御本社道』という登山道が男山南西斜面にあった」と記載されている(資料編p315)。
 聞いたこともない「道」の名前だった。江戸中期作成の「石清水八幡宮全図(中井家文書)」を調べると、絵図上部の橋本地区に「御本社道」とはっきり記載されていた。楠葉から橋本南西部にかけて、今ではすっかり開発されたこの地域に、その面影がどれ程残っているものか、八幡宮に通じる「御本社道」を中心に足で追いかけてみた。その結果を数回に分けて報告します。

まず橋本の戊辰の役2題から

1.腰折坂の警衛
 上記の「楠葉台場跡」資料編p185に腰折坂の記述が出てくる。
明治元年(1868)一月二五日、小泉藩(注1)が八幡腰折の警衛を命じられている。
『「片岡貞篤家記」正月二十五日 
一、太政官ヨリ御召出ニ付留守居罷出候処、穂波三位殿ヲ以テ御達左之通 
腰折地蔵辺見繕警衛可有之旨 御沙汰候事』
 八幡、橋本、洞ヶ峠の警衛の意味は分かるが、なぜ腰折坂の警衛が必要なのか、それは腰折坂が男山東麓の「八幡宮道」(注2)である志水道から楠葉へ通じる為であった。「薩摩兵が八幡山の山道を越えて橋本台場の後ろに向かう時、賊兵三十余人山中に番兵たるを見、これを急襲した」との記述がある(資料編p180)。橋本台場後方へは狩尾社経由ではなく腰折坂経由で向かう必要があった。対岸の藤堂藩からの砲撃と橋本台場の背後からの攻撃などによって、幕府軍はついに敗走した。
「八幡市誌第三巻」(p52)に腰折の警衛について、軍務官から西山腰折の見張番所での警固を社士が命ぜられた、との記載がある。警固社士が侍身分ではあるが、大名家以外に警衛を命じられるのは異例だった。これに対応する記事が「楠葉台場跡」資料編p201にある。「明治元年九月一四日八幡社司の八幡腰折の警衛が免じられ、代わりに柏原藩(かいばらはん)(注3)が命じられる。」

・腰折地蔵の事
 上記の「片岡貞篤家記」に「腰折地蔵辺見繕警衛可有乃旨…」とあるが、
腰折坂の解説は「男山考古録の腰折坂」p446に詳しい。「足立寺村より御本宮へ参る道の半途にて、東より西の方へ下る坂有、其坂の近辺に民家三軒計ありて、村名にも号せり、此所に在る石地蔵、道の少し北に小高き所にあり、…」ここ腰折坂に「石地蔵」のあったことを記している。周辺を実際に調査すると、北側の斜面は削られ、地肌がむき出しの形状に気がつく。配水地造成工事等により斜面が削られて直線道路になっている。結局あちこち探し回った結果、斜面上部に「石地蔵」こそなかったものの、記述の所に礎石跡を発見した。
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2.橋本北ノ町、久留米藩士の墓石
 京阪電車橋本駅東側に竹林が残り、中腹には橋本家墓所がある。更に上段に墓地があって、戊辰の頃、橋本警衛に当たった久留米藩士の墓石が残っている。
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【碑文】南筑米府之臣松原要定通称弥三郎為 其人温淳□行頗秀武枝矣干時慶応三丁卯歳八月属隊長吉田尋長諸 京師而衛今出川闕門同戊辰歳三月轉守 城州橋本関門而勉強其際俄抱病焉 父太平要通亦在隊中夙夜雖勞心医薬無寸驗矣 嗚呼人生之無常也夫無奈之何 遂其六月六日三十八歳而没 因葬於導壽山本祥寺片岡氏之塋側 謚曰誠心院日壽居士
【意訳】久留米藩の臣、松原弥三郎要定は慶応三年八月に京都御所今出川関門 の警衛についたが、慶応四年三月、橋本関門に転じて守りについた。しかし俄かに病に倒れ、薬石功無く遂に六月六日三十八才にして没す。因って導壽山本祥寺に於いて片岡氏の塋域(えいいき)の側に葬る。

「楠葉台場跡」資料編p192に 明治元年三月一九日、「金沢藩が橋本警衛を免じられ、代わりに久留米藩が命じられる」とある。
 なお、現在の寺院は法華宗「感応寺」であるが、当時は「本祥寺」であった。今も入口に法華宗「本祥寺」の大きな石碑【元禄三年(1690)建立】が残っている。また、片岡氏の塋域(えいいき)とは八幡宮巡検勾当「正四位紀正敬朝臣之墓」などの墓石が同所に残ることからその塋域であったことが分かる。
(つづく) 一一

(注1)小泉藩は現大和郡山市小泉町に在った一万一千石の大名、四代将軍家綱の茶道師範片桐石州の子孫が代々藩主として幕末まで続く。松花堂庭園には「片桐灯籠」と呼ばれる道導形石灯籠(四角柱)が今も残り、慶長、片桐などと彫られた文字が残る(凡そ40年前に筆者確認済)。
(注2)「八幡宮道」八幡宮遷座以来八幡宮参詣道として発展してきた男山東麓の道は「八幡宮道」と呼ばれ、江戸時代の「八幡宮道標」も数多く残ります。今、俄かに観光客向けにいわゆる「東高野街道」と呼んでいますが、地元住民は他の宗教施設を連想するような呼称は古来使用しませんでした。ここでは「八幡宮道」、「志水道」の本来の名称を使用しています。
(注3)柏原藩(かいばらはん)は現在の兵庫県丹波市柏原に在った。元禄八年(1695)、大和宇陀藩の織田信休が、2万石で柏原に入部したことに始まる。その祖先は信長の次男、織田信雄五男の織田高長に繋がる。 



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by y-rekitan | 2019-03-26 08:00 | Comments(0)

◆会報第87号より-01 其角

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心に引き継ぐ風景・・・⑱

新月やいつを昔の男山 其角きかく
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 芭蕉の代表的門人「蕉門十哲」第一の高弟と呼ばれた俳人が男山を詠んでいる。江戸の其角という。橋本の八幡宮道から八幡宮西門に向へば、迫り来るのは八角堂や大塔などの仏教施設で、御本宮周辺は仏教寺院の景観を呈し、髙さ凡そ36mの大塔には釈迦如来の本尊が安置されていた。其角はこの風景を見て、男山を釈迦が説法した山、インドの霊鷲山(りょうじゅせん・鷲の山)に見立てている。
 新月に月は見えないが、『いつを昔』の原本前書にある“心月”から「釈迦が沙羅双樹の林で入滅した時、林が枯れて鶴の羽のように白くなった」との故事を連想させ、心の月を照らし出す。男山の仏教施設は明治の廃仏毀釈で全て無くなるが、江戸中期、伊藤若冲の「乗興舟(じょうきょうしゅう)」に八幡宮の大塔を描き、橋本の夜空に鶴の飛翔する姿を描くのは、釈迦入滅時の故事を暗示している!
 元禄3年(1690)刊行の其角俳諧集『いつを昔』に収録された表題の句は、その前書が理解を助ける。「同講の心を 心の月をあらはして鷲の御山の跡を尋ん」とあって、『秋篠月清集(あきしのげっせいしゅう)(藤原良経)』に載る舎利講の歌を引用している。『いつを昔』の序文を書いた落柿舎(らくししゃ)の去来(きょらい)は「俳諧に力なき輩、此集のうちへかたく、入べからざるもの也」と、釘をさしている!
(文と写真 谷村 勉)空白



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by y-rekitan | 2018-09-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第87号より-02 印章

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《講演会》
石清水八幡宮の印章

2018年8月 
八幡市文化センター第3会議室にて

鍛代 敏雄(東北福祉大学教育学部教授) 
       (石清水八幡宮研究所主任研究員) 
 
 今夏は、猛暑で、地震で、大雨で、台風21号の暴風と、大変な夏になりました。会員皆様宅・ご家族様は大丈夫でございましたか。
 そんな平成30年8月25日(土)午後2時より、八幡市文化ホールで「石清水八幡宮の印章」と題して、講演と交流の集いが開催されました。講師の鍛代敏雄教授は、石清水八幡宮研究所主任研究員として毎夏八幡にお越しになり、その都度講演をご依頼しております。今回もまた、新しい演題でお話を聞くことが出来ました。
 石清水文書の印章、石清水八幡宮寺の印章、祠官・別当家の印章と、種々のお話、特に「国宝宋版史記の蔵書印」について、その内容には圧倒される思いでした。鍛代先生ご自身によるご報告は以下の通りです。なお、当日の参加者は、39名でした。

はじめに

 約1万点におよぶ石清水八幡宮所蔵文書のなかには、多くの印章が捺された文書が残されています。その印影(印鑑)のすべてを網羅してお話しする用意はありませんが、近年の石清水八幡宮研究所の成果の一端をご紹介したいと思います。
 とくに国宝「宋版史記」(国立歴史民俗博物館所蔵)が、鎌倉時代の別当耀清の所蔵本であった点が明らかになりましたので、あとで詳しく述べたいと考えます。

Ⅰ 日本印章史の概説 

 はじめに、日本の印章史を概観しておきます。皆様ご存知の有名な金印「漢委奴国王」は、中元2年(57)、後漢の光武帝が印綬を倭奴国王に授与したもので、陰刻を封泥に用いられたと想像されます。文献では、『日本書紀』持統天皇6年(692)に「木印」(きのおしで)と見えますので、はじめは大王の手印であったものが、天皇を称するようになって「木印」を用いるようになったのでしょう。f0300125_21243733.jpg
 大宝令・公式令の官印(銅印)としては、周知の内印、すなわち「天皇御璽」(9㎝弱)と外印「太政官印」(7㎝強)が明記されています。その外に、国印や郡印、寺院の印もよく知られています。
 私印としては、摂関家の氏長者印や個人印、中世の公家では久我家の「宇宙」印の存在は有名です。もちろん、禅僧を中心に、画僧の落款を含めて、私印はありますが、平安時代の公家様文書から、印章による行政文書から花押による文書への転換がおこりました。まさに花押の時代に入ったということができます。
 ところが、戦国大名は突如として、印判を据えた文書を発給しはじめました。今川氏がその先駆ですが、戦国大名の国主・国家観を背景に、国印としての家印と、家督の国主印が生み出され、官僚機構を整備した行政文書が出されました。そのことは、信長・秀吉・家康の天下人へと引き継がれ、徳川将軍家の領知朱印状はもっとも効力を発揮した印判として公儀の権威を象徴しました。

Ⅱ 石清水文書の印章

 そこで、石清水文書の中の印影を眺めてみましょう。
 石清水文書の最古は、正暦3年(992)9月20日付けの大宰府符ですが、そこには官印「大宰之印」の朱印が捺されています(『大日本古文書 石清水文書』〈以下、『石』と略す〉2-479号)。また、延久4年(1072)9月5日付太政官牒(『石』1-122号)には、全紙の紙継目表ごと、計36顆の太政官印の朱印が捺されています。大江匡房(「朝臣」の自署がある)ら記録所(寄人)による荘園整理にかかわる貴重な史料です。高等学校の教科書にも載っているとおり、石清水八幡宮寺の護国寺領34か所のうち13か所が収公されました。
 時代はあたらしくなりますが、織田信長の「天下布武」の楕円形朱印〈『続石清水八幡宮史料叢書』3口絵〉と馬蹄形朱印と黒印(『同』2 3口絵)や、豊臣秀吉のいわゆる糸印(『同』2・3)、そして徳川家康の「忠恕」「家康」(『同』2・3)の朱印状、さらには徳川歴代将軍の朱印状がのこされています。
 なお石清水八幡宮には、松花堂昭乗の落款・印章が11顆所蔵されています。石印1、青磁1、あとは木印で、「昭乗」の法名印、「松花堂」「宝」「猩猩翁」の印文がわかります。

Ⅲ 石清水八幡宮寺の印章

 ついで、石清水八幡宮が発給した文書に捺された印章を確認しておきましょう。
 第1に、護国寺の「八幡寺印」です。たとえば、保安元年(1120)6月25日付けの宮寺符(『石』2-606)や保延元年(1135)10月10日付けの宮寺符(『石』2-609)、また建久3年(1192)3月日付けの検校善法寺(高野検校)成清譲状(『石』1-173号、道清の室紀氏に房領6箇所を譲る〈杉1-12〉)に朱印が確かめられます。
 その2は、方形の御正印(糸印)の朱印です。御正印預禰宜が管理し、祭祀には神前に奉じられました。文書としては、神人補任状や放生会などの祭儀の差符に据えられました。
 その3は、如意宝珠の印章そのものが所蔵されています。印文「八」+「卍」の朱印が、版木で刷られた「八幡宮牛玉宝印」に捺されました。
 その外には、八幡宮の蔵書印があります。江戸時代に奉納された典籍類に捺された「鳩嶺文庫」朱印、巻子本の外題符合の貼り紙に捺された近代の「田中門蹟文庫」朱印、明治・大正期の「男山八幡宮文庫之印」、「石清水文庫御書之印」、田中家分家の「東竹文庫」印が確認されます。

Ⅳ 祠官・別当家の印章

 ところで、別当家は家伝文書の修理をおこなっています。
 あとで触れるとおり、鎌倉期の宗清をはじめとして、中世から近世にかけての修理を実施した田中家の別当が、紙継目などに朱印を据えました。
 戦国期の田中奏清は、文明7年(1475)に巻子装された「八幡宮寺告文部類第」(『石』1-101頁)奥書に花押と、貼り紙の紙継に円形朱印「奏清」があります。奏清は、鎌倉期に道清・宗清によって編まれた「宮寺縁事抄」などを、文明年間以降に、裏打・修補をおこなっています。
 江戸期の田中敬清は、主に寛永年間(1624~40入滅)に裏打・修補を実施し、紙継目裏や奥書などに二重郭方形の「敬」朱印を据えました。
 おなじく17世紀、田中召清(善法寺幸清の子、敬清の養子)は、寛文年中(1661~1673)に裏打・修理をおこないました。署名と二重郭方形「召清」朱印があります。
 幕末維新期の田中昇清は、「異朝明堂指図記」(『石』4-1462号)の表紙・本紙継目裏に捺された敬清朱印にあわせて、紙継目裏ごとに「昇清」二重郭円形朱印を据えています。ちなみに昇清は、文久元年(1861)に検校職、同3年には孝明天皇の行幸をむかえ、慶応4年(1868) 還俗して「有年」と改名、社務1年、明治4年(1871)に社務に再任されています。
 では、鎌倉時代にさかのぼってみましょう。
先ほど触れた田中宗清です。第31代別当道清の実子で、第34代別当に就いています。文暦2年(1235)7月、幸清の入滅に際し、摂政九条道家が宗清を社務職に任命し、ようやく別当に就任しました。また田中道清以降、田中家が「筥﨑検校」(筥﨑別宮の検校職)になっています。なお、藤原定家との交流は知られています。宗清が麝香と鸚鵡を贈与した記事が、定家の日記『明月記』嘉禄2年〈1226〉2月7日条に見えます。
 宗清に関しては、二重郭菱形・印文「宗」朱印が、建保2年(1214)2月2日付けの「宮寺縁事抄末二」(『石』5-686頁)に紙継目裏と花押に重ねて朱印が捺されています。このようないわば〈花押重ね朱印〉は、祠官家朱印の初見となります。なお円形の糸黒印があわせて捺されていますが、未詳です。
 別当の順序では、宗清より先ですが、善法寺(竹)幸清もまた、印章を使っています。第32代別当・善法寺祐清(師主・仁和寺覚快〈鳥羽院第7皇子〉)の実弟で、第33代別当に就任した幸清(祐清実弟、師主・守覚親王〈後白河第2皇子〉)は、宗清の朱印の直後から、同じように菱形の「幸」朱印を、建保7年(1219)閏2月25日付けの「諸縁起」(『石清水八幡宮史料叢書』2-44頁)に、別当法印大僧都幸清撰、執筆僧隆宴の奥書とともに、閏2月にかけて朱印が捺されています。ちなみに、祐清・幸清の兄弟も、修史事業をおこなっていました。なお、幸清は、香椎宮検校職を兼務していました。

Ⅴ 国宝「宋版史記」の蔵書印

 いよいよ、国宝「宋版史記」の蔵書印についてお話しする順序となりました。ずばりいえば、善法寺幸清の実子、善法寺(柳)耀清の朱印と黒印が捺されています。f0300125_2149952.jpg
 柳を称した善法寺耀清は、第33代別当幸清の実子で、仁治3年(1242)に37代別当、建長5年(1253)に社務検校に就任しています。さらに香椎宮(福岡市、祭神は神功皇后・仲哀天皇の「廟」)の検校を兼務していました。
 石清水八幡宮所蔵の「宮寺并極楽寺恒例仏神事惣次第」(『石』1 -157~190頁)に捺された印章は、単辺(線)長方形朱印で、偏が「卬」、旁が「水」の上字、下字は偏が「青」、旁が「光」の一字で、「靗」(てい)と見なされます。上の一字の読み方は不明です。意味も、想像するしかありませんが、水を仰ぐと考えれば、石清水八幡宮を尊崇し、八幡大菩薩(応神天皇)をまっすぐに正視することを意味しているのかも知れません。
 同史料では、①冒頭・勅節十箇度、②自筆の裏書(墨書注記)、③紙継目裏、④寛元2年(1244)11月日付耀清重注進状署名「別当法印権大僧都耀清」の「耀清」に重ねた朱印、以上、計28箇所の捺印が確かめられます。法量は、縦3.2㎝ 横1.8㎝です。
 この耀清の印章の印影が、国宝「宋版史記」(国立歴史民俗博物館蔵、宋の慶元年間(1195~1200)の印行、全冊完存の世界最古版本)の蔵書印と同じものであることを発見しました。50年前に国宝に指定されてから、現在まで、いつ、どのように輸入され、誰が所蔵していたか、不明でした。もちろん蔵書印の存在は知られていましたが、人物は特定されていませんでした。
 国立歴史民俗博物館における調査の結果、①単辺(線)長方形朱印・法量(縦3.2㎝ 横1.8㎝)
②単辺(線)長方形黒印・法量(縦3.2㎝ 横1.8㎝)、③方形朱印「靗」(1字印)法量(縦1.9㎝ 横1.4㎝)を確認しできました。ただし、印文は同じですが、①朱印と②黒印の陽刻は異なることがわかりました。耀清は2種の印章を所持し、なお、一字印の存在もわかりました。蔵書印であるとともに、石清水八幡宮所蔵本に鑑みると、花押の証判と同じような、印章による証印と考えられます。
 ともかくも、従来は不明とされてきた舶来、将来の時期が、少なくとも13世紀の半ば頃までは遡る点が明白となりました。
 中厳円月(1300~1375)、子瑜元瑾、心華元棣(1342~?)、仲方中正(1373~1451)らの禅僧の関与などが推測されてきました。西園寺実隆が史記の不審を訊いた学僧・月舟寿桂(1470~1533)の多数の書き込みは確実ですから、所持の事実は間違いありません。そして、従来指摘されてきた通り、南化玄興(1538~1604)から直江兼続にわたり、上杉藩主・興譲館所蔵にいたった点は、興譲館の蔵書印から明らかです。上杉隆憲氏所蔵の時期に国宝に指定され、その後、国立歴史民俗博物館に移管されました。
 そこで、石清水からの流出時期が問題となります。正直、未詳といわざるをえませんが、上記の学僧衆をながめると、「学問づら」と呼ばれた、京都の建仁寺あたりにはいった可能性は見逃せません。おそらく14世紀後半にあった、善法寺家の家督争い(「門跡相論」)にかかわって、流出したのではないかと想像しています。すなわち、善法寺了清と新善法寺永清とによる競望でしたが、「祠官家系図」の永清の項に、貞治年間(1362~1368)に「坊具重代物悉却之了」と記されています。これだけの記述で、詳細は不明ですけれども、善法寺家の重代宝物が流出するような状況がイメージされます。
 さらに今一つ、今回の調査で新たな史実が発掘されました。宋版史記と同じ蔵書黒印の存在が知られていた、宮内庁書陵部蔵「史記集解旧鈔巻子本」(范雎蔡澤列伝第十九・史記七十九)には、「宋版史記」の黒印と同様の印文2字・陽刻(法量:縦3.2㎝ 横1.8㎝)の印影が、紙継目表の2箇所に確認できました。耀清が写本を作成し、所蔵していたことは確実です。その外に、このような写本の巻子本は発見されていません。宋版史記の写本をすべて作成したとは思われませんので、内容を選別して写本を作成したか、または他の理由を想定する必要があります。まったく不明ですが、天部の界線上に捺された黒印個所の本文を通覧すると、「宗廟」の記載を見出しました。天下の宗廟と称揚された石清水八幡宮から推して、この記述にたいするこだわりがあったものかも知れません。

おわりに

 耀清はどうして「宋版史記」を所蔵することができたのでしょうか。本人が将来品を入手するルートを想定しておく必要があるでしょう。参考になる点は、先に触れた田中宗清が藤原定家に舶載の鸚鵡や麝香をプレゼントしたところにあります。宗清は博多の筥崎宮の検校職を兼ねていました。検校は石清水別宮の統括者でした。ひとしく、耀清は香椎宮の検校でした。筥崎宮や香椎宮の神人が日宋貿易に従事していたことは周知の事実です。そして、博多から瀬戸内、兵庫・尼崎から淀川を遡上し、淀にいたる内陸水路の要地には石清水神人が点在し、独自の物流ネットワークを展開していました。神人らの運送能力、荘園・別宮の石清水ネットワークをもって、舶載品の入手と所蔵の問題を推敲することは、わたしにとっては、まことに魅力的なテーマです。

 なお、本報告に関する詳細については、「鎌倉時代における石清水八幡宮寺祠官の印章」(『芹沢銈介美術工芸館年報』9号、2018年)を、ご参照ください。

『一口感想』より

石清水八幡宮の歴史の古さをあらためて確 認させていただきました。別当家の系図も初めて見るものでした。 (N)
あっという間の興味ある話ばかりでした。久我家の「宇宙」印は驚きでした。 曹洞宗を開山された道元禅師は私の所属している 「宇治観光ボランティア」の宇治にある「興聖寺」(本山)初回開山の禅師です。 久我家のこと、 宇宙印のこと、 また印章に係わる話をガイドに生かしていきます。  (S. G.)
いつも大変興味深いお話ありがとうございます。定家の「明月記」の話、面白かった です。34代宗清が廻ってくる筈の順番(別当)が廻ってこないのを相談し、それがそのまま日記となって残っている。いつの時代も同じですね。 (S. K.)
 

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by y-rekitan | 2018-09-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第87号より-04 猪鼻坂

他國の「猪鼻坂」はどこに

野間口 秀國(会員)


歌集『猪鼻坂』に気づかされて

 2013年の1月から同好のメンバーが集い「男山考古録(巻第十一)を読む会」が隔月で催され、私もこの会に参加しておりました。本の正式な名称は『石清水八幡宮叢書一 男山考古録 巻第十一』(*1)であり、読む会にてその「巻第九」を読むことはありませんでしたが、そこには私にとってとても気になることが書かれてあったことを今でも良く覚えています。それは「猪鼻坂(いのはなざか)」と題する名前の項で、以下にその一部分を引用したいと思います。
 f0300125_11391573.jpg引用始め= 二鳥居より上神幸橋を渡す谷迄の少北より西に登る坂路をいふ、古道なりと、他國にても同名あり、皆坂路にて高き處より下りて少しく末の所にて高く登る、其形猪の鼻に似たる故に斯名付く公事根源云、…以下省略 =引用終わり。引用したこの文章中に「…他國にも同名あり…」とあり、これを読んだ時「猪鼻坂と呼ばれる坂のある他國とはどこだろう」と漠然とした疑問を持ちました。しかし、その疑問を解くこともなくそのままになっておりました。新しく覚えることより、忘れることが多くなった現在、当時の漠然とした疑問がふとした出来事をきっかけに鮮明に甦ってきて、この機会にと思い調べてみました。
 「男山考古録を読む会」は現在では開催されておりませんが、ほとんど忘れていた「他國とはどこだろう」との疑問を解くきっかけとなる機会がこの夏に突然訪れました。梅雨時のある日、仲間と短歌創作について学ぶクラスでのこと、担当の先生の机に四五冊の歌集が置かれていました。クラスの終わる頃、先生が「良かったら好きな一冊を持ち帰って読んでください。次回に返却すれば良いですから。」と話され、全ての本が誰かの手に渡りました。私はその時には借りることが出来ませんでしたが、その中の一冊の題名に興味を持ったのです。歌集の題名は『猪鼻坂(いのはなざか)』(*2)で、465首を収めた著者の第3歌集です。次回のクラスで私が借りたのは言うまでもなく、帰宅後にすぐに読み始めました。後記を読むと、「猪鼻坂」という地名は著者の産土の地であることが書かれてあり、更に、幼い頃、この辺りに住む友に連れられて、崖から湧き水の滴っていた「カチ坂」と呼ばれる地を歩いたことがあると続いていました。「猪鼻坂」の「猪」とは「井」であり、「水」のこと、すなわち浜名湖の湖水のことであろう。「鼻」は「端」、その先端ということであろう。断定を避けつつも、友と登った50mほどの坂が「徒歩(かち)坂」、「猪鼻坂」であったに違いない。 

『更級日記』に見える「いのはな」の地名

 著者による文面の最後は、「猪鼻坂」で “あったに違いない” と書かれてあり、決して「ここが猪鼻坂である」といった断定する書かれ方になっていなかったのが更に私の興味を引くことになりました。改めて後記を読み返すと、書き出しに“『更級日記』の冒頭近く、…”とありました。いうまでもなく翌日には図書館に足を運んで『更級日記』(*3)を読みました。ご承知のことと思いますが、『更級日記』は1020年(寛仁4)9月、父、菅原孝標(たかすえ)が上総国(千葉県中部)の国司の任を解かれて、都への旅立ちからを日記に記した孝標の女(むすめ)の手になる日本の古典です。上総国を出て京へと向かい、やがて遠江国(静岡県西部)浜名湖に到着します。少しだけ『更級日記』から引用しますと;=天竜川を渡り、浜名の橋まで来た。以前、父とともに上総へむかったときは、たしかに渡った橋が、その後、洪水にでも流されたのか、いまはあとかたもない。しかたがないので船で渡る。外海のほうは、荒模様で高い波があがっている。入江の洲は洗い流されて、何もない。松林のしげるなかまで寄せては返す白波が、くだけ散る玉のようだ。古歌にいうように、松の根かたを波が越えるように見えるという、めずらしい景色である。いのはなというさびしい坂をのぼり、三河国の高師の浜に行きつく。=引用終わり 読み終えてから、男山考古録に「…他國にも同名あり…」とあった「猪鼻坂」は、ここに書かれた浜名湖近くにあるのだろうことが解りました。かつて浜名湖は琵琶湖の「近淡海(ちかつあふみ)」に対して「遠淡海(とおつあふみ)」と呼ばれ、「遠江(とうとうみ)」の国名のもととなったようです。南側を遠州灘に面した浜名湖の西部に位置する現在の湖西市には、江戸時代、東に京都から数えて東海道第31番目の宿場(*4)である新居宿が、そして西に白須賀宿と、二つの宿場がありました。『更級日記』に記されたことからも、この地は古くから東西を結ぶ交通の要衝であっただろうことも理解できます。

他國にも「猪鼻坂」は実在するのか

 さて、『更級日記』は、1020年(寛仁4)9月3日、孝標の女が13歳の時、父の赴任先を出発した日より、1059年(康平2)夫 橘俊通との死別の頃までを書いた平安時代中頃に発表された回想録です。一方の『石清水八幡宮叢書一 男山考古録』は江戸時代の後期、石清水八幡宮の宮大工の子として生まれた長濵尚次(ながはまひさつぐ)によって、1848年(嘉永4)によって著された八幡の地誌です。時代を超えて書かれたた回想録と地誌を考えると、尚次が、あえて「猪鼻坂」の項に「…他國にも同名あり…」と書いたのは『更級日記』に書かれた「猪鼻坂」のことを思って書いた、と、私にはそう思えてならないのです。そこで前述の歌集『猪鼻坂』の後記と、『更級日記』の富士川の項を改めて読み直して、現在でも「猪鼻坂(いのはな というさびしい坂)」が存在するのかを知りたくなって調べてみました。f0300125_1147163.jpg手許にある道路地図(*5)を見ると、東進する東名高速道路が三ケ日インターチェンジ近くで新東名高速と別れるあたりから浜名湖にさしかかりますが、この湖の北西部に浜名湖の本体部分と繋がった「猪鼻湖」と呼ばれる湖があります。しかしながら、前述の『更級日記』に記載された「旅の地図」には、浜名湖の南端部分に“いのはな”とのみ平仮名表記にて書かれてあり、その地図からだけではそれが坂であることは判断できませんでした。そこで、更に新居(あらい)町(現在では湖西市新居町)史を始めとする、湖西地域や新居の歴史などについて書かれた複数の資料(*6)~(*9)にも目を通しました。『湖西風土記』では古代交通路の地図とともに「猪鼻駅」に関する835年(承和2)、および843年(承和10)年の史料が紹介されてあり、浜名湖南端に位置するこの猪鼻駅は水害を避けるためにすたれて、中世の初めに橋本宿がこれに代わったとの説や、湖北にあったとの説も併せて紹介されています。また「猪鼻坂」については『更級日記』に書かれたことも紹介されてあります。更に、『新居ものがたり』では「東海道と猪鼻駅(いのはなのうまや)」の項で、猪鼻駅の所在地には三つの説があること、そして猪鼻駅は『更級日記』の記載内容では新居町浜名の東南にあたること、奈良時代の窯業の歴史より湖西市の中央部に置かれていたと推定されることなどが紹介されてあります。『静岡県の地名 日本歴史地名大系22』(*10)も確認しましたが、「猪鼻坂」は前述の新居宿(新居町)と白須賀宿(白須加町)にかけてのあたりと書かれてありますが、項目としての「猪鼻坂」の地名は見当たりませんでした(なおこの地名大系には、“静岡県史では別の場所であることも記され…”とあります)。

「いのはなの坂」はあったと思いたい

 他の観光案内資料にも目を通しましたが、「猪鼻坂」の場所が明確に記されたものにはついに出会うことはできませんでした。いろいろな資料や地図などに目を通して、改めて資料をお送りいただいた湖西市のご担当者のメモをよくよく読んでみましたら、“複数の説がある事、場所が明らかになっていない事、湖西(こさい)市発行の資料で直接「猪鼻坂」に関する資料は存在しない事、また白須賀(最西端の宿場)から新居町(東隣の宿場)のあたりであったと推測されている事”などが書かれてあり、現在の様子や「猪鼻坂」の扱いについても良く理解できました。きっかけとなった、歌集の著者が「友と登った坂がそうであったに違いない」と書いておられることを思い起こし、今では公式に地名としては残されていないようですが、確かに「いのはなの坂」はあったのだろうと思います。長濱尚次はきっと『更級日記』を読んでおり、「…他國にも同名あり…」と書いたのであろう、と、私はそう理解しています。 最後に、この度、静岡県湖西市観光協会の皆様よりいただきましたご親切に対し紙面をお借りしてありがたく感謝申し上げます。  (2018.08.31)

参考文献等;
(*1)『石清水八幡宮叢書一 男山考古録 巻第九』 石清水八幡宮刊
(*2)『猪鼻坂』 柴田典昭著 砂子屋書房刊
(*3)『21世紀に読む日本の古典 4 土佐日記・更級日記』 森山京著 ポプラ社刊
(*4)『新居宿 まち歩きマップ』 NPO法人新居まちネット刊
(*5) 『関東・甲信越・静岡・福島道路地図』 昭文社刊
(*6)『新居町史』 第一巻 通史編
(*7)『地名が語る新居』 新居町教育委員会
(*8)『新居ものがたり 歴史100選』 新居町教育委員会
(*9)『湖西風土記文庫 – 行き交う - 』 静岡県湖西市 
(*10)『静岡県の地名 日本歴史地名大系22』 平凡社刊

 
 
by y-rekitan | 2018-09-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第86号より-04 八幡宮道

江戸時代の「八幡宮道」道標みちしるべが設置できました

高田 昌史(八幡の歴史を探究する会 事務局)


はじめに

 江戸時代に設置された貴重な「八幡宮道」道標が、長年青林院の奥庭に保管されていましたが、この度、青林院を管理されている正福寺の秦文彦住職ご夫妻のご厚意により、元の設置場所と推定される八幡宮道沿いに再設置することができました。
 場所は八幡旦所の正福寺向いの青林院敷地内参道の入口で、西方向の正面が男山でロケーションの大変良い場所です。道標の後方には古い道標保護に理解得るために、説明板も建てました。是非、多くの方が現場を訪れて見守っていただけることを願っております。
 私たちは、貴重な歴史遺産といえる150年以上前に建立された道標をより良い姿で後世に引き継いでいきたいとの思いを込め、以下に設置までの経過を報告します。

1.青林院庭に保管されていた道標

f0300125_10381155.jpg 図1は2017年10月弊会発行の冊子「石清水八まん宮道に誘(いざな)う道標群」に掲載している、青林院奥庭に保管されていた状況の写真です。幸い道標の破損等はなく、保管状況は大変良好で、4面共に碑文の読み取りができました。
 なお、八幡市内には他にも貴重な歴史遺産といえる江戸時代の道標が、残念ながら壊されたり、倒されたり、他所に移されて放置、また行方不明になった道標があります。

2.江戸時代の道標設置について

 2年前の2016年10月発足の専門部会「八幡の道探究部会」では、八幡の古道と共に古い道標(みちしるべ)を調査しましたが、その中で最も古い江戸時代に建立された道標には補修や元の位置に再設置が必要なものが沢山あることを確認しました。
 また、八幡市内には昭和初年に建立された多くの三宅碑を始め道標が全部で100基以上もあり、市外から道標巡りに来られた方からは、特に古い道標で倒れているものは今のうちに再設置(補修)が必要であるとのお手紙をいただいています。
 道標の設置場所は殆どが道路等の公用地になるので「八幡の歴史を探究する会」からは八幡市に5基の「江戸時代の道標設置(補修)」の要望書を2017年2月に提出していますが、課題が多いのか約1年半経過した現時点でもあまり進展がありません。しかし、何とか少しでも道標保護を前に進めたいとの願いから、青林院の庭に保管されている江戸時代の道標の設置に取り組みました。
 青林院を管理されている正福寺のご住職に元の設置場所と推定される八幡宮道傍の寺院参道入口部に設置場所の提供を依頼し、承知していただきました。
当初は業者の指導を受けて、工具等はお借りして会員で設置する予定でしたが、比較的人通りが多い場所なので素人の手仕事で将来倒れるようなことがあっては大変と一旦断念しました。f0300125_10475040.jpgその後、道標設置を依頼した工務店代表の方は「八幡のまちおこし」に取り組んでおられるので設置の必要性も十分理解していただき、5月22日に会員数名が立合って設置が完了しました。
 図2は設置が完了した道標写真で、西方向の正面は男山で、麓には頓宮があります。写真正面の碑文は「東 うぢ道」で背面には「西 八幡宮道」とあります。道の向い側は正福寺です。

3.道標説明板の設置

  江戸時代に建立された道標の碑文は、当時のくずし字で書かており、それに経年風化により読みにくい文字もあるので、道標の横やや後方に説明板を建て、4方向の碑文を翻刻しています。
また、説明板には今回の道標設置の経緯と最後には「昔と今を結ぶ、かけがえのない歴史遺産として保護し、後世に引き継ぎたい」と私たちの願いを記しています。(図3)現地に行かれた際には、是非、説明板も併せて確認ください。
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おわりに

 今回の江戸時代の道標設置は、正福寺のご住職に場所の提供を依頼して設置の段取りをされた会員の谷村勉(副代表)・田中美博両氏の尽力によります。また、設置時には会員の田中、滝山、谷村、高田の4名が立合いました。それに当日、青林院の植木剪定をされていた方の協力もありました。
 設置場所は比較的人通りが多く設置中の道標を確認された数人の方から質問があり、また、八幡の古い歴史がよく判り、「このように昔の物を大事に保護することはよいことだ」との言葉もいただきました。
 私たちは八幡市民の多くが道標の後方に建てた説明板を確認されて、貴重な文化遺産としての古い道標保護に関心を持っていただくことを願っています。(2018.7.11記)


【2018.8.5追記】本件が京都新聞に「江戸期の道標“復活” 京都・八幡、昔と今つなぐ」として掲載されました。
 https://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20180805000110
by y-rekitan | 2018-07-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第85号より-01 石清水八幡宮碑

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心に引き継ぐ風景・・・⑯

西村芳次郎直筆の「石清水八幡宮碑」
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 八幡宮参拝を終えて東参道からケーブル乗り場へ歩き、展望台に差しかかると、参道鳥居や燈籠と共に『石清水八幡宮碑』が見える。
 知る人ぞ知る、西村芳次郎直筆の「三宅安兵衛遺志碑」で、裏面に「昭和三年十月 京都 依三宅安兵衛遺志建之 西村閑夢書之」の建設過程が銘記されている。「閑夢」とは西村芳次郎の号で、氏の墓石(円福寺・宝篋印塔)にも「閑夢塔」と刻まれている。西村芳次郎は「三宅安兵衛遺志碑」建立に多大な貢献を為し、当時の三井財閥本社三井合名会社顧問で近代数寄者の雄、益田孝(鈍翁)らと共に松花堂昭乗の顕彰や茶会を開くなど八幡の文化・気風を引継ぎ、泰勝寺の創建にも尽力した。
 三宅安兵衛の長男清治郎は写真に見える「参道鳥居」を建立している。一連の「安兵衛遺志碑建碑活動」を終えてから「永楽屋十代、細辻伊兵衛」らと共に建立、清治郎達の名前と「昭和十二年六月建之」の銘記を刻む。 
 八幡市駅近くピンコロ石舗道の『御幸道』を石清水八幡宮一の鳥居に至ると、「石清水八幡宮」の大石碑が目に入る。三宅安兵衛本人が生前に建立した大石碑で、西陣織物業の内藤小四郎らと共に「大正七戌午(1918)年一月建之」とある。
 悠久の歴史に誘う「三宅碑」に安兵衛、清治郎、芳次郎三人の語り草あり。

(文と写真 谷村 勉)空白



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by y-rekitan | 2018-05-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第84号より-01 叡尊

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心に引き継ぐ風景・・・⑮

その後の叡尊 宇治・八幡
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 弘安4年(1281)の蒙古襲来の時、奈良西大寺の叡尊は京・奈良の僧560余人と石清水八幡宮宝前にて国家鎮護の祈祷を行った。その祈祷によって神風を吹かせ、元軍を撃滅したという。
 弘安9年(1286)宇治川の網代撤廃による殺生禁断により漁具の一切を浮島に埋めて、その上に壮大な「十三重石塔婆」を建立した。当時大和、山城地方で活躍した叡尊率いる伊派の石工集団によるもので、各地に2mを超す大五輪塔や石碑を多数建立したが、八幡の大石塔もその一つと考えられる。
 宇治川の殺生禁断と共に「宇治橋修復」も行い弘安9年11月に完成させた叡尊は漁師たちに曝し布の業を与え、また「茶」を植える事を勧めて生業とさせ、今日の宇治茶の盛業となったと伝えられている。
 また、叡尊の「橋寺放生院」再興時に安置したといわれる高さ1.9mの地蔵菩薩立像は全身に金泥を塗りその上に彩色を施した美しい像で、その前傾姿勢は今にも救済に踏み出そうとする姿と云われている。
「橋寺」の近く明治まで二社一体であった「宇治上神社」と「宇治神社」には石清水八幡宮の祭神・応神天皇や子の仁徳天皇・菟道稚郎子命が祀られている。大吉山展望台に登れば「奈良街道宇治橋」の先に「八幡宮の男山」を眼下に遥拝する。
(文と写真 谷村 勉)空白



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by y-rekitan | 2018-03-26 12:00 | Comments(0)

◆会報第83号より-05 絵馬

「石清水八幡宮と松本神社の絵馬」

野間口 秀國(会員)


 新年にふさわしい題材はないものかと考えていると、自室の壁に昨年6月に当会の歴史探訪ツアーにて訪れた兵庫県淡路市の伊弉諾(いざなぎ)神宮で買い求めた手のひらサイズの絵馬が目に入りました。多くの神社ではご利益、由緒、言い伝えなどが描かれた絵馬が授与されており、境内の絵馬掛け棚などに結ばれております。石清水八幡宮でも同様です。今回は地元の石清水八幡宮の絵馬と、お隣の城陽市の松本神社に昨年から結ばれるようになった絵馬について書いてみたいと思います。

 石清水八幡宮の御本殿南総門をくぐると、右前方に「お札・お守り授与所」があります。授与された絵馬には願い事が書かれて近くの結び棚に結ばれており、その種類は本殿と鳩のイラスト、エジソンの肖像画、干支のイラストなどです。歴史的には新年度の干支の描かれたものが最も新しいと言えるでしょう。またエジソンの肖像画の描かれた絵馬は形が正五角形で名前もアルファベッドで書かれており、珍しい部類に属するのではないでしょうか。エジソンと石清水八幡宮のご縁は、「彼の発明した白熱電球のフィラメントに八幡産の真竹(まだけ)が使われたことによるもの」であることは良く知られているところです。エジソンの描かれた絵馬がいつから授与所に並び始めたかは不明ですが、昭和9年にエジソン記念碑が建立された(*1) ことから考えても、これ以降であることは間違いなさそうです。今一つは、鳩の描かれた絵馬です。鳩の由来について 『山城綴喜郡誌・第十一編 伝説』には “鳩を神苑に飼養する起源、何れの年代なるか詳ならずと雖も、鳩を詠せし詩歌少なからず、 云々” と書かれてあり、鳩は石清水八幡宮の歴史に古くから登場していることは否めないと思われます(*2)。
 しかし私が注目したいのは、このように授与所でお求めいただける種類のものでは無く、石清水八幡宮に所蔵されていると書かれた「群鳩図絵馬」についてです。平成28年10月に発行された 『国宝指定記念 特別展 石清水八幡宮をめぐる8つのエピソード』 と題する冊子(*3)に掲載されたその絵馬は、丸山応挙筆とあり、天明7年(1787)に薩摩藩第8代藩主、島津重豪(しげひで・1745~1833) によって奉納されたことが冊子の説明文から分ります。同様に写真の絵馬に残る<右端奉納銘>の釈文には “薩隅日三州主兼領琉球国従四位上行左近衛中将源朝臣重豪 天明七年正月吉日” とあり、冊子にはまた、近世の島津家は近衛家領島津荘の地方荘官であったことを発祥とすることから藤原姓、または源姓を称した、とのことや鳩に関する石清水八幡宮に伝わる逸話も書かれています。薩摩藩にあった4つ(加治木、重富、垂水、今和泉の各家)の最高家格の1つ、加治木島津家に生まれた重豪は五百万両という莫大な藩債を生み出した元凶との好ましくない評価と共に、後に訪れる時代の転換期に薩摩藩が勇躍する基礎を築いた藩主としても評価されています。「群鳩図絵馬」が石清水八幡宮に奉納された天明7年正月に重豪は既に隠居しておりますが、藩主として過ごした時期には江戸参府の行き帰りに、宇治、兵庫、大坂などをお忍びで何回となく訪れていますので、この絵馬奉納の背景もとても興味あることではあります(*4)(*5)(*7)。石清水八幡宮へも参詣したであろうとも思われますが、現在この絵馬は京都国立博物館に保管されており石清水八幡宮で見られないのは残念ではあります(*6)。f0300125_1003572.jpg
 このように、石清水八幡宮には近代の絵馬のみならず、古くからの絵馬もあったことがわかりましたが、お隣の城陽市にある松本神社の絵馬は最近できたばかりのものです。昨年5月の新聞記事に興味を持ったのは、「絵馬づくりの予定有り」とのこともさることながら、松本神社自体についてでした(*8)。メディアに取り上げられる規模や知名度の神社なら知る機会もあったでしょうが、この神社の所在地も知りませんでした。日をおかずに松本神社を探して訪れました。このあたりかな、と思う所で車を停め下校中の小学生に聞くととても親切に案内してくれました。知らないと通り過ぎてしまうほどの小さな規模で、社殿らしきものも無く「絵馬づくりの予定有り」とは想像できませんでした。

 話は変わりますが、読者の皆様で「松潤(まつじゅん)」と言って、ああ彼のこと、とお分かりになる会員の方はいかほどおられるでしょうか。松本潤さん、大人気のアイドルグループ「嵐」のメンバーの一人でファンの皆さんには略して松潤と呼ばれています。8月30日が彼の誕生日であり、その日に合わせて松本神社で絵馬を発売することになったようです。嵐のメンバー5名(大野智さん、二宮和也さん、相葉雅紀さん、櫻井翔さん、そして松本潤さん)にちなんだ同名の神社には嵐ファンが多く訪れているようです。彼等の姓を冠した神社のうちで、松本神社が最後に残った絵馬の無い神社だったようで、多くの嵐(松潤)ファンからの熱い要望を受けて、市政45周年の城陽市が積極的に絵馬作成に取り組まれた結果であっただろうことは同市観光協会の方のお話しから伺えました。予定通り絵馬の発売がなされたことは「松潤ファン 絵馬に行列 城陽の松本神社」と題した絵馬発売翌日の京都新聞記事にて確認できました。ちなみに、メンバーの一人、大野智さんの姓を冠した「大野神社」は隣の県、滋賀県(栗東市)にございます。

 松本神社についてもう少し書いてみたいと思います。道路に面した神社の規模は、左右幅が約6.5m、奥行きが約7.5mで、周囲を瓦葺の白壁で囲まれています。正面の入り口には鳥居が建ち、中央に「松本神社」の額字が見えます。向かって左側の柱には「昭和五十七年十月吉日建之」と刻されており、鳥居は思いのほか新しい時代に造られてのものです。他にも、その歴史を教えてくれる数点のものが確認できます。年月を判読できる最も古い時代の二基の常夜燈の背面には「文化十癸酉(ミズノトトリ)八月日」と読み取れました。ちなみに文化十癸酉は1813年、江戸時代後期です。その他にも柴を供える左右一対の石の壺の1つには「弘化四年〇〇八月日」と確認できます。弘化四(1847)の干支は丁未(ヒノトヒツジ)であることより、〇〇部分は丁未と思われます。このように江戸時代のものに加えて、私の興味を引いたのは「献燈」と刻まれた「昭和六十三年九月建立」の石造りの石碑(燈篭)でした。その右側面に6名(男性4名、女性2名)の名前が刻まれており、この6名の皆様方は同級生であり、内女性1名は現在(2017年6月6日・訪問日時点)でもご存命とのことをご近所にお住まいの方より教えていただきました。
f0300125_1075394.jpg
 松本神社は前述のように規模も小さくて神職さんも常在されず、管理は近くの加茂神社の宮司さんによってなされています。旧名島村の氏神である加茂神社は、社殿の案内板によれば、上賀茂神社の祭神を移し祀ったとされること、旧五月の上賀茂神社の競馬に村から参加させたことなど、上賀茂神社と深いつながりがあるようです。現在では風雨を鎮め豊作を願う「八朔祭」が九月一日に催されています。ところで、前述のように8月30日には予定通り2種類の絵馬が松本神社近くで発売されました。その様子は割愛いたしますが、私も1枚を買い求めた帰り道、加茂神社にも足を運びました。翌日の「八朔祭」に備えて社殿を清めておられた宮司さんに幸いにも以下のようなお話しを聞くことができました。その1)、松本神社は地元の人達によって建てられたが、誰を祀ってあるかは書かれたものが残っていないので不明である。が、住吉大社の末寺であるようだ。その2)、「十六の渡し」の守護であったことは事実であり、神社のある集落は、古くは「大字名島小字十六」と呼ばれていたが現在の住所には「十六」は使用されていない、と。発売翌日の新聞記事にあった「木津川の渡し場の守護神」の木津川の渡し場は、十六(現・城陽市奈島)から草内(現・京田辺市)を結んでいた「十六の渡し」であると思われます。

 最後に、松本神社の結び棚に結ばれている真新しい絵馬の多くは「コンサートチケット当たりますように」の願いとなっておりました。日本中の神社で見られる絵馬の1つ1つに、それぞれの持つ歴史が垣間見える少し楽しい学びの経験でした。本稿をまとめるにあたり色々とご教示いただきました皆様方に紙面より厚く感謝申し上げます。
(2017.12.27)

(*1)『八幡市誌 第三巻』 八幡市刊
(*2)『山城綴喜郡誌・第十一編 伝説』 1908年刊
(*3)『石清水八幡宮をめぐる8つのエピソード』 八幡市立松花堂庭園・美術館刊
(*4)『島津重豪』 芳則正(かんばし のりまさ)著 吉川弘文館刊
(*5)『鹿児島県の歴史』 原口泉・永山修一・日隈正守・松尾千歳・南村武一共著山川出版社刊
(*6)『甦る島津の遺宝 ~かごしまの美とこころ~ 黎明館企画特別展』
展示史料 (鹿児島県歴史資料センター黎明館 2010年)
(*7)『島津重豪と薩摩の学問・文化』 栗林文夫著 勉誠出版刊
(*8)京都新聞2017.5.24、8.31、10.31各日付記事、11.21日付朝刊コラム

 
by y-rekitan | 2018-01-26 07:00 | Comments(0)

◆会報第82号より-02 森本家文書

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《講演会》
森本家文書からみた
近世石清水の神人構成と身分


2017年10月 八幡市文化センタ-第3会議室にて 

竹中 友里代(京都府立大学特任講師)

 
 10月15日(日)、午後1時30分より、八幡市文化センター第3会議室にて「講演と交流の集い」が行われました。表題のタイトルで京都府立大学の竹中先生に講演をしていただきました。先生は以前に八幡市教育委員会文化財保護課に勤務され文化財保護行政に当たられましたので、八幡市の文化財には精通されています。
 概要を以下に紹介いたします。当日の参加者は47名でした。


1.森本家文書 六位禰宜

 f0300125_15372114.jpg今日は江戸時代の石清水でどんな神人がいて、どんな仕事をしていたのか身分的なお話をしたいと思います。
 森本家文書については一昨年府立大学の学術報告書に掲載していて、インターネットでも見ることができます。興味のある方はご覧ください。
森本家というのは森という所を本拠地としています。
森町
男山考古録に「山路郷 檀所町の東 当地の一所森にありて、その名負いけん、今も当所の居住の社人に森本・森元なと称せり」とあり、立田牧場があった場所が森本家の屋敷跡と聞いています。
森本信魚については、「尚次若かりし時、当町森本信魚師として神道を学び道開く」と考古録の著者長濵尚次に指南した先生であったと記されています。1700年代の中頃に描かれた石清水八幡宮全図を見ると森町には多くの寺庵があります。徳川家康から朱印状を頂いている、浄土宗36ヶ組寺としては、観音寺、奥庵(大禰宜能村仲民建立)・玉樹院(森本三郎兵衛建立)・薬薗寺・瑞光寺等がみられますが、その内の薬薗寺については森本家と柏村家が寺の経営に関わるなど、江戸時代中期頃までは寺の建立にも多くの神人が関わっていました。
森本家25代信富(のぶあつ)は、自宅を森本蚕桑館とし、養蚕の研究を行い、明治23年養蚕伝習所委員となり、南山城の養蚕導入に尽力しました。なお、信富の養父信德時代に姓を森元から森本に統一しました。
森本家の文書は52点(神道伝授・祝詞・その他)が確認されていて、特筆されるのは石清水八幡宮補任状で16点が残っていて、その殆どが檀紙(縮緬様の皴がある)で格式の高い紙質です。

2.公文所

公文所とは公的文書を保管・処理する役所ですが、石清水では、天慶2年(939)三綱が設置され、それを公文所のはじめ、としています。
公文所は所司の三綱(上座・寺主・都維那)の上座に位置し、室町時代以降は上野家が代々勤めています。
年中行事・遷宮・将軍社参等の奉行を務め、山上山下僧俗諸神人の執頭であり、補任状交付や成文での神人召請、神人装束の管理を行ない、正月には立松飾・注連縄飾を行っています。
宮寺の公印、いわゆる「正印」は行教自作とされ、行教の身体と同じとして神格化され、将軍や尾張家に献上する祈祷神札には正印が使用されています。
正印は頓宮殿厨子内に保管され、祭列では御正印唐櫃として参列します。
補任状に押されている正印の数を見ると天正元年27顆、寛永11年8顆と中世の書式を踏襲したものから、寛文5年頃には正印1顆となり次第に近世的に様式化していく様が窺えます。
公文所は現在の石清水八幡宮五輪塔(重文)の南辺りにその跡地が記されていますが(石清水八幡宮全図)、寛永9年頃に倒壊したため、当時の田中家の東隣辺りに移転し(石清水八幡宮境内図)、そこで政務をとっていたと思われます。
上野家には、院専―院玉―‥‥―院秀―院芳―紀清慶(慶応4年の維新時に復飾)が確認されている。代々「院」を通字にしています。


3.石清水の外他領神人

 近隣自治体からも久御山、交野市、城陽、京田辺(駕輿丁・御綱曳・御前払・火長陣衆・駒形‥)の神人が奉仕しています。
 石清水坊領として内里村横坊30石、寺田村閼伽井坊15石、鴨川村公文所14石の所領があり、中世荘園の神領として古来より奉仕を通して石清水との関係を継続してきました。
勅祭奉仕では、百姓身分では許されない装束を着用し、村社会で特化した地位を示すことができました。
 具体的な一例として松井村の袖旗神人(御旗神人)の場合、祭礼に際して三韓征伐、神功皇后の袖を袖旗神人の長が箱に入れて奉じ、諏訪ケ原(諏訪明神勧請)で採取した榊を持って長の前後に従っています。(交野市教育委員会『石清水八幡宮放生会絵巻調査報告書』)
 松井村には、氏神の宮座(大座・新座)のほかに八幡座があり、御旗神人が石清水の祭礼奉仕後に、八幡座の頭屋の床の間に神饌・掛軸を、庭には「オヤマ」と称する(オハケ)を飾り、祝詞・拝礼をした後に直会となります。勅裁奉仕した後、村方でも祭祀を行う興味深い事例です。

 他領神人の補任状「宮寺符」は以下の時期に交付されます。
放生会(8/11)、安居神事(12/11)、御神楽(11/2)などの祭礼参勤時。
本社遷宮儀式の際。(元禄6年9月26日、安永7年7月22日)
 元禄6年9月19日には儀式の事前に社務新善法寺晃清による正遷宮儀式参勤命令、公儀普請の為検校による命令書として「宮寺政所下文」等が出されています。 
さらに不定期には家督相続の際にも交付されています。

 
4.石清水神領居住神人

 神宝所神人(神庫の管理、菖蒲革献上)・宮工司(大工)・仕丁座・宮守・神楽座・安居百姓等があり、特長としては徳川家康領知朱印状を持つことがあげられます。慶長5年5月25日付けで361通の領知朱印状が安居神事勤仕を条件に大量に発給されましたが、これは全国的にもめずらしい事例です。
 朱印状所持の神人が安居神事の頭役を勤めることになりますが、安居神事頭役には①宮寺符・安居頭役補任、②安居頭役差定「小差符」(命令書)、③堂荘厳宝樹預差定「木差符」(ご神木の許可) の3種の補任状が出されます。
 駕輿丁美豆下司神人の大森家には、家康朱印状6石8斗や補任状(寛文5~文政12年8通)、文化5年美豆村西堤で行倒人届、天保14年諸商人商物値段書(天保改革による諸品の値下げ)、町法度倹約之事等の古文書が伝わっています。
 八幡宮外四郷の内、大坂(京)への街道沿いの淀大橋の橋詰にあった美豆村は、元美豆村から町美豆へと発展しましたが(石清水八幡宮全図)、大森家は村の年寄として、村政に関わる神人でした。

5.六位禰宜

f0300125_16433735.jpg 森本家は、朱印状源左衛門6石9斗8升ですが、別家に朱印状与次郎48石7斗6升があり、役割として神前瑞垣の内で神官を補佐していました。
 同様に神官を補佐する四座神人(他姓・六位・大禰宜・小禰宜)の内、大禰宜の能村氏は「放生会の時、御こしの戸口を符申候御倉の鑰(かぎ)の役」、小禰宜の奥村氏は「御供を宮守より請取、六位他姓へ渡申、神輿をかさり申候御役人にて御座候」とあり、宮守が用意した神供を禰宜から受取り神前に供える役割を担っていました。
 
 神道伝授について、明和9年(1772)白川伯王家神道門人の小川玄蕃より、鳴弦の儀が森本家に伝授されています。
 また寛政4年(1792)武末霊社(社務田中要清)百年忌に際しては、吉田神道家吉田良倶より三壇妙行の神道儀式を伝授された田中養清に森元信良が従っており、森本家が神道祭祀に詳しい家であることが判ります。
 信恵(信魚)は天明8年(1788)新賀差定により神職神人身分を得、翌寛政元(1789)斎服免許を受けました。また文化14年(1817)息信邑へ家督を譲るに当り社務検校善法寺立清・田中家・新善法寺家へ挨拶と進物を行っています。
 公文所・兼官からは公文所安居頭人補任状(宮寺符)、斎服免許状〈裃着用にて受取る〉、社務(長吏)の袖印を受け、検知の紀直養からは新賀差定を受けて、神官としての神人身分の証を得〈狩衣着用にて受取る〉、放生会・御神楽・遷宮では神官系神人として勤仕しています。嘉永6年の放生会においては森本内蔵助・駿河一・二の鳳輦御太刀持ちをしています。

6.検知 

 神官三家(俗別当・神主・検知)は、紀氏が世襲し、鳳輦にそれぞれ供奉します。
 神前での祝詞奏上を三家が行います。
 俗別当家は慶安5年(1652)以降徐々に衰退していったようですが、詳しくは俗別当家の文書が出てきていないのでよく判りません。f0300125_1741196.jpg
 検知家代々としては紀朝臣検知氏家―検知大夫紀宿祢豊親―公豊―土佐守紀季豊―土佐守紀豊高―若狭守紀豊房―従五位下若狭守紀直養(正四位下近江守紀朝臣直養)―従五位上筑後守紀豊興が確認できます。
 補任状交付の謝礼金が収入源であり、豊かな神人からの援助もあったようです。

7.神官系神人の系譜と身分構造

 僧形の社務検校が神領全体を支配しますが、別当が検校補任によって当職となり、三家廻職により将軍代替り毎に交替します。
 石清水の役所としては所司という事務方が存在し、以下の構成となっていました。
 ・公文所:僧官の上野家が担当。
 ・絵所:僧官の藤木家(善法寺家の家臣)が担当。
 ・判官:俗官の片岡家(田中家の家臣)が担当。
 ・御馬所:俗官の今橋家(新善法寺家の家臣)が担当。
 ・巡検勾当:近世には俗官の小笹家、花井家、片岡家などが担当。
 また検校に付属する兼官の職があり、訴訟や幕府からの触れや事務連絡の窓口となり統治の実務を統括していました。藤木・片岡・今橋家が勤めましたが、社務家家臣、判官などの事務方や検校の秘書的役割を兼ね、検校交代と同時に兼官職も交代しています。
8.むすびにかえて

 公文所からは宮寺符の補任状、検知からも新賀差定・補任状等が交付され、神人が勤仕する儀式・補任状の種別によりにより、以下の神仏の身分的分別がありました。
僧侶系:別当・権別当修理別当 四十八坊‥‥承仕
公文所 安居本頭神人・安居脇頭神人・安居百姓‥‥他領神人
神官系:俗別当・神主・検知 四座・宮守…仕丁

 文化9年(1812)長濱尚次が本殿修復作業に着手する儀式で祭文を読み上げましたが、若干19歳の尚次に大工棟梁としての祭文作成や祭儀の次第等の手ほどきをしたのは森本家でした。森本信德は明治に入って神仏分離の困難な時代に主典として八幡宮の再生に尽力し、また森本信富は南山城に養蚕事業を導入するなど、森本家も代々八幡に大きな足跡を残しました。
以上 (文責 谷村勉)一一


『一口感想』より

今日のお話にもとづいて、神幸之図を見てみたいと思います。
(B.K.)
江戸時代八幡森に足跡を残した人がいたことがわかりました。私が住んでいる所が家田町、田中町の東となりです。もしかしたら、公文所のあった場所の上に私の家が建っているかも知れません。勅祭のこともわかりました。今は神人役がいないので大変です。八幡のことを再発見しました。用事が重なり参加出来ないことが多いですが、時間が空けば勉強させていただきます。
(T.M.)
今日のお話はちょっとむつかしい。また、ちがう切口、観点でお話が聞きたい。有り難うございました。
(K.T.)


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by y-rekitan | 2017-11-27 11:00 | Comments(0)

◆会報第82号より-05 石清水祭

勅祭・石清水祭に学ぶ

野間口 秀國(会員)


 私たちの住む八幡市にても季節を通して大小数多くの祭りや行事が催されていますが、それらの全てを知り、直接見たり参加したりすることは容易では無いのが実情ではないでしょうか。「勅祭・石清水祭」もその一つでした。五年前に一度、深夜に御鳳輦(ごほうれん)が八幡宮山上から頓宮へ降られるご遷座の行列を見学し、引き続き放生川(現在の大谷川の一部で、男山考古録(*2)に、 ・・上ハ飼屋橋より、下ハ禅昌寺前の石橋まで・・ とある)で執り行われた放生会の諸次第も見学いたし、とても興味を持っておりました。そんな中、この秋に幸いにも、石清水八幡宮で年間百余り斎行される祭典の中で、最も重要な祭典である「勅祭・石清水祭」(*1)の斎行に初めて参加できる機会をいただきました。本号では、そこでの体験談と学びを書いてみたいと思います。

 九月十五日未明から夜にかけて執り行われる「勅祭・石清水祭」に先立ち、同十二日午後二時半から石清水八幡宮の山上にある体育館で「ご奉仕のご案内」と題する説明会があり参加いたしました。小雨模様の中、開始時刻より少し早めに会場に入ると、体育館の広い床にはそれぞれの役割に対応した装束や履物などが大小おおよそ100ブロックほどに別けられ準備されており、係の方々が必要なものの確認や補充などをされておりました。参加できることへの緊張感が改めて感じられたひと時でした。定刻になると石清水八幡宮のご担当権禰宜様よりご挨拶をいただき、引き続いて祭りの意義や心構え、肌着は白色で首周りはV首もしくはU首のものなど、身に着ける衣服などの具体的な説明を受けました。

 その後、指定された所定のブロックに移り、参加する所属団体の係の人(先達)より当日のご奉仕概要やタイムスケジュールなど具体的な事項の説明がなされ、引き続き装束の説明とそれらの着付けの練習に入りました。f0300125_10442726.jpgなにしろ初めてのことゆえ、指導していただく方に従って衣装を身にまとうことに集中しました。肌着の上に、先ず白衣(はくい)を身に着け、白い袴(はかま)をはき、黄色の衣装・黄衣(おうえ)をまとい、白足袋(しろたび)をはき、草鞋(わらじ)をはいて、最後に烏帽子(えぼし)をかぶります。上半身、下半身の装束はその殆どがフリーサイズで、特に袴は最下部にある紐を使って身の丈に合せられるように工夫されておりました。このことは、この夏、とある演奏会会場にて有名な和楽器奏者の説明されたことがとても役立ちました。こうして身に着けたすべての装束を脱いで元のようにたたみ、着付けの練習は終わりました。最後に開催当日の細かなスケジュールを再度確認の後、参加者用の駐車券や石清水祭用ケーブル臨時運転時刻表などをいただき午後四時頃に説明会は終わりました。

 ここで石清水祭について少し記したいと思います。石清水祭の起源は、清和天皇の貞観五年(八六三)旧暦八月十五日、宇佐宮の放生会に倣って始められた石清水放生会に遡るとされています。これは、そもそも諸々の霊を慰め供養するため、男山の裾を流れる放生川のほとりで生ける魚鳥を解き放つ法会を催してほしい、との八幡大神ご自身の願い(神願=じんがん)に基づくものでした。また、石清水祭は勅祭であり、天皇陛下の御使いである勅使が参向され、天皇陛下からのお供え物を奉献される祭典で、八万社ある神社の中でもこの勅祭が斎行される神社「勅祭社」は十六社しかありません(*1)。

 さて当日(九月十五日)は、真夜中、午前零時半までに前述の体育館に集合することになっておりましたので、遅れることなく日付の替わる頃には出向きました。十二日の練習どおり、全ての装束を順番に身に着けると不思議と緊張感が高まりました。ご奉仕の途中で緩むことがないようにと草鞋の紐は特にしっかりと締めました。当日私に与えられた役割は「御綱曳神人(みつなひきじにん)」であり、「黄衣を身に着けて各御鳳輦の前後に結びつけられた朱綱で参道の昇降を佐ける」ことでありました。今回参加して、石清水祭は思いの外祭りの次第が多く、実際には十四日の夕刻から十六日の午前中まで、足掛け三日にわたる行事であることも初めて解りました。装束を整えてから待つこと二時間近く、午前二時に「神幸の儀」が始まるまでの時間は、短くも、また長くも感じられました。私たちも御神霊のご移動に用いられる御鳳輦(ごほうれん)の近くへと移動して、午前三時ごろいよいよ「御鳳輦発御(ごほうれんはつぎょ)」を迎えます。三基の御鳳輦を中心に約五百名の神職・楽人、また神人と呼ばれるお供の行列が松明や提灯の灯りだけを頼りに山上の御本殿から山麓の頓宮へと向かいます。

 この時間帯にはさすがにほとんどの物音は聞こえませんでした。本殿から参道を提灯の灯りを頼りに降りることは容易なことでは無く、滑ったりしないように、油断なく一歩一歩と歩みをそろえて足で探るように進んでゆきました。おそらく四~五十分ほど経過したでしょうか、行列は麓の絹屋殿(きぬやでん:六本の掘立柱に支えられ、四方に白絹を張り廻らした臨時の建物)に到着します。ここでは里神楽(さとかぐら)の奉奏などがあり御神霊が奉迎されます。その後、「頓宮神幸の儀」に移り御鳳輦が頓宮殿に入御されます。ここで私たちの前段の役目が終わり、少し緊張が解けるのが分かりました。そのまま車を停めてある駐車場へと向かい一旦帰宅しましたが、祭りは御鳳輦の入御の後にも多くの次第が執り行われ、f0300125_10522149.jpg午前八時すぎには放生行事がありました。これは前述のとおり宇佐宮の放生会に倣って貞観五年(八六三)に始まるといわれ、生類の殺生を慎み、捕らわれた魚鳥を山川に解き放つ善行が尊ばれて多くの人々が奉仕されます。安居橋で奉納された胡蝶の舞いも翌日の新聞にて報じられております(*4)。

 さて、夕刻(十七時)より執り行われる「還行の儀(かんこうのぎ)」に遅れることなく、再び頓宮へと集合いたしました。この儀式は十八時三十分頃の「御鳳輦発御(ごほうれんはつぎょ)」まで頓宮の内側にて執り行われました。この儀式のあいだ、浅葱幕(あさぎまく:薄い水色の地に白の矩形のある布)で覆われた頓宮の頓宮殿裏あたりで発御を待ちました。この間、私たち御綱曳神人とは異なる役目で行列を構成する、他の役目の人達の装束・用具・提灯などを直に目にすることができたことは貴重な時間でした。ところで、この行列の構成や順番は「八幡宮寺年中讃記 下」(*3)の項にとても詳しく書かれていることが解りました。八月十五日に行われるこの行事名をはじめ、御輿次第の項には、御綱引二十人、前左五人、右五人、後左五人、右五人とあり、これらは三基の鳳輦すべてに共通の内容でした。私の担当は次三御輿(三番目の御輿)の引手二十人の一人であり、位置は後右五人に該当していたことが理解できました。着衣に関しても、役割毎に記されてあり、とても興味ある内容でした。同時に、本稿冒頭の「ご奉仕のご案内」の個所にて「およそ100ブロックほどに区分して準備されており・・・」と書きましたが、これらの準備や管理がいかに大変なことであるかを改めて理解でき、お世話いただいた方々に感謝の念で一杯でした。

 「御鳳輦発御(ごほうれんはつぎょ)」は暗くなるのを待つようにして十八時三十分頃から開始されました。暗くなった参道を提灯の灯りを頼りに気を引き締め、御鳳輦に従って山上の本殿へと向かい、無事に著御(ちゃくぎょ)がなされると役目を終えることができました。文中で何回か使いました「御鳳輦」は、石清水祭における御神霊のご遷座(ご移動)が「御神輿」ではなく「御鳳輦」といわれるためであり、前号での「御輿」とは呼称が異なることや、直前の文章中にある「著御(ちゃくぎょ)」の表現なども「着」と「著」の独特の使い分けの用例であることも学びました。

 このような貴重な体験の一カ月後、10月15日には「森本家文書からみた近世石清水の神人構成と身分」と題する当会主催の竹中友里代氏をお招きしての講演(*5)を聴講する機会がありました。その講演にて話された、年中行事における神人招請の目的の成文(なしぶみ)と呼ばれる「補任状」が、現在でも石清水祭にて石清水八幡宮の印が押されて公布されていることも後日学ぶことができました。「動く古典」といわれる斎行の体験とその後の講演の聴講は、神人と石清水祭のこと、そして石清水八幡宮の活動に関する理解がさらに深まるものでした。本稿をまとめるにあたり色々ご教示いただきました石清水八幡宮の関係者の皆様に紙面より感謝申し上げます。
(2017.11.02記)一一
 
(*1)『勅祭石清水祭』 石清水八幡宮発行の冊子
(*2)『石清水八幡宮史料叢書一 男山考古録』 第十一巻 藤原尚次著
 石清水八幡宮社務所発行
(*3)『石清水八幡宮史料叢書四 年中神事・服忌・社参』
 石清水八幡宮社務所発行
(*4)京都新聞の2017.9.16付け朝刊記事
(*5)「講演と交流の集い」の配布資料、2017.10.15 八幡市文化ホールにて開催
講師:竹中友里代氏

 
 
by y-rekitan | 2017-11-27 07:00 | Comments(0)