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◆会報第86号より-01 力士墓道標

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心に引き継ぐ風景・・・⑰

力士墓道標
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 「江戸時代の八幡道標」の調査過程で江戸から明治にかけて、多くの力士墓道標の存在が明らかになった。特に楠葉方面では力士墓道標や供養塔を数多く確認したが、現在の八幡市内にも力士墓が数基残っている。「八幡市内里北ノ口の墓碑道標」に、「俗名若狭野政吉/右なら道/左よど京道/文化三丙寅九月晦日(1806)/世話人中」とある。堂々の墓碑道標には大層活躍した力士を想像させるが、「政吉は地元の住人ではないが気の毒な方なので建てられた」との伝承が今も地元に残る。その一方で、力士墓ではないかとの伝承も聞いた。
 「上鳥羽搭ノ森上河原の墓地」に「若狭野政吉」(文久二戌年三月建之・1862)の四股名を刻む立派な力士墓が残っている。それとは別に「頭取若狹野碑」(明治廿八年七月五日建之)も残る『京都・滋賀の相撲』。いずれも時代的に同一人物とは思えない。昔から鳥羽には相撲好きが多く、草相撲の盛んな地域であった。
「俗名 若狭野政吉」とは鳥羽を本拠地とする力士の一人だったのだろうか?
 綴喜郡井手町「玉津岡神社」の奉納板番付(文化十四年・1817)に勧進元「若狭野三四郎」の四股名が今も残っている。「俗名若狭野政吉」も草相撲の盛んな鳥羽・井手を往還中に「内里北ノ口」付近で客死したものか! 相撲取が若くして死ぬと、“余りに強い為、毒殺された”との噂が付いて回る。

(文と写真 谷村 勉)空白



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by y-rekitan | 2018-07-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第86号より-04 八幡宮道

江戸時代の「八幡宮道」道標みちしるべが設置できました

高田 昌史(八幡の歴史を探究する会 事務局)


はじめに

 江戸時代に設置された貴重な「八幡宮道」道標が、長年青林院の奥庭に保管されていましたが、この度、青林院を管理されている正福寺の秦文彦住職ご夫妻のご厚意により、元の設置場所と推定される八幡宮道沿いに再設置することができました。
 場所は八幡旦所の正福寺向いの青林院敷地内参道の入口で、西方向の正面が男山でロケーションの大変良い場所です。道標の後方には古い道標保護に理解得るために、説明板も建てました。是非、多くの方が現場を訪れて見守っていただけることを願っております。
 私たちは、貴重な歴史遺産といえる150年以上前に建立された道標をより良い姿で後世に引き継いでいきたいとの思いを込め、以下に設置までの経過を報告します。

1.青林院庭に保管されていた道標

f0300125_10381155.jpg 図1は2017年10月弊会発行の冊子「石清水八まん宮道に誘(いざな)う道標群」に掲載している、青林院奥庭に保管されていた状況の写真です。幸い道標の破損等はなく、保管状況は大変良好で、4面共に碑文の読み取りができました。
 なお、八幡市内には他にも貴重な歴史遺産といえる江戸時代の道標が、残念ながら壊されたり、倒されたり、他所に移されて放置、また行方不明になった道標があります。

2.江戸時代の道標設置について

 2年前の2016年10月発足の専門部会「八幡の道探究部会」では、八幡の古道と共に古い道標(みちしるべ)を調査しましたが、その中で最も古い江戸時代に建立された道標には補修や元の位置に再設置が必要なものが沢山あることを確認しました。
 また、八幡市内には昭和初年に建立された多くの三宅碑を始め道標が全部で100基以上もあり、市外から道標巡りに来られた方からは、特に古い道標で倒れているものは今のうちに再設置(補修)が必要であるとのお手紙をいただいています。
 道標の設置場所は殆どが道路等の公用地になるので「八幡の歴史を探究する会」からは八幡市に5基の「江戸時代の道標設置(補修)」の要望書を2017年2月に提出していますが、課題が多いのか約1年半経過した現時点でもあまり進展がありません。しかし、何とか少しでも道標保護を前に進めたいとの願いから、青林院の庭に保管されている江戸時代の道標の設置に取り組みました。
 青林院を管理されている正福寺のご住職に元の設置場所と推定される八幡宮道傍の寺院参道入口部に設置場所の提供を依頼し、承知していただきました。
当初は業者の指導を受けて、工具等はお借りして会員で設置する予定でしたが、比較的人通りが多い場所なので素人の手仕事で将来倒れるようなことがあっては大変と一旦断念しました。f0300125_10475040.jpgその後、道標設置を依頼した工務店代表の方は「八幡のまちおこし」に取り組んでおられるので設置の必要性も十分理解していただき、5月22日に会員数名が立合って設置が完了しました。
 図2は設置が完了した道標写真で、西方向の正面は男山で、麓には頓宮があります。写真正面の碑文は「東 うぢ道」で背面には「西 八幡宮道」とあります。道の向い側は正福寺です。

3.道標説明板の設置

  江戸時代に建立された道標の碑文は、当時のくずし字で書かており、それに経年風化により読みにくい文字もあるので、道標の横やや後方に説明板を建て、4方向の碑文を翻刻しています。
また、説明板には今回の道標設置の経緯と最後には「昔と今を結ぶ、かけがえのない歴史遺産として保護し、後世に引き継ぎたい」と私たちの願いを記しています。(図3)現地に行かれた際には、是非、説明板も併せて確認ください。
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おわりに

 今回の江戸時代の道標設置は、正福寺のご住職に場所の提供を依頼して設置の段取りをされた会員の谷村勉(副代表)・田中美博両氏の尽力によります。また、設置時には会員の田中、滝山、谷村、高田の4名が立合いました。それに当日、青林院の植木剪定をされていた方の協力もありました。
 設置場所は比較的人通りが多く設置中の道標を確認された数人の方から質問があり、また、八幡の古い歴史がよく判り、「このように昔の物を大事に保護することはよいことだ」との言葉もいただきました。
 私たちは八幡市民の多くが道標の後方に建てた説明板を確認されて、貴重な文化遺産としての古い道標保護に関心を持っていただくことを願っています。(2018.7.11記)


【2018.8.5追記】本件が京都新聞に「江戸期の道標“復活” 京都・八幡、昔と今つなぐ」として掲載されました。
 https://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20180805000110
by y-rekitan | 2018-07-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第85号より-01 石清水八幡宮碑

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心に引き継ぐ風景・・・⑯

西村芳次郎直筆の「石清水八幡宮碑」
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 八幡宮参拝を終えて東参道からケーブル乗り場へ歩き、展望台に差しかかると、参道鳥居や燈籠と共に『石清水八幡宮碑』が見える。
 知る人ぞ知る、西村芳次郎直筆の「三宅安兵衛遺志碑」で、裏面に「昭和三年十月 京都 依三宅安兵衛遺志建之 西村閑夢書之」の建設過程が銘記されている。「閑夢」とは西村芳次郎の号で、氏の墓石(円福寺・宝篋印塔)にも「閑夢塔」と刻まれている。西村芳次郎は「三宅安兵衛遺志碑」建立に多大な貢献を為し、当時の三井財閥本社三井合名会社顧問で近代数寄者の雄、益田孝(鈍翁)らと共に松花堂昭乗の顕彰や茶会を開くなど八幡の文化・気風を引継ぎ、泰勝寺の創建にも尽力した。
 三宅安兵衛の長男清治郎は写真に見える「参道鳥居」を建立している。一連の「安兵衛遺志碑建碑活動」を終えてから「永楽屋十代、細辻伊兵衛」らと共に建立、清治郎達の名前と「昭和十二年六月建之」の銘記を刻む。 
 八幡市駅近くピンコロ石舗道の『御幸道』を石清水八幡宮一の鳥居に至ると、「石清水八幡宮」の大石碑が目に入る。三宅安兵衛本人が生前に建立した大石碑で、西陣織物業の内藤小四郎らと共に「大正七戌午(1918)年一月建之」とある。
 悠久の歴史に誘う「三宅碑」に安兵衛、清治郎、芳次郎三人の語り草あり。

(文と写真 谷村 勉)空白



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by y-rekitan | 2018-05-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第84号より-02  八幡の道

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《会員研究発表》
八幡の道の歴史 
―江戸時代の道標調査を終えて―


2018年2月  八幡市文化センターにて

谷村 勉(会員)

 2月22日午後1時30分より、八幡市文化センター第3会議室で表題の会員研究発表がありました。八幡宮勧請以前の道はどうであったか、勧請以後はどの様に発展して、現在に至っているのかなど、八幡の道の歴史および江戸時代の「八幡道標」の調査結果の発表でした。
  当日の参加者は52名。(会報編集担当)

八幡の道

 八幡には凡そ以下のような道があります。
京街道(大坂街道)が走りますが「東海道57次」とほぼ同じ道です。
八まん宮道、具体的には御幸道、常盤道、科手道、志水道など。
奈良道 〇河内道 〇山根道などがありますが、
主に京街道、八まん宮道、東高野街道、八幡道標について述べます。
 
八幡市内の東麓を走る「道」の名称?

 八幡宮遷座以来、八幡の道には八幡宮参詣道としての歴史があります。
 近世、江戸時代には守護不入・検地免除の神領自治組織が確立していましたので、八幡の地に他の宗教施設を連想させる街道名は存在しませんでした。
八幡における高野街道とは洞ヶ峠が起点の歴史的認識があります。八幡に入れば「やわた道」・「八まん宮道」と呼ばれ、大勢の八幡宮参詣者が行き来する道との歴史的感覚もあります。
 今回、江戸時代の「やわた道標」の調査から近隣自治体を含め76基もの道標が発見されていることからも「八まん宮道」の歴史的事実が証明されていると思います。八幡の道が「八幡宮参詣道」として発展してきた歴史を正しく伝えてゆきたいという想いがあります。

山崎橋の造立

 橋本から楠葉を抜ける高野道が存在します。神亀2年(725)行基によって山崎橋が造立されるが、7世紀後半に奈良元興寺の道昭が架橋した位置に掛けたものであったと云います。江戸時代の絵図から山崎橋が現橋本奥ノ町にあった橋本寺辺りに架橋されていたと推定されるものの、何度も淀川に流され凡そ200年間程で無くなったようです。天正20年(文禄元年・1592)秀吉によって山崎橋は再び掛けられたがその存続期間は短かったようです。
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 石清水八幡宮全図の橋本の部分に橋本寺旧跡と書かれたところがあります。これは豊臣秀吉の御連衆の一人であった「橋本等安」によって建立された寺で、秀吉の「湯だくさん茶くれん寺」の故事で有名な「常徳寺」も江戸時代の中頃にはこの辺りにあったことが判ります。記録には文化10年(1813)西遊寺の隣の「常徳寺」が焼失とあり、寺が移動したことが判りますが、その場所には今も「常徳寺」の石碑が残っています。
 古くから大阪との行き来には淀川の水運が利用され、人や物資が大量に運ばれましたが、港としての機能を持った「橋本の津」は大いに賑わったようです。橋本で舟を降りた八幡宮詣りの人々は「八幡宮道」(京街道)を通り狩尾社を経由して石清水八幡宮を目指しました。

橋本の高野道

 山陽道(西国街道)から山崎橋を渡り橋本から楠葉に続く高野道があります。南の方向に烏帽子を置いたような特長のある交野山をめざして歩きました。弘法大師空海も歩いた道と考えています。今回、江戸時代の道標調査でも「高野道」の存在を証明する「地蔵道標」が発見されました。地蔵菩薩立像を挟んで左右に「すく八まん宮・右かうや 左はし本道」とありました。紛れもなく高野道を案内しています。“すく”とは“まっすぐ行けば”の意味になります。
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写真(上)の道標2基はどちらも久親恩寺内(楠葉中ノ芝)にあります。
中ノ芝から北楠葉を通過し、野田1丁目辺りに来ると野田大師堂があります。
 大師堂から少し離れた野田1丁目の「左八まん宮道・右志みつ道」の道標も元々この大師堂付近にありました。(写真下)
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 大師堂からさらに南方向に進み僅かに古道の面影を残す畦道等を通り、f0300125_1618531.jpg楠葉朝日自治会館を抜けて招堤の町を目指します。整然とした招堤屋敷街を過ぎると「日置天神社」です。この辺りは古くから高野道に沿って大変賑わった所ですが、一帯は南北朝の動乱に巻き込まれて灰燼に帰した歴史があります。日置天神社から近くの穂谷川を越えるとすぐ出屋敷の高野道へと続きます。

京街道

 京街道は文禄堤ともいい、文禄年間に豊臣秀吉が諸大名に命じて建設した淀川左岸の堤防道で比較的新しい街道です。文禄3年(1594)に淀川の改修工事を命じて建設、慶長元年(1596)に完成しました。この文禄堤は淀川が氾濫するのを防ぎ、大坂と京都を結ぶ最短の道として重要な街道となりました。また、秀吉の伏見城築城も文禄3年正月から始まり、文禄4年3月に竣工しました。
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 この時現在の下鳥羽・納所間の大坂街道が開通し、同時に淀・伏見間にも淀堤を築き、巨椋池は横大路沼と南北に分離しました。江戸時代、2代将軍徳川秀忠の時に京街道は「東海道57次」に編入され、伏見、淀、枚方、守口を宿場としました。
 大坂からの京街道に初めて八幡道標が現れるのは枚方市「宗左の辻」道標です。次は京阪牧野駅近くの「前島街道の道標」(明治時代の参考道標)で、八幡道標ではありませんが、これは高槻からの道で淀川を舟で渡って牧野から京街道に入るルートを示しています。f0300125_16303455.jpg牧野から楠葉方向に進み上島町の船橋川堤に当たれば「八幡宮参詣道の道標」が目に入ります。2mの道標の上部の地蔵像をよく見ると、かつて石清水八幡宮の祭神であった「八幡大菩薩像」が彫られた貴重な道標です!楠葉に入ると長福寺の美しい地蔵道標を経て久親恩寺に枚方市最後の道標群を見ると、橋本に入ります。
 小金川の境界を越えて橋本に入り、道なりに進んでゆくと中ノ町のT字路にある「八まん宮道」道標を左に進めば、北ノ町の「八まん宮山道」の道標に到達します。この道標を右折し、狩尾社から八幡宮に向かうルートが橋本からの参詣道です。
「八まん宮山道」の道標を右折せずに、さらにまっすぐ進めばかつての京街道と科手道の分岐点の大楠木辺り(楠木は現在、他の場所への移植準備中)に出ますが、ここから現在、美豆に向かう京街道はありません。木津川、宇治川の付け替え工事で分断されましたので、科手道を進むしかありません。
 分断された京街道は現在、伏見区淀美豆町の松ケ崎記念病院辺りから淀の方面に向けて進む道が残っていて、かつての八幡神領内京街道の面影を残す道となっています。
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御幸道と常磐道
    
 木津川の付け替え工事以前、主に京都から京街道を通って八幡に入る南北の道には常磐道と御幸道がありました。現在、御幸橋の南詰から一の鳥居までの御幸道は大部分が残り、御幸橋南詰の一角に「石清水八幡宮鳥居通御幸道」の道標も残っていますが、御幸橋付け替え工事により八幡宮頓宮内に保管されています。この道標は300年前の江戸時代、正徳3年(1713)に八幡宮検校新善法寺行清によって建立されたものです。しかし幹線道路であった常磐道は付替え工事によって大部分がなくなりました。
 八幡宮一の鳥居手前を右へやや細い道を行くと神應寺の山門に至ります。八幡宮を勧請した行教が創建した由緒ある寺院です。山門を過ぎたところに巨大五輪塔が見え、五輪塔の真向い八幡宮頓宮の西出入口手前に「左 八幡宮道」と彫られた全長280cm、正面幅24㎝、横幅24㎝の立派な道標が横たわっています。
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裏面には「是より北荷馬口付のもの乗へからず」と彫られているようです。一人ではこの道標は動かず、一部の文字しか確認できませんでしたが、京都市内に今も残る「是より洛中碑」と同じ意味のもので、いわば「是より八幡宮碑」とでもいえましょう。
 「是より洛中碑」とは洛中へ入る際には、馬の背に乗らず馬の手綱を引いて歩いて入る事、という意味です。京都町奉行より享保2年(1717)洛中の入口30カ所に石碑が建てられたもので、現在も11本残っているとの報告があります。「左 八幡宮道」の道標も恐らく同時代のものと見て間違いなさそうです。

男山東麓の道の「八まん宮道」
 
 御幸道の一の鳥居付近から南へ安居橋を左に見ながら奈良街道との分岐点である八幡橋を過ぎ、平谷町を左に曲がり松花堂昭乗の墓のある泰勝寺を過ぎると嘗ての幹線道路であった常磐道から南下する道と買屋橋辺りで合流し、「八まん宮道」となって男山東麓の道を南下すれば洞ヶ峠まで凡そ4kmの道程となります。買屋橋から南下し八幡山本で図書館方面に左折し旧道を歩けば、外郎(ういろう)で知られる「じばん宗」の前を通り抜け、突き当りの中央図書館から道なりに南方向に進みます。途中天理教教会を過ぎたあたりで右折すれば紅葉で知られる善法律寺に出られますが、古来八幡の道は南北よりも東西の道から発展した面影が残っています。善法律寺の前を南北に走る道路は新しい道で「新道」と呼びます。昭和30年代頃、田圃や畑だらけでしたが、昭和54年にようやく「認定道路」となった歴史があります。新道は直線的な道路なっていますが、近世までの道は戦略上、必ずと言ってよいほど曲っています。
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「旧道」と呼ばれている元来の道を南に進むと「走上り道」に突き当たり、すぐ右の神原交差点(近くに興正谷入口あり)を左へと進んでゆく。少し歩くと「正法寺」が右に見えます。鎌倉時代に正法寺は開創されたが、現在の伽藍は相応院(お亀)によって寄進されたものです。正法寺はもちろん近世八幡に大きな足跡を残した「お亀」は文禄3年(1594)徳川家康の側室となり、御三家尾張藩祖の徳川義直を生みます。八幡に361通の「領知朱印状」の発給を家康に促し「安居神事」を復活、「検地免除」・「守護不入」の地と確定しました。「検地免除」とは要するに年貢を納めなくてよい訳で、石清水八幡宮を中心とした自治組織体が確立しました。『奈良、大坂からの石清水八幡宮参詣道沿いの正法寺が都名所図会に紹介されるなど門前市をなすほどの賑わいであった』(正法寺栞より)。「八幡宮道」の志水道辺りを歩くときは正法寺惣門をくぐり南門から裏通りののどかな道を時々歩くと、車も殆んど出会うことなく松花堂庭園に辿り着きます。松花堂庭園の東に八角堂がありますが、この前の道が本来の道です。ここから中ノ山墓地の東入口の前を通り、洞ヶ峠を目指します。現在の松花堂庭園横のバスや車が走る南北の道は昭和40年前後に出来た「新道」と呼ぶものです。小高い丘 (西車塚古墳)の八角堂の前には役行者像が彫られた「すく八幡宮」の道標があります。
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安居塚から右に折れると洞ヶ峠に向かいます。今は右折して真直ぐの坂道ですが、以前は左から登る坂道が洞ヶ峠道でしたが、現在は分断されて通れません。いよいよ洞ヶ峠を越えると枚方市の高野道に入ります。
 また、八幡の安居塚のT字路から南に直進すれば「山根道」に入り、長尾、藤阪、津田、倉治を通って私部で東高野街道に合流します。

大阪府下・東高野街道の「やわた道標」

 八幡の道に江戸時代の「やわた道標」は22基存在します。江戸時代以前の高野道の道標を見たことは在りません。見るのは最近建てた新しい道標?ばかりです。そこで大阪府の東高野街道に八幡道標の存在を何度も訪問して確認しましたところ、東大阪市の2基を始め枚方市との間に何と12基の「八幡道標」がありました。奈良、大坂の八幡宮参詣者を八幡宮に導く道標群です。指差し道標や地蔵道標、観音菩薩道標、相撲取りの大井川万吉道標など個性的な道標ばかりです。如何に八幡宮への参詣者が多く河内の高野道を利用したかを物語るものですが、交野や星田の住民にとっては「やわた道」・「京やわた道」であったのです。枚方市出屋敷に明治33年建立の東高野街道碑がありますが、洞ヶ峠から一里の距離を現わしています。なお枚方市全体に存在する「八幡道標」は26基もあり、八幡よりも多くの道標が存在しました。

奈良時代の古道

 八幡の道は石清水八幡宮が貞観元年(859)に勧請されてから整備されてきたと考えます。f0300125_20402647.jpgそれ以前に官道として整備されていた道とは、まず山陰道と山陽道で、奈良から現在の京田辺市大住を通り、手原川に架かる関谷橋で別れて、淀方面へ向かう山陰道と美濃山廃寺、志水廃寺、足立寺、楠葉中之芝を通り八幡の橋本から山崎橋を渡って対岸の山崎へと入る山陽道でした。図は平城京時代、長岡京時代、平安京時代の男山周辺の古代官道図です。石清水八幡宮の創建以前の人の居住は、当然山陰道沿いや山陽道沿いに集中し、古墳や古跡も概ね古代官道沿いにあります。現在の常磐道や志水道など八幡宮創建以前に南北を縦貫する「八幡宮道」は整備されず、むしろ山陽・山陰道から派生した東西の道が中心であったと思われます。

「やわた道標」はまだまだ存在する

 江戸時代のものと思われる「八幡道標」は京都市、長岡京市、大山崎町、高槻市、茨木市、交野市、寝屋川市、四條畷市、大東市、東大阪市、枚方市におよび、八幡市の22基を含めて総計76基に至りました。その後、冊子を刊行することができ、読者から沢山の情報を頂き、未だ我々が知らない「八幡道標」がある事も解りました。例えば大阪府松原市に2基の「八幡道標」を発見しました。
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松原市には中高野街道が走ります。守口市から松原市を経て河内長野市に入るルートです。淀川を越えた島本町にも道標が見つかりましたし、先般刊行した冊子の読者から京都市内北野天満宮近くに建つ道標の紹介がありました。

八幡東麓の街道名の経緯

八幡の道をいわゆる東高野街道などと最近まで呼んだことはなく、八幡の道は八幡宮の遷座(859年)以来八幡宮参詣道として整備されてきたものであって、高野山参詣道として整備されたことはないと思います。
東寺や高野山に通じるというだけで、高野街道と云うのはおかしな話で全国の道が高野山に通じていたらすべて高野道になる訳でもないと思います。弘法大師が歩かれた道は奈良時代の官道である古山陽道、あるいは南海道と呼ばれる橋本から楠葉を経由して枚方の招堤を抜け交野の道を目指した道だと思います。八幡宮が遷座(859年)され、南北の道が整備される以前に弘法大師は入定(825年)されています。
「男山考古録」には、志水町から南半里許、万称寺在所より五町許南を俗に高野道と云う、と記載されています。山上山下惣絵図等にもその通り図示されています。八幡神領には男山独自の歴史や文化が溢れており、高野道に八幡宮や神應寺や正法寺が建立された訳では決してありません。
明治14年(1881)頃の「京都府地誌 荘誌(八幡荘)」に初めて“高野街道”の名称がでてきます。その後明治18年頃の陸軍仮製図には現在の松花堂庭園前の八幡城陽線交差点あたりから“自京都至和歌山道”とあり、明治42年(1909)頃の陸軍地図に洞ヶ峠付近に“東高野街道”とあります。これらの名称は行政や国防上の区分で、一般住民には周知されてないと思います。
 
歴史街道運動

平成になってからの歴史街道運動により、ルートを決めて、現在の「いわゆる東高野街道」の道標が多く設置されてしまいました。単に観光集客目的のための名称であることは明らかです。
 しかし、なぜ八幡固有の歴史的名称を生かそうとしないのでしょう、そうでなければ、八幡の正しい歴史が後世に伝わるものかどうか大変な危惧を持ってしまいます。他の自治体が血眼になって江戸時代の歴史を捜して何とか観光客誘致をと頑張っている姿よく目にしますが、八幡は一体何をやっているのでしょうか?何度も繰り返しますが八幡の道は八幡宮参詣道として機能していることが重要な歴史的事実で、それを示す八幡周辺の道には江戸時代の「京やわた道」の道標や八幡宮に近くなれば「八幡宮道」と刻まれた道標が沢山確認できます。大層重要な文化財としての道標群だと思います。
河内の星田や交野地方では高野道ではなく、「京やわた道」と呼び多くの住民が八幡宮を目指しました。
高野道だという人々は八幡の歴史を探究したでしょうか、歴史を知れば高野道沿いに八幡の町が発展してきたかのように言ったり、松花堂昭乗が男山東麓の東高野街道を歩いたなどとは言えません。小説の世界ならまだしも、歴史を語る場合は当時の仕組み、スタンダードで語るのが筋で、仮に現在のスタンダードで語れば歴史はいくらでも捏造されると思います。男山の東麓に当時「八まん宮道」はありましたが「東高野街道」はなかったはずです。
 歴史を知るうえで綿密な調査も行なわず、八幡の歴史を知らない官僚がまず地元の住民の意識を全く考慮せず勝手に名付けてしまった感があります。

八幡にある新しい「東高野街道碑」とは!?

 なぜ今「東高野街道」なのか、いつ「東高野街道」になったのか詳しい方があれば是非一度原稿に書いて教へて欲しいと思っています。昭和2年から4年頃には「三宅安兵衛遺志碑」が八幡の地に凡そ100基程建立されたと聞いていますが、現在、実際に八幡で確認されているのは91基だったと思います。
 「三宅安兵衛遺志碑」建立の歴史は中村武生氏(京都女子大学非常勤講師)の論文によってよく知られるところですが、松花堂の所有者であった西村芳次郎の進言や協力が大であった事を知りました。その西村芳次郎が進言して建てたとも思われる「高野街道碑」が松花堂庭園近くの月夜田交差点にあります。西村芳次郎は男山東麓の道を「高野道」にして八幡観光につなげたいとの思いもあって建碑を思い立ったものの洞ヶ峠から志水の離れ「中ノ山墓地」の近くに立てるのが精一杯の様でした。以前90歳を超えた古老に高野道の所在を聞いたところ、“志水の離れでしょ”と即座に返ってきました。洞ヶ峠が志水の離れにあるとの感覚だったと思えてなりません。一般に志水の離れに当たる「中ノ山墓地」のように、墓地は大概が地区の離れや境界の地に多く存在します。
 さて、男山東麓の道に「東高野街道」と称する石碑が13基も建立されて一種の異様さを感じます。昭和30年代後半か40年頃に開通した「新道」にも数基建立されています。丁寧さも限度を超えている感があります。近年俄かに建立された「東高野街道」の道標をよく観察すれば、建立年月日や建立主体が記されていません。常識では考えにくいことですが、そこには何か意図があるのでしょうか、考えが及ばなかったのでしょうか?f0300125_19194589.jpg
 石碑・道標に興味を持ってから、いつもその意味について思い出す文章があります。=歴史的な石碑や道標が指し示す「史蹟」は、『あたかもその地域の唯一の歴史のように、旅行者のみならず、住民にさえ認識され出すのである。石碑が後世にこのような影響を与えるものである以上、その建設過程は追及されなくてはならない』(中村武生『花園史学』2001.11) 建設過程とは個々の石碑
がいつ、誰によって、何の目的によって建立されたか等を石碑に銘記する事であります。それによって現在の我々にとって郷土の文化財研究の貴重な遺産となっています。また石碑や道標が観光客に役立つのも表だけでなく裏や側面に書かれた意味を理解し、設置の背景をも読み取ろうとするからです(中村武生監修『中村武生とあるく洛中洛外』2010.10・京都新聞出版センター)=
以上一一
 
     
『一口感想』より

道標について、大変研究(調査)されていて、八幡について正しく伝えていくことが大切だと思います。谷村さんの研究姿勢に感動しました。大変勉強になりました。色々とお尋ねすることがあると思いますが、今後共に宜しくご指導くださいませ。(S.Y.)
現場を観ての説明で非常に説得力があり、よく分かりました。(G.K.)
本日はありがとうございました。東高野街道が、まったく別のものであるという事実を知り、びっくりしました。精密な調査の中、わかりやすく説明していただきとても勉強になりました。(M.Y.)
各地の道標を現地で確認され、江戸時代以前の八幡の及び八幡へ向かう道が人々にどの様に呼ばれ見られていたかが判りました。また、お地蔵さんが道標にもなっていたことを初めて知りました。(T.Y.)
大変ていねいに説明されており、おどろきました。(S.K.)
古道や道標が整備され、話題性のある様なものがつくりだせたらいいなぁと思いました。(T.M.)
大変多くの資料を準備され、詳しく分析されており感心いたしました。(K.K.)
 
                                
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by y-rekitan | 2018-03-26 11:00 | Comments(0)

◆会報第82号より-06 文化祭発表

第45回八幡市民文化祭での展示発表報告

八幡の歴史を探究する会「八幡の道探究部会」


 2017年10月28日、29日の二日間の八幡市民文化祭において、八幡市文化センター3階ロビーで展示発表をしました。
 会場では専門部会「八幡の道探究部会」の会員が、2年間かけて現地に出向き調査した江戸時代の八幡市内(22基)及び市外(54基)の八幡道標(みちしるべ)と設置場所を示した地図をパネルに掲示しました。f0300125_11175696.jpg
 また、古地図や古道地図もパネルに掲示しました。文化祭の両日共に台風接近の影響で生憎の雨天となり例年より来場者は減少しましたが、来場の皆様は熱心に道標写真や地図で設置場所を確認されていました。会場では道部会員や歴探の幹事が中心となって説明にあたりました。

1.江戸時代の八幡道標(みちしるべ)

 『「石清水八まん宮道」に誘う道標群(江戸時代の八幡道標)』のタイトルで展示パネル5枚に京都市南区から南は東大阪までを10地域に区分した拡大地図には八幡道標設置位置を矢印で示し、各地図の周囲には道標写真を掲示しました。道標写真から、①行先のみ標示の道標、②地蔵道標、③指差道標、④墓碑道標等々の形態がある事が判り、特にお地蔵さんが彫られた道標が多く設置されている事が確認されます。設置場所は一番北の八幡道標は京都東寺近くの「矢取地蔵堂前の道標」で、南は東大阪市の「喜里川町の道標」(下図)です。
「地域別の八幡道標数」は次の通りです。f0300125_1222057.jpg
①八幡市内:22基
②京都市南区:1基
③京都市伏見区:7基
④長岡京市:1基
⑤大山崎町:1基
⑥高槻市:3基
⑦茨木市:1基
⑧枚方市:26基
⑨交野市:2基
⑩寝屋川市:2基
⑪四條畷市:3基
⑫大東市:2基
⑬東大阪市:5基
以上、合計76基が今回の調査で確認され今回展示発表をしました。

 また、今回の調査結果を「昔と今を結ぶ掛替えのない歴史遺産として保護する」とともに「後世に引き継ぎたい」との願いから、冊子『「石清水八まん宮道」に誘う道標群』に取りまとめて発刊しました。冊子は会場で販売しましたが、2日間で50名越の多くの方にお買い求めいただきました。

2.古地図、古道地図の展示

 ロビーの向かい側の展示パネル3枚には八幡市の代表的な古地図と「中世~近世の男山周辺の道」を現在の地図上に記載した地図を掲示しました。来場の皆様は、石清水八幡宮参詣道や山麓の道を現在も使用されている道や廃道になった道を地図上で確認されていました。

これからの部会活動について

 「八幡の道探究部会」は八幡市文化祭では昨年に引き続き2回目の展示発表でしたが、来場者の方々には掲示の道標や地図を熱心に見ていただいたことを感謝いたします。これからも部会は自分の足で現地に出向いて調査確認をする地道な活動を続けて行く所存です。
by y-rekitan | 2017-11-27 06:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-06 八まん宮道

「石清水八まん宮道」に悠久の歴史がある


 谷村 勉(会員)


【八幡の道と空海】


 高野街道とは嘗て空海が高野山への道をとったという古い街道を指しました。
空海が実際に高野山へと足を運んだと思われる八幡の道は橋本にあります。
大山崎・橋本間の淀川に架かる「山崎橋」(神亀2年・725架橋)を大山崎から橋本に渡り、楠葉、招堤南町の「日置天神社」を通って出屋敷、津田の集落に入る道です。橋本の近く楠葉中之芝の「久親恩寺」に古い地蔵道標がありました。

f0300125_1422085.jpg 鎌倉期の道標でしょうか、両手で宝珠を持つ「地蔵菩薩立像」の崩れた光背の左に「すく 八まん宮」、右には「右 かうや 左 はし本道」と彫られて、橋本から楠葉を通る旧高野道の存在を証明する貴重な地蔵道標だと確認できました。
 空海は石清水八幡宮遷座の25年前に入定しています。八幡宮遷座後、八幡の北の限りである橋本町や科手町は淀川水運と共に早くから道や町々が整備され、その後に男山東麓の南北の道が整備されていきますので、空海が洞ヶ峠に至る男山東麓の道を歩くことはありませんでした。八幡宮が遷座される以前の道路は現京田辺市大住の府道22号関屋橋から内里を通り木津川に沿って伏見区淀美豆(旧八幡神領内)に至る「旧山陰道」と府道22号関屋橋から分岐して志水廃寺跡(八幡月夜田)周辺を通り、丘陵を越え足立寺跡付近から楠葉に入り橋本へ向かう「旧山陽道」の二つの古代官道を中心に発展して行く経緯があります。

【八幡の宝物】


 江戸時代の中頃に描かれた「石清水八幡宮全図」をご存知の方も多いと思いますが、八幡にとりましては「宝物」と云えるような絵図で、八幡の歴史の底力を感じさせる作品です。
八幡市民図書館(八幡菖蒲池)の入口のロビーやふるさと学習館1階展示室(八幡東浦)にも同様の実物大の絵図が展示してあります。ゆっくり見て行くと色んな事が読めてきて楽しくなります。当時の地形や神社仏閣、建物などと共に、幸いにも今も沢山残る各町名や歴史上に出てくる史蹟名勝など八幡の歴史を確認する手引きとしても貴重な絵図で、江戸時代の町の様子を伝えるこの絵図こそ我々の「宝物」といえます。いつかこの絵図から読み取れる数々の物語を解説できる機会があればと思う程です。絵図の北側に「御幸道」と「京街道」が交差する地点に「御幸道立石」と書かれた箇所があります。これが「男山考古録」に記されている「正徳3年(1713)」に「石清水八幡宮検校新善法寺行清」が建立した「石清水八幡宮鳥居通御幸道」の石碑で一の鳥居までの「御幸道」(行幸大路)を指しています。この石碑は現在も残り、御幸橋の付け替え工事で八幡宮の頓宮の中庭に一時保管されていることが分りました。
 明治になって、木津川、宇治川の流域が現在のように変わった為に、「御幸道の石碑」の位置も変わりましたが、年度内には御幸橋の南詰に再び建つと「市の担当者」から聞きましたので、300年前の江戸時代に建立された歴史的文化財として、じっくりこの石碑をご覧ください。
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【やわた道標の調査】


 一昨年から凡そ2年をかけて八幡市内はもちろん近隣自治体を含め、江戸時代の道標調査を行いました。「やわた」の文字や里程が彫られた道標を「やわた道標」と捉えて、その写真撮影とともに自治体別に「やわた道標」の本数を確認しました。総数で76基ありました(八幡の22基を含む)。詳しい内容は別の機会に報告しますが、それぞれが歴史的価値のある重厚な道標群でした。
 京都市内では南区唐橋羅城門の矢取地蔵堂前に「左 やわた八幡宮」と彫られた道標を含めて8基がありましたが、八幡に近い伏見区に7基が残り、長岡京市に1基、大山崎町に1基ありました。
大阪府には枚方市に26基もの道標があって「八まん宮道」、「八まん道」、「八幡街道」などと彫られた見事な道標が残っています。高槻市には3基、茨木市は1基、交野市に2基、寝屋川市に2基、四條畷市に3基、大東市に2基、東大阪市には5基があり「やはた」、「京 やわた」、「やハたみちすじ」などの文字が強く印象に残りました。このように今でも近隣自治体には多くの「やわた道標」が残り、自治体や住民にとって江戸時代の道標は大切な文化財であると自覚して、できる限り現場保存に努力し、大事に扱われている様子がひしひしと伝わってきました。
          
【八幡の道は八まん宮道】


f0300125_14533014.jpg 「八幡」へ案内する道標の数々は主に江戸時代に入って街道が本格的に整備されるに従い、往来する人々も飛躍的に増大しました。それに伴って道標もその地方の住人や有徳人、信仰心のあつい人々によって建立されたようです。「地蔵菩薩像」の道標が大変多く目につきますが、墓石に道案内を刻んだ道標も有りました。
道標には「京・やわた」をセットで案内するケースも目立ちます。現代の様な案内地図や電話もない時代ですから“やわた道 石の地蔵に 聞いて行く”と多くの地蔵道標に道を教えられては、ほっとするような息遣いが感じられ、「京やわた」の文字を見ては、都に近く何となく「みやび」な雰囲気を感じ取っていたかもしれません。
 八幡以外に54基もの道標群が「八幡道標」として現存します。如何に多くの人々が八幡宮参詣道としての「八幡の道」を歩いたものでしょうか。特に河内や大和、摂津の人々の往来が多く、放生会や安居神事の祭には沢山の人々がその役割を担ったり、多くの参詣人で賑わう様子が古文書からも読み取れます。
 「やわた道」あるいは「京やはた道」の道標に導かれた人々が実際に八幡宮の神領に入れば「八幡宮道」と書かれた道標が多く目につき、いよいよ「石清水八幡宮」も間近に迫っているのだ、と実感したものでしょう。
 「京・やわた道」「やはた道」「八まん宮道」の道標は八幡に数多くありますが、これだけの「やわた道標」の数の多さは一体何を物語っているのかはすでに明らかです!それに比べて男山東麓の南北の道に「東高野街道」と書かれた道標は1基もありません。これらからも八幡では決して「東高野街道」と呼ぶような道はなかったことが誰でもすぐ理解できます。江戸時代に、さも「高野道」や「東高野街道」が男山東麓を走っていたとするような文章があればこれは間違いです。歴史を解説する場合はその当時の常識や規範(スタンダード)で語らねばなりません。現在の規範をあてはめて解説するのは間違いのもとになります。ここは歴史を語る者が一番気を付けるところです。
 八幡では「八幡の道」の名称を他の宗教施設を連想するような名称に置き換えるようなことは決してありませんでした。「男山考古録」でも洞ヶ峠辺りから大阪寄りの道を「高野道」と呼んでいたことが明らかです。古来八幡に「東高野街道」という名称の道は無かったという真実を知って「ビックリする人」がなんと多いことでしょうか!
 凡そ90年前、昭和初期に八幡のあちらこちらに「三宅碑」(京都の三宅安兵衛遺志碑)が建てられました。その三宅碑の建立場所については「西村芳次郎」(当時の松花堂所有者)が大きく関わって、男山東麓の南北の道も「高野道」としたかったような気配が感じられますが、住民から受け入れられるものではなく、仕方なく西村芳次郎をしても、現在の月夜田交差点にある「右 高野街道」(昭和2年建立)の三宅碑を建てるのが精一杯だったようです。但し元々この「三宅碑」はここに建ってはいません。現在の「宝青庵」(もみじ寺)と中ノ山墓地の間の旧道(本来の古道)にありました。右に行けば洞が峠の高野道に至るという意味です。志水町(道)のはずれがすぐ洞ヶ峠という認識が当時は在ったのかも知れません。なお、この三宅碑には「文学博士 西田直二郎書」とあって、何とも含蓄のある石碑に見えます。
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【借物では「宝物」になり得ない】


 楠葉中之芝の「久親恩寺」にある両手で宝珠を持つ「地蔵道標」が橋本から楠葉を通る旧高野道の存在を証明する「地蔵道標」であることが判り、これは楠葉はもちろん、八幡の橋本にとっても「宝物」の発見になりました。
 また江戸時代から伝わる「石清水八幡宮全図」も「宝物」です。これ程の絵図を他の地域ではあまり見かけません。しかも江戸時代から繋がる町名や道筋がそのまま残り、いろんな歴史の舞台となった物語がこの絵図から次から次へと浮かび上がります。
f0300125_14584216.jpg 八幡や近隣自治体の「やわた道標」の調査では総数76基もの道標が残っていました。その殆んどが江戸時代に建立されたもので、歴史の重みを感じさせるほどの重量感がありました。京都市内ではやはり八幡の近くの伏見区に集中しており7基が残っていました。一つの自治体では概ね1基あるいは2~3基程度でありましたが、近隣の枚方市では牧野、楠葉を中心に何と26基もの道標があり、昔から同じ八幡宮文化圏であったことが窺い知れます。八幡には22基の江戸時代の「やわた道標」が残っています。「すぐ八幡宮」「やわた道」「八まん宮道」と書かれた道標群はこれらも我々のかけがいのない「宝物」です。
 さて、最近になって「石清水八幡宮参詣道」として「やわた道」、「八幡宮道」などはるか昔から八幡信仰の道として、その役割を果たしてきた男山東麓の道を「東高野街道」などと言い出して、誰が何時建てたか解らない薄っぺらな道標が僅か3kmの距離に13基も建ってしまいました。常識的に2,3基もあれば十分の処に、13基もの道標を建てないと信用してもらえない、との思いからでしょうか、これでもか、これでもかと建つ姿を見て、段々見苦しくなりました。この道標に歴史観を彷彿させるものがあるのでしょうか。
 自ら歴史的な調査も実施せずに、何処かの学者の意見を鵜呑みにするだけで建てたようですから間違いだらけで、理屈に合わない無駄な道標が沢山あるように思われてなりません。聞けば平成に入って、大阪から発信された歴史街道運動に乗っかって、観光集客を目的に建立したようです。我々八幡の住民に殆ど馴染みのない「高野街道」がなぜ八幡に突然に出現するのか?驚きです。この様な高野山ブームに乗っかったような借物の名称では八幡の「宝物」にはなり得ません。先般、八幡のとある協会のネット記事を見ていると、八幡は「東高野街道の宿場町」であったという誤った引用記事を掲載していました。何をかいわんや!事実誤認を誘引させるネットの引用記事は安易に掲載しないのが鉄則です。
       
【男山東麓の道は「石清水八まん宮道」がふさわしい!】


 我々の世代が受け継いできた八幡の歴史は次の世代にもしっかり引き繋いでゆくことこそ歴史や伝統が繋がりをもって活きてきます。男山の東麓を南北に走る道の名称は八幡の住民にとっては歴史的にも、江戸時代の道標の数々の存在を見ても「石清水八まん宮道」とあってこそ本物でネイティブな名称であり、通称「八まん宮道」だとすれば、近隣の八幡道標や八幡市内の道標と結びついて、一気に歴史が繋がり、ここに悠久の歴史を感じるとることができるはずです。現在、日本で一番多い神社は八幡神社で、いたる所に「八幡宮道」や「八まん道」があると想像されますが、「石清水八まん宮道」の名称であれば、ここ八幡にしかない固有の道になります。
 八幡に男山あって高野山なし、八幡に「八まん宮道の道標」あって「高野道の道標」なし、八幡に「石清水八幡宮」あって「八まん宮道」あり、八幡に「石清水八幡宮」あって「宝物」あり。
 八幡の歴史を調べてゆくと、幸いにも八幡にしかない「宝物」が続々とでてきます。一般には殆ど知られていない歴史的事実や文化財などを含めて驚くほどですが、残念なことに自治体には発信力が期待できそうにありません。市井の郷土史家の活躍こそが期待されるところです。八幡の歴史を探究し、自分の目で確かめ、信頼される確かな情報を共に発信してゆきたいと願うところです。  
以上  

by y-rekitan | 2017-09-26 07:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-07 本の発刊

『石清水八まん宮道』にいざな道標みちしるべ
―江戸時代の八幡道標―
の発刊にむけて

「八幡の道探究部会」編集委員会


 2015年10月に古道の調査を目的として本会の専門部会「八幡の道探究部会」を立上げて活動しています。その一環として編集委員会を設けて約2年間の道標調査結果を取りまとめて題記の冊子を発刊する準備を進めていましたが、このたび予定通り発刊する運びとなりましたので概要をお知らせします。

出版の趣旨

 八幡の古道を歩いてみると、当時の人々が生活する上で必要、かつ現在も貴重な道標(みちしるべ)が多く残されています。しかし残念ながら壊されたり、倒されたり、あるいは他所に移されたり、意味のない形で放置されているものも見受けられます。一方で八幡市に通じる市外の古道には、石清水八幡宮や八幡を目指す多くの道標が残り、現在も大切に保護されています。 
 本書は150年以上前の「江戸時代」に建立された八幡市内及び市外の「八幡道標」ともいうべき道標群を「昔と今を結ぶ掛替えのない歴史遺産として保護し」、「後世に引き継ぎたい」との強い願いから、現状を会員が自分の足で調査した結果をまとめて出版を企画・実施したものです。

本の主な記事

f0300125_9283025.jpg1.刊行にあたって
2.江戸時代の八まん宮道 エリア
  区分地図
3.道標群の紹介―以下の合計76基
  ・八 幡 市 :22基
  ・京都市内:8基
  ・長岡京市:1基
  ・大山崎町:1基
  ・高 槻 市 :3基
  ・茨 木 市 :1基
  ・枚 方 市 :26基
  ・交 野 市 :2基
  ・寝屋川市:2基
  ・四條畷市:3基
  ・大 東 市 :2基
  ・東大阪市:5基
4,八幡道標の調査を終えて
5.編集後記


お願い(2017年10月12日発行)

 是非、一人でも多くの方が冊子を片手に各地の江戸時代と現在を結ぶ八幡道標を訪ねられる事を願っています。道標に関心をもっていただくことが、道標の保護にもつながると確信し、最後の仕上げをしています。 
掲載している地図は、現地で迷わないように道標設置の場所をピンポイントで示しています。
 本書はA5版フルカラーで96ページになる予定です。本書は“本会で自家編集し、それをそのままネット印刷で本にする”ことで極力廉価で皆様にご提供できることを目指しています。
 発行日は10月12日の予定で、10月例会(講演と交流の集い)会場でもお求めいただけますように準備中です。

※)本書の刊行に関する事前問合せは、編集委員会 高田昌史 宛にお願いします。
  電話 090-2011-7503 または メールtakata@cd6.so-net.ne.jp

by y-rekitan | 2017-09-26 06:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-05 八幡合戦

『太平記』八幡合戦の石碑を訪ねる

谷村 勉 (会員)


 「八幡合戦」の石碑は京阪八幡市駅から近く、男山山上の御本宮や護国寺跡より中ノ山墓地・正平塚まで凡そ片道4kmの距離にある。途中、歴史的な道標、
石碑を沢山目にするが、今回は「八幡合戦」(正平の役)に関連する道標をピックアップしました。八幡市民図書館横の⑥「園殿口古戦場」石碑を見た後はそのまま南へ旧街道の面影を残す旧道を歩き、突き当りを右に折れて、神原交差点から、さらに南の志水道に入るコースをお薦めします。
 なお、本記事で紹介の石碑等の場所は、下図に矢印と石碑番号を記入しています。
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① 護国寺薬師堂跡碑 (八幡高坊)
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 正平の役で山上における後村上天皇の行宮になったと思われるのが護国寺です。「八幡合戦」の終盤、ここから志水大道に下り、賀名生(あのう)まで多大な犠牲を払いながら脱出に成功した。明治の廃仏毀釈で建物は無くなるが、永く当山根本精舎の役割を担ったところで、八幡宮遷座以前、行基菩薩の開基と伝わる。本宮東門よりケーブル乗り場の道を左にみて、真直ぐ階段を下った左の広場が護国寺跡地になる。
 慶応2年(1866)発行の「八幡山案内絵図」にはほぼ中央に護国寺が描かれ、南側には琴塔や伊勢遥拝所が、西には大西坊へと案内する今も現存の大きな常夜燈が見える。護国寺本尊であった重要文化財の薬師如来や十二神将は廃仏毀釈以降、淡路島の東山寺(とうさんじ)に移され、現在も素晴らしい保存状態で大切に祀られている。

② 八幡行宮跡碑 (八幡市八幡土井)
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 飛行神社から南へ約30mの行宮碑、左に折れると後村上天皇行宮跡碑がある。

③ 後村上天皇行宮跡碑 (八幡垣内山) 
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 当時はこの周辺に石清水八幡宮祠官の田中家の広大な屋敷が在り、正平7年(1352)閏2月19日八幡宮別当田中定清の邸宅を行宮とした。

④ 青林院の正平役供養塔 (八幡旦所)
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 念仏寺の東隣、正福寺の向かいの「青林院」裏の墓地にある。表からは入れず、写真左の横道から南へ抜けると墓地に到る。青林院より東に信号を越えて行くと森堂口、薬園寺に続く道となる。
 この青林院は昭和19年(1944)「中ノ山墓地正平塚」を整備した今中伊兵衛氏が得度・隠居した寺です。

⑤ 正平役城ノ内古跡 (八幡城ノ内) 本妙寺
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 青林院から「八幡宮道」に戻り、更に南に進んで大谷川の「買屋橋」を越えて暫く行くと右手の「本妙寺」に到る。当時の実際の現場は城ノ内の南側からスーパー「コノミヤ」辺り一帯であったらしい。

⑥ 正平役園殿口古戦場 (八幡菖蒲池) 八幡市民図書館横
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 八幡市民図書館横の「園殿口古戦場」の三宅碑は本来の場所から移動している。「園殿口」とは江戸中期の「石清水八幡宮全図」等によると、現在の「法園寺」から東の川口方面に向かった大谷川の辺りを指すが、三宅碑は「小谷食堂」(八幡山本)近くの三叉路東南角付近(八幡菖蒲池)に設置されていた。道路工事等で現在の場所に移転したようだが、園殿口から大きくずれている。(図書館ロビーに江戸時代中期の「八幡宮山上山下惣絵図」あり)

⑦正平役馬塚古跡 (八幡東林)
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 志水道(八幡宮道)を登りきった「志水の四辻」にある内藤精肉店を左に入り、「ありあけ児童公園」を左に見てやや下り、二本目の筋を左に入ったところに「三宅碑」がある。八幡合戦では戦場の主力武器は弓矢であり、その死傷原因も殆んどが矢疵であった。四条隆資卿が斃れたのもこの道筋辺りであろうか。

⑧ 正平役血洗池古蹟 (八幡大芝)
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 志水道(八幡宮道)を松花堂庭園近く、「水月庵」の道標を見て右(旧道)に入り、八角堂を少し越した所に「三宅碑」がある。この古蹟からすぐ左の志水道を行くと中ノ山墓地に出る。血洗池とは古くは西車塚周濠溝の跡。「往古死罪人御成敗の時、太刀取刀をすすぎ候池と申伝え、其池茅原生茂りて名に呼びしか、血アライと称して、あやしき附言のさかしらを云伝えたるものならむ」と『男山考古録』(江戸後期の八幡の詳細な地誌)にあり。

⑨ 正平七年神器奉安所「岡の稲荷社」の道標 (八幡月夜田)
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 血洗池石碑から南に進み、中ノ山墓地を見て道路の坂を下りると、月夜田交差差点の東南の角に「岡の稲荷社」の三宅碑が見える。中ノ山墓地へは西に坂を登り返す。正平七年(1352)五月、八幡合戦に敗れた後村上天皇が賀名生に落ちのびる際、岡の稲荷社に神器を隠し置いたとするが全く不明です。

⑩ 中ノ山墓地東入口     ⑪ 正平塚遠景 (八幡中ノ山)
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 月夜田交差点から西に約50m坂を登ると中ノ山墓地東入口に到り、階段を登りきると、左方向に楠木の大木が目に入る。ここが正平塚です。

⑫ 四条隆資卿塔並びに将卒三百人墓
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 戦時中の昭和19年(1944)に慧俊信海(けいしゅんしんかい)(今中伊兵衛)によって、この正平塚は整備された。城ノ内町の畳商を営む今中伊兵衛は史跡松花堂の前所有者西村芳治郎氏の実弟でもある。今中の整備の20年前に西村芳次郎が東西20間、南北15間の敷地を定め、石柱を四方に立て保存に努めた。東口と北側にある「正平塚古墳」の石碑は昭和2年のいわゆる「三宅碑」である。
 昭和の初めころから塚は荒廃し、放置すれば南朝忠臣の四条隆資らを祀る塚が消滅することを危惧した今中伊兵衛は自費数千円を投じて整備した。
(この項のみ、京都府立大学文化遺産叢書第4集・中ノ山墓地の景観と庶民信仰:竹中友里代著から要約)

⑬ 三古碑      
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 正平の役で斃れた3人の公卿の古碑であるが詳しいことは判っていない。

【歴史を重ねた八幡宮道】

 最近、八幡東麓の道を「東高野街道」という人もいるが、近年観光客誘致の目的で、平成の歴史街道運動に乗って行政が名付けたと聞いています。実はその名称は八幡の洞ヶ峠を起点とする大阪側の道の呼び名であって、八幡の住民はこれまで殆ど「八幡宮道」の歴史的呼称を使用するか、町名を冠した例えば「志水道」、「常盤道」あるいは「新道」、「旧道」などと呼んできました。観光客や八幡の歴史に関心のない人が残念ながら「東高野街道」と呼ぶようです。
 特に近世以前、八幡の歴史上に存在したかのような記述があれば、それは歴史の理解不足であり致命的な錯誤となります。ここでは、「石清水八幡宮参詣道」として発展してきた歴史的経緯を踏まえた名称を使用します。

  主な参考文献:男山考古録 (嘉永元年・1848) 長濵尚次
        :八幡史蹟 (昭和11年・1936) 中村直勝
        :京都府立大学文化遺産叢書第4集(平成23年・2011) 
--------- 中ノ山墓地の景観と庶民信仰:竹中友里代
by y-rekitan | 2017-05-20 08:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-06 四條隆資①

シリーズ「四條隆資卿」・・・①
四條隆資卿しじょうたかすけきょう物語  その1
プロローグ「正平の役」

 大田 友紀子(会員) 


 去年の夏の祇園祭に、初めて、八幡の人々に向けてのツアー(やわた観光ガイド協会主催)が実施されましたので、「太平記」の中でも、マイナーな四條隆資卿(しじょうたかすえきょう)についても、ご存じの方もいらっしゃるかな、と思いますが、まだまだこの八幡の地で起こった「八幡合戦」のことも、その戦闘の中で斃(たお)れた一人の公家・四條隆資卿(しじょうたかすえきょう)のことも、知らない方の方が多いのかなぁ、と思っております。

f0300125_2115593.jpg そこで、今回、四條隆資卿のことを、より多くの八幡の方々に知っていただきたい、と思って書かせていただきます。タイトルを「四條隆資卿物語」とさせていただきました。この間、あることから、「物語」とは、「往古(いにしえ)の記憶を語り伝えるもの」だ、と知りました。であるならば、私たちは、正しく伝えて行く努力をしなければならない、と強く思いました。以前から、私は「南北朝期の八幡」についての研究を続けてきました。そして、その中で、最も私が残念に思っていることは、この八幡の地で何百人もの人々が戦い傷つきあった悲惨な戦いがあった、ということを知らない、伝わっていないことなのです。
 平成21年の春、偶然知った「正平塚古跡(しょうへいつかこせき)」の存在が、私の研究の原点です。奇しくも亡き母の墓などがある中ノ山墓地にあり、昭和の初め、それから、昭和19年にその「正平塚古跡」の整備を行った人たちがいた、ということでした。そして、その中ノ山墓地は、江戸時代、志水の壮士などの墓が営まれるようになっていて、正法寺(しょうぼうじ)の末寺である万称寺(まんしょうじ)の裏山にあり、「女郎花墓(おみなえしぼ)」と呼ばれていました。そんな変遷の歴史があったことを、私たちは知らなければいけないのではと強く思いました。中ノ山墓地は、南山城で、いいえ、日本でも古くて大きい共同墓地です。そこには、往古からの歴史が蓄積されているのです。
 
 正平塚で眠っている四條隆資(1292-1352)は、鎌倉―南北朝期の公卿です。公卿とは、三位以上の貴族で、天皇・上皇の元で政治の中枢にいた人たちです。四條家は白河上皇の乳母子であった藤原顕季(ふじわらのあきすえ)にはじまる家系で、そのひ孫にあたる隆季(たかすえ)が大宮四条に邸宅を構えたことから、「四條」を家名とします。藤原氏の北家の流れをくむ家ですから、家名(本姓)は「藤原」ですから、通姓です。そして、貴族の家格では「羽林家(うりんけ)」に属し、家職としては笙(しょう)の家です。「羽林家」は天皇の傍に仕える立場の家で、武官と文官の家があります。武官の家である四條家の男子は近衞府に出仕して、天皇の身辺警護などの任務を負い、行幸などの際には付き従います。そして、娘は女房として御所に出仕し、天皇の身支度やその他すべての世話をするのですから、天皇のお手がつくことがあり、その結果、皇子・皇女を生むこともありました。そして、娘が皇子を生むと、その縁故により政治の中枢を担うことがありました。御所に仕える娘を何人も出してきた四條家なので、隆資にも伏見天皇の御落胤では、という話もあります。このことについては、次回、詳しく書かせていただきます。
 祇園祭の山である蟷螂山(とうろうやま)と、石清水八幡宮本殿の北東の瑞垣(みずがき)にあるカマキリの彫刻と関連は、昔から神職間で語り伝えられていたそうで、そのことからか、明治の初めの火災で燃えた蟷螂山の復興時には、石清水八幡宮本殿の瑞垣のカマキリの彫り物を参考にして、御所車に乗るカマキリ、すなわち蟷螂が復元されます。そのことについて尋ねると、現在の禰宜さんは、そのように聞いている、と答えられます。そして、この話からも、ぼんやりとですが、瑞垣の蟷螂と四條隆資卿との間には、何か深いつながりがあるのでは、思われてくるのですが。
 八幡宮本殿の蟷螂の彫刻と、四條隆資卿のことは、以前、当会の会報・17号に書かせていただきましたので、省略させていただきますが、今日でも不明な点は残っておりますが、そのような口承が伝え続けられてきたという事実は重要です。このことについては、今後の課題として、話を進めていきたいと思います。
 南朝の元号でいえば、正平7年(1352)5月12日夜半、八幡山に籠城を続けていた後村上天皇は、賀名生(あのう)への撤退を決められ、行宮としていた護国寺を去ることを決意されました。そして、石清水八幡宮宝前(今は南総門前の石段の下に隠れてしまった五つ石の所)にて、八幡大菩薩にお暇乞いをされると、八角堂の前を横切り、西谷小門より、山を下りて行かれました。左側に渓流が流れる山道を、先頭の兵が持つ小さなかがり火を頼りに粛々と、隊列は静かに進んで行きました。先頭の軍が志水大道に差し掛かる頃、後村上天皇は興正谷の庵におられ、祈りを捧げてられました。最期の別れの時を迎え、控えていた四條隆資卿は、「何事が起ころうとも決して後ろを見ることのなきよう、ただただ鞭をとり、馳せられるように。」と甲冑姿の25歳の若武者である後村上天皇に約束させて、近侍の法性寺康長(ほっしょうじやすなが)、滋野井實勝(しげのいさねかつ)の手を取って激励し、出発させます。夜の帳(とばり)が垂れこめている間に、志水大道を進み、その四辻を東に駆け抜けさせたかったのですが、志水の町の手前で赤松則祐(あかまつのりすけ)の配下の兵に気づかれ、その軍の大半は洞ヶ峠を目指す第一軍を追いかけたのですが、中には戻ってくる兵もあり、瞬く間に後続の兵との戦闘が始まりました。一刻一刻、戦いの渦が大きくなって行く中、法性寺康長らに護られて、後村上天皇は奈良街道へと向かって馬を走らせたのです。上奈良の村を過ぎ、木津川沿いを突き進んで行き、奈良の唐招提寺に着いた時には、8騎ほどになっていたことや兵の中に紛れて誰が今上帝なのかわからなかった、と唐招提寺の僧がその時の様子を詳しく書いて、京都の洞院公賢(とういんきんたか)の元に送っています。
 その日の申の刻(朝の10時)には西大寺の前を過ぎ、三輪に着いています。八幡の陥落と脱出の困難であった有様がよく伝わってきます。5月13日の朝には、八幡合戦の首級が京に続々と持って来られ、すぐさま六条河原に晒されました。その日、洞院公賢は「随分合戦し遂に取らる、不便(気の毒だ)」と記しています。
 四條隆資卿や滋野井實勝、そして多くの将兵が闘死した場所は、記録にはありません。f0300125_2125260.jpgですが私は、その当時「志水の四辻」と呼ばれていた、現在の内藤精肉店の付近では、と考えています。と言うのも、精肉店の北側に出来た公園の中にあるお社・『荒鈴龍王(あらすずりゅうおう)』の存在が、そんなことを考えさせるのです。それくらい立派な弊額が掛かっているお社です。想像たくましくいえば、その時にその地に埋葬された後、その上には『荒鈴龍王』社が祀られましたが、その後、なんらかの事情で中ノ山墓地に改葬され、それが「正平塚」となったのでは、と想像しています。八幡神領内での戦の後、戦死者たちはきっと手厚く葬られたと私は信じています。
 今年も、もうすぐ7月、京都では町衆の心意気が感じられる祇園祭が始まります。その頃に、今年も蟷螂山町などを訪ねるツァーが予定されています。今年こそ私は、組み立てられたばかりの蟷螂山を舁(か)いでみたい、と思っています。この毎年12日から13日に行われる先祭の山舁(やまかき)初めに参加すると無病息災が約束されると、いわれています。 
(つづく)  

           
(京都産業大学日本文化研究所 上席客員研究員)  


【参考文献】
京都府立大学文化遺産叢書第1集「近世後期八幡神領の病・死・墓」東昇著
京都府立大学文化遺産叢書第4集「中ノ山墓地の景観と庶民信仰」竹中有里代著
角川選書―222「内乱のなかの貴族」林屋辰三郎著



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by y-rekitan | 2017-05-20 07:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-07 三宅碑⑧

《続》 2016年1月度の講演会より

『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出
その8

―松花堂・東高野街道・天皇聖蹟・綴喜郡―

中村 武生  (京都女子大学非常勤講師)



西村芳次郎による史蹟空間の創出と文化財保護

 三宅清治郎の建碑意図についてはすでに論じましたので、つぎは西村芳次郎のそれを論じます。西村には清治郎とは明らかに異なるいくつかの独特な建碑方針がありました。西村の多数の建碑は、これまでの三宅碑の特徴にどんな性格を加味したのでしょうか。以下「日記」や西村の著作、建立碑銘などによって考察を進めます。

(一)芳次郎主導の三宅碑建立地の地理的範囲

 まず西村芳次郎選択による三宅碑が、どの程度の地理的範囲に建設されたのか、おおよそ特定しておきたいと思います。
「日記」によれば、1926年(大正15)秋から翌年(昭和2)春にかけてまとまった建碑依頼を3度しています。すなわち1926年10月23日に20ヵ所、1927年3月12日に40余ヵ所、同年4月3日に68ヶ所、あわせて約130ヵ所です。いずれも「同地ニ」「同地附近ニ」などと記されているため、八幡町やその付近に建てられたことが分かります。
 前述したように、芳次郎には八幡とその周辺の史蹟名勝についていくつかの著作があります。その大半は三宅碑建立の1921年から1929年のさなかか、その直後に書かれたため、碑の建立地選択と密接な関係があると考えられます。とりわけ「八幡史蹟名勝記(誌)」「南山史蹟名勝誌」『昭和三年八幡史蹟名勝誌』(前述)は注目すべきです。このうちまとまっている『昭和三年八幡史蹟名勝誌』の項目を列挙したのが表1です。これを表2と比較してみよう。すると酷似した項目の大変多いことに気づかれます。実に132に及びます。これまでの考察から、一致するものは芳次郎の建てた三宅碑と判断してよいと思います。

表1 『昭和三年八幡史蹟名勝誌』項目一覧
1.石清水八幡宮
2.神宮寺跡
3.引窓南旧跡
4.常昌院
5.航海安全記念塔
6.神応寺
7.鳩ヶ峯国分寺跡
8.天皇潔水
9.豊蔵坊跡
10.泉坊松花堂跡
11.滝本坊跡
12.萩坊跡
13.大西坊跡
14.護国寺薬師堂跡
15.財恩寺跡
16.高橋陣所跡
17.反橋跡放生川
18.安居橋
19.淀屋辰五郎旧邸
20.単伝庵
21.戊辰役史蹟念仏寺
22.大河内秀元墓正福寺
23.国宝薬師像薬薗寺
24.源頼朝公手植ノ枩
25.山ノ井戸
26.松花堂旧跡泰勝寺
27.城之内古跡
28.日門上人塔本妙寺
29.園殿口戦場跡
30.法園寺
31.小野頼風塚
32.金剛律寺故址
33.善法律寺
34.巡検道
35.寝物語国分橋
36.巣林菴
37.忍澂寺昌玉菴
38.興聖谷不動寺
41.正法寺
39.新善法律寺
40.九品寺42.弘仁時代一里塚
43.正平役馬塚跡
44.八角院
45.元三大師堂
46.西車塚
47.女郎花塚
48.月の岡邸
49.泉之坊書院
50.松花堂茶席
51.車寄門
52.東車塚
53.血洗池跡
54.男塚
55.一宮入道塚
56.岡の稲荷之社
57.所天橋
58.佐羅志戦場跡
59.清水合戦跡
60.御幸谷古跡
61.蛇塚古墳
62.蛭塚古墳
63.宇智王子故址
64.岩田社
65.荒阪古戦場跡
66.荒坂横穴古墳
67.松井横穴古墳
68.古寺跡
69.美濃山古墳
70.美濃山横穴古墳
71.王塚古墳跡
72.小塚古墳跡
73.東二子塚古墳跡
74.西二子塚古墳跡
75.筒井順慶陣所跡
76.洞ヶ峠古墳
81.中ノ山古墳跡
77.円福禅寺
78.水月菴
79.太古山古墳
80.涙川旧跡
82.紅葉寺宝青菴
83.万称寺跡
84.正平塚
85.吾妻与五郎墓
86.大芝古墳跡
87.初陣山古墳
88.石城古墳
89.茶臼山古墳
90.樟葉宮
91.和気清麿公旧跡足立寺
92.豊蔵坊信海墓
93.浄瑠璃姫墓
94.長柄人柱地蔵尊講田寺
95.南岩倉跡
96.如法経塚跡
97.塩竃古跡
98.湯沢山茶久蓮寺跡
99.元橋本寺西遊寺
100.八幡橋道標
101.川口渡舟場
102.下奈良浜渡舟場
103.経塚
104.獅子塚
105.岩田渡舟場
106.八幡宮近道標
107.善法寺旧邸
108.東在所道標
109.小野篁作閻魔十王像
110.樟葉橋本近道標
111.水月菴道標
112.神器保安所岡の森稲荷道標


表2 『木の下蔭』所載「建碑個所」一覧
番号は便宜上筆者が付した。なお原則正字は略字に改め、字句の明瞭な誤りは正した。
1.東山名勝の碑
2.栂尾山高山寺の碑
3.西陣の碑
4.金福寺の碑
5.京都七名水の一中川の水の碑
6.嵯峨一帯の碑
7.左々への碑
8.東照宮の碑
9.南院国師塔所の碑
10.松永貞徳翁造庭雪の庭の碑
11.金地院墓所水道の碑
12.仏日山金福寺芭蕉菴の碑其の一
13.金福寺呉春の墓の碑其の二
14.同景文の墓の碑其の三
15.金福寺蕪村の句碑其の四
16.金福寺近道の碑其の五
17.桂宮院の碑
18.長沢蘆雪の碑
19.太秦西門の碑
20.関白豊臣秀次公の碑
21.円光寺の碑
22.豊臣秀次公墓所の石柵幷に碑其の二
23.殉死侍臣の碑其の三
24.局方の碑其の四
25.大悲閣の碑其の一
26.詩仙堂の碑其の一
27.同其の二
28.航海記念大石塔の碑
29.善法律寺の碑
30.水月庵の碑
31.国分寺址の碑
32.八角院の碑
33.滝本坊址の碑
34.涙川の碑
35.正平の役、高橋陣趾の碑
36.大西坊の路の碑
37.豊蔵坊の碑
38.大河内秀元墓碑
39.本妙寺の碑
40.九品寺の碑
41.西遊寺の碑
42.放生川反橋の碑
43.一の宮入道塚の碑
44.山科昆沙門堂の碑其の一
45.同其の二
46.松花堂の碑
47.正法寺の碑
48.円福寺の碑
49.同其の一
50.同其の二
51.泉坊、松花堂址の碑
52.神宮寺址の碑
53.引窓南邸の碑
54.護国寺薬師堂の碑
55.単伝庵の碑
56.薬園寺の碑
57.正平の役城の内古蹟の碑
58.水月菴の碑其の二
59.湯沢山茶久蓮寺の碑
60.万称寺山の碑
61.岡の稲荷社の碑
62.清三宝荒神護浄院の碑
63.神応寺の碑
64.小野頼風塚の碑
65.紅葉寺の碑
66.淀屋辰五郎居宅趾の碑
67.萩の坊址の碑
68.東車塚の碑
69.洞ヶ峠の碑
70.財恩寺の碑
71.源頼朝手植の松の碑
72.安居橋の碑
73.戊辰役史蹟念仏寺の碑
74.山の井戸の碑
75.忍徴寺昌玉菴の碑
76.薪の酬恩菴一休寺の碑
77.正平役園殿古戦場の碑
78.血洗池の碑
79.美濃山横穴の碑
80.東二子塚古墳址の碑
81.巣林庵の碑
82.正平塚の碑
83.同其の一
84.同其の二
85.男塚古墳の碑
86.佐羅志古戦場の碑
87.蛭塚古墳の碑
88.岩田社の碑
89.松井横穴の碑其の一
90.同其の二
91.万福寺址の碑
92.石城古墳の碑
93.和気清麿公旧蹟の碑
94.如法塚の碑
95.橋本分水道の碑
96.新善法寺旧跡の碑
97.中の山古墳の碑
98.西二子塚古墳址の碑
99.吾妻与五郎の墓の碑
100.御幸谷古蹟の碑
101.常昌院地蔵尊の碑
102.法園寺の碑
103.高野及奈良街道の碑
104.清水合戦址の碑
105.宇智王子邸址の碑
106.荒坂古戦場の碑
107.王塚古寺址の碑
108.筒井順慶陣所址の碑
109.大芝古寺の碑
110.茶臼山古墳の碑
111.浄瑠璃姫墓の碑
112.塩竃古跡の碑
113.京街道里程標の碑
114.正平俊馬塚古墳の
(ママ)
115.佐川田喜六昌俊の墓の碑
116.太古山古墳址の碑
117.豊蔵坊信海墓の碑
118.王塚の碑
119.円福寺分岐道の碑
120.弘仁時代一里塚の碑
121.所天橋の碑
122.蛇塚古墳の碑
123.福王寺の碑
124.荒坂横穴の碑
125.小塚古墳の碑
126.洞ヶ峠古墳の碑
127.初陣山古墳の碑
128.樟葉宮の碑
129.南岩倉の碑
130.橋本、樟葉の道の碑
131.八幡宮道の碑
132.寝物語国分橋の碑
133.佐川田墓道の碑
134.黙々寺旧址の碑
135.奈良街道巡検道の碑
136.善法寺旧蹟の碑
137.川口渡舟場の碑
138.小野篁公作十三像の碑
139.日本最初外国蚕飼育旧蹟の碑
140.近衛基道公墓の碑
141.水番遺蹟の碑
142.天王山城蹟の碑
143.祝園神社の碑
144.旧淀橋の碑
145.淀学校天皇御駐輦の碑
146.兆殿司及五条三位藤原俊成卿墓の碑
147.同其道の碑其の二
148.同同其の三
149.同同其の四
150.天武天皇御遺址の碑
151.岩本城址の碑
152.大応国師妙勝寺址の碑
153.金剛律寺故蹟の碑
154.経塚の碑
155.男山八幡宮近道の碑
156.大阪街道の碑
157.継体天皇皇居旧蹟の碑
158.蘭学の泰斗藤林普山先生の碑
159.仁徳天皇、皇后、磐之姫故蹟の碑
160.石舟神社の碑
161.安養寺の碑其の一
162.唐人雁木の旧蹟の碑
163.千両松の旧蹟の碑
164.ケーブルカー上石清水八幡宮の碑
165.淀街道の碑
166.青谷街道の碑
167.信楽街道の碑
168.双栗寺の碑
169.信西入道塚の碑
170.北嵯峨覚勝院の碑
171.常昌禅院の碑
172.獅子塚の碑
173.志水町の碑
174.南山城不動寺の碑
175.近衛基道公遺蹟の碑
176.水取司遺蹟の碑
177.仁徳天皇城旧蹟の碑
178.朱智神社の碑
179.淀大橋の碑
180.戊辰役古戦場の碑
181.松花堂遺蹟の碑
182.洞ヶ峠山上の碑
183.佐山大松寺の碑
184.佐山浄安寺の碑
185.御栗栖園の碑
186.施基皇子故址の碑
187.茶祖永谷翁の碑
188.宇治茶最初園の碑
189.禅定寺の碑
190.武野紹鷗大黒天の碑
191.祇王寺の碑
192.大覚寺道の碑其の一
193.高雄道の碑
194.日像上人の碑
195.道昌大僧正の碑
196.名古曾の滝址の碑
197.遍照寺の碑
198.神魂丘旧墳の碑
199.西方寺袋中上人墓の碑
200.能化院の碑
201.亀山離宮の碑
202.野々宮の碑
203.蓮華峰寺高雄道の碑
204.蟹満寺の碑
205.筒井浄妙塚の碑
206.医王堂址の碑
207.西行菴の碑
208.光琳翁宅址の碑
209.あだし野(仇野)の碑
210.熊谷山の碑
211.嵯峨離宮址の碑
212.車折神社道の碑
213.北嵯峨曲り角の碑
214.小倉山の碑
215.井手飯岡王古墳の碑
216.桜井令穿七井戸の碑其の一
217.同其の二
218.同其の三
219.同其の四
220.同其の五
221.同其の六
222.同其の七
223.和岐座天乃夫岐売神社の碑
224.猿丸太夫故址の碑
225.綜芸種智院の碑
226.三十三間堂の碑
227.御室、北野道の碑
228.嵯峨天皇仙洞址の碑
229.亀山公園道の碑
230.角の倉の碑
231.直指菴の碑
232.歌仙洞の碑
233.朱大王古墳の碑
234.穴山梅雪翁墓の碑
235.日野薬師の碑
236.普賢寺の碑
237.厭離庵の碑
238.嵯峨天皇、宇多天皇陵の碑
239.用水開鑿豊田翁旧蹟の碑
240.高倉宮以仁王旧蹟の碑
241.虚空蔵尊の碑
242.仏母洞の碑
243.泉橋寺の碑
244.高雄道しるべの碑
245.甕ヶ原離宮址の碑
246.恭仁大極殿址の碑
247.橋本砲台址の碑
248.釈迦堂の碑
249.観空寺道の碑
250.九体寺(浄瑠璃寺)の碑
251.西芳寺の碑其の一
252.西芳寺道しるべの碑其の二
253.宇治駅前の里程標の碑
254.志水月の岡前の碑
255.八角堂の碑
256.石清水社の碑
257.興聖谷不動尊の碑
258.古寺の旧蹟の碑
259.十王像焔魔堂
260.落柿舎の碑
261.神童寺の碑
262.長建寺弁財天の碑
263.瓶の原国分尼寺の碑
264.恭仁橋跡の碑
265.嵯峨駅の碑
266.下立売、妙心寺道の碑
267.加茂笠置分岐点の碑
268.鋳司村学校の碑
269.大覚寺の碑其の二
270.同大沢の池の碑其の三
271.同南北朝御講和の碑其の四
272.同其の五
273.同其の六
274.女郎花塚の碑
275.鳩ヶ峰国分寺の碑
276.元三大師堂の碑
277.宇智王子陵墓の碑
278.木津橋の碑
279.高麗寺旧址の碑
280.一言寺の碑
281.国分尼寺道標の碑
282.海住寺の碑
283.嵯峨弁財天道の碑
284.小倉山近道の碑
285.笠置、和束分岐道の碑
286.笠置山上の碑
287.同弥勒石の碑
288.同薬師石の碑
289.笠置山上文殊石の碑
290.同虚空蔵石の碑
291.六本松の碑
292.天皇潔水の碑
293.西車塚の碑
294.長柄人柱地蔵尊講田寺の碑
295.戸津道標の碑
296.岩田渡舟場の碑
297.開運山寿宝寺の碑
298.よし峰寺其の一
299.同其の二
300.同其の三
301.法泉寺の碑
302.薪能金春の芝の碑
303.称名寺の碑
304.光明寺の碑
305.田原天皇旧蹟の碑
306.西芳寺の碑其の三
307.建武役の碑
308.井手の山の碑
309.筒井陣所東二子塚の碑
310.美の山の碑
311.八幡橋の碑
312.正平塚古墳の碑
313.碁道名人第一世本因坊算砂日海上人の旧蹟の碑
314.法皇寺の碑
315.水無瀬神宮其の一
316.同其の二
317.同其の三
318.同其の四
319.専念寺の碑
320.真言宗寿宝寺の碑其の二
321.山滝寺遺址の碑
322.水薬師の碑
323.宇治田原の碑
324.松井蔵人舘址の碑
325.橋本道の碑
326.戻橋跡放生川の碑
327.相楽の里の碑
328.如法経塚の碑
329.大悲閣の碑其の二
330.妙喜菴の碑其の一
331.妙喜菴の碑其の二
332.安養寺の碑其の二
333.同其の三
334.同其の四
335.同其の五
336.華台寺の碑
337.広沢の池の碑
338.梨間の宿址の碑
339.橘諸兄公古蹟寿福院の碑
340.京都街道の碑
341.長池旧跡の碑
342.赤良浜の渡舟場の碑
343.神宮寺址の碑
其他略之


f0300125_23365044.jpg くわえて同年11月11日には「水無瀬宮の碑外数ヶ所建石の事申込」んでいるため、八幡周辺にとどまらず京都府を越えて大阪府下の建碑にも関わっていると知れます。その他、1930年(昭和5)12月5日には清治郎が芳次郎を訪ね、「綴喜郡田原村字荒木区光島市次郎氏(略)の田原親王址、山栗寺址、の石碑訂正ニ付き書状三通を示し取調べ分を依頼」しています。さらに「日記」に記載はありませんが、前述したように佐藤虎雄の回想や当時の新聞記事により笠置町まで出向いたことがわかります。実際笠置山の麓や中腹に三宅碑は現存しております。
 これに対してこの時期の清治郎自身の建碑範囲は、すでに紹介した乙訓郡向日町や同長岡町、葛野郡北嵯峨地域、洛中西陣にくわえて洛東南禅寺などで、京都市域や洛西北嵯峨、乙訓に限られます。洛南地域の建碑にはほとんど関わっていません。例外は一休寺で、1926年(大正15)8月2日に建碑の申し出をして以来(前述)交流があるようで、「日記」1927年(昭和2)12月28日条にも「○早朝、田辺の一休寺住職来、大応国師其地妙勝寺趾、并ニ佐川田昌俊氏の墓道標等の建石竣工の挨拶、感謝状持来来宅、中村石匠も来宅」とあります。ただし妙勝寺や佐川田昌俊は松花堂昭乗に関係の施設・人物であるので芳次郎の意志も含まれていると判断されます。これは後述します。
 以上のことから、西村芳次郎の建碑範囲は、主に八幡町を中心とした旧綴喜郡、及び相楽郡、大阪府下であったと判断されます。
                             (つづく)

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by y-rekitan | 2017-05-20 06:00 | Comments(0)