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◆会報第89号より-01 本尊掛松

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心に引き継ぐ風景・・・⑳

茄子作なすづくりの出会い・石清水八幡宮社人 小川伊高
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 江戸時代、石清水八幡宮を目指して整備された道を人々が歩いた。京街道、奈良街道、高野街道、河内道などの道である。そこには必ず「やわた道」の道標があって、驚くほどの数が見つかった。ところが道標だけではなく八幡宮ゆかりの事蹟も沢山残っている。機会があるごとに紹介してゆきたい。
 枚方市茄子作南町の丘に「本尊掛松」の旧跡がある。弘化二年(1845)建立の高さ2m30cm幅1mの堂々の地蔵像も見える。昭和40年代頃は田畑と森しかなかった旧跡付近にも大きな道路が走り、住宅の中に取り込まれてしまった。
 鎌倉時代、八幡神の霊夢をうけて融通念仏宗を再興する法明上人は大坂深江から高野道を八幡宮へと向かった。ところが石清水八幡宮社人の小川伊高も期せずして同じ霊夢をうけ、預けられていた法宝物を持って「京やわた道」を歩いていた。この辺りは「京やわた道」とも呼ばれて「八幡道標」の多い所!
 霊夢をうけた二人はバッタリ此処で出会い、融通念仏宗の本尊「十一尊天得如来画像」を小川伊高から授かった法明上人は歓喜のあまり、松の木に本尊をかけて踊りだした。同宗踊り念仏の始まりだ。この松を「本尊掛松」と呼ぶが、「ホンゾンカケタカ」と杜鵑(とけん)が鳴くことからホトトギス松とも呼ばれている。
(文と写真 谷村 勉)空白


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by y-rekitan | 2019-01-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第88号より-05 三宅碑


「大西坊跡」碑の発見と「西遊寺」の三宅碑

谷村 勉(会員)


 最近、道標や石碑の話題に事欠かない。八幡の道が「八幡宮参詣道」として利用、発展して来たことを物語る江戸時代の「八まん道」や「八幡宮道」などと彫られた道標が近隣自治体を含めて実は100基以上確認されている。本会から出版された『増補版「石清水八まん宮道」に誘う道標群』にも97基が紹介されている。これほどの数の「八幡道標」の存在は、多くの人々が八幡を目指して「八幡宮道」を行き交った記録であり、一つ一つの道標が実に得難い我々の歴史遺産といえる。道標巡りのファンからは色んな情報を頂くようになった。“掛け替えのない江戸時代の道標を探し当てて感動した”という便りも届いた。

「太西坊跡」の三宅碑発見

f0300125_2147878.jpg 熱心な道標マニアから「大西坊跡」の三宅碑がある! との連絡を貰い、現地に走って捜し回ると、ついに藪に寝ている三宅碑を発見した。
 正面「大西坊跡、右隣萩坊跡 左隣護国寺跡」、裏面「昭和二年九月 京都三宅安兵衛依遺志建之」とあった。『昭和3年八幡史蹟名勝誌』項目一覧(会報第79号/中村武生)に「13大西坊跡」と掲載される、知る人ぞ知る三宅碑である。
 この三宅碑には「右隣萩坊跡、左隣護国寺跡」と書かれていることから「護国寺跡」の東側にある「太西坊高灯籠(明和九年・1772建立)」の下り階段側の電柱付近に建っていたと推定される。しかし実際の「太西坊跡」の場所はこの「太西坊高灯籠」の横から、今は誰も歩くことはない「護国寺跡」北側の坂道を登りきって、東参道鳥居を抜けて展望台のそばから入った本殿北面の麓にある。(下記地図参照)
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橋本「西遊寺」の三宅碑

 橋本「西遊寺」の正面玄関左側に横長の「是山崎名勝古蹟至」の石碑がある。この石碑が「三宅碑の道標」であることを知る人は意外に少ない。三宅碑と言えば大抵四角い縦長の石碑を思い出すが、この道標は横長であることと、後ろの壁との間に余裕がない為、三宅碑とは気づかれないようだ。
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 裏面に「昭和三年一月 京都三宅安兵衛遺志建之」とある。昭和3年当時、橋本から山崎へ舟で渡り、離宮八幡宮や妙喜庵、水無瀬宮などの古蹟に至る距離を示している。
                   
by y-rekitan | 2018-11-30 08:00 | Comments(0)

◆会報第88号より-07 増補版冊子

増補版『石清水八まん宮道』に いざな 道標 みちしるべ
―江戸時代の八幡道標―
を発刊しました

増補版製作編集委員会空白

 昨年(2017年)10月に“八幡の道探究部会”の調査結果をまとめて「石清水八まん宮道」に誘う道標群の冊子を刊行したところ、多くの皆さんから相次いで新たな江戸時代の八幡道標の情報を寄せて頂き、現場に出向きました。江戸時代の「八幡道標」がこれ程沢山発見できるとは驚きでした。石清水八幡宮を中心とする八幡に多くの人々が行き交って、その賑わいが見えるようです。今回の再調査により21基の新たな道標を追加して、合計97基を紹介する「増補版」を10月25日に発刊しました。実は総計100基以上の道標群を確認したものの、いくつかの理由から全てを紹介することができませんでした。
調査では普段の生活から一変する環境の中に飛び込んで行き、意外なところに建つ「八幡道標」を見てワクワクしました。「かつて多くの人々が〝八幡宮〟をめざした一つ一つの道標に数々の物語が込められている!」と思いを巡らして、そこに江戸時代から繋がる悠久の轍を想像するのです。ぜひ自分自身で、現地に出かけて頂ければ幸いです。
私たちは「八幡道標」ともいうべき貴重な道標群を「昔と今を結ぶ掛替えのない歴史遺産として保護する」と共に誇りを持って「後世に引き継ぎたい」との想いを強くしました。

増補版冊子の概要

f0300125_13445611.jpg 前冊子と同様に道標ごとに1ページにまとめた写真や解説と、エリアごとに道標設置の場所をピンポイントで示した地図で構成し、片手で持てるA5版フルカラーで119ページの体裁としました。
また、インターネットでも道標位置が確認できる「Google マイマップ・江戸時代の八幡道標」を用意しており、http://bit.ly/2y5bADD のURLでアクセスできます。
本書は極力廉価で皆様にご提供できることを目指し、すべて本会で自家編集し、それをそのままネット印刷で本にしました。


主な内容
1.江戸時代の八まん宮道のエリア区分地図(京都市北区~大阪府松原市)
2.道標群の紹介―合計97基
・八幡市 :22基
・大山崎町:2基
・精華町 :1基
・茨木市 :1基
・寝屋川市:3基
・大東市 :2基
・京都市内:10基
・宇治市 :1基
・島本町 :1基
・枚方市 :28基
・四條畷市:4基
・東大阪市:8基
・長岡京市:1基
・京田辺市:3基
・高槻市 :3基
・交野市 :4基
・大阪市 :1基
・松原市 :2基


増補版の刊行にあたり

是非この冊子を片手に引き続き各地の江戸時代と現在を結ぶ八幡道標を訪ねられて多くの方々に関心を持っていただくことにより、道標の保護につながると確信しております。
なお、増補版製作編集は、谷村 勉(道標調)、滝山光昌(地図作成)、髙田昌史(冊子編集)が分担しました。
本書は国会図書館に納本し、八幡市民図書館や京都府立図書館等に寄贈しました。
 
追加報告(緊急)
 「江戸時代の八幡道標」は、10月27日(土)~28日(日)の八幡市文化祭で展示発表し、同時に増補版冊子を販売しましたが、来場者の関心も高く冊子は多くの方に購入していただきました。
f0300125_21402870.jpg しかしながら、複数の会員から「橋本中ノ町の道標が撤去されている」との連絡があり、現地を確認すると確かに道標は無くなっていました。今から251年前の明和4年(1767)設置の男山の山下では一番古い大事な道標なので驚き慌てて行方を調べました。
その結果、地権者の要望によって撤去し、八幡市が預かっていることが分かりました。道標(みちしるべ)は、その場所に設置していることで「今と昔をつなぐ貴重な歴史遺産」として後世に引き継ぐことができるもので、道標を預かる部署を訪問してその旨を説明しました。担当の方からは近くでの再設置場所を探していると伺ったので、1日でも早く再設置されることを期待しています。

注)橋本中ノ町の道標は、増補版冊子の道標番号14として、
24ページに掲載。

by y-rekitan | 2018-11-30 06:00 | Comments(0)

◆会報第88号より-08 文化祭出展

第46回八幡市民文化祭の展示発表

高田 昌史(八幡の歴史を探究する会 事務局)


f0300125_14162866.jpg 2018年10月27日(土)、28日(日)の八幡市民文化祭において、八幡市文化センター3階ロビーで展示発表をしました。2014年から5年連続になります。
今年は昨年に引き続き「江戸時代の八幡道標」及び「八幡の古墳と鏡」の2テーマを展示発表しました。会場では文化祭出展担当者及び歴探の幹事が説明にあたりました。

1.「江戸時代の八幡道標(みちしるべ)」展示発表

昨年は発行冊子『「石清水八まん宮道」に誘う道標群(江戸時代の八幡道標)』に掲載の道標76基を紹介しましたが、今年は新たに確認した21基の道標写真を、設置場所を記入した地図とセットで4枚のパネルに展示発表しました。
また、先般本会で再設置した[八幡宮道道標]をパネルに掲示紹介しました。
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 会場では昨年紹介した「江戸時代の八幡道標」76基に今回確認の21基を追加した合計97基の道標を掲載した“増補版”『「石清水八まん宮道」に誘う道標群(江戸時代の八幡道標)』は、会場で多くの方々に購入していただきました。

2.「八幡の古墳と鏡」展示発表

 「江戸時代の八幡道標(みちしるべ)」の向い面に2パネルに展示発表しました。
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 掲示の主旨書の全文を以下に示します。

 前方後円墳が造られた3世紀半ばから6世紀末頃の時代を古墳時代といいます。
八幡市では4世紀後半から古墳が造られはじめ、三十基近くの古墳が確認されています。しかし、それらについてあまり知られていません。そこで八幡にはどんな古墳があったのか、所在地などについて調べ、地図を作りました。
 八幡の古墳から三十数枚の鏡が出土しています。鏡は弥生時代から宗教的・呪術的なものとして重視され、祭器、権威の象徴・財宝とされてきました。3世紀に書かれた『魏志』倭人伝には、倭の女王卑弥呼が中国の皇帝から銅鏡百枚を与えられたとあります。石不動古墳からはこの卑弥呼の鏡候補も出土しています。
 また、古墳時代終末期(6世紀後半~7世紀前半)には横穴墓が造られ、現在百三十基以上発掘されています。その総数は八幡・京田辺地域で六百基~七百基と推定されています。全国有数の横穴群で京都府下最大級です。
 今回、関係諸機関の協力を得て八幡の古墳一覧表(横穴墓を除く)と出土鏡の写真を展示しています。

 来場の皆さんは熱心に説明を聞かれていました。八幡の古墳から30数枚の鏡が出土していますが、八幡市が所蔵・保管の鏡は数枚です。他は市外に流出または行方不明で現物は確認できません。なお、会場で販売の「八幡の古墳と鏡」資料は好評で準備した30部を完売しました。
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by y-rekitan | 2018-11-30 05:00 | Comments(0)

◆会報第86号より-01 力士墓道標

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心に引き継ぐ風景・・・⑰

力士墓道標
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 「江戸時代の八幡道標」の調査過程で江戸から明治にかけて、多くの力士墓道標の存在が明らかになった。特に楠葉方面では力士墓道標や供養塔を数多く確認したが、現在の八幡市内にも力士墓が数基残っている。「八幡市内里北ノ口の墓碑道標」に、「俗名若狭野政吉/右なら道/左よど京道/文化三丙寅九月晦日(1806)/世話人中」とある。堂々の墓碑道標には大層活躍した力士を想像させるが、「政吉は地元の住人ではないが気の毒な方なので建てられた」との伝承が今も地元に残る。その一方で、力士墓ではないかとの伝承も聞いた。
 「上鳥羽搭ノ森上河原の墓地」に「若狭野政吉」(文久二戌年三月建之・1862)の四股名を刻む立派な力士墓が残っている。それとは別に「頭取若狹野碑」(明治廿八年七月五日建之)も残る『京都・滋賀の相撲』。いずれも時代的に同一人物とは思えない。昔から鳥羽には相撲好きが多く、草相撲の盛んな地域であった。
「俗名 若狭野政吉」とは鳥羽を本拠地とする力士の一人だったのだろうか?
 綴喜郡井手町「玉津岡神社」の奉納板番付(文化十四年・1817)に勧進元「若狭野三四郎」の四股名が今も残っている。「俗名若狭野政吉」も草相撲の盛んな鳥羽・井手を往還中に「内里北ノ口」付近で客死したものか! 相撲取が若くして死ぬと、“余りに強い為、毒殺された”との噂が付いて回る。

(文と写真 谷村 勉)空白



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by y-rekitan | 2018-07-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第86号より-04 八幡宮道

江戸時代の「八幡宮道」道標みちしるべが設置できました

高田 昌史(八幡の歴史を探究する会 事務局)


はじめに

 江戸時代に設置された貴重な「八幡宮道」道標が、長年青林院の奥庭に保管されていましたが、この度、青林院を管理されている正福寺の秦文彦住職ご夫妻のご厚意により、元の設置場所と推定される八幡宮道沿いに再設置することができました。
 場所は八幡旦所の正福寺向いの青林院敷地内参道の入口で、西方向の正面が男山でロケーションの大変良い場所です。道標の後方には古い道標保護に理解得るために、説明板も建てました。是非、多くの方が現場を訪れて見守っていただけることを願っております。
 私たちは、貴重な歴史遺産といえる150年以上前に建立された道標をより良い姿で後世に引き継いでいきたいとの思いを込め、以下に設置までの経過を報告します。

1.青林院庭に保管されていた道標

f0300125_10381155.jpg 図1は2017年10月弊会発行の冊子「石清水八まん宮道に誘(いざな)う道標群」に掲載している、青林院奥庭に保管されていた状況の写真です。幸い道標の破損等はなく、保管状況は大変良好で、4面共に碑文の読み取りができました。
 なお、八幡市内には他にも貴重な歴史遺産といえる江戸時代の道標が、残念ながら壊されたり、倒されたり、他所に移されて放置、また行方不明になった道標があります。

2.江戸時代の道標設置について

 2年前の2016年10月発足の専門部会「八幡の道探究部会」では、八幡の古道と共に古い道標(みちしるべ)を調査しましたが、その中で最も古い江戸時代に建立された道標には補修や元の位置に再設置が必要なものが沢山あることを確認しました。
 また、八幡市内には昭和初年に建立された多くの三宅碑を始め道標が全部で100基以上もあり、市外から道標巡りに来られた方からは、特に古い道標で倒れているものは今のうちに再設置(補修)が必要であるとのお手紙をいただいています。
 道標の設置場所は殆どが道路等の公用地になるので「八幡の歴史を探究する会」からは八幡市に5基の「江戸時代の道標設置(補修)」の要望書を2017年2月に提出していますが、課題が多いのか約1年半経過した現時点でもあまり進展がありません。しかし、何とか少しでも道標保護を前に進めたいとの願いから、青林院の庭に保管されている江戸時代の道標の設置に取り組みました。
 青林院を管理されている正福寺のご住職に元の設置場所と推定される八幡宮道傍の寺院参道入口部に設置場所の提供を依頼し、承知していただきました。
当初は業者の指導を受けて、工具等はお借りして会員で設置する予定でしたが、比較的人通りが多い場所なので素人の手仕事で将来倒れるようなことがあっては大変と一旦断念しました。f0300125_10475040.jpgその後、道標設置を依頼した工務店代表の方は「八幡のまちおこし」に取り組んでおられるので設置の必要性も十分理解していただき、5月22日に会員数名が立合って設置が完了しました。
 図2は設置が完了した道標写真で、西方向の正面は男山で、麓には頓宮があります。写真正面の碑文は「東 うぢ道」で背面には「西 八幡宮道」とあります。道の向い側は正福寺です。

3.道標説明板の設置

  江戸時代に建立された道標の碑文は、当時のくずし字で書かており、それに経年風化により読みにくい文字もあるので、道標の横やや後方に説明板を建て、4方向の碑文を翻刻しています。
また、説明板には今回の道標設置の経緯と最後には「昔と今を結ぶ、かけがえのない歴史遺産として保護し、後世に引き継ぎたい」と私たちの願いを記しています。(図3)現地に行かれた際には、是非、説明板も併せて確認ください。
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おわりに

 今回の江戸時代の道標設置は、正福寺のご住職に場所の提供を依頼して設置の段取りをされた会員の谷村勉(副代表)・田中美博両氏の尽力によります。また、設置時には会員の田中、滝山、谷村、高田の4名が立合いました。それに当日、青林院の植木剪定をされていた方の協力もありました。
 設置場所は比較的人通りが多く設置中の道標を確認された数人の方から質問があり、また、八幡の古い歴史がよく判り、「このように昔の物を大事に保護することはよいことだ」との言葉もいただきました。
 私たちは八幡市民の多くが道標の後方に建てた説明板を確認されて、貴重な文化遺産としての古い道標保護に関心を持っていただくことを願っています。(2018.7.11記)


【2018.8.5追記】本件が京都新聞に「江戸期の道標“復活” 京都・八幡、昔と今つなぐ」として掲載されました。
 https://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20180805000110
by y-rekitan | 2018-07-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第85号より-01 石清水八幡宮碑

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心に引き継ぐ風景・・・⑯

西村芳次郎直筆の「石清水八幡宮碑」
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 八幡宮参拝を終えて東参道からケーブル乗り場へ歩き、展望台に差しかかると、参道鳥居や燈籠と共に『石清水八幡宮碑』が見える。
 知る人ぞ知る、西村芳次郎直筆の「三宅安兵衛遺志碑」で、裏面に「昭和三年十月 京都 依三宅安兵衛遺志建之 西村閑夢書之」の建設過程が銘記されている。「閑夢」とは西村芳次郎の号で、氏の墓石(円福寺・宝篋印塔)にも「閑夢塔」と刻まれている。西村芳次郎は「三宅安兵衛遺志碑」建立に多大な貢献を為し、当時の三井財閥本社三井合名会社顧問で近代数寄者の雄、益田孝(鈍翁)らと共に松花堂昭乗の顕彰や茶会を開くなど八幡の文化・気風を引継ぎ、泰勝寺の創建にも尽力した。
 三宅安兵衛の長男清治郎は写真に見える「参道鳥居」を建立している。一連の「安兵衛遺志碑建碑活動」を終えてから「永楽屋十代、細辻伊兵衛」らと共に建立、清治郎達の名前と「昭和十二年六月建之」の銘記を刻む。 
 八幡市駅近くピンコロ石舗道の『御幸道』を石清水八幡宮一の鳥居に至ると、「石清水八幡宮」の大石碑が目に入る。三宅安兵衛本人が生前に建立した大石碑で、西陣織物業の内藤小四郎らと共に「大正七戌午(1918)年一月建之」とある。
 悠久の歴史に誘う「三宅碑」に安兵衛、清治郎、芳次郎三人の語り草あり。

(文と写真 谷村 勉)空白



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by y-rekitan | 2018-05-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第84号より-02  八幡の道

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《会員研究発表》
八幡の道の歴史 
―江戸時代の道標調査を終えて―


2018年2月  八幡市文化センターにて

谷村 勉(会員)

 2月22日午後1時30分より、八幡市文化センター第3会議室で表題の会員研究発表がありました。八幡宮勧請以前の道はどうであったか、勧請以後はどの様に発展して、現在に至っているのかなど、八幡の道の歴史および江戸時代の「八幡道標」の調査結果の発表でした。
  当日の参加者は52名。(会報編集担当)

八幡の道

 八幡には凡そ以下のような道があります。
京街道(大坂街道)が走りますが「東海道57次」とほぼ同じ道です。
八まん宮道、具体的には御幸道、常盤道、科手道、志水道など。
奈良道 〇河内道 〇山根道などがありますが、
主に京街道、八まん宮道、東高野街道、八幡道標について述べます。
 
八幡市内の東麓を走る「道」の名称?

 八幡宮遷座以来、八幡の道には八幡宮参詣道としての歴史があります。
 近世、江戸時代には守護不入・検地免除の神領自治組織が確立していましたので、八幡の地に他の宗教施設を連想させる街道名は存在しませんでした。
八幡における高野街道とは洞ヶ峠が起点の歴史的認識があります。八幡に入れば「やわた道」・「八まん宮道」と呼ばれ、大勢の八幡宮参詣者が行き来する道との歴史的感覚もあります。
 今回、江戸時代の「やわた道標」の調査から近隣自治体を含め76基もの道標が発見されていることからも「八まん宮道」の歴史的事実が証明されていると思います。八幡の道が「八幡宮参詣道」として発展してきた歴史を正しく伝えてゆきたいという想いがあります。

山崎橋の造立

 橋本から楠葉を抜ける高野道が存在します。神亀2年(725)行基によって山崎橋が造立されるが、7世紀後半に奈良元興寺の道昭が架橋した位置に掛けたものであったと云います。江戸時代の絵図から山崎橋が現橋本奥ノ町にあった橋本寺辺りに架橋されていたと推定されるものの、何度も淀川に流され凡そ200年間程で無くなったようです。天正20年(文禄元年・1592)秀吉によって山崎橋は再び掛けられたがその存続期間は短かったようです。
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 石清水八幡宮全図の橋本の部分に橋本寺旧跡と書かれたところがあります。これは豊臣秀吉の御連衆の一人であった「橋本等安」によって建立された寺で、秀吉の「湯だくさん茶くれん寺」の故事で有名な「常徳寺」も江戸時代の中頃にはこの辺りにあったことが判ります。記録には文化10年(1813)西遊寺の隣の「常徳寺」が焼失とあり、寺が移動したことが判りますが、その場所には今も「常徳寺」の石碑が残っています。
 古くから大阪との行き来には淀川の水運が利用され、人や物資が大量に運ばれましたが、港としての機能を持った「橋本の津」は大いに賑わったようです。橋本で舟を降りた八幡宮詣りの人々は「八幡宮道」(京街道)を通り狩尾社を経由して石清水八幡宮を目指しました。

橋本の高野道

 山陽道(西国街道)から山崎橋を渡り橋本から楠葉に続く高野道があります。南の方向に烏帽子を置いたような特長のある交野山をめざして歩きました。弘法大師空海も歩いた道と考えています。今回、江戸時代の道標調査でも「高野道」の存在を証明する「地蔵道標」が発見されました。地蔵菩薩立像を挟んで左右に「すく八まん宮・右かうや 左はし本道」とありました。紛れもなく高野道を案内しています。“すく”とは“まっすぐ行けば”の意味になります。
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写真(上)の道標2基はどちらも久親恩寺内(楠葉中ノ芝)にあります。
中ノ芝から北楠葉を通過し、野田1丁目辺りに来ると野田大師堂があります。
 大師堂から少し離れた野田1丁目の「左八まん宮道・右志みつ道」の道標も元々この大師堂付近にありました。(写真下)
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 大師堂からさらに南方向に進み僅かに古道の面影を残す畦道等を通り、f0300125_1618531.jpg楠葉朝日自治会館を抜けて招堤の町を目指します。整然とした招堤屋敷街を過ぎると「日置天神社」です。この辺りは古くから高野道に沿って大変賑わった所ですが、一帯は南北朝の動乱に巻き込まれて灰燼に帰した歴史があります。日置天神社から近くの穂谷川を越えるとすぐ出屋敷の高野道へと続きます。

京街道

 京街道は文禄堤ともいい、文禄年間に豊臣秀吉が諸大名に命じて建設した淀川左岸の堤防道で比較的新しい街道です。文禄3年(1594)に淀川の改修工事を命じて建設、慶長元年(1596)に完成しました。この文禄堤は淀川が氾濫するのを防ぎ、大坂と京都を結ぶ最短の道として重要な街道となりました。また、秀吉の伏見城築城も文禄3年正月から始まり、文禄4年3月に竣工しました。
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 この時現在の下鳥羽・納所間の大坂街道が開通し、同時に淀・伏見間にも淀堤を築き、巨椋池は横大路沼と南北に分離しました。江戸時代、2代将軍徳川秀忠の時に京街道は「東海道57次」に編入され、伏見、淀、枚方、守口を宿場としました。
 大坂からの京街道に初めて八幡道標が現れるのは枚方市「宗左の辻」道標です。次は京阪牧野駅近くの「前島街道の道標」(明治時代の参考道標)で、八幡道標ではありませんが、これは高槻からの道で淀川を舟で渡って牧野から京街道に入るルートを示しています。f0300125_16303455.jpg牧野から楠葉方向に進み上島町の船橋川堤に当たれば「八幡宮参詣道の道標」が目に入ります。2mの道標の上部の地蔵像をよく見ると、かつて石清水八幡宮の祭神であった「八幡大菩薩像」が彫られた貴重な道標です!楠葉に入ると長福寺の美しい地蔵道標を経て久親恩寺に枚方市最後の道標群を見ると、橋本に入ります。
 小金川の境界を越えて橋本に入り、道なりに進んでゆくと中ノ町のT字路にある「八まん宮道」道標を左に進めば、北ノ町の「八まん宮山道」の道標に到達します。この道標を右折し、狩尾社から八幡宮に向かうルートが橋本からの参詣道です。
「八まん宮山道」の道標を右折せずに、さらにまっすぐ進めばかつての京街道と科手道の分岐点の大楠木辺り(楠木は現在、他の場所への移植準備中)に出ますが、ここから現在、美豆に向かう京街道はありません。木津川、宇治川の付け替え工事で分断されましたので、科手道を進むしかありません。
 分断された京街道は現在、伏見区淀美豆町の松ケ崎記念病院辺りから淀の方面に向けて進む道が残っていて、かつての八幡神領内京街道の面影を残す道となっています。
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御幸道と常磐道
    
 木津川の付け替え工事以前、主に京都から京街道を通って八幡に入る南北の道には常磐道と御幸道がありました。現在、御幸橋の南詰から一の鳥居までの御幸道は大部分が残り、御幸橋南詰の一角に「石清水八幡宮鳥居通御幸道」の道標も残っていますが、御幸橋付け替え工事により八幡宮頓宮内に保管されています。この道標は300年前の江戸時代、正徳3年(1713)に八幡宮検校新善法寺行清によって建立されたものです。しかし幹線道路であった常磐道は付替え工事によって大部分がなくなりました。
 八幡宮一の鳥居手前を右へやや細い道を行くと神應寺の山門に至ります。八幡宮を勧請した行教が創建した由緒ある寺院です。山門を過ぎたところに巨大五輪塔が見え、五輪塔の真向い八幡宮頓宮の西出入口手前に「左 八幡宮道」と彫られた全長280cm、正面幅24㎝、横幅24㎝の立派な道標が横たわっています。
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裏面には「是より北荷馬口付のもの乗へからず」と彫られているようです。一人ではこの道標は動かず、一部の文字しか確認できませんでしたが、京都市内に今も残る「是より洛中碑」と同じ意味のもので、いわば「是より八幡宮碑」とでもいえましょう。
 「是より洛中碑」とは洛中へ入る際には、馬の背に乗らず馬の手綱を引いて歩いて入る事、という意味です。京都町奉行より享保2年(1717)洛中の入口30カ所に石碑が建てられたもので、現在も11本残っているとの報告があります。「左 八幡宮道」の道標も恐らく同時代のものと見て間違いなさそうです。

男山東麓の道の「八まん宮道」
 
 御幸道の一の鳥居付近から南へ安居橋を左に見ながら奈良街道との分岐点である八幡橋を過ぎ、平谷町を左に曲がり松花堂昭乗の墓のある泰勝寺を過ぎると嘗ての幹線道路であった常磐道から南下する道と買屋橋辺りで合流し、「八まん宮道」となって男山東麓の道を南下すれば洞ヶ峠まで凡そ4kmの道程となります。買屋橋から南下し八幡山本で図書館方面に左折し旧道を歩けば、外郎(ういろう)で知られる「じばん宗」の前を通り抜け、突き当りの中央図書館から道なりに南方向に進みます。途中天理教教会を過ぎたあたりで右折すれば紅葉で知られる善法律寺に出られますが、古来八幡の道は南北よりも東西の道から発展した面影が残っています。善法律寺の前を南北に走る道路は新しい道で「新道」と呼びます。昭和30年代頃、田圃や畑だらけでしたが、昭和54年にようやく「認定道路」となった歴史があります。新道は直線的な道路なっていますが、近世までの道は戦略上、必ずと言ってよいほど曲っています。
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「旧道」と呼ばれている元来の道を南に進むと「走上り道」に突き当たり、すぐ右の神原交差点(近くに興正谷入口あり)を左へと進んでゆく。少し歩くと「正法寺」が右に見えます。鎌倉時代に正法寺は開創されたが、現在の伽藍は相応院(お亀)によって寄進されたものです。正法寺はもちろん近世八幡に大きな足跡を残した「お亀」は文禄3年(1594)徳川家康の側室となり、御三家尾張藩祖の徳川義直を生みます。八幡に361通の「領知朱印状」の発給を家康に促し「安居神事」を復活、「検地免除」・「守護不入」の地と確定しました。「検地免除」とは要するに年貢を納めなくてよい訳で、石清水八幡宮を中心とした自治組織体が確立しました。『奈良、大坂からの石清水八幡宮参詣道沿いの正法寺が都名所図会に紹介されるなど門前市をなすほどの賑わいであった』(正法寺栞より)。「八幡宮道」の志水道辺りを歩くときは正法寺惣門をくぐり南門から裏通りののどかな道を時々歩くと、車も殆んど出会うことなく松花堂庭園に辿り着きます。松花堂庭園の東に八角堂がありますが、この前の道が本来の道です。ここから中ノ山墓地の東入口の前を通り、洞ヶ峠を目指します。現在の松花堂庭園横のバスや車が走る南北の道は昭和40年前後に出来た「新道」と呼ぶものです。小高い丘 (西車塚古墳)の八角堂の前には役行者像が彫られた「すく八幡宮」の道標があります。
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安居塚から右に折れると洞ヶ峠に向かいます。今は右折して真直ぐの坂道ですが、以前は左から登る坂道が洞ヶ峠道でしたが、現在は分断されて通れません。いよいよ洞ヶ峠を越えると枚方市の高野道に入ります。
 また、八幡の安居塚のT字路から南に直進すれば「山根道」に入り、長尾、藤阪、津田、倉治を通って私部で東高野街道に合流します。

大阪府下・東高野街道の「やわた道標」

 八幡の道に江戸時代の「やわた道標」は22基存在します。江戸時代以前の高野道の道標を見たことは在りません。見るのは最近建てた新しい道標?ばかりです。そこで大阪府の東高野街道に八幡道標の存在を何度も訪問して確認しましたところ、東大阪市の2基を始め枚方市との間に何と12基の「八幡道標」がありました。奈良、大坂の八幡宮参詣者を八幡宮に導く道標群です。指差し道標や地蔵道標、観音菩薩道標、相撲取りの大井川万吉道標など個性的な道標ばかりです。如何に八幡宮への参詣者が多く河内の高野道を利用したかを物語るものですが、交野や星田の住民にとっては「やわた道」・「京やわた道」であったのです。枚方市出屋敷に明治33年建立の東高野街道碑がありますが、洞ヶ峠から一里の距離を現わしています。なお枚方市全体に存在する「八幡道標」は26基もあり、八幡よりも多くの道標が存在しました。

奈良時代の古道

 八幡の道は石清水八幡宮が貞観元年(859)に勧請されてから整備されてきたと考えます。f0300125_20402647.jpgそれ以前に官道として整備されていた道とは、まず山陰道と山陽道で、奈良から現在の京田辺市大住を通り、手原川に架かる関谷橋で別れて、淀方面へ向かう山陰道と美濃山廃寺、志水廃寺、足立寺、楠葉中之芝を通り八幡の橋本から山崎橋を渡って対岸の山崎へと入る山陽道でした。図は平城京時代、長岡京時代、平安京時代の男山周辺の古代官道図です。石清水八幡宮の創建以前の人の居住は、当然山陰道沿いや山陽道沿いに集中し、古墳や古跡も概ね古代官道沿いにあります。現在の常磐道や志水道など八幡宮創建以前に南北を縦貫する「八幡宮道」は整備されず、むしろ山陽・山陰道から派生した東西の道が中心であったと思われます。

「やわた道標」はまだまだ存在する

 江戸時代のものと思われる「八幡道標」は京都市、長岡京市、大山崎町、高槻市、茨木市、交野市、寝屋川市、四條畷市、大東市、東大阪市、枚方市におよび、八幡市の22基を含めて総計76基に至りました。その後、冊子を刊行することができ、読者から沢山の情報を頂き、未だ我々が知らない「八幡道標」がある事も解りました。例えば大阪府松原市に2基の「八幡道標」を発見しました。
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松原市には中高野街道が走ります。守口市から松原市を経て河内長野市に入るルートです。淀川を越えた島本町にも道標が見つかりましたし、先般刊行した冊子の読者から京都市内北野天満宮近くに建つ道標の紹介がありました。

八幡東麓の街道名の経緯

八幡の道をいわゆる東高野街道などと最近まで呼んだことはなく、八幡の道は八幡宮の遷座(859年)以来八幡宮参詣道として整備されてきたものであって、高野山参詣道として整備されたことはないと思います。
東寺や高野山に通じるというだけで、高野街道と云うのはおかしな話で全国の道が高野山に通じていたらすべて高野道になる訳でもないと思います。弘法大師が歩かれた道は奈良時代の官道である古山陽道、あるいは南海道と呼ばれる橋本から楠葉を経由して枚方の招堤を抜け交野の道を目指した道だと思います。八幡宮が遷座(859年)され、南北の道が整備される以前に弘法大師は入定(825年)されています。
「男山考古録」には、志水町から南半里許、万称寺在所より五町許南を俗に高野道と云う、と記載されています。山上山下惣絵図等にもその通り図示されています。八幡神領には男山独自の歴史や文化が溢れており、高野道に八幡宮や神應寺や正法寺が建立された訳では決してありません。
明治14年(1881)頃の「京都府地誌 荘誌(八幡荘)」に初めて“高野街道”の名称がでてきます。その後明治18年頃の陸軍仮製図には現在の松花堂庭園前の八幡城陽線交差点あたりから“自京都至和歌山道”とあり、明治42年(1909)頃の陸軍地図に洞ヶ峠付近に“東高野街道”とあります。これらの名称は行政や国防上の区分で、一般住民には周知されてないと思います。
 
歴史街道運動

平成になってからの歴史街道運動により、ルートを決めて、現在の「いわゆる東高野街道」の道標が多く設置されてしまいました。単に観光集客目的のための名称であることは明らかです。
 しかし、なぜ八幡固有の歴史的名称を生かそうとしないのでしょう、そうでなければ、八幡の正しい歴史が後世に伝わるものかどうか大変な危惧を持ってしまいます。他の自治体が血眼になって江戸時代の歴史を捜して何とか観光客誘致をと頑張っている姿よく目にしますが、八幡は一体何をやっているのでしょうか?何度も繰り返しますが八幡の道は八幡宮参詣道として機能していることが重要な歴史的事実で、それを示す八幡周辺の道には江戸時代の「京やわた道」の道標や八幡宮に近くなれば「八幡宮道」と刻まれた道標が沢山確認できます。大層重要な文化財としての道標群だと思います。
河内の星田や交野地方では高野道ではなく、「京やわた道」と呼び多くの住民が八幡宮を目指しました。
高野道だという人々は八幡の歴史を探究したでしょうか、歴史を知れば高野道沿いに八幡の町が発展してきたかのように言ったり、松花堂昭乗が男山東麓の東高野街道を歩いたなどとは言えません。小説の世界ならまだしも、歴史を語る場合は当時の仕組み、スタンダードで語るのが筋で、仮に現在のスタンダードで語れば歴史はいくらでも捏造されると思います。男山の東麓に当時「八まん宮道」はありましたが「東高野街道」はなかったはずです。
 歴史を知るうえで綿密な調査も行なわず、八幡の歴史を知らない官僚がまず地元の住民の意識を全く考慮せず勝手に名付けてしまった感があります。

八幡にある新しい「東高野街道碑」とは!?

 なぜ今「東高野街道」なのか、いつ「東高野街道」になったのか詳しい方があれば是非一度原稿に書いて教へて欲しいと思っています。昭和2年から4年頃には「三宅安兵衛遺志碑」が八幡の地に凡そ100基程建立されたと聞いていますが、現在、実際に八幡で確認されているのは91基だったと思います。
 「三宅安兵衛遺志碑」建立の歴史は中村武生氏(京都女子大学非常勤講師)の論文によってよく知られるところですが、松花堂の所有者であった西村芳次郎の進言や協力が大であった事を知りました。その西村芳次郎が進言して建てたとも思われる「高野街道碑」が松花堂庭園近くの月夜田交差点にあります。西村芳次郎は男山東麓の道を「高野道」にして八幡観光につなげたいとの思いもあって建碑を思い立ったものの洞ヶ峠から志水の離れ「中ノ山墓地」の近くに立てるのが精一杯の様でした。以前90歳を超えた古老に高野道の所在を聞いたところ、“志水の離れでしょ”と即座に返ってきました。洞ヶ峠が志水の離れにあるとの感覚だったと思えてなりません。一般に志水の離れに当たる「中ノ山墓地」のように、墓地は大概が地区の離れや境界の地に多く存在します。
 さて、男山東麓の道に「東高野街道」と称する石碑が13基も建立されて一種の異様さを感じます。昭和30年代後半か40年頃に開通した「新道」にも数基建立されています。丁寧さも限度を超えている感があります。近年俄かに建立された「東高野街道」の道標をよく観察すれば、建立年月日や建立主体が記されていません。常識では考えにくいことですが、そこには何か意図があるのでしょうか、考えが及ばなかったのでしょうか?f0300125_19194589.jpg
 石碑・道標に興味を持ってから、いつもその意味について思い出す文章があります。=歴史的な石碑や道標が指し示す「史蹟」は、『あたかもその地域の唯一の歴史のように、旅行者のみならず、住民にさえ認識され出すのである。石碑が後世にこのような影響を与えるものである以上、その建設過程は追及されなくてはならない』(中村武生『花園史学』2001.11) 建設過程とは個々の石碑
がいつ、誰によって、何の目的によって建立されたか等を石碑に銘記する事であります。それによって現在の我々にとって郷土の文化財研究の貴重な遺産となっています。また石碑や道標が観光客に役立つのも表だけでなく裏や側面に書かれた意味を理解し、設置の背景をも読み取ろうとするからです(中村武生監修『中村武生とあるく洛中洛外』2010.10・京都新聞出版センター)=
以上一一
 
     
『一口感想』より

道標について、大変研究(調査)されていて、八幡について正しく伝えていくことが大切だと思います。谷村さんの研究姿勢に感動しました。大変勉強になりました。色々とお尋ねすることがあると思いますが、今後共に宜しくご指導くださいませ。(S.Y.)
現場を観ての説明で非常に説得力があり、よく分かりました。(G.K.)
本日はありがとうございました。東高野街道が、まったく別のものであるという事実を知り、びっくりしました。精密な調査の中、わかりやすく説明していただきとても勉強になりました。(M.Y.)
各地の道標を現地で確認され、江戸時代以前の八幡の及び八幡へ向かう道が人々にどの様に呼ばれ見られていたかが判りました。また、お地蔵さんが道標にもなっていたことを初めて知りました。(T.Y.)
大変ていねいに説明されており、おどろきました。(S.K.)
古道や道標が整備され、話題性のある様なものがつくりだせたらいいなぁと思いました。(T.M.)
大変多くの資料を準備され、詳しく分析されており感心いたしました。(K.K.)
 
                                
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by y-rekitan | 2018-03-26 11:00 | Comments(0)

◆会報第82号より-06 文化祭発表

第45回八幡市民文化祭での展示発表報告

八幡の歴史を探究する会「八幡の道探究部会」


 2017年10月28日、29日の二日間の八幡市民文化祭において、八幡市文化センター3階ロビーで展示発表をしました。
 会場では専門部会「八幡の道探究部会」の会員が、2年間かけて現地に出向き調査した江戸時代の八幡市内(22基)及び市外(54基)の八幡道標(みちしるべ)と設置場所を示した地図をパネルに掲示しました。f0300125_11175696.jpg
 また、古地図や古道地図もパネルに掲示しました。文化祭の両日共に台風接近の影響で生憎の雨天となり例年より来場者は減少しましたが、来場の皆様は熱心に道標写真や地図で設置場所を確認されていました。会場では道部会員や歴探の幹事が中心となって説明にあたりました。

1.江戸時代の八幡道標(みちしるべ)

 『「石清水八まん宮道」に誘う道標群(江戸時代の八幡道標)』のタイトルで展示パネル5枚に京都市南区から南は東大阪までを10地域に区分した拡大地図には八幡道標設置位置を矢印で示し、各地図の周囲には道標写真を掲示しました。道標写真から、①行先のみ標示の道標、②地蔵道標、③指差道標、④墓碑道標等々の形態がある事が判り、特にお地蔵さんが彫られた道標が多く設置されている事が確認されます。設置場所は一番北の八幡道標は京都東寺近くの「矢取地蔵堂前の道標」で、南は東大阪市の「喜里川町の道標」(下図)です。
「地域別の八幡道標数」は次の通りです。f0300125_1222057.jpg
①八幡市内:22基
②京都市南区:1基
③京都市伏見区:7基
④長岡京市:1基
⑤大山崎町:1基
⑥高槻市:3基
⑦茨木市:1基
⑧枚方市:26基
⑨交野市:2基
⑩寝屋川市:2基
⑪四條畷市:3基
⑫大東市:2基
⑬東大阪市:5基
以上、合計76基が今回の調査で確認され今回展示発表をしました。

 また、今回の調査結果を「昔と今を結ぶ掛替えのない歴史遺産として保護する」とともに「後世に引き継ぎたい」との願いから、冊子『「石清水八まん宮道」に誘う道標群』に取りまとめて発刊しました。冊子は会場で販売しましたが、2日間で50名越の多くの方にお買い求めいただきました。

2.古地図、古道地図の展示

 ロビーの向かい側の展示パネル3枚には八幡市の代表的な古地図と「中世~近世の男山周辺の道」を現在の地図上に記載した地図を掲示しました。来場の皆様は、石清水八幡宮参詣道や山麓の道を現在も使用されている道や廃道になった道を地図上で確認されていました。

これからの部会活動について

 「八幡の道探究部会」は八幡市文化祭では昨年に引き続き2回目の展示発表でしたが、来場者の方々には掲示の道標や地図を熱心に見ていただいたことを感謝いたします。これからも部会は自分の足で現地に出向いて調査確認をする地道な活動を続けて行く所存です。
by y-rekitan | 2017-11-27 06:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-06 八まん宮道

「石清水八まん宮道」に悠久の歴史がある


 谷村 勉(会員)


【八幡の道と空海】


 高野街道とは嘗て空海が高野山への道をとったという古い街道を指しました。
空海が実際に高野山へと足を運んだと思われる八幡の道は橋本にあります。
大山崎・橋本間の淀川に架かる「山崎橋」(神亀2年・725架橋)を大山崎から橋本に渡り、楠葉、招堤南町の「日置天神社」を通って出屋敷、津田の集落に入る道です。橋本の近く楠葉中之芝の「久親恩寺」に古い地蔵道標がありました。

f0300125_1422085.jpg 鎌倉期の道標でしょうか、両手で宝珠を持つ「地蔵菩薩立像」の崩れた光背の左に「すく 八まん宮」、右には「右 かうや 左 はし本道」と彫られて、橋本から楠葉を通る旧高野道の存在を証明する貴重な地蔵道標だと確認できました。
 空海は石清水八幡宮遷座の25年前に入定しています。八幡宮遷座後、八幡の北の限りである橋本町や科手町は淀川水運と共に早くから道や町々が整備され、その後に男山東麓の南北の道が整備されていきますので、空海が洞ヶ峠に至る男山東麓の道を歩くことはありませんでした。八幡宮が遷座される以前の道路は現京田辺市大住の府道22号関屋橋から内里を通り木津川に沿って伏見区淀美豆(旧八幡神領内)に至る「旧山陰道」と府道22号関屋橋から分岐して志水廃寺跡(八幡月夜田)周辺を通り、丘陵を越え足立寺跡付近から楠葉に入り橋本へ向かう「旧山陽道」の二つの古代官道を中心に発展して行く経緯があります。

【八幡の宝物】


 江戸時代の中頃に描かれた「石清水八幡宮全図」をご存知の方も多いと思いますが、八幡にとりましては「宝物」と云えるような絵図で、八幡の歴史の底力を感じさせる作品です。
八幡市民図書館(八幡菖蒲池)の入口のロビーやふるさと学習館1階展示室(八幡東浦)にも同様の実物大の絵図が展示してあります。ゆっくり見て行くと色んな事が読めてきて楽しくなります。当時の地形や神社仏閣、建物などと共に、幸いにも今も沢山残る各町名や歴史上に出てくる史蹟名勝など八幡の歴史を確認する手引きとしても貴重な絵図で、江戸時代の町の様子を伝えるこの絵図こそ我々の「宝物」といえます。いつかこの絵図から読み取れる数々の物語を解説できる機会があればと思う程です。絵図の北側に「御幸道」と「京街道」が交差する地点に「御幸道立石」と書かれた箇所があります。これが「男山考古録」に記されている「正徳3年(1713)」に「石清水八幡宮検校新善法寺行清」が建立した「石清水八幡宮鳥居通御幸道」の石碑で一の鳥居までの「御幸道」(行幸大路)を指しています。この石碑は現在も残り、御幸橋の付け替え工事で八幡宮の頓宮の中庭に一時保管されていることが分りました。
 明治になって、木津川、宇治川の流域が現在のように変わった為に、「御幸道の石碑」の位置も変わりましたが、年度内には御幸橋の南詰に再び建つと「市の担当者」から聞きましたので、300年前の江戸時代に建立された歴史的文化財として、じっくりこの石碑をご覧ください。
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【やわた道標の調査】


 一昨年から凡そ2年をかけて八幡市内はもちろん近隣自治体を含め、江戸時代の道標調査を行いました。「やわた」の文字や里程が彫られた道標を「やわた道標」と捉えて、その写真撮影とともに自治体別に「やわた道標」の本数を確認しました。総数で76基ありました(八幡の22基を含む)。詳しい内容は別の機会に報告しますが、それぞれが歴史的価値のある重厚な道標群でした。
 京都市内では南区唐橋羅城門の矢取地蔵堂前に「左 やわた八幡宮」と彫られた道標を含めて8基がありましたが、八幡に近い伏見区に7基が残り、長岡京市に1基、大山崎町に1基ありました。
大阪府には枚方市に26基もの道標があって「八まん宮道」、「八まん道」、「八幡街道」などと彫られた見事な道標が残っています。高槻市には3基、茨木市は1基、交野市に2基、寝屋川市に2基、四條畷市に3基、大東市に2基、東大阪市には5基があり「やはた」、「京 やわた」、「やハたみちすじ」などの文字が強く印象に残りました。このように今でも近隣自治体には多くの「やわた道標」が残り、自治体や住民にとって江戸時代の道標は大切な文化財であると自覚して、できる限り現場保存に努力し、大事に扱われている様子がひしひしと伝わってきました。
          
【八幡の道は八まん宮道】


f0300125_14533014.jpg 「八幡」へ案内する道標の数々は主に江戸時代に入って街道が本格的に整備されるに従い、往来する人々も飛躍的に増大しました。それに伴って道標もその地方の住人や有徳人、信仰心のあつい人々によって建立されたようです。「地蔵菩薩像」の道標が大変多く目につきますが、墓石に道案内を刻んだ道標も有りました。
道標には「京・やわた」をセットで案内するケースも目立ちます。現代の様な案内地図や電話もない時代ですから“やわた道 石の地蔵に 聞いて行く”と多くの地蔵道標に道を教えられては、ほっとするような息遣いが感じられ、「京やわた」の文字を見ては、都に近く何となく「みやび」な雰囲気を感じ取っていたかもしれません。
 八幡以外に54基もの道標群が「八幡道標」として現存します。如何に多くの人々が八幡宮参詣道としての「八幡の道」を歩いたものでしょうか。特に河内や大和、摂津の人々の往来が多く、放生会や安居神事の祭には沢山の人々がその役割を担ったり、多くの参詣人で賑わう様子が古文書からも読み取れます。
 「やわた道」あるいは「京やはた道」の道標に導かれた人々が実際に八幡宮の神領に入れば「八幡宮道」と書かれた道標が多く目につき、いよいよ「石清水八幡宮」も間近に迫っているのだ、と実感したものでしょう。
 「京・やわた道」「やはた道」「八まん宮道」の道標は八幡に数多くありますが、これだけの「やわた道標」の数の多さは一体何を物語っているのかはすでに明らかです!それに比べて男山東麓の南北の道に「東高野街道」と書かれた道標は1基もありません。これらからも八幡では決して「東高野街道」と呼ぶような道はなかったことが誰でもすぐ理解できます。江戸時代に、さも「高野道」や「東高野街道」が男山東麓を走っていたとするような文章があればこれは間違いです。歴史を解説する場合はその当時の常識や規範(スタンダード)で語らねばなりません。現在の規範をあてはめて解説するのは間違いのもとになります。ここは歴史を語る者が一番気を付けるところです。
 八幡では「八幡の道」の名称を他の宗教施設を連想するような名称に置き換えるようなことは決してありませんでした。「男山考古録」でも洞ヶ峠辺りから大阪寄りの道を「高野道」と呼んでいたことが明らかです。古来八幡に「東高野街道」という名称の道は無かったという真実を知って「ビックリする人」がなんと多いことでしょうか!
 凡そ90年前、昭和初期に八幡のあちらこちらに「三宅碑」(京都の三宅安兵衛遺志碑)が建てられました。その三宅碑の建立場所については「西村芳次郎」(当時の松花堂所有者)が大きく関わって、男山東麓の南北の道も「高野道」としたかったような気配が感じられますが、住民から受け入れられるものではなく、仕方なく西村芳次郎をしても、現在の月夜田交差点にある「右 高野街道」(昭和2年建立)の三宅碑を建てるのが精一杯だったようです。但し元々この「三宅碑」はここに建ってはいません。現在の「宝青庵」(もみじ寺)と中ノ山墓地の間の旧道(本来の古道)にありました。右に行けば洞が峠の高野道に至るという意味です。志水町(道)のはずれがすぐ洞ヶ峠という認識が当時は在ったのかも知れません。なお、この三宅碑には「文学博士 西田直二郎書」とあって、何とも含蓄のある石碑に見えます。
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【借物では「宝物」になり得ない】


 楠葉中之芝の「久親恩寺」にある両手で宝珠を持つ「地蔵道標」が橋本から楠葉を通る旧高野道の存在を証明する「地蔵道標」であることが判り、これは楠葉はもちろん、八幡の橋本にとっても「宝物」の発見になりました。
 また江戸時代から伝わる「石清水八幡宮全図」も「宝物」です。これ程の絵図を他の地域ではあまり見かけません。しかも江戸時代から繋がる町名や道筋がそのまま残り、いろんな歴史の舞台となった物語がこの絵図から次から次へと浮かび上がります。
f0300125_14584216.jpg 八幡や近隣自治体の「やわた道標」の調査では総数76基もの道標が残っていました。その殆んどが江戸時代に建立されたもので、歴史の重みを感じさせるほどの重量感がありました。京都市内ではやはり八幡の近くの伏見区に集中しており7基が残っていました。一つの自治体では概ね1基あるいは2~3基程度でありましたが、近隣の枚方市では牧野、楠葉を中心に何と26基もの道標があり、昔から同じ八幡宮文化圏であったことが窺い知れます。八幡には22基の江戸時代の「やわた道標」が残っています。「すぐ八幡宮」「やわた道」「八まん宮道」と書かれた道標群はこれらも我々のかけがいのない「宝物」です。
 さて、最近になって「石清水八幡宮参詣道」として「やわた道」、「八幡宮道」などはるか昔から八幡信仰の道として、その役割を果たしてきた男山東麓の道を「東高野街道」などと言い出して、誰が何時建てたか解らない薄っぺらな道標が僅か3kmの距離に13基も建ってしまいました。常識的に2,3基もあれば十分の処に、13基もの道標を建てないと信用してもらえない、との思いからでしょうか、これでもか、これでもかと建つ姿を見て、段々見苦しくなりました。この道標に歴史観を彷彿させるものがあるのでしょうか。
 自ら歴史的な調査も実施せずに、何処かの学者の意見を鵜呑みにするだけで建てたようですから間違いだらけで、理屈に合わない無駄な道標が沢山あるように思われてなりません。聞けば平成に入って、大阪から発信された歴史街道運動に乗っかって、観光集客を目的に建立したようです。我々八幡の住民に殆ど馴染みのない「高野街道」がなぜ八幡に突然に出現するのか?驚きです。この様な高野山ブームに乗っかったような借物の名称では八幡の「宝物」にはなり得ません。先般、八幡のとある協会のネット記事を見ていると、八幡は「東高野街道の宿場町」であったという誤った引用記事を掲載していました。何をかいわんや!事実誤認を誘引させるネットの引用記事は安易に掲載しないのが鉄則です。
       
【男山東麓の道は「石清水八まん宮道」がふさわしい!】


 我々の世代が受け継いできた八幡の歴史は次の世代にもしっかり引き繋いでゆくことこそ歴史や伝統が繋がりをもって活きてきます。男山の東麓を南北に走る道の名称は八幡の住民にとっては歴史的にも、江戸時代の道標の数々の存在を見ても「石清水八まん宮道」とあってこそ本物でネイティブな名称であり、通称「八まん宮道」だとすれば、近隣の八幡道標や八幡市内の道標と結びついて、一気に歴史が繋がり、ここに悠久の歴史を感じるとることができるはずです。現在、日本で一番多い神社は八幡神社で、いたる所に「八幡宮道」や「八まん道」があると想像されますが、「石清水八まん宮道」の名称であれば、ここ八幡にしかない固有の道になります。
 八幡に男山あって高野山なし、八幡に「八まん宮道の道標」あって「高野道の道標」なし、八幡に「石清水八幡宮」あって「八まん宮道」あり、八幡に「石清水八幡宮」あって「宝物」あり。
 八幡の歴史を調べてゆくと、幸いにも八幡にしかない「宝物」が続々とでてきます。一般には殆ど知られていない歴史的事実や文化財などを含めて驚くほどですが、残念なことに自治体には発信力が期待できそうにありません。市井の郷土史家の活躍こそが期待されるところです。八幡の歴史を探究し、自分の目で確かめ、信頼される確かな情報を共に発信してゆきたいと願うところです。  
以上  

by y-rekitan | 2017-09-26 07:00 | Comments(0)